9−9 香田家のもてなし
香田家を訪れるのは、雲海は二度目である。
一度目は初めて彼女と出会った日。口裂け女を追い払った後に、父の車で彼女を家まで送った時だ。中に入るのは今回が初めてになる。
「あら、そうなの。結構一緒に遊ぶって聞いてたから、もう家にも行ってるもんだと」
「香田さんが僕の家に来る事はありますけど」
「へぇ……」
香田家は、周囲の住宅と比較して大きくも小さくもない、実に目立たない外観をしている。二階建て、猫の額程の庭、小型のガレージに車が一台。絵に描いたような中流階級の家だ。敷地面積で言えば空峰家の寺が圧勝である。全く誇らしくは思わない。
「こんばんはー、来たよー!」
インターホンに向かって、近所の迷惑も考えないような大声で叶がそう叫んだ。
家の奥の方からスリッパの鳴る慌ただしい音が聞こえてきたかと思うと、香田薫が玄関を大きく開いて飛び出してくる。顔に浮かぶ笑顔が実に晴れやかであった。
「お姉ちゃん! 久しぶりーぃ!」
「薫ぅ! 元気してたー?」
「うん、勿論だよぉ!」
胸に飛び込んできた薫の頭を優しく撫でる叶の目は糸のように細くなっている。一方の薫は、頭を叶の胸に擦り付けていた。まるで子犬のようであった。
「もー、薫ったら。髪の毛がくしゃくしゃになるでしょー」
「だって嬉しいんだもん」
「ほんとに、幾つになっても甘えん坊さんねぇ。お友達が見たら何ていうかしら」
「別にいーじゃん、友達なんて見てる訳が……」
困った顔の叶の視線は、薫の方を向いていない。薫が視線を追っていくと、居る筈の無い見慣れた坊主頭が呆然とした表情で立ち尽くしていた。
「……やぁ」
雲海が努めて普段通りに振る舞おうと取り繕っているのが分かる。それだけに薫は辛い。しばらくは餌を求める鯉のように口を開けたり開いたりしていた薫だったが、やがて叶の胸元から飛び退いて、必死で手櫛で髪を戻し始めた。
俯き加減の顔は熟れたトマトのような色をしている。
「……お願いだから、忘れてくれない?」
「努力は、しよう」
薫はそれきり、脇目も振らずにさっさとリビングに戻っていく。雲海は何も気にしてはいないのだが、薫には薫なりにプライドめいたものがある。
「ふふ、真っ赤になっちゃって。面白い子ねぇ」
叶は我関せずとばかりに忍び笑いをしている。雲海は玄関前で待つ心づもりだったのだが、叶が「折角だから上がっていきましょうそうしましょ」と強引に雲海を引っ張るものなので、渋々靴を脱いだ。ぼんやりとした暖色の照明が照らす玄関を叶は雲海を引き摺るようにして無遠慮に上がり込み、そのまま薫が逃げて行ったリビングに飛び込んだ。
そこでは、まだ三十台半ばくらいの夫婦が呆れたような、微笑ましいものを見るような、不思議な笑みで二人を向かえた。叔父叔母です、と紹介された雲海は、それから何を話したのか、あまり記憶していない。
一先ずは薫とは仲良くやっている旨を告げた事に間違いは無いようで、そばでモジモジと居辛そうにする薫と、いつの間にか部屋の隅に引っ込んでニヤニヤしている叶だけは印象に残っている。
この叔父叔母夫妻と言うのがまた中々の世話好きで、雲海はほとほと参ってしまった。
叶がやって来ると言う事で、その日の香田家の夕飯は豪勢にも焼肉であった。折角だから夕食を一緒に、と勧められ、いや家にあるのでと返した所で、成長期なんだからコレくらい入る入ると、結局雲海は押し切られ、ゲップが出るまで肉を喰わされた。
この時点で時計は七時を回っている。早く帰りたい、と叶にアイコンタクトを取ったが、無視されてしまった。
その後、夫妻からどうせなら薫の学校での様子を教えてくれとせがまれ、更には叔父からビールを注がれた。
未成年ですから、と断ると、そう堅いことを言うなとまさに田舎の親戚のような事を言い出し、不飲酒戒がありますから、と最終手段を持ち出したのだが、なら本格的に坊主になる前に飲んでおかないと、と話を聞いてもらえず、結果雲海は缶を三本空けた。
初めてのアルコールにフラつく頭を抱えてリビングのソファに横たわった時点で盗み見た時計は、間もなく九時に差し掛かろうとしている。そろそろ帰らなければ、と思うのだが、車で送ってくれる筈の叶は先程から風呂に入ってしまい、もう一時間は出てきていない。
薫にそれについて聞くと、「お姉ちゃん、すっごい長風呂だから、後一時間は出てこないよ」と言われ、意識が遠のきかけた。
「この世には神も仏もいないのか」
