1−8 飛び出した百円
プラスチックコーティングされた機械のアームが、ゆっくりと横這いに動く。やがて動きを止めた後、アームが下の布の塊達目指して腕を伸ばしていく。その場に居る全員が息を呑んで、アームの一挙手一投足を凝視し、行く末を見守った。
「……よしっ、よしっ!」
一人の少女が興奮気味に声を上げ、ガッツポーズを決めている。期待に輝く眩しい目には、肌触りの良さそうなテディベアのキーホルダー。アームの鉤爪にチェーンがかろうじて引っかかっている。僅かな衝撃で落下してしまうのは目に見えていた。ガラスで仕切られているのに、全員が息を止めた。そして不安定に揺れるアームを、懇願するような目で眺める。
そして。
「……あ、落ちた」
「へったくそだなー」
「真見は人の事言えないでしょ」
夕暮れ過ぎ。杵柄高校前駅の近くにあるゲームセンターで、UFOキャッチャーの周りで騒ぐ女子高生の一団が居た。相川真見率いる香田薫歓迎の会は、学校周辺の案内を経由した挙げ句にここに辿り着いていた。妖山市はそのもの人口は多いが、繁華街の発展はまだまだと言った風で、学生達の遊び場は駅近くのゲーセンかデパートに限られていたのだ。
しかし薫にしてみればそれは十分恵まれた環境である。学校帰りに寄り道の出来る店があるなんて、なんと幸せな事か。まして彼女はゲームセンターなんて生まれて初めて入った。騒がしくて耳が痛いし、各種アーケードゲームが放つ彩光が眩しくて目が疲れるが、興味が先立って然程気にならない。おのぼりさん丸出しは流石に恥ずかしいので、薫は何とか冷静を装って相川の後を付いて回っていたのだ。
そして今に至る。
「ちぇ。私にしちゃ上手くいきそうだったのに」
「私もビックリしたよ。まさか舞子のくせに取れてしまうのでは、ってさ」
「それどういう意味よ。ったく、もう」
失敗した舞子と言う少女は、舌打ちして操縦ボタンの前を去る。後にその座についた相川はポケットから取り出した唐草模様のがま口から百円硬貨を取り出す。それを顔の前に持ち上げ、相川は得意げに笑ってみせた。
「まぁ見てなよ。私がマイコはんの仇とって上げるから」
「行けると思う?」
「絶対無理だね。真見ってば私よりヘタクソだし」
示し合わせたように意気消沈している友人達に向けて、相川は僅かに眉を顰めながら口角を上げると言う形容し難い笑みを浮かべた。
「おいおい、ちっとは信用してくれない? やる気なくすっつーの」
意気込む相川を鼻で笑う彼女達の中で、唯一人だけ、目を輝かせて鼻息を荒くする少女がいた。香田薫であった。
「頑張って、相川さん!」
「あ、ありがとう」
薫の応援は相川の背を押しはするのだが、彼女はそもそも空気が読めていない。ここでは一緒になって鼻で笑うのが正解なのだが、薫が相川の仲間内の空気を知るにはもうしばらくかかるに違いない。相川は苦笑しながら薫から目を離し、クレーンゲームに向き直り、まず商品を品定めする。落とし口近くの白い熊に視線を合わせた相川が硬貨を投下し、いざ勝負と意気込んでいたその時。
「……あれ」
「始まんなくね?」
硬貨を飲み込んだクレーンゲームは、しかし一切の挙動を見せない。お釣りとして出されたかと釣り銭口を見るが、百円はどこにも見当たらなかった。
「喰われちゃったんじゃね?」
「えぇー、最悪……私の今月最後の百円だったのに」
「相変わらず貧乏してるねー、真見は」
「え? え? どうかしたの?」
落ち込んでいる相川と慰める周りの友人の反応が理解出来ず、薫は首を傾げて事情を尋ねる。隣に居た舞子と呼ばれた友人が話してくれた。
「そっか。香田さんはゲーセン来るの初めてって言ってたしね。
たまにあるのよ。百円入れても動かなかったりする事って。
もう機種古いしね、これも。いい加減新しいの入れりゃいいのに」
「へぇ……」
薫は相川の脇の下から手を伸ばしてクレーンゲームのボタンを押してみる。確かに反応がない。相川は悔しそうに歯噛みし、クレーンのアームを睨んでいる。なけなしの百円で勝負する事すら許されなかったとあっては、たかがゲームとは言え堪え切れぬ怒りが込み上げて来る。
「店員さん呼べば良いんじゃないの?」
「前も同じ事があったんだけど、無視されたのよ。酷い話よねぇ」
薫の提案も、既に却下された案らしい。なんだか酷く理不尽な話のように思えてきた薫は、顎に手をやる。何とかしてやりたいけど、私もお金ほとんど持ってないしなぁ。薫は渋面を作る。そして、一つ決断をした。やはりピンチの時は助け合う必要があるよね。相川さんには仲良くなるチャンスを貰ったんだ。今度は私が助ける番だ。と、薫は意気込んでいた。
