8−12 凶暴な座敷童
「なんなのよぉあの化け物ぉ!」
「俺が知る訳ねえだろうが!」
高校生くらいの、若い男女の叫び声は、彼らの後ろからやってくる怪物の足音に掻き消される。
どしん、どしんと。高い所から重い物を落としたような音が、一定のリズムを刻んで近付いてくる。
大入道、だっただろうか。昔々あるところに、から始まる物語にそのような妖怪がいたような気がする。
肝試しのためにわざわざこんな辺鄙な所までやってきたと言うのに。何故自分達は今、命の危機に瀕しているんだ。二人は己の運命と、開催者の空峰雲海を呪った。
「いつまでこんな……逃げ続ければ……!」
「止まる訳には行かねえだろ!」
男女はもう二度と振り返らないと、先程から心の奥底で誓っていた。
まるで大木のような太い脚が、大股で近付いてくるのだ。
しかもその脚の上は、木々に覆われて見上げる事さえ叶わないのだから、追ってくる者が如何に巨大であるのかを思い知らされる。
一歩一歩は遅い。だが、大きい。二人は全力疾走しなければ間に合わない。
「あうっ!」
並走していた女が、ふと木の根に足を捕られ、転んでしまった。男は一瞬だけ脚を止めた。
引き起こそうと手を伸ばす。が、男は振り返って、見上げてしまった。
振り上げられた、まるで軽自動車程もある巨大な足が、今まさに自分達に向けて振り下ろされようとしているのが。
男は伸ばしかけた腕を引っ込めた。
「ちょっ……と!」
呆然と倒れ伏す女に背を向けて、男は再び駆け出した。
間もなく、女は大入道の足に踏み潰されるだろう。
男はその事実から目を背けた。自分の命を優先して、逃げ出そうとしたのだ。
今にも泣き出しそうな男の目は、同様に激しく泳いでいる。
しかし、その目は的確に捉えた。
自分とは逆方向に駆け抜ける、腰の辺りまでしかない小さな人影が、今にも落ちてくる巨大な足に突進していくのを。
長く伸びた黒髪を振り乱した、漆黒の着物に身を包む幼い女の子だった。
その少女は、男には脇目も振らず、柔らかい森の地面を足で抉りながら、飛び上がる。
風が、後から吹き抜けた。
「SSSAAAAARRRRAAAAAAA!」
まるで蛇が鳴くような、甲高い奇怪な雄叫びを発しながら、小さい影は思い切り振りかぶった右腕を、入道の足の下から振り上げた。
幼い少女の小さなアッパーは、しかしまるでバズーカ砲でも放ったかの様な轟音をまき散らし、それと同時に入道の足をいとも容易く弾き上げる。
「CHOOOOO!」
右足を思わぬ衝撃で浮かされバランスを崩す入道に追い討ちをかけるように、少女は体を大きく反らして振り上げた左脚を更に叩き付ける。
右足が振り下ろされる軌道が脇に逸れた。うつ伏せに倒れていた女は、自分の左脇僅か数センチの所に落ちてきた右足を見て、肌を粟立てた。
なにがなんだか良く分からないのだが、今は逃げるのが最優先。
そう思って体を起こそうとするものの、腰が抜けて脚に全く力が入らない。
女は、今しがた入道の足を殴りつけた幼女に見下ろされている事に気がつく。
その幼い女の子は、血走った大きな無感情な瞳で、まるで女を品定めするように眺めている。
また、別の恐怖と闘わねばならないのか。そう女が思っていた矢先、突然少女が、
「もう大丈夫だよ、おねーちゃん!」
目を細めて、実に愛らしい笑顔でそう言ったかと思うと、突然襟首を掴まれて風呂敷でも担ぐように、そのまま背中におんぶされた。
非常に小さなその背中におぶさるのはかなり窮屈であったが、しかし少女はその華奢な外見からは考えられない程の怪力で女の体を完全に固定していた。
そして、風が唸りを上げる程の速度で駆け出したかと思うと、瞬く間に先に逃げた男に追いついた。
唖然とする男に、女は批難の視線を存分に浴びせかけた。
「さぁ! お兄ちゃんと一緒に逃げて!」
少女は女を下ろしながら、まるで屈託なく笑っている。
「……君は、どうするんだよ」
うろたえながら、男が訪ねた。少女は笑顔を崩さないまま、背後から今だ追いかけてくる入道の方を指差した。
