9−5 初めての遭遇
帰宅路を一人で歩くようになったのは、一体いつの頃からなんだろうかと磯村は遠くなっていく茜色の空を眺めながら考えていた。
人間の性格、性分というのは、生まれた時は基本的に皆同じ、すなわち無垢だ。趣味趣向とは時を経て周りの環境に影響を受けるなり、自らが触れていくなりする事によって方向を定めていく。例えば心を揺さぶる音楽に触れればギターを弾きたくなったりするし、同好の友人達と曲作りや楽器の練習に精を出すだろう。野球で汗を流す事に快感を覚えれば、練習の苦しみに耐え抜いた仲間達との絆を胸に、甲子園を目指したりするだろう。
小学、中学と年を重ねていくうちに個々の性質は明確な細分を始め、おのずと交友関係にもその人の個性が現れてくる。
磯村の場合、たまたま趣向の対象が黒魔術やら古代文明やら都市伝説やら未知との遭遇などと言った、いわゆるオカルトだっただけなのだ。そして運の悪い事に、彼の周辺にはそれらに興味を抱く人間がいなかっただけなのだ。
友達が居ないのは、仕方のない事。だって、誰も分かってくれないのだから。
「……なーんてな」
路傍の石ころを蹴飛ばしながら、磯村は天を仰いだ。
友達が出来ない責任を誰か他の人、いや人である必要もない、なにか別のモノに責任をおっ被せなければやるせないのだ。自らが愛して止まぬオカルトのせいにするのは自分でもどうかと思うが、いやなに、きっとオカルト様も許して下さるだろうと楽観的な思考を磯村は止めようとはしない。
危機感と言うものを感じつつも、目を逸らし続ける。そうして彼は自分を保つ。笑いたければ笑うがいい。もう慣れた。なんなら今から自分で笑ってやる。
「いかんいかん……」
最近は自虐にも慣れてしまった磯村が俺はまだ大丈夫だと自分に言い聞かせていると、その脇を、塾帰りらしき小学生の集団が楽しげに言葉を交わしながらすれ違っていく。あぁ、俺もあんな時期もあったのだなと思うと、小学生の頃の友人は今どうしているのだろうと言う考えに至る。
磯村は中学に進学するのと同時に親の仕事の都合でこの町にやってきたため、当時の友人達とはすっかり疎遠だ。
元気だろうか、亮介くん。寧々ちゃんも、綾乃ちゃんも。
「……あれ?」
ところで、かつて親友であった、亮介くんとは何をして遊んだだろうか。
お菓子作りが好きだった寧々ちゃんの作るクッキーはどんな味だったか。
密かに想いを寄せていた綾乃ちゃんの、一体どこが好きになったんだったか。
思い出せない。どことなく顔もあやふやだ。
「こ、これはまさか……いつの間にか俺はトレパネーション手術を受け、記憶の改竄を……!?」
一人で妄想を繰り広げた磯村は、自分のその悪癖に酷く落胆した。旧友の顔も思い出せぬ上に、勝手に意味不明な言動を取り始めるのだから、例え彼らに再会できたとしても良い顔をされないだろう。こんなだから今も友達の一人も出来やしないのだ。
「あー、やめだやめだ……」
友達がいないのなんて、別に今に始まった事じゃない。孤独が寂しいと思ったのは最初だけ。要するにしがらみのない生活を謳歌できているのだから、文句はない。
それより今日は、オカルト雑誌『月刊グレイマン』の発売日である。
磯村は毎月その雑誌を欠かさずに購入しているのだが、今日は特別心が躍る。実はその雑誌の、読者からの写真投稿欄に、新聞部に提供したのと同じ写真を送りつけてやったのだ。一体編集部はどんなテンテコマイを繰り広げたのか。どんな風に写真が載っているか、磯村はそれが今から楽しみで仕方がない。
習慣とは恐ろしいもので、特に意識していた訳でもないのにいつの間にか足は帰路を外れて、駅前の大型書店に向けられている。自然と回転数を上げていく足に連れられてやってきた書店に、磯村は文字通り飛び込んだ。
雑誌コーナーは入ってすぐ右手。雑誌コーナーで立ち読みしている老若男女の間を縫うようにして、磯村は目的の雑誌を探す。
いつもならばオカルト系雑誌は纏めて学術誌コーナーの脇に、さも自分は教養書ですよと言わんばかりに我が物顔で陣取っているのだが、どうやらその虚勢は看破されてしまったらしく、いつもの場所には『数理学誌』と言う色気もクソもないタイトルの雑誌が積まれていた。まさか入荷を止めてしまったのではなかろうか。不安に駆られつつ、磯村は探索を開始する。
「んー、グレイマングレイマン……と」