「寺の息子がそんなこと言っていいの? はい、お水飲んでねー」
赤ら顔の雲海を、薫が苦笑いで見下ろしている。彼女が手にしていたコップに入っている水を受け取って中身を一気に煽ると、火照りと渇きが嘘の様に引いていく。一心地ついた雲海が体を起こすと、薫がその隣に腰掛けた。どうやらソファの右側は彼女のお気に入りの場所だったらしい。
「ありがと、楽になった」
「そりゃどうも。それよりどうしたの、今日」
「ん?」
「だから、なんでお姉ちゃんと一緒に来たのって」
心無しか、薫の機嫌はよろしくないようだった。言葉に少し刺がある。姉にベタベタ甘える姿を見られたのをまだ根に持っているのだろうか。ともかくここに来た経緯を語ると、薫は分かったような分かっていないような曖昧な表情で「へぇ」と一言呟いただけであった。
「元気な人だな、君の姉さん」
「うん。自慢の姉だよ」
皮肉のつもりだったのだが、そう受け取られなかった。薫は本心を語っているようだ。折角治った機嫌をまた曲げる訳にもいかず、雲海はそのまま話を続けた。
「それに、妹想いだ。わざわざ仕事を休んでまで君に会いにきたらしいじゃねえか」
「へ? そうなの? お仕事で来る、なんて聞いてたのに……へへ、なんか照れるなぁ」
「仕事、何してる人なんだ?」
「先端生命……えぇっと、ナントカ研究所。確か、そんなトコだったかな」
えらく曖昧である。あれだけ姉好きの割に知らないようだ。あまり仕事の話はしないのだろうかとも思いつつ、差して興味も湧かなかった。そのまま薫と他愛ない話を続けていると、ほんの十分程でリビングの戸の向こうから叶が聞こえてきた。
「お風呂、上がったよー」
上下スウェット姿の叶が、髪をタオルで拭きながら現れた。セミロングの髪から振りまかれるシャンプーの良い匂いがする。
「早かったね、お姉ちゃん」
「空峰君、待たせてるからね」
待たせている自覚はあったようだ。なら風呂に入らずさっさと送ってくれ、とは流石に言い出せなかった雲海である。
「アルコールもだいぶ引きましたか」
「お腹は一杯ですが」
「きっと食べられますわよ。可愛い可愛い弟君の愛情たっぷり料理なんですもん」
無責任な事を言いつつ、叶は「髪渇かしてくるからもう少し待ってて」とまた部屋を出ていってしまった。時間はかからないだろう。雲海は立ち上がって、隠しもせずに大欠伸をした。
「飯喰う前に眠っちまいそうだ……」
「お疲れだねぇ。今日も狐様探しは?」
「三打席ノーヒット。……それより君、オカルト研究会はどうだ? 勧誘されたとか言ってたけど」
「あぁ……もう行かないかな」
薫の苦笑いで、大体彼女がどんな目に遭ったのか、何となく想像がつく。
大方、マジック等と言い張りながら軽い気持ちで超能力を披露して詰問されたのだろう。お調子者がいい気味、と言った所か。雲海はそんな予想を立てたのだが、薫はそれを否定した。
「オカ研の主催者って、例の写真撮ったあの磯村って人だったのよ。どうも、私の事、最初から超能力者だって疑ってかかってたみたい」
「なるほど、だから君を勧誘した訳だ。……心配した通りになっちまったなぁ」
「全部トリックだよって言って誤魔化しておいた。でも、あの人諦めが悪そう……」
「おっと、二人でなにヒソヒソ話しているのかしら。お姉ちゃんも混ぜてくれる?」
声を潜めていた二人の間に割って入ったのは、相変わらず微笑みを崩さない叶であった。内容について聞かれたかとドキリとする二人。しかしそれに構わず、叶は楽しそうにはしゃいでいる。
「もしかして愛の囁き? あぁ、それならお姉ちゃんお邪魔だったかしら」
「学校の話だよ、もう。クーちゃんと語り合うような愛もないし」
「それはドライ過ぎるだろ」
「語り合いたいの? 愛とは何たるか」
「道徳の問題?」
「哲学の問題」
「興味ないな」
「保健体育の問題だったら?」
「そりゃもう何時間でも……って何を言わす」
「あらあら、二人とも、漫才の練習中だったのかしら?」
叶はひとしきり笑うと、叔父の方に車の鍵を借りにいった。安堵の溜め息は二人同時に漏れた。
「……お姉さんに話しても別にいいと思うけどな。君が超能力者ってのは知ってるんだろ?」
「お姉ちゃんに余計な心配かける必要もないでしょ」
「それもそうか……」
「それより、クーちゃん。磯村君なんだけど……」
「自分からアクションを起こす必要は無い……と言いたいが……」
「……どうしたの?」
