9−6 磯村の勧誘
薫は出来るだけ店から離れる為に、運動音痴で遅い足を何とか回して全力で書店から遠ざかっていた。発火能力とは関係なく、顔から火が出そうな程に恥ずかしい。
胸にはしっかりと料理雑誌『おふくろ手帖』を抱えながら、薫は生きているのが嫌になりそうだった。
「馬鹿っ! 私の馬鹿っ! おふくろマンってなによ!」
しっかり『おふくろ手帖』を探していた筈なのに、どうして、いつ『おふくろマン』になってしまったのだろうか。しかも知り合いでも何でもない、同じ学校の人らしき男子高校生に目的雑誌を呆れた顔をしながら手渡されるなんて。
もう二度とあの書店には行けない。
だいたいなんだおふくろマンって。ウルトラマンの亜種か。いじわるなご近所のママさんと台所を侵略するゴキブリから平和な家庭を守り抜く、正義と主婦の味方か。誰が好くんだそんなヒーロー。
駅前商店街と住宅街の境までやってきて、薫はようやく背後の書店が見えない事を確認し、足を止めた。殆ど走るような勢いだった為、息が切れている。
未だに胸に抱えたままだった『おふくろ手帖』を鞄の中に仕舞い込んで息を整える。
肝試し大会の事件で気を張り過ぎた反動か、最近は自分でも驚く位にボケている。ハインリッヒの法則ではないが、この大きな恥の影に薫は今日だけで「昼の弁当を忘れる」「小テストの回答欄を一つズラす」「色が似ているが実は左右違う靴下」等々、様々な小ボケを繰り返していたのだ。
もっと気を引き締めねばと頬を叩いた時だった。
「おぉい!」
背後からリズムの早い足音が聞こえてきた。
未来予知でもなんでもないのに、当たるとしか思えない嫌な予感がした。振り返ったその先にいたのは、先程『おふくろ手帖』を手渡してくれた眼鏡の男子高校生だった。
汗だくで息を切らせながらこちらに迫ってくる彼の視線は確実にこちらを凝視している。なんだか分からない。分からないが、怖い。さして面識無い男が鬼気迫る表情で全力疾走で女子高生を追いかけてきている。
逃げるには十分すぎる理由だ。
「あぁ! 待ってくれ!」
背を向けて駆け出した薫の背後を、必死な太い声が追いかける。
「話! 話だけでも!」
「何の話ですかぁ!」
そんなにおふくろマンを笑いたいのか。それとも実在するのか、おふくろマン。彼は実はおふくろマンフリークで、偶然にも名前だけ一致してしまった私の謎の発言に以下略。そんな馬鹿な話があってたまるか、と薫は半ば逆切れの心境である。
「君、肝試しの時に居たでしょ! 主催者と一緒に!」
「え?」
薫の足の速度が緩む。これがチャンスと見たのか、追いかけてきた男子はさらに加速し、薫の肩に手を置いたかと思うと、今度は突然飛び退いた。両手を天に高々掲げる姿は、満員電車の車内で痴漢ではない事をアピールするサラリーマンのようだ。
「ハッ、ハッ……あぁ、良かった。追いついたぁ……」
「あの、もしかしてあの時の肝試しの……」
「あー……ま、まぁ一応参加? みたいな? ははは……」
謎の男は渇いた愛想笑いをしながら、まるで世間話をするおばさんのように手をひらひらとさせている上に、少し目が泳いでいる。不審に感じたとしても、彼は雑誌を渡してくれた一応の恩人であるのだし、無碍に扱うのも少々憚られた。
「肝試し、どうでした? 楽しかったですか?」
「え? あぁ、まぁ……中見る前に中断されちゃったけど」
「あー……」
今度は薫が慌てる番である。中止の理由を詳しく問いただされたら一体どう返そう。雲海がどんな誤魔化し方をしたと言っていたのか、薫は聞いていない。聞いたとしても覚えていない。
「その節は本当に、こちらの不手際でご迷惑をおかけしました」
「いやいや全然気にしないで。むしろ良い写真撮れたっつぅか……」
「写真?」
「えぇっと……な、なんでもないよ。ホントです」
男は何かを迷った末に、愛想笑いで誤魔化そうとする。どうも先程から挙動が怪しい。もしかして関わってはいけない類いの人間なのか。薫も徐々に不審感を隠せなくなってきており、それを彼に感づかれた。
「ご、ごめんなさい。でも俺、決して怪しいものじゃないのですよ?」
「……で、一体どういったご用件で?」
薫はいつでも逃げられるように身構える。その冷たい視線は、警戒心丸出しだ。男は通学鞄を開けて中に手を突っ込むと、その底からA5サイズの古びた藁半紙を取り出し、それを薫に差し出した。
何て事はない、部活勧誘のチラシだ。
『オカルト研究同好会』と書かれたそれと、困ったようにはにかむ男を交互に見つつ、薫は渋々ながらそれを受け取った。
「あの……俺、こういう同好会やってるんだけど」
「……勧誘?」
「あ……や、やっぱり迷惑かな? でも、肝試し開催するくらいだし……オカルトとか興味あったりするかな……なんて思っちゃってたり……」
声が尻窄みになっていく男。
