1−10 現れる口裂け女
薫は、ようやく自分の見知った土地にたどり着けた事に安堵していた。
「やっと……やっと着いたぁ……」
肩を落として幽鬼の如く歩く彼女は、今自分が歩いている公園の時計に目をやる。ライトに照らされる公園が指す時間は、十時丁度だ。彼女が相川達と別れたのは七時くらいで、かれこれ三時間近く道に迷っていた事になる。まさか帰り道にすら迷うとは薫も想定外であり、薫は自分の方向感覚のなさを呪った。私の地元にはまだ一杯あったのに、と一人ごちる薫は、見えてきた自宅を見て、気を取り直す。一先ず、帰れた事を神様に感謝しよう。
「……疲れた」
足が棒の様に固まっていた。体力には自信はあった彼女だが、見知らぬ町を歩いていた不安のせいか、薫は普段以上に体力を消耗していた。もう自宅は目と鼻の先にある。公園の出入り口を通り抜ければ、十分くらいで居候中の親戚の家まで付くのだが……。
「少し休んでいこう」
これ以上遅れた所で、叱られるのには変わりない。公園の街灯下の木製のベンチに鞄を置き、薫はベンチの隣の自販機にポケットの中の硬貨を入れ、ボタンを押すが、反応がない。良く見てみれば、自販機は百二十円を要求してきていた。地元の自販機は百円で缶ジュースを吐き出したのに、と薫は驚きながらも、鞄の中から財布を取り出した、丁度その時。
「香田さん!」
背中の方から焦った男の声が聞こえた。ほぼ無意識的に薫が振り返った先に見たのは、丸坊主の若い男。薄暗くてパッと見た時は気づかなかったが、その男は彼女の知り合いだった。
「もしかして……空峰君?」
薫の前に立って呼吸を整える雲海は、声に出さずに首肯した。何故か坊主の様な縹色の袈裟に身を包む雲海は、険しい顔で薫を睨んでいた。
「こんな時間に、君は何してるんだ?」
「何って……」
財布から二十円取り出して自販機に投入し、コーラを購入。一口飲んで首を軽く傾げてから、薫は少し乱暴に頭を掻いて口をへの字に曲げた。何となくばつが悪い。
「ちょっと帰り道迷っちゃったんだよね」
「……重症だよ、君」
さらりと毒を吐いた雲海に眉を顰めるが、当の雲海は辺りをキョロキョロと窺っている。しきりに腰に下げた巾着袋を触っている彼に、今度は薫が問う。
「で、空峰君はこんな場所で何をしてる訳?」
「……良いじゃないか、どうでも」
「いや今貴方、私に聞いたじゃんか」
雲海の誤魔化しは全くもって適当であった。天然のケはあるが、流石にそこまで間抜けではなかった薫は、引き攣った顔で雲海に返す。
「そもそも、その格好は何なの?
