2−7 緑色の俗な妖怪
奇怪な生き物がうつ伏せに横たわっている。
人間の様に長い手足と頭を持つが、全身の肌がシミだらけの深緑色をしている。背中にはウミガメのような平べったい甲羅がかぶさっており、頭頂部にはうつ伏せた陶器のようなものが乗っている。手と足の指は四本しか無く、それぞれの指間には薄い膜……水かきが張っている。
爬虫類と両生類と人類を足して三で割ったような容貌の謎の生き物はピクピクと痙攣していた。
雲海は恐る恐るその怪物に近寄っていき、背中の甲羅をノックする。
「ええと、もしもし?」
「………………」
「生きてますか? もしもし?」
「……っつつ」
低い男の声がした。声を上げたのは目の前の奇妙な生き物である。
寝返りをうって、仰向けになった生き物の顔を見て、雲海は少し顔を遠ざけた。
口裂け女の様に恐ろしい容貌……と言う訳では無い。ただ、痛々しかった。ほとんど人間と変わりない顔つきの生き物の顔は、所々に引っ掻き傷を負い、赤い血を流していた。
自分の傷を撫でて、指に付いた血を見て、生き物は上体を起こして首を振った。
「いやはや、最近の若ぇ娘さんってなぁ、元気だねぇ。こりゃ久々に効いたぜぇ……」
「……あの、もしもし?」
「あぁ? 聞こえてるよ!
人が浸ってんのにさっきから、もしもしもしもしもしもしもしもしと!
テメェはアレか? もしもし星もしもし国もしもし町出身のもしもしくんですかコラァ!」
意味不明に憤怒する奇怪な生き物は、水浸しの雲海のシャツの胸倉を掴んで声を荒げた。
雲海はその手をゆっくりとどけて、巾着から水に濡れた符を取り出して、生き物の額に貼付ける。
「黙れ」
雲海が両手を合わせて念じると、符から青い光が漏れて手の形となり、生き物の口を塞ぐ。その光の手を退けようとした生き物の腕は弾かれた。
「この光に触れられないと言う事は……お前はやはり妖怪か」
額の札を剥がして巾着に仕舞い込み、雲海はその妖怪の目を眺めやる。
酷く柄の悪い妖怪は手を伸ばして自分の甲羅に手を突っ込み、中から細長い木製のキセルと小型の壷を取り出す。壷の中から刻み煙草とマッチを取り出して、妖怪はキセルに火を入れて煙草を吸い始める。今まで水浸しだったくせに何故湿気ていないのかが不思議であるが、雲海は何も言わずに妖怪の話を聞く。
「見りゃわかんだろうがよ……ったく。見つかっちまった以上は教えてやらぁ。
俺様ぁ妖怪も妖怪、芥川を初めとした数多の創作物に顔を出す妖怪の金字塔。
……河童様だぜ?」
河童を名乗る妖怪はニヤリと微笑んで、煙を雲海に吹きかける。
妖怪と退治した時、無闇に敵意を向けてはいけない。その言葉を思い出して、雲海は沸き上がる苛立ちを必死に押さえ込んだ。既に攻撃しているが、それは妖怪を落ち着かせる為のちょっとした戒めであり、彼に他意は無い。
「……んで、あんちゃん、何の用だい?」
「それを聞きたいのは僕の方だ。お前は……今、あの子に何をした?」
「何を……か」
河童は遠い目をしてキセルをくわえ、へへ、と微笑む。ニヒルな微笑みは案外様になっていたが、それはそれで雲海は腹が立った。
「ちょいと一夜限りの思い出をあの子にプレゼントしてやりたくてよ……」
「……誤魔化さずに、正確に言え。何をした?」
「さっきのあのお嬢ちゃんがあんまりしつこくこっち見てたんでよぉ。
ほんのちょっくら驚かしてやろうと、水に引きずり込んだら溺れちまって」
「殺す気だったのか?」
雲海の刺すような鋭い視線を受けて、河童はひらひらと手を振って否定する。
「んなつもりはねぇって。ちょっと脅かして、さっさと帰ってもらいたかったんだよ。
だのにあのお嬢ちゃん、勝手に暴れて勝手に溺れて、世話ねぇぜ。
んで、助けるつもりでお尻持ち上げたらブチ切れして暴れはじめてよ……」
「………………」
「いやはや、あの嬢ちゃん、見た目細っこいけど意外といい尻してんな。
ついでにちょろんと揉んでみたんだが、中々いい感触だったぜ」
「決めた。お前は退治する」
雲海は一も二もなく、手で何かを握る動作を繰り返す河童に向けて冷たくそう言い放った。再び河童の顔面に符を貼付けて、勾玉を力の限り握りしめて振りかぶる。雲海は一切の迷い無く拳を振り下ろす。しかし、拳は河童には届かなかった。
「血の気が多いねぇ。若い頃の俺様みてぇだ」
指に挟んだキセル一本で顔面へ向けられた拳の軌道をずらして、河童はケタケタと楽しげに笑う。もう一度殴りかかるが同じ事。五度拳を振った後、雲海は諦めて河童に貼った符を剥がした。
「ん? もう止めんのかい?」
「……今の僕は少し頭に血が上り過ぎているようだ」
当たらないのは怒っているからだ、と言外に負け惜しみをする雲海。そんな彼を見て、河童は何かに気づいたように愉快に高笑いする。
「ヒャハハ! そっかそっか、悪ぃなあんちゃん! 俺様が悪かったよ!