薫は眉をひそめた。真剣に悩んでいると言うのに、雲海の顔は僅かな笑みを浮かべているのだから。
「いや……君は気にしないでいいぜ」
叶が雲海に向けて手を振っている。
時計を見ると九時過ぎ。この分だったら、駅で待ってバスに乗っても帰宅時間は変わらなかったろう。雲海は今更そんな事を考え、叶が運転する車にてようやく家路についた。
*
帰宅して早々、玄関で仁王立ちする天心に遭遇した雲海は、「ただいま」の前に「ごめんなさい」と言わなければならなかった。天心も表情こそ怒っているように見えているが、緩んだ口元は隠しきれていない。
「おかえり。さ、ご飯は準備してあるからちゃんと食べてよ?」
心根の優しい弟だ、と思うと同時に、既に胃にかなりの物が詰められている事と、酒を飲まされた事を思い出す。天心は酒に弱い。夏休み中は酒で酷い目にも遭っている。それ故に匂いには敏感なのだ。それに気がついた時、既に天心の緩んでいた口元が真一文字に閉じられた。
「……ちょっとお父さん呼んでくる」
「待て! 頼むから待って!」
「お父さーん、お兄ちゃんがお酒飲んで帰ってきたー」
「言うなぁ!」
必死になる雲海を見て、天心は随分と楽観的に笑っていた。「父さんお風呂だから聞こえちゃいないよ」と言われてようやくからかわれた事に気がついた雲海は、酒臭い溜め息を零しながらも居間で夕食を待つ。天心には、ここまで来るに至った経緯を話しておき、ついでに「父さんには黙っててくれ」と念を押す。特にリアクションはなかったが、バラすつもりなら天心は素直にそう言うだろう。
「香田さんのお姉さんか……どんな人だったの?」
「強引で控えめな人だった」
「……ん? 強引なの、控えめなの? どっち?」
「兼ね備えてんのさ。その二つが矛盾しないってのを、うんざりする程思い知らされた」
単に送ってもらうだけだったらそんな印象は抱かなかったのだが。家に引きずり込まれて、要らないと言っても聞かずに色々と食わされて、結局帰ってきたのは夜遅く。そのくせ本人はやたらと頭を下げて謙虚に振る舞おうとするのだから、付き合うのにもエネルギーが要る。
本音を言ってしまえば、もう遭いたくない。
「大変だったねぇ」
天心はまるきり他人事のようにそう言った。全くもって他人事なので、雲海は叶の面倒臭さについてこれ以上述べるのは止めた。
「そう言えば、今日のお仕事の方はどうだったわけ?」
「めぼしい所は全部探したけど、今の僕には限界がある」
今の、を少し強めに、雲海はそう言った。天心は何も言わずに食事の準備を続けている。術が使えないのだから、父から預かっている妖気探知の紙人形だけが頼りである。……と、ふと懐に手を突っ込んで人形を取り出してみようとすると。
「……ありゃ?」
制服の内ポケットに入れておいたと思ったのだが。
鞄の中を探ってみるが、やはり無い。もしかして、どこかに落としてしまったのだろうか。とは言え、狐様捜索の要になる呪具だ、そうそう落とさないように大事に懐に入れていた筈なんだが……。
……とは言え。
「ま、別にいいか」
元々、単なる紙人形に呪法を描いただけのもの。
貴重な物品を使っている訳ではないので失くして困る物でもないし、仮にどこかの誰かが拾ったとしても、使い方が分かる訳も無い。一般人が寄るような箇所で、紙人形が反応を示す事もないだろう。
雲海にとってはそれよりも、父親に今日の成果を話すまでに、どうやって酒気を抜くかのほうが何より重要だった。
*
まとわりつくような熱帯夜。日付を跨ぐ頃の宵闇を一掃するかの如く風が一陣、吹き抜ける。
静まり返った住宅街の中を、まさか住民の迷惑を考慮しているとは思えないが、『それ』は音も無く駆け抜けている。速く、疾く。もっと、はやくと願う『それ』は、後ろが気がかりだった。
振り返る。
緑が光る。
来た。
来た!
燃え上がった!
身を屈める。足は止めない。背が焦げるように熱い。
「HIT!」
声が聞こえた。高い、女の幼い声が。
追跡者は、二人居た。巻いたと思ったのに、今日になって何故また。
「FIRE!」
緑が光る。身をよじる。
寄せて返す波のように単調、単純。二度と当たらぬ。避けるのは容易だった。
4、3、2……来る!
「FIRE!」
もはや、当たらない。
当てられやしない。
当たってやる義理もない。
『狐』は駆けた。逃げ場を探して、逃げる。逃げる為に、逃げる。
逃げる事しか出来ないが。それでも、逃げる事は出来るのだから。
『狐』は、今日も夜を駆けた。