愚かな男
「はあ、もういいから、とにかく中に入れ。それから何があったか全部話せ。」
先ほどの様子からして、モニカが詰められていたのは明白だった。いつもの無表情ではあるが心細かったに違いない。リチャードはモニカの味方をするべく助けたつもりだった。
「いえ、何かわたくしに、聞きたいことがあるとかで、お呼び出しされたのですが、内容を聞く前に、こちらに来ましたので、本当に報告するような、ことが、ございません。わたくしといたしましても、グリーン侯爵令嬢と、お話しする良い機会であると、思っておりましたので、もう一度、皆様と、お話をしてきたいと、考えます。」
「一人を数人で取り囲んで、『話し合い』か?とてもそうには見えなかった。」
モニカの危機感の無さには呆れてしまう。
「はい。一度の話し合いで、済みますので、グループ全員いらっしゃると、お話が一回で済んで、ようございます。」
まったくリチャードの話を聞いてないようだ。これは早く椅子に座らせて、わかるまで教えなければならない。そう考えまた手を差し出すと、モニカの足は2歩下がった。先ほどから顔を少しもあげないのは、リチャードの足元と影を見ているからだった。手を伸ばせばまた彼女は下がった。なぜそう頑ななのか。
「いいから、さっさと執務室に入れ。」
煮え切らない彼女に語気を強めて言い放った。肩を少しびくりとさせた。
「申し訳、ありません。」
「だまれ。さっさと入れと言っている。」
「はあ・・・はあ・・・」
一向に動かないモニカに、近づけもせず、イライラしながら彼女を観察した。学園に入学してからただの一度も報告の無かった、過呼吸になっていた。ああ確か、急な運動が良くないんだった。モニカは半ば小走りで、自分について来ていたのだ。口元をおさえ、震える肩が頼りなく見えた。忘れていたわけではない。たかがこのくらいで、モニカの呼吸が乱れるとは思わなかっただけだ。
「保険、室に、行きます。」
とぎれとぎれに聞こえてきた。当然付き添うつもりだった。
「御前、失礼します。」
そのまま後ずさって立ち去ろうとしたため、手を伸ばした。
「待て。」
「ひい!」
それは短い悲鳴だった。そして久しぶりに目が合った。脂汗を額にかき、目を大きく開け、モニカはまた距離を取った。
避けられたのだ。
どくんと、急に自分の耳から血液の脈動の音を聞いた。
なぜ?
素朴な疑問だけが、頭にぽっかりと浮かんでいた。先ほどから後退っているのもリチャードから逃れるため。しかしまったく身に覚えがなかった。
なぜ、モニカは自分の手を避けるのだろう。なぜ、手の届かない距離を取るのだろう。なぜ、執務室に入れと言っているのにさっさと入らないのだろう。言うことを何一つ聞かないモニカにイライラが募っていく。相手がモニカで無かったらとっくに見捨てているというのに。
「あの、失礼します。」
なのに頑なにモニカは言うことを聞かない。
「なんでだ、私も行くぞ。」
「結構ですわ。どうぞ執務にお戻りください。」
「私について来てほしくない理由を話せ。本日の執務は終わっている。あとは書類を持って帰るだけだ。公務も入っていない。」
「すぐ、収まるのですが、過呼吸になったら保健室に、報告に行かなければならないのです。それだけ、ですので。」
「それに、私がついて行ってはいけない理由は何だ?」
半ば腹立ちまぎれに吐き捨てれば、モニカはまたびくりとした。
「それは、私が、第三王子殿下のことが、ニガテ、だからです。」
一度言われて頭に内容が入ってこない、そんな経験は初めてだった。
モニカが私のことがニガテ。
そんなこと感じたことは今まで一度もなかった。モニカは何か意見があればはっきり言うほうだ。確かに部屋で本を読むのが好きなのは知っていたが、いつも外での遊びに付き合ってくれていたし、それについて何か言われたことはなかった。モニカが嫌なら、リチャードにはっきり言うはずだ。では、何が・・・。
