序−1 影に脅える少年
・この物語はフィクションであり、実在の人物、団体とは一切関係ありません。
月の光も碌に届かない山中で、空気を切り裂く様な破裂音だけが不自然に響き渡る。音とともに木々の間を駆け抜ける何者かを、懐中電灯を手にした黒い袈裟に身を包んだ一人の坊主が視線で追いかけていた。背の高い杉林の向こうに広がる無限の闇の中で、ぼやけた形の無い白い影が凄まじい速度で坊主の周りを行き交っている。
もう一度、風を切る音が聞こえる。坊主の足元に、彼の腕周り程もある太い木の枝が落下した。また、音がした。坊主に向けて、矢の様に飛来して来る鋭く尖った木の枝。狙う先は彼の頭であった。しかし坊主はまるで慌てる様子も無く、その矢を見る事も無く手刀でたたき落とす。地面に叩き付けられた木の枝を踏み追って、坊主は僅かに顔を顰めただけであった。
「こわい……こわいです、おとうさん」
坊主の後ろには、五歳くらいの少年が耳を塞いで目を瞑って、出来るだけ身体を小さくする為にうずくまっていた。何も知らされずに連れてこられたその少年は、今まさに自分が命の危機にさらされている事を悟って動けずにいた。
「怖れるでない、雲海」
坊主は、駆け回る白い影からは視線を外す事はない。だが、慰めるような声色で、坊主は少年に語りかけた。
「あれはカマイタチだ。物凄い速さで走り回って、人間の身体を切り裂いていく」
「こわいよおぉ!」
大声で泣き始めた少年に、坊主はゆっくりと言葉を続ける。
「大丈夫……大丈夫だぞ、雲海。
彼奴らとて、本当は人間と仲良くしたいんだ」
「……ほ、ぐすっ……ほんとう?」
涙と鼻水で汚れた顔を腕で拭って、雲海と呼ばれた少年は顔を上げた。坊主は肩越しに彼の存在を確認してから、薄く微笑んでみせた。
「あぁ、本当だとも。
なのに雲海。お前が怖がっては、カマイタチも困ってしまうだろう?
ほら、ちゃんと立ちなさい」
「はい」
雲海の足は震えていたが、丁寧な回答を返すその声は落ち着いた様子を見せていた。坊主の袈裟に駆け寄って、その端を掴む。坊主は何も言わなかった。
「カマイタチは、声をかければ必ず足を止めてくれる。ほら、呼んでみなさい」
「……うん。わかりました」
少年は父の袈裟から手を離して、口に両手を添えて、やまびこが帰ってくる程大きな声を振り絞った。
「カマイタチさぁん!」
もう一度、風を切る音が聞こえた。ふいに正面に広がっていた闇の向こう側から突風が吹き付ける。立っていられずに尻餅をついた雲海は、慌てて這いながら坊主の後ろに隠れるが、当の坊主は首を反らして大笑いをしていた。
「あんまり雲海の声が大きいから、カマイタチもビックリしたようだぞ」
「……おこってますか?」
「いや、笑っておるよ。ほら、耳を澄ませてごらん」
頭上の方で、杉の枝が優しく揺れている音が聞こえた。
ぼやけた白い影は何処にも見えなかったが、枝の動きを見る限りでは、風が不規則に木々の間を駆け抜けていた。まるで風が笑っているようだ、と感動している雲海の頭を、坊主の固い掌が優しく撫でた。
「ほれ、カマイタチの笑い声が聞こえただろう?」
「はい。僕にも聞こえましたっ」
大きく首肯した雲海に、坊主はしゃがみこんで視線を合わせた。慈愛に満ちた坊主の笑みに釣られ、雲海もついつい頬が綻んでしまう。
「よく覚えておけ、雲海。妖怪は、人間の心の機微に反応する。
お前が妖怪を怖れ、妖怪に怒り、敵意を向ければ、妖怪はお前に襲いかかる。
逆に友好的に接すれば、彼奴らは必ずやお前の話を聞いてくれるだろう」
「きび……? てきい……ってなんですか?」
言葉の意味が分からずに首を傾げる少年に、坊主はまた首を反らして、乾いた笑い声を上げた。
「まだお前には早過ぎるか。……兎に角、よく覚えておくのだぞ」
「わかりました」
「よし、良い子だ。さて、今日はもう帰ろう」
「はいっ」
立ち上がった坊主が差し出した手を雲海は固く握りしめる。しかし、何かを思い出したように坊主の手を離して、雲海は首を上に向けて、未だ不規則に流れる風に向けて大きく手を振った。
「ばいばい、カマイタチさん。おやすみなさい」
坊主の笑い声が、もう一度山の中に響き渡った。