「顔を見せて手を振るだけ」の身代わり聖女が、川に飛び込んで素顔がバレました 〜その顔を昔のまま見ていた、幼馴染の衛士がいて〜
◆一 顔だけでよい
鏡の中に、もうひとりの自分がいた。
聖都の奥、日の差さない支度部屋で、マリカは鏡の前に立たされていた。着せられているのは、純白の巡礼衣。頭から肩へ、聖女だけが許される薄い面帕が垂れ、その内側から、世界を覗くと、何もかもが、薄いもやの向こうにあるようだった。侍女の手が襟を整えるたび、鏡の中の白い人が、わずかに動く。それがまさか自分だとは、しばらく信じられなかった。
「……本当に、似ているのね」
寝台のほうから、細い声がした。
聖女エルシラが、幾重にも枕を重ねた上に、半身を起こしていた。同じ背丈、同じ肩の線。声まで、二人はよく似ていた。違うのは、血の気だけだ。エルシラの頬は、春だというのに、冬の紙のように白い。生まれつき体が弱く、この一年、館の外へ出た日は、数えるほどだった。
「典礼長さまから、聞いております」マリカは面帕を上げて、頭を下げた。「南の村々への慰問の巡礼を、聖女さまの代わりに……わたしが」
「代わり、ね」
エルシラは、薄く笑った。その笑い方に、とがめる色はなかった。ただ、遠くを見る目だった。
「わたしは聖女なのに、民に顔を見せることができない。祈りは届けたいのに、この体では、村の井戸端まで歩くこともできない。……ねえ、マリカ。顔を見せられない聖女は、聖女なのかしら」
返す言葉が、見つからなかった。マリカにできたのは、寝台のそばに膝をつき、冷えた聖女の手を、両手で包むことだけだった。前世でも、今世でも、そうやって誰かの手を温めることばかり、してきた。それだけが、自分にできることだった。
エルシラは、包まれた自分の手と、マリカの顔とを、代わる代わる見た。
「不思議ね。あなたのほうが」ふいに、そう言った。「あなたはわたしより、わたしらしい」
マリカは、面帕の内でうつむいた。似ている、とは、ずっと言われてきた。声も、背丈も。けれど、似ているだけの人生だった。誰かに似ているから、誰かの代わりに立つ。それがマリカの、生まれてからの居場所だった。
「わたしのぶんまで、村の人たちを見てきて」エルシラは、マリカの手を握り返した。細い指に、思いがけない力がこもっていた。「顔だけでいい、と典礼長は言うでしょう。でもね、あなたの目で、ちゃんと見てきてほしいの。わたしの足では行けない場所を、いま何に困っているのかを。それを持ち帰ってくれたら、わたしはここで、その人たちのために祈れる」
病んで臥せった聖女の目に、そのときだけ、熱が宿っていた。この人は、あきらめてなどいない。ただ、体が言うことをきかないだけなのだ。マリカは、包んだ手にそっと力を込めて、うなずいた。
その夜、典礼長ドロテアが、支度部屋へやってきた。五十をいくつか越えた、背筋の伸びた女性だった。教会の実務のすべてを回す人で、その言葉には、無駄がなかった。
「務めは単純です。面帕を上げず、顔を見せ、手を振る。村人は、それで満たされます。祈りの言葉は、聖典どおり。決して、聖典にないことを口にしてはなりません」
「はい」
「よいですか」ドロテアは、念を押した。「あなたの仕事は、顔です。聖女という顔が、そこに在ること。それだけです」
馬車は、翌朝の暗いうちに、聖都を出た。
護衛の隊列が、前後を固めた。先頭を行くのは、いかついあごをした護衛隊長だった。休憩のたびに、この男は同じことを繰り返した。聖女さまに、民を近づけすぎるな。手の届く距離に、入れるな。万一があってはならぬ。マリカが窓の面から、村の子に手を振ろうとすると、隊長はすぐに、ほろを下ろさせた。