どうも落ち着きがねぇガキだと思ったら、そう言う事かよ!」
「……何を言い出すんだ?」
キセルでこちらを指して、河童は雲海に片目を閉じて流し目を送る。
「流石の俺様も、人様の女に手ぇ出す程落ちちゃいねぇ。
いや、コイツぁとんだ無礼ってやつだ。面目ねぇ面目ねぇ」
「違っ……違う! そう言う事じゃない!
僕はただ、彼女の身の安全を守らなければならないんだ!」
必死の形相で否定する雲海の顔を指差して、河童は腹を抱えて笑い転げる。これ以上は分が悪いと感じた雲海は、河童に背を向けて、薫の方に向き直る。
全身から塩素臭い水を滴らせる薫は敵愾心を剥き出しにしていた。唇を噛んで怒りに震えながら、涙眼で河童を睨みつけて威嚇している。そして両腕を胸の前で組んでかばう様にしながら、こちらから距離をおいていた。
薫の様子を見る限りでは、一連の狼藉は河童が言う通りであるらしい。それを確認した雲海は、咳払いを一つ。ビークール、と呟いた後、河童に穏やかに言い聞かせる。
「一先ず、あの子に謝るんだ。
溺れさせてしまった事と、お尻を触った事の二つ」
「……けっ。あんちゃんに言われっとなんかムカつくなぁ」
河童はゆるゆると立ち上がり、薫の方に向き直る。十メートル程離れた場所で座り込んでいた薫に、河童は背筋を正して真っ直ぐに頭を下げた。
「申し訳なかった。アンタがカナヅチで処女だとは知らずに」
「……別にそこまで言えとは言ってないが」
雲海は河童が本当に謝っているつもりなのか甚だ疑問だったが、薫の方は一応河童の意志を汲んだらしい。未だに敵意を込めた視線を河童に向けてはいるが、立ち上がって河童と雲海の方に歩み寄った。
「……私、許さないからね」
「そうは言っても、謝罪の言葉は聞いてくれたんだろ、お嬢ちゃん。
だから、これで一応仲直りっつぅこった。一件落着だぜ」
「それはお前が決める事ではない」
薫と雲海の厳しい言葉に、河童は呆れた様に溜め息を吐いた。どうやら何を聞かれるのか分かっているとばかりに、河童は飛び込み台に胡座を掻いてドッカリ座り込む。
「やれやれだぜ……さぁて。聞きてぇ事があるなら、全部聞きな。
こうして俺様の存在がバレちまった以上、隠す事ぁ何もねぇ」
清々しく開き直る河童。キセルの灰を甲羅から取り出した灰皿に落として、それらも全て仕舞い込み、目を瞑って耳を研ぎすましている。
雲海は案外礼儀を弁えている河童に驚きつつも、疑問をぶつけていく。
「お前が最近、プールに現れると言う噂の人影か?」
「……なんだい、そりゃ。そんな噂が立ってんのか?」
この河童本人が噂の存在を知っている訳が無い。この返答も当然である。雲海は質問を変えた。
「お前はいつから、どうしてここに住んでいる?」
「今年の夏だ。住んでいた川が土地開発で埋め立てられちまってよ。
這々の体でここまで辿り着いた。んで、気に入ったんでそのまま定住してる訳だ」
「ここに……住んでいる? 日中は?」
「んぁ? 昼間もここに居るぜ」
河童はむしろ、そんな事も分からんのかと言いたげに惚けて言う。昼間は授業を受ける生徒でごった返すこのプールに、こんな不気味な生き物がいたら誰でも気がつく。どうやって姿を隠していると言うのか、と雲海が尋ねる。
河童は指を立てて、左右に振ってみせた。前島と同じような仕草であった。
「あんま河童様舐めんじゃねぇよ、あんちゃん。
俺様のような長生きの妖怪には、それなりに妖力ってのがある。
水に溶け込んで漂う事くれぇ造作もねぇ」
「水に……溶け込む?」
雲海は意味が分からない、と首を傾げるが、河童は面倒臭そうに頭の皿を掻いた。
「百聞は一見に如かず、百見は一行に如かず。っつー訳で」
河童は雲海の手を取ってその身体を引っ張る。その力は、腕の細さの割にはかなり強かった。雲海は一切抵抗する間もなく河童の為すがまま、プールの中に投げ込まれた。
「ちょこっと試してみんぞ」
次いで河童も飛び込む。そして、雲海を羽交い締めにした。