「どこがニガテなんだ?」
本当に心当たりがない。考えを巡らせて昔を思い返してみても、モニカに何か不満があるようには見えなかった。モニカはいうなれば、はっきり物事を言う、母上と同じタイプだ。だから二人がぶつからないように気を付けていた。母上から不興を買ったってなにもいいことはない。
「怖い、ところ、です。」
言いにくそうなモニカに、また心当たりがなかった。怖い。そんなに恐怖を与えただろうか?怖がらせることをした覚えも全くなかった。むしろモニカには意識して優しく接していた記憶しかない。
「どこが怖いんだ?」
「今です。」
ますます意味が分からなかった。
「身に覚えがない。はっきり言え。」
モニカは今まで胸に抱いていた腕の裾を少しまくった。先ほどリチャードが握ったために赤くなった手首があった。あんな跡になるとは、思わなかった。小さいころ同じ事案で、姉に怒られたときのことが記憶から呼び覚まされた。
「暴力をふるっています。無自覚に。シエナ様には、手を取っていいかと聞いてからになさってくださいまし。」
「すまない。気が付かなかった。」
これはリチャードが悪い。力加減は子供の頃に出来るようになったと思っていたのに。モニカを前にするとつい強く握ってしまっていたようだった。
「今までも無自覚に、私に、怪我をさせていたことが、あります。」
「なんで言わなかった?」
「その都度言いましたが、よくお分かりで無かったようです。」
そんな頻度で怪我をさせていた?全く覚えがない。痛そうなそぶりをしていたか、必死に思い出そうとしていた。
「ダンスの練習の時でしょうか。足を捻ってしまって、座り込んでしまい、手を離してほしいと言ったのですが、聞き入れてもらえませんでした。」
4年前のことだろうか。あの時は毎日が楽しくて、大切な思い出だった。懐かしさに胸を締め付けられ、手をそっと胸に乗せた。
「私に怪我をさせたのは、この際、良いのです。シエナ様にそのようになさらないとお約束してくださるのなら。」
何が良いのか。怪我をした本人が何を言っているのか。良いわけがない。
「力加減がうまくいかなかった、すまなかった。」
「もういいのです。わたくしの話を聞いておりました?」
「聞いているから、謝っているんだろう。」
「いえ、わたくしは、お約束して、ほしかったのですが。」
約束?いったいそれが何になるというんだ。怪我をさせた過去は変わらないというのに。
「シエナに、怪我をさせないことをか?」
「はい。」
「わかった。モニカとシエナにもう怪我はさせない。」
「わたくしはいいのですが。・・・まあ、いいです。それで。」
シエナに怪我などさせたことはないはずだ。彼女は何かあったら大声で言うはずだし、ずっと根に持つタイプだ。絶対うるさく言ってくるはず。
「お詫びに何かプレゼントでも送りたいのだが。」
「結構ですわ。わたくしは失礼いたします。」
いつの間にか整っていた呼吸で、モニカはまたここを去ろうとしていた。小さいころのモニカはもう少し素直について来てくれたのに、そして思い出そうとして、あることに気が付いた。モニカと視線を合わせたことが、あまりにも少ないことに。
「まだ、怒っているのか?」
そう吐き出すように問えば、感情の起伏の無い声が返ってきた。
「いえ、わたくしは怒ってなどおりません。恐怖しか、感じておりませんわ。ご容赦くださいまし。」
髪の隙間から除く瞳は、リチャードが二の句を告げずにいる間に逸らされて、階段を下りる音とともに去って行った。私はいったい、どこで、何を、間違ったのだろう。シエナの言っていたことは的を得ていたということだ。
『モニカは、リチャードのこと、なんとも思ってないわ。好きか嫌いかで言えば、たぶん嫌いなほうに入っていると思う。』