その隊列のしんがりに近いところに、まだ少年の面影を残した、若い衛士がいた。日に焼けた首すじの、肩の細い男だ。ほかの衛士が、街道の先や茂みを警戒するのに、その若者だけは、ときおり馬車の面帕へ目を戻した。とがめる目でも、拝む目でもない。何かを、確かめようとする目だった。マリカは面帕の内で、その視線に気づいていた。気づいて、落ち着かなかった。あんなふうに見られたことは、聖女の身代わりになってから、一度もなかった。
街道は、南へ下るほど、水の音を連れて歩いた。
春の盛りである。セロール山嶺の雪が解け、いくつもの流れが谷から下りて、道に沿う川を、日ごとに太らせていた。濁った水が、去年より高いところを削って、流れていく。渡し場のひとつは、もう板が水に浸かって、使えなくなっていた。御者が、誰にともなくこぼした。今年の雪解けは、たちが悪い。子どもを川辺に出すなと、どこの村でも触れが回っているという。
最初の村に着いたのは、昼過ぎだった。
広場に、村人が集まっていた。面帕を上げると、どよめきが起きた。聖女さまだ。ほんとうに来てくださった。マリカは教わったとおり、微笑みを浮かべ、ゆっくりと手を振った。それだけで、老いた女が涙をこぼし、若い母が子を抱き上げて拝んだ。顔を見せる。ただそれだけのことが、これほど人を満たすのだと、マリカは初めて知った。
務めは、それで終わるはずだった。
人垣がほどけかけたとき、藁葺きの一軒から、しわがれた咳が聞こえた。マリカの足が、そちらへ向いていた。
「聖女さま、隊列を離れては」
隊長の声を背に、マリカはもう、戸口をくぐっていた。薄暗い寝床に、熱を出した年寄りが横たわっていた。枕もとの水差しは空で、口もとの布は乾ききって、汗のあとが白く筋を引いていた。
考えるより先に、手が動いた。
水差しに、新しい水を汲む。布を絞り、乾いた唇を湿らせ、首すじの汗をぬぐう。頭を少し高くして息を楽にしてやり、枕の向きを変える。前世で、幾度となく繰り返した手順だった。長い夜勤の廊下、いくつもの寝台のあいだを、こうして回り続けた。指が、その順番を覚えていた。頭が命じるより、手のほうが速かった。
「……あんた、聖女さまだって?」
寝床の年寄りが、かすれた声で言った。マリカは、はっと手を止めた。
「聖女さまってのは、こんなに手が荒れちゃおらんだろう」
薄暗がりで、老人の目は、面帕の内側を見ていない。マリカの手を見ていた。水仕事と看病で節くれだった、白粉の似合わぬ手を。
背に、ドロテアの声がよみがえった。あなたの仕事は、顔です。――違う、とマリカは思った。違う。この人がいま欲しがっているのは、顔ではない。喉を通る、一口の水だ。
その夜、隊列は街道ぞいの空き地に、火を落として野営した。
マリカが天幕のそばで、冷えた手を火にかざしていると、水の革袋を提げた影が、そっと近づいてきた。あの、若い衛士だった。
「……聖女さま。お水を」
差し出す手が、途中で止まった。若者は火明かりの中で、面帕の内をのぞきこむようにして、それから、うつむいた。困ったときの癖なのか、首の後ろを、片手でかいた。
「やっぱり、そうだ」低い、少しかすれた声だった。「その手の、指の使い方。……マリカ、だろう」
心臓が、止まるかと思った。
面帕の内で、マリカは若者の顔を、まじまじと見た。日に焼けた頬、笑うと右にだけ出るえくぼ。忘れるはずが、なかった。
「……レン」
声が、震えた。聖都のはずれ、教会の裏手の孤児院で、いっしょに育った幼馴染だった。同じ椀で粥をすすり、同じ屋根の下で冬をしのいだ。マリカが聖女によく似ているというだけで、侍女に取られ、レンが衛士の見習いに出されて、それきり――もう、五年も会っていなかった。
「衛士に、なったの」
