2−6 吹き上げる間欠泉
杵柄高校のプールは、一応は屋外設営の体を為しているが、その実侵入に対してはそれなりのセキュリティを有していた。プールサイドを取り囲む背の高い白い編み目の柵は、外側に向けて大きく反り曲がっている。たとえ柵をよじ上っても、行き着く先にある鼠返しが侵入者を拒否するという、原始的だが、中々合理的な障壁となっていた。
入り口はあるにはあるが、巨大な錠がプールへの扉にかかっている。鍵は職員室にあるが、職員室に入るには職員室の鍵および、校舎への侵入と言うリスクと時間がかかる手段をとらねばならず、当然そんな面倒な事を思いつく前島と薫ではない。雲海に至っては既に思考を放棄しているので論外であった。
侵入の手だては今の所ない事になるが、前島はそもそもプールに侵入する段階まで想定はしていない。人影が居るかどうかを確認するのに、プールに侵入する必要等無いのだから。
「どれ、ちょっと見てみっか。雲海、見張っててくれ」
「見張るって何を」
「さっきの警備員、またこっちに来たら面倒だ」
確かにそれはそうだが、薫の催眠術が完璧なら安全な筈だ。
雲海はそうは言ってみるも、前島は訊く耳を持たず、軽くジャンプしてプールサイドの柵に手をかける。そこから腕を絡め、身体を持ち上げてするすると大きめの身体からにしては素早い動きで鼠返しの辺りまでよじ上る。
「……さぁて、本当に居るのかね」
柵に両脚と左手を引っかけた前島が、点灯した懐中電灯をプールに向ける。薄暗いプールに揺れる波が光を散乱して、プールサイドをぼんやりと照らす。そんな小さなサーチライトで本当に見つかるのか、と雲海は前島を怪訝な目で見上げる。
「よし、私も見てくる。クーちゃん、見張り頼んだよ」
「え、ちょっと」
乗り気な薫は鼻息も荒く軽く身を屈めた後、一瞬だけ緑色の光を脚から放った後、一気に跳躍。ひとっ飛びで二メートル程の高さに居る前島の横に並んだ。そのまま柵にしがみつき、懐中電灯の灯りを視線で追いかける。
「……何も居ないね」
「っかしいな。毎日のように出るって噂なんだけどよぉ」
懐中電灯を振り回して口を尖らせる前島と薫の尻を見つめつつ、雲海は携帯電話を取り出す。先程警備員に見つかる原因となったアラームは、家から着信であった。
既に許しを得ている筈なのに、一体何の用事があるのだろうか。
不思議に思いながらも電話をかけ直すと、三コール程した後岩武が電話口に出る。
「もしもし、空峰ですが」
「僕です、雲海です。父さん、どうかしましたか?」
「おぉ、雲海。ちと思い出した事があるのでな、知らせておこうと」
岩武は静かに、何かを思い出しながら話すかの様にたどたどしい口調で続ける。
「もう随分昔の話だが……儂も、似たような妖怪に出会った事がある」
「え! 本当ですか?」
「うむ、今しがたようやく思い出した。
お前の話では、その妖怪は水辺に住まうそうだな」
「……まぁ、プールですけど。一応水辺って言えなくもないですね」
「そして、人間が近付いても姿を消してしまうと」
「えぇ。実際、香田さんと前島がプールを覗いてますが、何も居ないそうです」
「やはり……」
何故か岩武は声を潜めた。どことなく、喜んでいる様にさえ聞こえる。岩武の奇妙な態度に、雲海は不躾だとは思いながらも質問をした。
「父さん、一体何に納得してるんですか。分かる様に説明して下さい」
「おぉ、すまぬ。つい懐かしくてな……と、そう言えば雲海」
「はい?」
「確か、同行者は香田君と、前島君だと言ったか?」
「えぇ、そうで」
「ダメだ、見つからねぇ。一旦降りっか。腕も疲れたし」
そうです、と答えようとしたが、背後から聞こえた前島の言葉に遮られる。
前島が絡めていた腕を解いて柵から離れ、地面に見事に着地。薫は相変わらず柵にしがみついてプールに視線を送っている。
「おぅい、カオリン。降りてこいよ。もしかして降りれねぇ? 手伝ったろうか?」
「……………………」
前島の言葉にも耳を貸さず、薫は眼を細めてプールに眼を配っている。
薫は視線をチラリチラリとあちらこちらに行ったり来たりさせている。まるで、何かを見つけたかのような視線を。ほぼ真っ暗闇の中で、細く引き絞られた彼女の目が徐々に緑色の光を帯びていき、猫の目の様に輝いている。
彼女には暗視の超能力でもあるのだろうか? そもそも、あんまり人前では超能力は使わないって言ってなかったか、香田さん? 前島の前で思いっきり使ってるな、君。
雲海は慌ててそれを隠す為に、前島から懐中電灯を奪って薫を照らして目の光を誤魔化す。そして雲海はそれらから一旦視線を離して、再び電話に集中した。
「すみません、父さん。香田さんと前島で間違いありません」
「そうか、ならば香田君には特に注意を払っておくのだぞ」
いつもの厳しい口調を取り戻した岩武は、大真面目な声でそう言った。
「はは、まぁ、そうですね。前島よりは気を配っておきますよ」
父親にしては珍しい冗談らしき発言だと雲海は笑って返す。しかし、次いで耳に届いた父の言葉は更に厳しい色をしていた。
「馬鹿者! 儂はふざけている訳では無い。
もしも儂の推測通りなら一番危ないのは」
「うわあああぁぁぁ!」
雲海のすぐ隣から叫び声が聞こえた。声の主は前島であった。何かに脅えているように、腰を抜かして地面に尻餅をついていた。
「すみません、父さん! また後で!」
「おい待て雲海、儂の話を」
電話を切って、雲海は前島に駆け寄る。目を見開いて全身を恐怖に震わせる前島の肩を揺さぶって、事情を尋ねる。
「おい、どうした!」
「か、カオリンが……カオリンが!」
そう言って前島は、指針の定まらない指を、雲海が懐中電灯で照らしている辺りに向ける。
視線の先には、何も居ない。先程まで薫を照らしていた筈だった懐中電灯の先には、誰も居なかった。俄に雲海の顔から血の気が引いた。
「ど、どこに行ったんだ!?」
「いいい今、緑色のめちゃめちゃ長い腕がカオリンの頭の方から伸びてきたんだ!