今からどっかでお経でも上げるっての?」
言葉に鋭さがあれば、きっと雲海は出血している。雲海は不審なものを見る目で鋭くこちらを睨む薫を前に困惑した。まさか口裂け女を追いかけている等と言う本当の事を話してもまさか信じる訳はないだろうし、だからと言ってこの格好だ。よっぽど上手い言い訳を出来なければこの場はやり過ごせない気がする。
雲海は一先ず薫の視線から逃れるために軽く身を引いて明後日の方向を向いた。するとそのはずみに、視界の端に赤い何かが映った。そちらに無意識に焦点を合わせる。雲海は全身の毛が逆立つのを感じた。
「マズい……」
「ねぇ、だからその格好は」
「香田さん、逃げろ!」
コーラの缶が薫の手から落下し、茶色の液体は残らず地面に吸い込まれていく。急に手を引かれた薫は、叫ぶ雲海の言葉の意味を理解出来ぬまま、何も反応することも出来ずに、雲海の背中の方に回された。思わず面食らって言葉を失っていた薫の目にも、雲海と同じものが映った。林の向こうの漆黒の中に浮かぶ、脂で照る長い黒髪。血の色を連想させる深紅のダッフルコート。足を覆う革のブーツはくすんで輝きを失っていた。女の様にも見える何か。そう形容するのが一番正しいようなモノがそこに居た。
「な、なに……?」
「口裂け女だ!」
雲海は唾を飲む。事前の目撃証言そのものの姿だった。ぎらつく双眸と白い巨大なマスク。汚れた髪、赤いコートとブーツ。見間違いは一つもない。
「ねぇ」
嗄れた声の女が、二人の方に視線を合わせ、一歩足を進める。雲海は慌てて腰巾着の中身を漁った。そして一枚の紙を取り出し、甲高く叫びながら紙を地面に叩き付ける。
「……符よ、脚を止めよ!」
一筋の青い光が紙から稲妻の様に迸り、地を駆けた。光は女の足元に至ると二つに分裂して人間の掌の形に変化し、その両足首を力強く握った。女の足が止まる。
「ねぇ……あたし」
「黙れ妖怪!」
雲海は二枚目の札を取り出し、脚を掴まれて動けない口裂け女に投げつける。薄い和紙製の札だが、空気の抵抗を無視し、風を切って真っ直ぐに口裂け女に向かい、彼女の腹に張り付いた。それを確認した雲海は両掌を合わせて、目を瞑り、叫ぶ。
「爆ぜよ!」
雲海の言葉に呼応するかのように投げつけられた札が炸裂音とともに激しい火の手を上げた。口裂け女は瞬く間に全身を青い炎に包まれ、苦しそうに身を悶えさせる。雲海はもう一枚札を取り出し、再び地面に叩き付けた。一緒に取り出した手製の勾玉を握って、札ごと地面を殴りつける。青く輝く砂粒が地面から飛び出し、口裂け女に向かって飛びかかった。
「捕らえよ!」
青い光が縦横に伸び、無数の棒と化した。雲海が手を突き出すと、それは格子状に並んでいく。やがて立方的な檻状に変化した青い光は、口裂け女の頭上に移動した。
「せぃ!」
雲海が手を振り下ろすと、光の檻が口裂け女に覆いかぶさる。身体に纏わりついていた炎を振り払った口裂け女がその檻に手を触れる。触れた部分が青い光を放ち、風船を割ったような炸裂音を伴って小さく弾けた。口裂け女は慌てて手を引っ込める。
「無駄だ。妖怪の貴様では、その結界に触れる事も出来ない」
口裂け女は諦めたように腕を弛緩させ、顔を下に俯けた。肩で息をする雲海は、その口裂け女の様子を見て、深い溜め息を吐いた。
「一応、なんとかなったか……」
「……これは」
未だに雲海の背後にいた薫は目を丸くして、目の前で起きた一瞬の激戦に呼吸さえ忘れかけていた。よく分からないが、雲海と謎の女の戦いが、雲海の勝利で終わったらしい。額に浮かんだ玉の汗を袈裟の袖で大仰に拭った雲海は、振り返って力無く微笑んだ。
「香田さん、無事かい?」
「うん、まぁ、なんとも……それよりこれ、一体何?