「おい、待て! 一体何を」
雲海の口が大量のプールの水で塞がれる。河童が雲海と共にプールに潜り込んだのだ。あまりの展開の早さに、薫は一部始終を惚けて見ているばかりであった。
「クーちゃん!」
呼んでみるが返事はない。
薫の声が耳に届いていたが、雲海は返事をしなかった。今彼は、自分の状況を理解するのに必死だったのだ。羽交い締めにしていた河童はどこかに消えていた。それだけではない。自分の身体を見下ろすが、そこには身体さえ存在しなかった。まるで全身が透明と化してしまったかの様に、眼に映るのはプールの水と底面の赤いラインだけだ。手足を初めとした全身の触覚は存在している。ただ、身体が透明になっているだけようだ。
「……ま、こういうからくりよ。
身体を透かして底に寝っ転がってりゃ、バレる事ぁねぇって寸法だ」
河童の声が聞こえるが、その出所は分からない。
「さて、地上に上がるぜ。これ以上お嬢ちゃんに怒られちゃかなわねぇ」
視覚と聴覚が水の塊に持ち上げられて、雲海は水面から頭を飛び出させた。
慌てて自分の身体の所在を探る。手足、胴、服、巾着袋。全て雲海の眼に映っている。彼は思わず良かった、と呟いてしまった。
「クーちゃん、大丈夫?」
プールサイドから、薫が雲海を見下ろしていた。心配そうなその顔に、雲海は微笑みを返す。
「大丈夫。心配要らないよ」
プールからよじ上り、服に染みた水を絞りながら、雲海はそう答えた。そして薫に、ようやく解けた人影の謎を説明する。
「消える人影の仕組みがようやく分かった。
あの河童はつまり、昼間は透明になって身を隠していたんだ。
夜になると水から上がっていたようだね。多分タバコでも吸ってたんだろう。
で、人が寄ってくると、河童は再び水に溶け込んで姿を消していたんだ」
次いでプールから上がった河童は、先程と同じ様に飛び込み台に腰掛けた。
「さてと……満足したろ?
もう時間も時間だ。さっさと帰ってクソして寝ろ。俺様はもう眠ぃんだよ」
河童は呑気にあくびまじりでそう言った。雲海は、どうしたものかと頭をひねる。
河童は無害といえるかどうか。
薫を水に引きずり込んだのは、河童にしてみればほんの悪戯かも知れないが、薫にとっては致命の危機も有り得た。今後も、この噂を聞きつけて物見に来る前島のような輩が居ないとも限らない。そのとき河童が大人しく引き下がればいいが……それは河童の気分によるだろう。
だが、昼間は大人しくしている上に、今だって苛立ってはいるが、敵意を向けてくる訳でもない。夜も、基本的には目撃されるとすぐに水に溶け込んでやりすごしている。どうやら人間には基本的に不干渉のスタンスであるらしい。ならばこのまま放っておいてもいいかも知れない。住処の無い河童を追い出すのも可哀想だ。
どちらにすべきか、と悩んでいる雲海の肩を、薫が優しく叩いて振り返らせる。彼女は殺気立った緑色の目で、雲海を睨んでいた。
「……クーちゃん、一体何を考えてたの?」
「え? なにって」
「まさか、河童をこのまま放っておこうなんて……考えてないよね?」
雲海の肩にかかった手が力む。
後頭部のポニーテールが、しみ込んだ水をばらまきながら大きく暴れている。
まさか、テレパシーか何かで心を読まれただろうか。雲海の懸念が正しいか如何に関わらず、雲海に出来る事はただ自分の意見を述べるだけだ。
「正直、迷っているよ。
河童は人間を能動的に襲うつもりはないらしいからね。
香田さんは今しがた被害にあったけど、それには僕が厳重に言い聞かせておくから」
「そう言う問題じゃないの」
薫は首をゆっくりと横に振る。視線は雲海に合わせたままだ。
「水に引きずり込むのは勿論、言語道断だよ。
だけどそれだけじゃない。このエロ河童は、昼もプールに居る訳でしょ?」
「……まぁ、そうだよな」
「つまり……私達は、水着姿をこの緑色の変態に一時間近くも晒すんだよ?
この変態が、いやらしい目で私達を見てるのが、分かってるんだよ?
