1−11 緑に光る少女の瞳
まるで何が起こったのか分からない。雲海は目を剥いて、目の前の光景に開いた口が塞がらなかった。ほんの数秒前、口裂け女は薫の首に手をかけ、今まさに首を絞めようとしていた。一切の動きを止めていた薫はそのまま口裂け女に襲われてしまう……そんな状況だった。しかし、今は全く違う。登場人物が同じなのに、まるで違う物語が始まったかのような違和感だった。
「な、なんだ……!?」
公園に響き渡った爆音の原因は何か分からない。しかし、爆音の音源は分かる。口裂け女が猛烈な勢いで自動販売機に叩き付けられ、自動販売機を真っ二つに破壊した時に発生した音だった。中身のジュース缶が耳ざわりな音を立てて自販機の残骸から零れ出している。やったのは誰だ、と疑う雲海は、未だに薫の側に薫以外の何かしらの妖怪の存在を探していた。女子高生が口裂け女の怪力をものともせずに、自販機を破壊する程の勢いで吹き飛ばすなんて荒唐無稽にも程がある。雲海を置き去りにして、奇妙な光景は時を先に進めていく。
「こ、香田さ……うわ!」
薫の無事を確認しようと彼女に目を剥けると、雲海は尚も驚愕を強いられた。まるで下から風を吹かせているかのように、薫のポニーテールが、浮力を得て蛇のようにうねっていた。制服のスカートもはためき、足元から砂煙が放射状に舞っている。大きな黒い瞳は不気味な黄緑色の光を放ち、口裂け女を真っ直ぐに見据えている。眉間に皺を寄せて歯を食いしばる、その如何にも人間らしい怒りの表情が無ければ、雲海はきっと薫のことを妖怪だと本気で勘違いしていただろう。
「あたし、きれい?」
自動販売機の残骸から立ち上がった口裂け女は、尚も立ち上がり、薫の方に歩み寄る。口裂け女も必死なのか、手を突き出して、足を引きずってまで前に進む。
「きれい……ですって?」
薫は目の端を更に釣り上げた。そして、おもむろに口裂け女に右の掌を真っ直ぐ突き出した。
「……そんげおっかねぇ顔して」
薫の身体から、淡い緑色の奇怪な光が滲み出ていた。薫は口裂け女を視線で捉えたまま、ゆっくりと右手を握りしめ、それを振り下ろす。すると歩いていた口裂け女は、その彼女の手の動きに追従するようにうつ伏せに地面に倒れ込んだ。雲海の足元が振動する程の激烈な力で叩き付けられ、口裂け女の身体を中心に、公園の乾いた地面にひびが走る。
「おらと空峰君おっかながらして……」
握られていた右手をゆっくりと頭上に掲げると、口裂け女は糸で釣り下げられたように浮かび上がった。右手を開くと、口裂け女は四肢を引っ張られたかのように身体を大きく広げる。その表情は、僅かだが脅えているようにも見える。
「……空峰君がえぇまちしゅりゃどうしゅうつもり?」
右手の動きを止めたまま、身体を斜めにして左手を中腰に構える。全身に纏っていた緑色の光が、構えた左手に収束し始めた。
「……んーげ危ねぇ事すん、おめさんみてぇなもうぞが」
数秒かけて光を集めた左手が、まるで緑色の太陽のように眩く輝く。彼女を中心に風が逆巻いて、やがて左手の光球に空気が吸い込まれていく。そしてその左手を突き出していた右手に添え、薫は叫んだ。
「いとしげな訳ねぇねっかいやあああぁぁ!」
竜巻のような豪風が公園に吹き荒れた。薫の手に集まっていた光の塊が、彼女の手から砲弾のように飛び出す。緑色の光弾は真っ直ぐに口裂け女に向かい、そして衝突する。次の瞬間、光の弾が、先程口裂け女を吹き飛ばした時以上の轟音を辺りに蒔き散らしながら爆発した。雲海は思わず耳を押さえ、目を強く瞑ってしまった。
「ぎぎゅあえぇぇぇぇ…………」
口裂け女の何とも形容し難い断末魔が幽かに聞こえた。顔を上げた雲海には、口裂け女の姿は、最早何処にも見えなかった。吹き飛んだのか、それとも消し飛んだのか。雲海はそれさえも把握することは出来ずにいる。一方で薫は、一部始終を終えて満足げに溜め息を吐いて、しばらく空を眺めていた。薫の身体から立ち上っていた緑色のオーラは既に消えているし、荒れ狂っていた暴風も完全に収まっていた。緑色に煌めいていた瞳は、元の彼女の黒い眼に戻っている。
「ふぅ……大丈夫だった? 空峰君」
薫は先程投げ飛ばされた雲海の方に小首を傾げた。その雲海はと言えば、未だに目と口を呆然と開いたまま、薫を眺めていたままである。
静かだった。二人とも、何も言わなかった。何も言えなかった。聞きたいことがお互いに多過ぎて、何から尋ねていいのか分からない。二人とも必死に状況を整理していると、遠くの草むらが音を立てた。そちらを見やると、黒い袈裟に身を包んだ壮年の坊主が、息を切らして飛び出してきた。
「ぶ、無事か! さっきの緑の光は何だ!?」
「あ、と、と、と、父さん」
雲海が死にかけの金魚の様に激しく口を開閉し、岩武の方を向き、薫を指差す。
「今ですね、香田さんが、その、なんだろう、あれ?
あの、その、今の光とか、爆発とかはなんですか、父さん?」
「……落ち着けぃ、馬鹿息子が」
「いてっ」
早足で雲海の坊主頭に拳骨をかまし、険しい表情を薫に向けた。品定めするようなその視線に薫は思わず竦み上がるが、岩武の視線はやがて緩み始める。
「どういう訳かは分からぬが……馬鹿息子が世話になったようだな」
「……え、えぇ、まぁ」
「君、名前は?」
「香田です。香田薫。空峰君と、同級生の」
「そうか、君が転校生の……。香田君、ありがとう」
素直に頭を下げて感謝する岩武は、未だに落ち着かない雲海の頭をもう一度殴り、頭を掴んで下げさせた。下を向く坊主二人を前に、薫は困惑した表情を浮かべる。
「そんな、私は別に」
「……礼をしたいが、時間も時間だ。
後日、改めて礼を致す。今日はもう帰宅しなさい。
車がそこにある。家まで送っていこう」
岩武は薫の返事も聞かずに、背を向けて、今しがた飛び出てきた草むらに消えていく。雲海と薫は互いに顔を見合わせた。少し気まずかったが、雲海が先に口を開く。
「お互い、聞くべき事が沢山あるみたいだね」
薫は頭を掻いて少し恥ずかしそうに俯いた。二人は暫く見つめ合い、そしてどちらともなく、岩武が消えた草むらへと歩き出す。先程、口裂け女が投げ捨てたマスクが、まるで蝶の様に舞い上がって、空の彼方へ消えていったのだが……二人とも、その光景を目にする事はなかった。