何の芝居? 何の劇? 何のサーカス? 見物料でも取られるの?」
「勿論違うさ」
「説明、してくれるよね?」
「……誤魔化せそうには、ないよなぁ」
事情を把握出来ていないらしい薫に、正しい言葉を吐いて、果たして薫は理解出来るだろうか。雲海は迷った挙げ句に口を開こうとするが、先程口裂け女を閉じ込めた檻の方から聞こえてきた、金を切るような音に遮られた。
「なっ」
口裂け女に目をやる。
突き出されている口裂け女の手から、黒い煙が上がっていた。その拳は檻の外に突き出ており、無様に歪められた格子は、まるでバナナの様に力無くへたりこんでいる。口裂け女は拳で無理矢理雲海の作った檻を打ち破ったのだ。穴が空いた結界は、青い光の残滓を残しながら雲散霧消して空に吸い込まれていき、晴れて口裂け女は自由の身となる。
「ねぇ」
先程よりも少々怒気の交じったような口裂け女の声。閉じ込める前に激しい炎に包まれたと言うのに、服にも髪にも一切外傷は残っていない。一歩、また一歩、と雲海と薫の方に歩み寄る。
「あたし……きれい?」
ぎらつく瞳に気圧されて、雲海は自分の手が震えているのを感じていた。僅かにだが、心の奥底に押し殺していた恐怖心が顔を出してしまった。もう一度符を手に取ろうと巾着に手を伸ばし中を漁るが、札はもう入っていない。そもそも必要最低限の装備しかしていないのだから、当然であった。藁人形を取り出して愕然とする雲海に構わず、口裂け女は一歩前に足を進める。
「ねぇ……きれい? きれい……?」
雲海の目の前で足を止める口裂け女。ゆっくりと自分のマスクに手を伸ばす。そして、内側が血塗れのマスクを外し、地面に投げ捨てた。
「うっ……!」
「きゃぁ!」
間近で見るとその余りの痛々しさに、雲海は思わず呻き、薫は短い悲鳴を上げた。女は噂通り、口を発端に両耳にまで深い裂傷が走っていた。削がれた頬肉の隙間から覗く黄ばんだ歯と黒い歯茎。それをもどかしそうに小刻みに動かしながら、口裂け女は尚も雲海に詰め寄り、顔を近づける。窪んだ眼窩の向こうに爛々と煌めく目が、彼女の不気味さをより一層強烈なものと化していた。
「く、来るな!」
雲海が目の前の女を突き飛ばそうと両手で身体を押すが、びくともしない。逆に、突き出した手を口裂け女に掴まれてしまった。その骨と皮だけの様な細い手はまさしく氷のように冷たく、そして万力のように強い力を持っていた。雲海の必死の抵抗は全く意味をなさない。
「空峰君!」
香田の泣きそうな叫び声が背後から響いた。答える間もなく、口裂け女はその掴んだ手から雲海の肩まで手を伸ばし、脇の下に手を入れる。そして片手で雲海の身体を持ち上げ、屑ゴミを放るように投げ捨てた。雲海は二転三転した視界に混乱した後、地面に叩き付けられてようやく事態を把握した。
「い! ……ってぇ」
十メートル程飛ばされた雲海は受け身を取ってすぐさま身体を起こし、口裂け女を見る。口裂け女は、薫の方を凝視していた。雲海は思い出す。口裂け女がターゲットにしていたのは全て女性だった。最初から狙いは薫だったのだ。口裂け女が薫に手を伸ばす。薫は、顔を俯けて直立している。ショックのあまり、身動きが取れないのだろうか。雲海は彼女の正気を取り戻そうと声を荒げた。
「しっかりしろ、香田さん! 早く逃げるんだよ!」
雲海は二転三転しつつも立ち上がる。やはり袈裟は動きにくい、と後悔してももう遅かった。口裂け女は既に香田の首に手をかけている。薫は抵抗する様子もなく、為すがままにされていた。走り出した雲海。手を伸ばすが、到底届かない。
「香田さぁぁぁん!」
雲海が絶叫した、その刹那。
「……え?」
いきなり体表に静電気でも走ったのかと思うようなかゆみを感じた雲海は、一瞬惚けた表情をした。
空間にひびが入った、と雲海は錯覚した。薄いガラスを指で突き破ったような、軽くそして儚い音が薫の方から聞こえていたのだ。嫌な予感、というものを詳しく説明することが出来ないが、雲海はこの時紛れも無くその嫌な予感を感じて、咄嗟に耳を塞いだ。まるで雲海が耳を塞ぐのを待っていたかの様に、薫を中心に、空間が目視出来る程大きく振動する。そして襲い来る第二波。耳を塞いでいても分かる程の、ダイナマイトでも炸裂させたのかと思わせるような轟音が、神有無公園に響き渡った。