「なった」レンは短く言って、また首の後ろをかいた。「お前が、聖女さまのお付きにあがったって聞いて。……近くにいられる仕事は、これしか思いつかなかった」
火が、ぱちりと爆ぜた。
マリカは、何と返せばいいのか、分からなかった。近くにいられる仕事。その言葉が、胸のやわらかいところに、まっすぐ触れてきた。
「面帕を上げても、村の連中は誰も気づかない」レンは、声を落とした。「みんな、聖女さまの顔を見てる。……俺は、顔なんか見てない。お前が椀を持つ手つきも、水をくむときの背中も、昔のまんまだ。だから、すぐ分かった」
昔のまんま。
――誰かに似ているから、誰かの代わりに立つ。似ていることばかりを、人は見た。似ていない部分を、昔のままの部分を見てくれる目が、この世にあるとは、思っていなかった。
「危ないよ」ややあって、マリカは言った。「わたしが誰か知ってるって、隊長さまに知れたら」
「言わない」レンは、きっぱりと言った。「昔から、お前の秘密は、俺が一番よく守ってた」
その言い方に、幼い日の夏が、いっぺんによみがえった。孤児院の裏の、浅い流れ。子どもらが素足を浸して、水を浴びた小さな川。泳げなかったマリカの手を引いて、レンは何度も、同じことを言ったのだ。
「覚えてるか。夏の川」レンが、ふと笑った。えくぼが、火明かりに揺れた。「お前、すぐ下を向くから、いつも水を飲んでた。あごを上げろ、って何べん言ったか」
「……上げたら、浮いた」
「そう。あごを上げりゃ、人は浮くんだ」
その夜のことを、マリカは長く覚えていることになる。まだ、それを知らずに、ただ火のそばで、久しぶりに名前で呼ばれた自分を、くすぐったく思っていた。
寝際に、御者が、誰にともなくこぼした。明日は、丘をひとつ越えた村に寄る。目の見えぬ織り手の婆さまがいる、川のいちばん深いあたりの村だ、と。
◆二 祈る人の手
ヤナの家は、機の音で満ちていた。
八十を越えた老婆が、機の前に座っていた。織りかけの肩掛けが、糸の上でまだ半ばだった。とんとん、とんとん。手が織り目を確かめながら、規則正しく杼を渡していく。目は、とうに光を失っている。それでも老婆の手は、糸の一本の乱れも、見逃さなかった。
「聖女さまがおいでと聞いてね」ヤナは、手を止めずに言った。「こんな婆の家まで、ようこそ」
マリカは膝をつき、聖典の祈りを唱えた。教わったとおり、一言一句たがえずに。唱え終えると、ヤナが、ゆっくりと手を伸ばしてきた。マリカの手を探り当て、両の手のひらで、包むように握る。
節ばった指が、マリカの手を、ゆっくりと読んだ。指の腹の硬いところ。爪のわきの、あかぎれのあと。手のひらの真ん中の、水にふやけて厚くなった皮。
老婆の手が、止まった。
「あんた」
マリカの心臓が、跳ねた。
「あんた、聖女さまじゃないね」
息ができなかった。面帕の内側で、血の気が引いていくのが、分かった。見抜かれた。この村で、正体が知れる。ドロテアの顔が、エルシラの白い頬が、まぶたの裏をよぎった。わたしのせいで――喉の奥がひきつって、弁解の言葉すら、出てこない。
ヤナは、握った手を離さなかった。
濁った目が、見えぬまま、まっすぐにマリカのほうを向いていた。そして、しわに埋もれた口もとが、やわらかくほどけた。
「……でも、祈る人の手だ」
マリカの目の奥が、いっぺんに熱くなった。
「あたしゃね、目が見えんぶん、手で人を見るのさ。着物の上からじゃ分からんことも、手を握りゃ分かる。この手はね、人の世話ばっかりしてきた手だよ。爪の先まで、他人のために減らしてきた手だ。聖女さまの、飾りの手じゃない」老婆は、マリカの手の甲を、あやすようになでた。「顔は借り物でもね。この手は、あんたのだ」