人と話すのに慣れていないのだろうか、声はしょっちゅう裏返るし、良く見れば小刻みに震えているし、分厚い眼鏡レンズの向こう側の瞳は無駄に潤んでいる。だとしたら何故彼は話しかけてきたのだろうか。確かに薫はその体質から考えて、オカルトとは切っても切れぬ縁があるし、興味が無い訳でもないが。
不思議に思いつつもチラシに目を戻した薫は、思わず顔をしかめた。
「同好会会長、磯村晴彦……」
見覚えのある名前だった。
今日の杵柄高校新聞の一面を飾った、薫が飛行している姿の写真を撮影したのが、彼。先程零れた「写真」と言う単語にも納得がいく。薫が顔を上げると、磯村はすっかり萎縮してしまったのか、肩をすぼめて何度も頭を下げている。
自分でも気づかぬうちに、だいぶ不機嫌面をしていたらしい。
「ごめんなさいごめんなさい! 急に声かけたりしてごめんなさい! 距離感無くてごめんなさい! 俺、友達とか少なくて人との距離とか上手く測れないクソ野郎なんですごめんなさい! 俺一人しか会員いないのに部室棟の部室借り切ってごめんなさい! 碌に女の子と話なんてした事もないのに急に声かけて変質者と間違われても仕方ないかもしれないですけど、御願いですから警察だけは」
「いや、別にそんな気はないですけど」
っつーか知ったこっちゃありませんけど、と言う言葉を薫はどうにか飲み込んだ。不審な男ではあるが、一応名前と正体だけは判明した。
磯村晴彦。背は雲海より低い。チラシによると学年は一年生のようだった。
癖っ毛なのか寝癖なのか、髪はあちこち飛び跳ねていて、あまり清潔感はない。眼鏡のレンズが分厚いせいだろうか、とても目が小さく見える。本人曰く交友関係はほぼ無し。若干挙動不審気味。
どうやらオカルトに関して並々ならぬ興味があるらしく、ただ一人しか会員がいないのにオカルト研究同好会に所属している。そして、肝試しの日に憂山にて、超能力で空を駆ける薫の写真を撮影し、新聞部に持ち込んだ。そして今、彼は薫に同好会への入会を勧めている。滲み出る必死さは、単に友人が欲しい故か、或いは下心でもあるのか、それとももしかして。
……超能力に気づいている?
「……ちょっと考えさせてもらっていいですか?」
「え……か、考えてくれるんですかっ! ありがとうございます!」
磯村は何故か感激したように胸の前で手を組んで顔を綻ばせた。まだ入るとは言っていないのだが。
「いや、本当にもう、検討してくれるだけでも感動モンですよ。一体何人に突っぱねられた事か……」
「はぁ……」
「是非、前向きにご検討を! そ、それじゃまた!」
興奮気味に言うが早いか、磯村は大きく手を振りながら薫を追い越して、テンションも高くスキップしながら帰っていく。上機嫌なその背中を、薫は呆然と見つめた。
一体、なんだったんだろうか。突然追いかけてきたかと思いきや、同好会に勧誘してさっさと帰って行くあの男は。狐にでも摘まれたような気分だ。案外、雲海が探しているお稲荷様だかが化けていたのかもしれない。尻尾でも生えてないかと、見えなくなりつつある磯村の背を注視するも、既に暗闇に紛れてしまっていた。
手にはオカルト研究同好会のチラシが残った。場所は部室棟の一階らしい。活動日は任意と書かれているが、恐らく明日、磯村は薫を部室で待つだろう。それに乗っかって部室に行って良いものなのだろうか。
問題は、磯村が薫を勧誘した理由である。
もしも彼が言う通り、肝試しを開催した薫が興味をもつだろうから、と言うのが理由ならば、彼はむしろ真っ先に雲海を勧誘しそうなものだが。
それに、もう一つ。写真の事だ。
どうして彼は、新聞部に提出までしている、大々的に認知されている写真の事を薫に言わなかったのか。自然な会話のネタとして、空を飛んでいた『彗星』の話をしても問題はない筈なのに、彼はそれを意図的に避けたのだ。
それはつまり……薫と彗星が何らかの関係がある事を知っていて、敢えてそれを悟られないように話題にするのを避けた……?
「……考え過ぎかな、いくらなんでも」
人を疑う事に頭を使う事が殆どない薫である。普段使わない所を無理に使うと、脳が痒くなってくる。こうして疑心暗鬼になるくらいならば、もっと様々な物事をありのままに受け入れる方を選ぶ性格だ。
磯村はきっと、単にオカルト仲間が欲しくて勧誘したに違いない。挙動不審ではあるも、俗に言う不審人物とか危険人物とか、そう言った様子ではなく、単に臆病が行き過ぎているだけだ。どうせ薫も暇なのだから折角だから明日辺り、雲海でも誘って部室を訪ねてみようか。
同好会に入るか入らないか。磯村がどこまで知っているのか。彼の行動が薫に悪影響を与えるのかどうか。それらの見極めは、もう少し先でも問題はない。
薫は決断を先延ばしにして、磯村から貰ったチラシを丁寧に四つに折り畳み、鞄の中に仕舞い込んだ。