4.
最終話
「いいんですか、追わなくって」
客との距離感を弁えたバーテンダーだと思っていたのに、今日はどうしたのだろう。
「大丈夫です。いつものことなんで」
「さっき仰ってた、蟹沢さんって方ですが」
バーテンダーがチェイサーの水を交換しながら堅人に顔を寄せた。
一瞬、誰のことかわからなかった。
「よくお見えになるんです」
蟹沢さんは研究室の助手だし……、別に飲みに来てたっておかしくない。
「よく、多賀野さんとご一緒に、お見えになるんです」
瑞奈と?
ていうか瑞奈のやつ、卒業して一年以上経つのに、まだ蟹沢助手と接点があるんだ……。
堅人が顔を上げると、彼は憐れむような表情で言葉を継いだ。
「蟹沢さん、もうじき助教授になられるそうですね……。それで、先日ここで、お祝いをされたんですが、そのときに聞こえてしまったんです。その、蟹沢さんが多賀野さんにプロポーズしているのを」
うそだろ。
瑞奈はそんなこと、ひとことも言ってなかった。黙って、同時に付き合ってたってこと?
瑞奈は何て答えたんだろう、という疑問が顔に出ていたのだろうか。バーテンダーは続きを話し始めた。
「多賀野さん仰ってました。少し、考えさせてほしい、と」
くやしい、というより情けなくなった。
これが、悲しい、という感情だろうか。でも今さら涙が出たってしょうがないし、それにやっぱり出ないし。
「今追いかければ間に合うと思いますよ。多賀野さん、迷ってたようですから、まだ、そう遠くには」
行くもんか。
二股かけられてたなんて冗談じゃない。オレにだってプライドが……。
必死に感情を抑え込んでいたら胸が苦しくなった。
心が揺れた。
揺さぶられた。
だって。
瑞奈の代わりはいない。瑞奈じゃなきゃだめなんだ!
よし、追いかけよう、と立ち上がった瞬間に涙がこぼれた。そして乱暴に開けたドアの向こうに瑞奈が立っていた。
「よっしゃあ! 大成功」
破顔した瑞奈は膝を曲げ、両手の拳を何度も振っていた。そして照れくさそうに顔を手で隠している堅人の泣き顔に向かって「記念、記念」と言ってスマホのシャッターを切った。
「マスター、ご協力ありがとうございました。お陰さまで」
瑞奈は堅人の腕を取ると、涙時計を確認し、
「はあ~い! 涙ログ、しっかり残ってます。大成功」
と宣言した。
お祝い、ということでシャンパンが開けられた。
「ケン君おめでとう。これで助成金もばっちりだよね。いやぁそれにしても今回は苦労したわ。あたしさっき、くすぐったじゃん。あれ振りだったんだよ、笑いと涙の落差効果っていうの。ああでも、次はどうしよっか。ねえねえ、あたしが死んじゃうってのはどうかな」
「うわぁやめて、今から言わないで!」
おどけた返しをしながらも、堅人は感動していた。感動のあまり、人目も憚らずに瑞奈を抱きしめていた。
堅人は確信していた。
きっともう、大丈夫だ。
元から感情がないわけじゃない。なきゃ好きになったりしないし、表現が下手なだけだ。そこを瑞奈は修復してくれたのだ。
抱きしめる手に、思わず力がこもってしまった。
「ケン君痛いよぉ」という声に少し手を緩め、瑞奈の柔らかい髪に頬を当てた。
そして耳元に口を寄せ、
「ありがとう瑞奈、愛してるよ、心から」
と囁いた。
もはや止まらなくなった涙が、瑞奈の背中に回した左手首にぽとりと落ちた。
涙時計が涙で濡れた。
《了》
堅人、よかったな!