木々に阻まれて腰までしか見る事の叶わぬ程の巨人を見上げて、少女は何故か口の端から涎を垂らしている。
「あれを食べ……じゃなくて、倒す」
「倒すって……そんな無茶な」
「大丈夫だって。お兄ちゃん達、危ないからまだそこを動かないでね。あ、でもトイレは行った方がいいかも。あんまりな光景で、ビビって漏らしちゃ困るもんね?」
冗談めかす少女はウィンクを一つ二人にくれると、それきり脇目も振らずに入道に立ち向かっていく。
その姿を、二人はただ眺める事しか出来なかった。
……まるで、自分達は、夢でも見ているのではないかと思った。
入道に追いかけられていると言う奇怪な事態そのもの。
踏み殺されそうになった所に乱入してきた、怪力の女の子。
そして今、その女の子が、振り下ろされた入道の足を華麗に避けて、体を思い切り捻って繰り出す飛び後ろ回し蹴りを入道の脛にぶちかますと言う信じ難い光景。
遠くから見ていても、衝撃が風になってやってくる。
入道の脛がまるで飴細工の様にいとも簡単にへし折れていた。
そして、これは現実だと物語るかの様に、
「GAAAAAAAA!」
入道の苦悶の絶叫が、木々の葉を揺らす。まるで森全体が泣いているかのようだ。
木々を薙ぎ倒しながら前のめりに倒れ込んでくる。
少女は、まるで無防備な入道を見上げて……実に楽しそうに、笑っていた。
「HYAAAAHAHAHAHAHAAAA!」
少女の髪が、耳を切り裂くような大笑いに呼応するかの様に長く、まるで軟体動物の触手の様に蠕動する。
元々長かった彼女の髪は、もはや身長の数十倍にまで伸び、そしてその毛先を一本に収束させていた。
遠目に見るに、女性の胴回り程もある髪の束。それは、まるで黒い槍だった。
「ブッッッッ刺せえええええぇ!」
猛々しく命令を下すと、髪はまるで獲物を見つけた蛇の様に鎌首をもたげ、矢の様に一直線に入道の胸を目がけて飛びかかる。
髪の槍の先は、豆腐に針を通すかのように、抵抗なく入道の胸を突き刺す。
貫通して背中から抜けた槍は、そのままさらに押し進み先端を折り曲げて旋回、背後から今度は腰を穿つ。
腰から腹、腹から肩、肩から横に脇腹を貫通し、そのまま腕と胴を巻き込んで、縄の様に入道の体を締め付ける。
体中を貫かれた入道はしかしまだ絶命はしておらず、生気のない顔で少女を見下ろしている。
先程の凶暴な表情はどこへいったのか、少女はまるで我が子を見つめる母親のような、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
遠くで見ていた男女は、思わず震え上がってお互いを抱き締め合った。
「さぁ、帰っておいで私の可愛い入道タン……」
「GUUUU……」
「大丈夫、恐くないよ。だから……ね……」
少女が血走った目を見開く。
入道は恐怖に怯えた表情を浮かべ、ただただ無意味にもがく事しか許されなかった。
「EEEEEEATYOUUUUUUUUUUUU!」
絶叫とともに、槍の様に鋭く尖っていた髪の先が蛇の口のように大きく開いた。
そして、ますます伸びていく髪が見る見るうちに入道の体を包み込んでいく。
ものの数秒で黒い繭の様になった入道は、少女の髪に持ち上げられて、見る見るうちに時間の経った風船のように萎んでいく。
入道が一体どうなっているのか、外から見ても全く分からない。
しかし、見上げんばかりに巨大だった筈の黒い繭は既に無く、長く伸びた少女の髪だけが後に残る。
そしてその髪も、先程伸びていった時と逆再生でもしているかのように短く縮んでいき、満足げな少女は軽く髪を払った。
「……回収完了っと」
満足げな一言を呟いた少女は、大きく伸びをした後に、離れた所に座り込む男女に目をやった。
二人はお互いにもたれ掛かるようにして、失神していた。
目の前の現実味が無い凄惨な光景を、受け入れ切る事が出来なかったのだろう。
「……良かったわねぇ、二人とも。忘れられない程の恐怖が味わえて。楽しい肝試しになったでしょ?」
嘲笑う少女……木鉤夜恵は、小さな体で二人を抱えて、夜の森の中に消えていった。