2−5 眠れる庭の警備員
北門はその名の通り、杵柄高校の真北に位置している。
目的地のプールは校舎の南西に位置しており、そこまで移動するには校舎の周りを迂回していかねばならない。つまり結構な距離を歩く事になるのだが……。広い中庭の辺りに差し掛かってから、肝試し三人組の道程は一気に険しい物と化した。
チラリチラリと遠くの方で懐中電灯が輝いているのが彼らの眼に入ってくる。雲海は隣で息を潜めている前島を肘で小突く。
「おい。やっぱり大丈夫じゃなかったじゃないか」
「クソ……まぁた面倒な辺りで張ってやがんなぁ」
「もう少しでプールなのに……」
中庭の石碑を盾にして、しゃがみ込んで身を縮める三人は警備員の通過を待っていた。
雲海の予想通り警備員はとっくに交代を終えていた。
さらに都合の悪い事に、その警備員はプールの前の辺りからどうやら中庭にかけてを警備するつもりらしい。警備員は職務熱心なのか、プールの人影の噂を知っているのか、プール周辺を特別丹念に見回っており、中々遠くへ行こうとしない。
前島は唇を噛みながら首だけ覗かせて警備員の監視を続けていたが、突如再び身体を屈めて石碑に隠れる。
「やべぇ、こっちに来るぞ」
「え、本当?」
「待てカオリン! 今顔出すと見つかる!」
小さく声を荒げる前島。
静かに耳を傾けると、警備員の革靴の音が中庭のコンクリートの地面を叩く音が聞こえる。三人とも、身を寄せ合って体を強張らせる。息を止める。互いの心音さえ聞こえてくるのではないかと思う程の静寂。石碑のすぐ脇が懐中電灯によって照らされる。
「……!」
心臓が止まるような心地を味わう三人。見つかるか否か、運命の瞬間であった。
……そして、靴音が彼らの一メートル脇を通り過ぎる。コツン、コツン……コツン、コツン……音は三人を素通りする。
最大の危機は抜けた。あとは警備員が振り返らぬうちに別の隠れ場所に移動すれば……。前島の合図によって、三人が腰を上げた時だった。
ピピピピ……ピピピピ……!
けたたましいアラーム音が鳴り響く。
身を強張らせる三人。薫と前島は、一斉に雲海の方に振り返った。雲海のポケットの中の携帯電話が鳴っていたのだ。
「おい、誰だ!」
当然のように警備員も雲海達の存在に気づく。警備用の光度の高い懐中電灯に顔を照らされて、雲海と両脇の二人はあまりの眩しさに目を瞑る。
「お前達、ウチの生徒か?」
「あ、えっと……」
中年の太った警備員は、威圧的に雲海に詰め寄ってくる。誤魔化しの言葉を考えるが、話を聞いてくれるとは思えない。これはマズい、と雲海と前島は身構えるが、薫は冷静に警備員を見つめている。
「……ねぇ、ねぇ。警備員さん」
声を掛けられた警備員は、懐中電灯を薫の顔に向ける。薫は顔色一つ変えずに、警備員に微笑む余裕さえあった。そんな彼女の顔を見て、警備員は一層顔色を険しくする。
「お前もウチの生徒か?」
「はい、まぁ。それより警備員さん。私の眼を見て下さい」
「何をふざけた事を言っている。一体何をしにここに……」
厳めしい表情をしていた警備員の言葉は、何故か尻窄みにフェイドアウトする。
茫洋と薫の目を眺める警備員。変化は見る見る内に現れた。引き締まっていた顔の筋肉は弛緩し、警備員は生気を抜かれたような、惚けた表情になっていく。眼は死んだ魚のように淀み、口はだらしがなく開かれていく。
警備員のあんまりな腑抜け様を不審に思った雲海が薫を見やると、薫の瞳に緑色の煌めきが仄かに宿っていた。
「……警備員さん。貴方はここで何をしているんですか?」
薫の声色は妙に柔らかく、警備員を優しく叱りつけている様にさえ聞こえる。
一瞬強く輝いた彼女の瞳を更に正面から見てしまった警備員は、目を瞑って首をカクンと項垂れた。まさしく立ったまま寝ると言う事が出来るなら、きっとこう言う体勢になるのだろう。
雲海は、薫の瞳を眺めていた自分も意識が少しまどろみ始めている事に気づき、慌てて目を逸らす。
「……私は今、杵柄高校の……夜の、警備を……しています」
機械のように無機質な声で、警備員が薫の問いに素直に答える。
「今何か、見つけましたか?」
「はい……、不審な若者を、三人発見して……彼らを、捕まえようと……」
「いいえ。貴方は何も見ていません」
薫は断言し、爛々と輝く瞳を引き絞る。警備員はしばらく黙った後に言葉を続ける。
「……はい。私は、何も見ていない」
「そう。今から十分経ったら、今起きた事は全て忘れ、貴方は眼を覚ます」
「眼を、覚ます……」
「眼を覚ますと今日は早めに仕事を終えて、貴方は何事も無く帰宅する」
「私は……家に、帰、る……」
「…………これでよし」
未だに目を瞑っている警備員を前に、満足げに微笑んだ薫。雲海と前島は、一体何が起きていたのか把握出来ないままであった。説明を求めるような二人の視線に、薫は照れた様に歯を見せて微笑む。
「簡単な催眠術よ。これで一応、誤魔化しは聞くわ。
さ、十分したら警備員さん起きちゃうから、早く行くよ」
「……お、おぅ」
「………………」
二人を置いて、少し駆け足で薫はプールの方に駆け出す。
雲海と前島は顔を見合わせるが、二人は異なった表情を顔に浮かべていた。
「催眠術……って、今カオリンがやったのか? 一体どうやって?
振り子とか要らないのかよ?」
驚きに目を剥いた前島に、雲海は一人、納得したような顔で言葉を返した。
「僕も知らないよ。どう言う仕組みなんだかね」
超能力の一種なんだろうと見当はついているが、それ以外は何も分からない。
それだけの事しか分からなかったが、細かい原理は雲海には関係のない事であり、どうでも良い事であった。
「それより、行くぞ」
「おい、お前絶対何か知って……ったくよぉ」
一足先に薫を追いかけ始めた雲海の背中に、前島は頭を掻きながらも黙って付いていった。