「おふくろ手帖おふくろ手帖……ないなぁ」
どこからか女の声が聞こえてくる。磯村と同じく雑誌を探しているのだろう。無意識的に口に出てしまうのは磯村だけではなかった。これは、そっとしておこう。
「グレイマングレイマン……」
「おふくろ手帖おふくろ手帖……」
「グレイ手帖グレイ手帖……」
「おふくろマンおふくろマン……」
「グレイ手帖グレ……イ?」
「おふくろマンおふくろマン……」
磯村は雑誌コーナーから顔を上げて、辺りを見回した。
声のする方を見やると、そこには未だに気がつかないのか「おふくろマンおふくろマン……」と呟きながら雑誌コーナーを真剣な眼で見て回る女子高生が居た。背は、男子としては小柄な磯村よりもさらに少し低いだろうか、長髪を後ろで一本に結ったその少女は、磯村と同じ高校の制服を着ている。
その姿には、磯村は見覚えがあった。
「あれは、香田薫……!」
磯村が宇宙人の尖兵と決めつけている女子高生、香田薫だった。磯村は咄嗟に本棚の影に身を隠す。周囲の客に妙な眼で見られたが、そんな事を気にしていられない。
相手は飛行能力と発火能力を持った危険な改造人間だ。下手な動きをすればこちらがやられてしまう。
「あの女……一体何を探して……」
磯村は立ち読みをする主婦の影からこっそりと薫の方を窺ってみる。眉間に皺を寄せて唸りながら本棚を見つめる薫が探しているのは、一体なんだ。軍事情報の収拾か、或いは政治経済の把握か。磯村が唾を飲む。
やがて薫は顔を上げて溜め息を吐き出し、こう零す。
「見つからないなぁ、おふくろマン……」
磯村は盛大にずっこけた。
それはどんな雑誌だ。と言うか雑誌か? 新しい子供向けヒーローかなにかか? すねかじりのドラ息子と稼ぎの悪いダメ亭主から写真立ての裏に隠したへそくりを守り抜く、正義と家計の味方、その名もおふくろマン。絶対に子供に人気は出ない。
もしかしたら何かの暗号だろうか、と磯村が深読みを始めた矢先、彼の目に表紙の肉じゃがが旨そうな『おふくろ手帖』と言う料理雑誌の表紙が飛び込んで来る。
グレイマンと、おふくろ手帖。
真相が明らかになると、なんと間抜けな事か。すっかり拍子抜けした気分である。地球侵略計画に何の関係があるのかは分からないが、恐らく彼女が探しているのはこの雑誌だろう。
そのまま諦めずにこの棚まで辿り着けば何の問題もないのだが、薫は非常にアホなようで、偶然通りかかった書店の店員に「すみません、おふくろマンってどこにありますか?」などと困った顔で尋ねている。
店員は当然のようにハニワのようなとぼけ顔となるも、しかし薫は苛つきながら「だからおふくろマンはどこにあるんですか!?」などと憤慨しはじめ、磯村のすぐ側で自動車雑誌を立ち読みしていた大学生くらいの男が盛大に吹き出したのを見て、磯村は薫を警戒するよりもむしろ呆れてしまい、仕方なしに雑誌を手に取って彼女の元に駆けつけた。
「あの、もしかして……これ探してましたか?」
磯村がそう言って薫に雑誌を差し出すと、彼女は一転、華のような笑顔を咲かせた。
「はい! これです、『おふくろマン』!」
「いや『おふくろマン』じゃなくて『おふくろ手帖』ですけど」
今度は女子高生がハニワのような顔になり、ためすがめつタイトルを眺め始めた。今だに間違いに気がつかないとは、少々抜け過ぎていやしないだろうか。
「へぁ? 『おふくろマン』? ……あ、あれ? おふくろ……手帖、よね? あれ?」
「さっき貴方、ずっとおふくろマンおふくろマンって言ってましたよ……」
「え、あ、嘘……あぁ!」
薫はようやく気がついたのか、店員が笑いを堪えている顔と磯村の呆れた顔を見て、顔を羞恥で真っ赤に染めて、消え入るような声で「すみません……」と呟くと、深く頭を下げてレジに向けて猛ダッシュで向かい、会計を早急に済ませ釣りも受け取らずに、雑誌を盾にして顔を隠して逃げていった。
「なんだかなぁ……」
背中を見送りながら、磯村は失望し肩を竦めた。あれが、侵略者なのだろうか。あんな間抜けな女が。あれさえも演技だと言うのなら、彼女は相当の策士だが。
「もう少し、深く探りを入れてみる必要がありそうだな……」
眼鏡を押し上げた磯村の瞳は、期待と好奇心に煌めいている。それは、侵略者から地球を守る使命を帯びたものの態度とは到底言えなかった。