「……ちょっと場所いいかな?」
「お、香田さんもやるの?」
「初挑戦の実力や如何に」
「頑張って、私の無念を晴らして頂戴」
周りの声には耳を傾けず、薫の視線の先はクレーンのアームでも、狙う商品でもなく、百円玉の投入口だった 財布を取り出す様子のない薫を、周りの目は段々と不審な色を帯び始めた。そして、薫は百円の投入口に右手を軽く手を置いて、静かに目を瞑る。
「……ん?」
「どう、したの……? ねぇ、香田さん?」
薫は何も答えない。ただ、何時間も前からそこに居たかのように景色に溶け込んでいた。やがて、彼女の纏っていた穏やかな空気が一変する。
「う……!」
「な、なに、これ……」
その場に居た全員が薫から一歩後ずさった。彼女らを取り巻く空気が、破裂寸前の風船のように張りつめた。薫を中心に、ゲームセンターの時間が止まったようにすら感じてしまう。風が吹いている訳でもないのに薫のポニーテールが揺れ動いた。そして、まるで本物の馬の尻尾のように上下左右に振れ始める。彼女から放たれる異様な圧力に怯え、同級生達が薫から一歩離れて、彼女の背中を心配そうに見つめる。静電気でも発生しているのか、薫の髪は見る見る内に逆立っていき、時折、何か硬いものががぶつかり合う音がUFOキャッチャーの筐体から聞こえる。
とてもゲームをやる人間の様子ではない。その場の全員が同時に唾を飲み込んだ。そしてそれまで微動だにしなかった薫の右腕が跳ね動く。
「……ひぅ!」
様子を窺っていた相川達は、突如襲ってきた耳鳴りと肌に走るむず痒さに、顔を顰めた。一体何が起こっているんだと、その場の全員が混乱していた。薫がその手に何かを握り込んだ。筐体から聞こえてきた音が止み、張りつめていた空気が一気に弛緩する。暴れていた薫の後ろ髪も嘘のように静まり返って、真っ直ぐ地面に伸びていた。竦んでいた肩から力を抜き、相川達は疲労のあまり溜め息を吐いた。
「……相川さん」
「な、なに?」
声を掛けられた相川は裏返った返事を投げかける。振り返った薫は、満面の笑みを貼付けて相川に向き直った。握っていた右の掌を表向きにして、相川の方に腕を伸ばす。
「なんか、百円玉が投入口から飛び出してきたよ」
「飛び出……は?」
右掌に乗っかった銀色の硬貨を、呆気にとられた顔の相川に握らせて、薫は微笑む。屈託ない彼女の表情が先程放っていた張りつめた気配と合致せず、相川は未だ動揺を隠せずにいた。
「いやぁ、ラッキーだね。まさか入れたところから戻ってくるなんて」
「えっと……えっと?」
「不思議な事もあるもんだ。あはははは」
薫は無理に押し出すような乾いた笑い声を上げる。相川は自分の手の中にある百円玉を眺め、握り、揉み込む。桜の花が描かれた、紛れもない百円玉である。一体どういう事なんだ、と相川は目を丸くする。現実的に考えれば、既に投入した後の百円玉が投入口を逆流して飛び出して来る等と言う不可思議な現象が起こる筈が無い。それゆえに相川が考えついた回答はたった一つだけであった。
「……なるほどね。ありがとう、香田さん」
「……うん?」
相川から突き返された百円玉を見て、薫は首を傾げる。
「百円玉が飛び出してくるなんて、馬鹿な話があるわけないでしょ。
手品うまいんだね、香田さん。面白かったよ」
愛想笑いに近い硬い微笑みでそう言った相川。
「いや、手品じゃなくて、本当に百円玉が」
「気を遣ってくれたのは嬉しいけど、今日友達になったばかりの人からお金は借りれないよ。
そう言うのはまぁ、追々さ」
「だからこれは私のお金じゃ」
妙に必死に相川の意見を否定する薫だが、誰もが薫の言葉を嘘だと信じていた。と言うより、そう信じる他はないのだ。
投入口から百円玉が飛び出して来る事なんてある訳がない。いつの間にか手の中にコインを移動させるマジックなのだろう、と自己完結をした彼女らは、薫の纏っていた異様な雰囲気の事なぞすっかり忘れてしまう。
「すっごい! カッコいいよ、香田さん!」
「うん! テレビでやってるのより全然凄いよ!」
「いつタネ仕込んでたんだろ……! ねぇ、どうやったの、今の!」
「ええぇぇ……」
手放しの賞讃を受け、薫は彼女らの意見をそれ以上否定する事を諦めた。全員喜んでいるのなら別段ムキになって真実を語る必要も無い。期せずして百円と言う僅かな額であるが、この臨時収入を素直に喜ぶ事にした。ポケットに硬貨を仕舞い込み、今度は締めのプリクラを取ろうと言う算段を立てた一団の背中に再び乗っかり、薫はゲームセンターの奥の方へと足を向けた。