9−2 岩武の苦悩
暗く、狭く息苦しい空間だった。四畳半の施術室は、異様に埃臭かった。床板は今にも踏み抜けてしまいそうに軋んでいる。しばらく使っていなかった、とこの部屋の持ち主は言っていたが、入り用を伝えたのはもう数日も前だ。
空峰岩武は部屋に張る蜘蛛の巣を手で払いながら、掃除くらいしておけ、と言う文句を喉元でねじ伏せた。
無理を言って使わせてもらうのだ。そもそも過失はこちらにある。ぶつくさ言えた立場ではない。
「……すみません、父さん」
傍らにいた坊主頭の少年、空峰雲海は眼を伏せ、震える声で呟いた。冷たい汗が頬を伝う。
おおよそ他人に雲海を紹介する時、岩武は「不肖の息子」「未熟者」と言った言葉を使った。事実として彼はまだまだ未熟である。しかし……岩武とて雲海の認めている部分がある。
雲海には強い意志がある。初仕事早々から出会った薫の存在が良い方向に働いたのだろう。友を守る為に、文字通り身を粉にする覚悟が備わっている。
つい先日の未知の妖怪も、命からがらではあったが凌いでみせた。自分でもどこまで出来るか分からぬ相手を、息子は追い払ったのだ。
そんな勇敢な息子が、これ程までに恐怖している。自らの内側に潜む邪悪を知るからこそ、であった。
「謝るでない」
ひとえに、自分の教育が、自分の監視が行き届いていなかったから。ここ最近の妖怪達の動向を、甘く見過ぎていた。出来る事なら、息子と代わってやりたい。
「罪を犯した訳ではない。……ここは刑務所じゃないんだ」
隔離病棟。そんな言葉が脳裏をよぎったが、首を振って追い払う。
「施術は金竜丸の一族に一任される。門外不出の業故、部外者の儂は立ち会えん。恐らくお前も、薬で眠らされるであろう」
「……それは良かった」
雲海はヒク付く口端を無理矢理上げて痛々しく微笑んだ。
「儂は力には成れぬ。これは、お前の問題なのだ」
こんな事は言いたくなかった。例え微力でも良いから、手助けさえ出来れば少しはこの心の重圧も軽減されたのだろうか。
「相当の苦行と聞いております」
「前例は百年も前の事で、碌に記録も残っていないそうだ」
これは嘘であった。百年前の記録は、現在も如実に残されている。壮絶かつ強引な施術であるため、気が触れてしまった者達も過去には居ると聞いているし、死亡例もある。だが今、雲海にそんな事を言える訳が無い。
「心を強く持て。……儂からは、それしか言えぬ」
「いえ、十分です。それこそが我々の極意」
恐怖を乗り越える事。妖怪と対峙する際、最も基本的な事で、最も重要な事だ。勇気こそが、最大の武器。雲海は死線を潜り抜けた事で、それを心に刻んでいる。だから、きっとやり遂げてくれる。
「……必ず、帰ります」
「うむ。その意気だ……待っておるぞ」
岩武は雲海の手を強く握り締めた。
雲海の傷だらけの手は確かな力を持って、握り返してきた。岩武のいかつい手の震えを、押さえ込むかの様に。逞しい息子を誇りに思い、臆病な自分を情けなく思う。複雑な心境であった。