マリカは、うつむいたまま、うなずくことしか、できなかった。
――前世で、マリカは長いあいだ、病人の世話をする仕事をしていた。看護の助手だった。夜どおし白い廊下を歩き、人の痛みのそばにいて、代わりに水を替え、代わりに背をさすった。誰かの代わりに、が口ぐせだった。自分の名で呼ばれたことは、ついぞなかった。「そこの人」「助手さん」。そうやって呼ばれて、そうやって働いて、ある冬の明け方、廊下のはしで倒れて――そこで、記憶は途切れている。
気がつけば、この世界の赤子だった。育って、侍女になり、聖女によく似ているというだけで、また誰かの代わりに立たされた。二つの生を通して、マリカは一度も、自分のしたことを自分のものにしたことが、なかった。
巡礼は、村から村へと続いた。
ある村では、雪解けの濁流に、畑を根こそぎ流された農夫に会った。男は、泥をかぶった苗の残りを握りしめたまま、削られた川べりを、ぼんやりと見ていた。マリカは面帕の内から、その隣に腰を下ろした。かける言葉は、持っていなかった。ただ、日が暮れるまで、男の話を聞いた。去年の秋にまいた種のこと。流された畑のいちばん端に植えた、幼い娘の好きな豆のこと。話し終えると、男は洟をすすって、はじめて、少しだけ笑った。聞いてもらえた、と言った。胸の内をひとつ、誰かに聞いてもらえただけで、人はいくらか軽くなる。それを、マリカは知っていた。
そのたびに、マリカの手は、聖典の外へこぼれた。産み月をこじらせた母の背をさすり、腰を悪くした婆の湿布を替えた。手を振るだけの務めは、いつのまにか、手を動かす務めになっていた。村人たちは、この聖女さまは違う、と口々に言った。祈るだけでなく、そばに来てくださる、と。
噂は、隊列の中にも、回りはじめた。
ある村を出る朝、水を汲みに立ったマリカを、レンが人目を避けて呼び止めた。えくぼは、消えていた。
「頼むから、無茶をするな」声は低いのに、切羽詰まっていた。「聖女さまが病人の枕もとで水を替えるなんて、誰かが、変だと気づく。面帕がずれて、素顔が知れたら……お前、ただの侍女じゃ済まないんだぞ」
「分かってる」
「分かってない」レンは、めずらしく声を荒らげかけて、のみこんだ。「……お前は、昔からそうだ。困ってる奴を見ると、自分のことを後回しにする。孤児院でも、いつも小さい子に粥を分けて、自分は腹をすかせてた」
マリカは、うつむいた。
「俺は、お前が誰かの代わりに使い潰されるのを、もう見たくないんだ」
その一言に、マリカは顔を上げられなかった。二つの生を通して、自分の身を案じてくれる声を、こんなに近くで聞いたことが、あっただろうか。前世で自分の名を呼ぶ者はなく、今世でも、みな「聖女さま」と、面帕の外側だけを見た。ただひとり、レンだけが、面帕の内側の、くたびれた自分を見ていた。それが、うれしくて、そして少しだけ、苦しかった。
「ごめんね」とだけ、マリカは言った。無茶をやめる、とは、言えなかった。
その夜、ドロテアが、マリカの前に立った。声を荒らげはしない。それがかえって、鋼のように冷たかった。
「あなたは、務めを踏み外しています」典礼長は言った。「病人の枕もとで水を替える。それは、侍女のすることです。聖女がすることでは、ありません。聖女は祈る。手を汚すのは、あなたのような者の役目でしょう。……なぜ、分をわきまえない」
「あの人たちは、祈りの言葉より先に、水を欲しがっていました」
「聖女に、そんな理屈は要りません」ドロテアの目が、面帕の奥のマリカを射た。「よいですか。あなたの仕事は、顔です。あなたが手を動かすたび、聖女という顔にひびが入る。この巡礼の意味が、崩れるのです」