そんで、その腕がカオリンを引っ張って、プールの方に引きずり込んでった!」
「なんだってぇ!?」
雲海は驚愕の声を上げつつも、視線をプールの柵に向ける。
追いかけようにも柵には鼠返しが付いているため、乗り越える事は困難だ。プールの入り口は鍵がかけられて固く閉ざされている。侵入できる場所は無い。
しかし、薫の命が危ない。猶予は一刻もなかった。
雲海は迷わずに腰の巾着に手を伸ばし、一枚の符を取り出して、正面の柵に投げつけた。紙製の符はそのまま白い柵に張り付いた。
「前島、ちょっと離れてろよ!」
そう言っても腰の抜けている前島は、立ち上がる事が出来ない。苛立った雲海は前島を踵で蹴ってどかした後、勾玉を取り出して右手に握り込む。そして柵の符を貼付けた部分に向けて跳躍、右手を思い切り振りかぶる。
「爆ぜよおおぉぉぉ!」
叫び声とともに、振りかぶった右手を符に向けて叩き付けた。
激しい爆音が辺りに響き渡り、雲海と前島の鼓膜を揺さぶる。衝撃が空気を炸裂させ、柵の一角を巨大な青色の炎が覆い尽くす。
しかし火の手は一瞬で鎮火し、後には半径一メートル程の巨大な穴が空いた柵だけが残された。
雲海は穴を通ってそのままプールに侵入し、夜間練習用の電灯を全て点灯させた。
「香田さん! 何処だ!? 何処に行った!?」
そもそもプールには隠れる場所なぞない。
チラリチラリ、と目配せ二つで全ての範囲がカバー出来る。飛び込み台の裏、ビート板の山の中、水球用のゴールの中、次々に確認していく雲海だが、薫は見当たらない。
そして行き当たるのは、プールの水の中であるが……よく見えない。
もう、この中しか有り得ない。
雲海は垂れる冷や汗を拭う間もなくプールに勢いよく飛び込んだ。水中で眼を開く。首を左右に振る。誰も、何もいない。水カマキリ一匹見当たらない。焦りが募る。ここに居ないとなれば、どこかへと連れ去られた事になる。急いで追わねば、と水中から上がろうとしたその時。
プールの底の近くがぼんやりと、見覚えのある緑色に輝いているのが眼に飛び込んできた。薫が超能力を発揮している際に溢れ出す、奇妙な緑の光だ。
「……!」
雲海は再び深く潜って、プールの中央の光る底面に向けて泳ぎ、緑色の光に手を伸ばす。
光源に触れると、まるで餅かなにかのような柔らかい感触が手に返ってくる。薫に関係が深そうなその光をどうして良いか分からず、雲海はとりあえず手にすっぽり収まりそうなその光を握りしめた。
「おわ!」
水中で、雲海は思わず口から空気を吐き出した。
その緑色の団子は、徐々に膨れ上がり周りの水を押しのけ始めたのだ。ぼこぼこ、と泡が立つ音が雲海の耳に届き、雲海も光の圧力に撥ね除けられる。光が渦を巻き、ごうごう、と言う激しい波音を立ててプールの水を蹴散らす。咄嗟に逃げようとした雲海だが、急に身体に浮遊感を感じた。
「眩し……!」
緑色の光の弾が爆発した。口裂け女を吹き飛ばしたときと同じだった。
プールの水が、まるで間欠泉でも湧いたかの様に吹き上がる。その放流に巻き込まれて水中から投げ出された雲海は、プールサイドに背中から転げ出された。光の爆発によって巻き上げられた大量の水が、大粒の雨となって雲海に降り注ぐ。
思わず目を瞑って雨をやり過ごした後で、雲海は恐る恐る眼を開けた。
「ゲホッ、エホッ、エホッ……グ、ゲッホッ……」
膝と手をついて、苦しそうに咳き込む水浸しの薫の姿が少し遠くのプールサイドにあった。雲海は薫の元に駆け寄り、背中を擦ってやる。
「ど、どうした! 大丈夫か!?」
「……まぁ、なんとか。それよりも……」
薫がプールサイドの一角を指差す。それに従って雲海が眼をやる。
「……なんだ、あれは」
薄暗がりにプールの照明に照らされ、人間大の緑色の何かが横たわっているのが彼の目に飛び込んできた。
朝の間程度の明るさを保つこのプールサイドでも尚、そちらに横たわる何者かの正体が、雲海は分からなかった。
人間ではない、動物でもない何か。つまり、そこにいたのは……妖怪であった。