嫌、無理。絶対無理。想像しただけで背筋が寒くなる」
薫は自分の肩を抱いて、その身を大きく震わせた。
水浸しだし、本当に寒いのかも知れない。さっさと結論を出そう。そう考えた雲海は、口を尖らせる河童の方を見やる。
「……だ、そうだが」
「けっ。嫌われたもんだね、俺様も。だけど安心しな嬢ちゃん。
俺様が興味あるのは、もっとナイスバディなオネェちゃんだけぶふっ」
「五月蝿い、この……変態!」
薫の平手が河童の顔面に打ち付けられた。
雲海の拳は全て避けたにも関わらず、何故か薫の平手打ちは避けなかったらしい。理由はすぐに判明した。
「こおおおぉぉぉ……いいねぇ、お嬢ちゃん。
いい筋してるよアンタ。本当に、体型だけが惜しい人材だぜぇ……。
あ、さっきの『変態!』って台詞、もう一回言ってくれねぇ?」
なぜか河童は恍惚とした表情で薫に視線を送る。
ダメだこの河童。雲海は頭を抱えてしまった。
すっかり竦み上がった薫が雲海に縋り付いてきた。彼女の粟立った肌に気を留める事もせず、彼はただ河童に白けた目を向ける。
「ね、ね? クーちゃん、無理だよ。私、ストレスで禿げちゃうよ」
「僕はあんまり女心は分からないけど、それでも分かる。
迷いは消えた。これは追い出した方がいい」
このまま放っておけば、禿げる事は言い過ぎだが薫が体育の授業が嫌になるのは間違いない。隣の席で友達が憔悴していく様なんて見たくないし、河童よりも薫の方が、雲海にとっては大事だ。しかし、雲海のその言葉に、元々緑色の河童の顔も少し青ざめた。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。確かに、お前らの言い分はよく分かる。
だからこそ、俺様も人にバレない様に隠れて生きてきたんだ。
それを、わざわざ探しに来てまで俺様を見つけて、追い出すってか?
それは勘弁してくれよ」
河童から飄々とした態度が消え、反論する。彼は彼なりに必死なのだ。
折角見つけた住み心地の良いこの地を追われるのは、彼にとっては死活問題だ。河童は水辺の妖怪である。水が無ければ、生きていけない。少し弱気に眉を下げる河童に、雲海は呆れたような視線を向けた。
「安心しろ。僕だって、何の当てもなく言っている訳じゃない」
「ほ、本当か!?」
「水辺……淡水のある場所なら、お前は住めるだろう?」
「あぁ。後、きれいなねーちゃんな。んで、出来ればキュウリ畑」
「それは無い」
そう言って、雲海は携帯電話をポケットから取り出す。が、開いても何の反応もない。故障してしまっているらしい。そこで雲海はようやく気がつく。
そう言えば、ポケットに入れたままプールに飛び込んだんだっけ。
「しまったな……香田さんは携帯……は、持ってないんだっけ」
「ご存知の通りですよ」
「あぁ、携帯なら俺様が持ってらぁ」
河童が自分の甲羅に長く伸ばした腕を突っ込んで、ゴソゴソと何かを探す。
ちり紙、コップ、小筆、ドラゴンボールの三巻、飲みかけのコーラのペットボトル等が、プールサイドに散乱していく。そしてやがて何かを掴んで薫と雲海の間に差し出す。
それは、ショッキングピンクの防水カバーがかけられたスマートフォンだった。
「……ん? なんか変か?」
「……………………」
「……………………」
口を大きく開けて呆然とする薫と雲海。
突っ込みどころが多い。多過ぎる。一つ一つ上げていったらきりがなさそうだ。たっぷり二十秒は凍り付いた後、痺れを切らした河童が携帯電話を雲海の手に握らせる。
「ほれ、さっさとかけろよ。俺様の住処がかかってんだからよ」
「う、あ、あぁ」
言われるがまま、慣れぬスマートフォンを扱って、どうにか発信が出来た。雲海が電話をかけた先。それは、彼の家である。五コール程で、電話口に低い声……岩武が出た。
「もしもし、空峰ですが」
「僕です、雲海です」
「……このたわけが!」
岩武が絶叫する。
「電話を勝手に切るな、雲海。心配するだろう。それで、首尾は?」
「やはり、妖怪でした。河童です」
「ふむ……やはり。であれば或いは……」
何かブツブツと独り言を呟く岩武。流石に不審になり、雲海は岩武に問う。
「あの、父さん? どうかしましたか?」
「よもやとは思うが、その河童の名は……利休、と言う名ではないか?」
「利休?」
思わず聞き返した雲海。しかしその言葉に訝しげに返事をしたのは河童だった。
「何でお前、俺様の名前知ってやがんだ?」