マリカは、何も言い返せなかった。典礼長の言うことは、正しい。正しいのに、あの咳をしていた老人の、水を飲んだあとの顔が、どうしても消えてくれなかった。
巡礼の最終日は、川の下流に決まっていた。
この春、村人総出で架けた新しい橋の、落成の式があるのだという。増水のたびに渡し場が流され、幾人もの子が川にさらわれてきた、あの深い流れに――ようやく橋が架かる。聖女さまがその渡り初めをしてくださるなら、これほどの誉れはない。村人たちはそう言って、目を輝かせた。
その川が、雪解けでいちばん太る季節だということを、マリカだけが、胸の奥で気にかけていた。
◆三 面帕を捨てる
落成の朝、川べりには、巡礼のあいだで最も多くの人が集まっていた。
いくつもの村から、人が下りてきた。ヤナの村の織り仲間の姿もあった。真新しい木の橋が、濁って渦を巻く流れの上に、白い骨のように渡されている。水は橋げたの、すぐ下まで来ていた。
この川で、これまで幾人もの子がさらわれてきたのだと、村長が口上の中で語った。渡し場の板は毎年のように流され、そのたびに、対岸へ渡ろうとした者が水にのまれた。だからこそ、村じゅうが総出で、この橋を架けたのだ。もう誰も、あの流れに落ちなくてすむように。老いた村長の声は、途中で何度も詰まった。
護衛隊長は、いつにも増して張りつめていた。人が多い。増水は、雪解けの絶頂にある。隊長は幾度も繰り返した。聖女さまを、水ぎわに近づけるな、と。列のはずれで、レンが、青ざめた顔でマリカを見ていた。何かを察したように、その手が、そわそわと剣の帯のあたりをさまよっていた。
マリカは、橋のたもとで面帕を上げ、渡り初めの祈りを唱えた。数百の顔が、白い聖女を見上げていた。手を振れば、歓声が返る。顔を見せる。それが今日の、最後の務めだった。あと少しで、この巡礼は終わる。誰にも正体を知られぬまま、マリカはまた、名もない侍女に戻れる。
歓声の中に、細い悲鳴が混じったのは、そのときだった。
橋の欄干のあいだをくぐって、小さな子が、川をのぞきこんでいた。渡り初めの列に紛れていた、幼子だ。母親が名を呼ぶより早く、ぬかるんだ足が、すべった。
水音は、ひとつだった。
子どもの姿が、白い泡の中に消えた。
一拍、誰も動かなかった。数百の人が、水面を見つめたまま、凍りついた。護衛隊長でさえ、剣の柄に手をかけたまま、棒立ちだった。この流れに飛び込むことの意味を、川べりの誰もが知っていた。あの深さ、あの速さ。入れば、戻らない。
マリカの足が、水ぎわへ動いた。そして、止まった。
――飛び込めば、正体が知れる。
濡れた面帕は、顔に貼りつく。素顔がさらされる。聖女は偽物だったと知れれば、教会は百年の恥をかく。エルシラの立場も危うい。ドロテアの首も飛ぶ。わたしの逸脱が、あの人たちを、みんな壊す。ここで顔さえ守って立っていれば、誰も傷つかずに、巡礼は終わるのに。
水面で、小さな手が一度、宙をかいた。
マリカの体が、前へ出た。その腕を、鋼のような手がつかんだ。護衛隊長だった。
「なりませぬ! 聖女さまを、水ぎわに近づけるなと――!」
隊長の顔は、真っ青だった。職務が、そう叫ばせていた。聖女の身に万一があれば、この男の首も飛ぶ。つかむ指が、マリカの腕に食い込んだ。
マリカは、面帕の内から、まっすぐに隊長を見た。
「わたしは、聖女ではありません」
つかむ手が、ほんの一瞬、ゆるんだ。その隙に、マリカは腕を振りほどいた。
そして、面帕をむしり取った。
白い布が、風にさらわれて、川面へ落ちていく。それを見届けもせず、マリカはもう、濁流の中にいた。冷たさが、骨まで一息に噛みついた。水は思うより速く、体を下流へ引く。
息を止め、目を開けて、流れの底の白いものへ手を伸ばす。
――あごを上げろ。
声が、二つ、重なって聞こえた。ひとつは前世の、白い廊下でしみついた看護の声。溺れる者に正面からつかまれるな、背後から脇の下へ腕を回せ、あごを上げさせろ。もうひとつは、あの夏の浅い流れで、幾度もマリカを引き上げた、幼い日のレンの声だった。あごを上げろ。お前は、すぐ下を向くから。
指先が、小さな腕をとらえた。
引き寄せ、抱えこみ、水を蹴る。子どものあごを、水の上へ押し上げる。二人分の重みが、川底へ引きずりこもうとする。それでもマリカは、その顔だけは沈めまいと、蹴り続けた。
岸で、いくつもの手が、差し出されていた。
そのいちばん先に、日に焼けた腕があった。首の後ろをかく、あの手だった。レンが、隊列を飛び出し、腰まで水に浸かって、身を乗り出していた。青ざめた顔で、ただマリカの名を――聖女さまではなく、マリカの名を、叫んでいた。
その手を、つかんだ。
引き上げられ、泥の上に、子どもごと転がり出た。
子どもが、火のついたように泣きだした。
泣くということは、息をしている。マリカは自分の呼吸も忘れて、その小さな胸が上下するのを、ただ見つめた。生きている。母親が転がるように駆け寄り、我が子をかき抱いて、崩れるように膝を折った。
濡れた前髪が、マリカの顔に貼りついていた。
面帕は、もうない。川べりの数百の目が、聖女であったはずのその顔を、まともに見ていた。若い、下ばたらきの娘の顔。誰も見たことのない、聖女ではない顔。
ざわめきが、波のように広がった。聖女さまじゃない。偽物だ。あの顔は――。対岸で、ドロテアが青ざめて、立ちすくんでいた。護衛隊長の顔から、血の気が引いていく。マリカは泥の中に座り込んだまま、震えていた。とうとう、壊してしまった。
最初に膝を折ったのは、子を抱いた母親だった。
泥まみれの娘に向かって、母は幾度も、幾度も頭を下げた。聖女さまでなくてもいい。この子を、拾ってくださった。人垣の中から、しわがれた声が上がった。ヤナの村の織り仲間だった。
「あの手を、あたしゃ知ってる。あの婆さまが言ってた。祈る人の手だって!」
声が、伝わっていく。祈る人の手。ひとり、またひとり、川べりで膝を折る者が、増えていった。嘲りかけた口が、閉じていく。
さっきマリカの腕をつかんだ護衛隊長は、いつのまにか、剣の柄から手を離していた。青ざめていた顔に、いまは別の色があった。職務の命じるまま、ほろを下ろし、人を遠ざけ、聖女を守ることだけを考えてきた男が、泥まみれの下ばたらきの娘から、目を離せずにいた。守るべきものが何だったのか、その顔は、まだうまくのみ込めずにいるようだった。
その静けさを、ひづめの音が破った。
街道のほうから、一台の馬車が、無理を押して駆けてくる。泥をはね上げ、車体をきしませて、川べりの手前で止まった。転げるように降りてきたのは――白い頬をした、もうひとりの聖女だった。
エルシラだった。
落成の式に、病を押して発ったのだという。到着が、間に合ってしまった。侍女に支えられ、足をもつれさせながら、それでも聖女は、自分の足で人々の前に立った。数百の目が、二人の同じ顔のあいだで、揺れた。どちらが、本物なのか。
エルシラは、泥にまみれたマリカを見下ろした。それから、集まった人々を、ゆっくりと見渡した。青ざめた唇が、しかし、震えずに開いた。
「わたしの祈りは、この人が運んでくれました」
澄んだ声が、川の音の上を渡った。
「わたしは体が弱く、この足で村々をまわることが、できません。けれどわたしの祈りは、この人の手が、あなたたちのもとへ運んでくれた。枕もとへ、産屋へ、この川の底へ。――祈りを運ぶ手に、本物も偽物も、ありません」
誰も、声を発しなかった。
エルシラはマリカのそばまで歩み寄ると、その泥に汚れた手を取り、両手で包んだ。かつてマリカが、この人の冷たい手を包んだのと、同じように。
「顔を見せられない聖女は、聖女なのか。ずっと、そう思っていました」エルシラは、マリカだけに聞こえる声で言った。「答えを、あなたが連れてきてくれた。……ありがとう」
対岸で、ドロテアが、深く、深く頭を垂れた。制度の顔をした女が、その日はじめて、ひとりの人として。
◆四 自分の名前で
教会は、マリカを罰さなかった。
罰するどころでは、なかった。あの日、川べりにいた数百の人の口が、聖都までその話を運んでいた。聖女の祈りを、その手で村々へ運んだ娘の話を。ドロテアは、教会の面目を守るためにこそ、新しい席をつくらねばならなかった。そして、つくった席を前にして、彼女はもう、それを面目のためだとは言わなかった。
「代理巡礼の侍、という役目を設けます」
聖都の一室で、ドロテアはマリカに告げた。声から、あの鋼の冷たさは、消えていた。
「聖女さまの祈りを、聖女さまの行けない場所へ、あなたが運ぶ。……手を動かすことを、務めと呼びます。顔ではなく、手を。わたしは、間違っていました」
その隣で、エルシラが笑っていた。前より少しだけ、頬に色があった。
「今度は、二人で立てるわね」聖女は言った。「わたしが祈り、あなたが運ぶ。――でも、覚えておいて。あなたはもう、誰かの代わりではないの」
マリカは、うまく返事ができなかった。
「それに」と、エルシラは少し、いたずらっぽく笑った。「あなたの巡礼には、護衛がつくのですって。志願した衛士が、ひとりいたと隊長が言っていたわ。……ずいぶん、あなたのことを気にかけている若者だそうよ」
マリカの頬が、面帕もないのに、熱くなった。
自分のしたことを、自分のものにしたい。二つの生を通して、ずっとそう願ってきた。その願いが、こんな形で叶うとは、思ってもみなかった。目もとが熱くなって、マリカは深く頭を下げた。今度は、面帕のない顔で。
夏の入り口に、マリカはひとり、ヤナの村を再び訪ねた。
機の音は、あの日のままだった。とんとん、とんとん。老婆はマリカの足音を聞くと、手を止め、しわの中で笑った。
「来たね。手の娘」
ヤナは、織り上げたばかりの肩掛けを、マリカの手に握らせた。あの日、機に張られていた織りかけが、一枚の布になっていた。マリカは指で、織り目をたどった。目の見えぬ老婆が、手の記憶だけで織り込んだ、いびつな文字。
――マリカ。
自分の名が、そこにあった。
「顔は借り物でも、名前は借り物じゃないだろ」ヤナは言った。「あんたのしたことは、あんたのものだ。だからね、名前を入れといた。誰かの代わりじゃない、あんたのために」
肩掛けを胸に抱いて、マリカは声もなく、しばらく泣いた。
村を出るとき、朝の巡礼路が、川に沿ってまっすぐ延びていた。増水はもう引きはじめ、水は日ごとに澄んでいく。新しい橋の上を、子どもたちが駆けていく。あの日さらわれかけた子も、その中にいた。
巡礼路の先で、日に焼けた若い衛士が、待っていた。
マリカが肩掛けを羽織って歩きだすと、レンは首の後ろをかいて、それから、いつかの夏のように笑った。えくぼが、朝の光に揺れた。
「行こうか、マリカ」
借り物の顔ではなく、自分の名で呼ばれて、マリカは、うなずいた。ヤナの肩掛けを、肩にかけて。借り物の白い衣ではない、自分の名の織られた布を。
顔は、借り物だった。それでもあの日、川へ飛びこんだのは、まぎれもなく自分の手だった。祈りは、借り物の顔でも本物になる。届けようとする手が、本物であるかぎり。
朝の光の中を、マリカは自分の名前で、次の村へと歩きだした。となりに、もう一組の足音を、連れて。




