海わたりの蝶
美しい銀色の髪が、きらりと輝く三角形のオパールを長椅子に座ってじっと眺めていた。ここは公爵家別館の庭に面した廊下だ。長雨に濡れないように屋根が張り出していた。暖かくなってきたと言ってもまだ6月。シエナ様にブランケットを取りに行って正解だった。葉に落ちる雨音が耳に心地いい。咲き始めた藤の間からミツバチが顔を出していた。その下にある小さな池には、藤の間から零れ落ちた雨水が波紋を作っていた。今は見えないが実はこの池には金魚が放してある。実は前世から唯一飼ったことのある生き物が金魚だった。金魚を眺めている間だけ、いやなことを忘れられた。
そうだ、雨の日が好きだった。父の気まぐれに付き合うこともしなくてよかった。部屋の隅で静かに金魚を眺めていれば、その日はなんとが過ごすことができた。母が帰ってくるまでの辛抱だ。ずっと雨が降ればいいのに。
「シエナ様、これをお使いください。」
「…あ、モニカ。ありがとう。って、なんで一枚なのよ。もう、こっちに寄ってよ。」
シエナ様の膝にかけた折り畳まれていたブランケットを、開いてぺったりとくっついて、私の膝にもかけた。私が寒くないように、なんてお優しいの…!
「あの池、金魚がいたのね、気が付かなかったわ。」
「雨ですのに、見に行かれたんですか?」
「…、いえ、そうね、濡れないように行ったの。」
「わたくしは金魚が好きなんですわ。朝夕と餌をやっております。…今日は寒いようであまり動きませんが、暖かい日はわたくしが寄っていくと餌をもらいに水面に上って来てくれるんですわ。」
水面の餌をパクパクする姿がなんとも愛らしい。
「金魚って、私は初めて見たわ。こんな色でもっと大きくて角の生えている奴なら、実家の近くの湖にいたけど。確かルビーピラニアとか言ったかしら?私より大きいのよ。」
懐かしそうに手を使って大きさを示してくれていた。楽しそうで私もうれしい。
「シエナ様はわたくしの知らないことを、本当にたくさんご存知ですね。どんなお魚なのでしょう?ピラニアというからには、人を襲ってきそうですね。」
前世ではアマゾンに生息していた凶暴な魚が、意外と身近にいるのは興味深い。思えば魚全般を図鑑で見るのが好きだった。最近はそういう時間がないが、せっかく魔物のいる世界に生まれたのだから、珍しい魚を見てみるのも面白そうだ。今度図書館に行って図鑑を借りてこよう。
「うろこがルビーみたいに赤くて、牙が私の指と同じ長さの、凶暴なやつよ。普段は水底に沈んでるんだけど、産卵時期になると狂暴化して、浅瀬で卵を産むんだって、お父さんが言ってた。たまに人を襲ったりもするの。」
「なるほど、そういう時期に狂暴化するのはよくありますものね。」
「うん、地元の人はこの時期近寄らないし、領主様がその湖への道を閉鎖するんだけどね。観光地にもなっている湖だから、止めても行く旅行者の人が毎年何人か犠牲になってるよ。」
「ちゃんと調べてから行かなければなりませんね。しかしうろこがルビーとは、美しい魚ですね。」
「顔は結構ぶちゃいくよ。」
「俄然見てみたくなりました。」
「もう、モニカって変わってるのね。でもあの湖はきれいなところだから、ぜひ来てほしいわ。」
「いいですね、いつか、いつか一緒に参りましょうね。」
「…うん。一緒に行きましょうね。じゃあ今度はモニカが私に教えてほしいわ。」
「おや、なんでしょう。」
シエナ様が取り出したのは本だ。表紙に綺麗なインディゴ蝶があしらわれていた。
「この蝶々って、どこから来るの?今度お城に泊まりで見に行くでしょう?確かリチャード様のお誕生日パーティの日に、蝶が来る国、と言っていた気がしたわ。気になっていたのに忘れてて、本を見て思い出したの。」
そうだ、次の次のお茶会はお城に泊まらなければならなかった。思い出して一気に胃のあたりがムカムカし出した。緊張する。う~ん、行きたくない…。しかも7月頭の帰省と日程がキツキツなのだ。なおさら面倒くさい。
切り替えて蝶のことだ。レスト王国の王女殿下のご紹介で、そういえばそう言っていた気がした。しかし蝶の生態にはあまり詳しくない。そういえば別館の図書館に昆虫図鑑があった筈だ。
「ああ、わたくしも詳しくは…、しかし図鑑ならありますから、一緒に調べてみませんか?」
「一緒に?いいの?」
「はい。二階の小さな図書館に昆虫図鑑がありますわ。」
一緒に図書館へと向かう。今思えば、この別館の図書館は小さいとはいえちゃんと勉強だったり、暇つぶし程度の読み物がそろえられていた。内容も子供の私にわかるものだ。きっと公爵閣下と夫人の配慮だろう。じんわり心が温かくなった。一室に本ばかりのここは私のお気に入りだ。シエナ様と図鑑を開き、地図を開いた。
「こちら側が国、クロス王国ですね。北に行ってクラブ山脈を超えたところがシエナ様のご実家、こちら南がバージェス領です。」
「モニカの実家はどのへんなの?」
「はいバージェス領の最南端、こちらですね。あら、グロリア灯台が載っていますね。ここは東に霧の海、西はレスト湾。この湾を横断するとレスト王国につきます。」
「えっと、インディゴ蝶はレスト王国、ライト王国で生まれ、3か月かけクロス王国の王都の北のクラブ山脈にて卵を産み、冬になる前に成虫へ成長したのち、ライト王国に向かう。その後ライト王国でまた卵を産んで、今度は春風に乗ってレスト王国とクロス王国にわたる。クロス王国についたものはそのままクラブ山脈にて卵を産む。風の強さによってレスト王国までついた蝶は、レスト王国内で卵を産む。」
「すごい生態ですね。あの、海を突っ切ってくるんですか?!あの年中晴れ間の無い、霧の海を…。」
霧の海もレスト湾もそうだが、この世界の海の上は基本、霧が出ているのか常だ。岸から5キロほど行くと霧が出てきた。羅針盤はあれど太陽の位置さえぼんやりする海上は、自分の位置さえままならない。湾を、海を突っ切る、という航路は危険だ。ただでさえ海上海中空の上は魔物の領分なのだ。王宮にいるペガサス航空団ならばわからないが、それだけ横断にはリスクが伴う。海を行くのは沿岸に沿う航路で行かなければならない。国際条約でそう決まっているが、それでも海魔に襲われて毎年幾艘もの船が沈んでいた。それらはその条約違反の違法航路船、密輸船、海賊船が多かった。しかし海上輸送は危険も多いがリターンも多く、挑む人たちも少なくない。
「インディゴ蝶は休まず海を渡り切る能力があり、方角も迷ったりすることことはないって。えっと、昔の船乗りは時期になると、蝶とともに海を渡った…。」
「なるほど、岩礁と魔物に気を付ければ横断も可能なんですね。」
「海は怖いわ。私は山育ちだもの。」
「あら、砂浜なら魔物は来ませんよ。それに沖に行かなければ至って穏やかですわ。」
「モニカは港町生まれなのね。さっき言っていたグロリア灯台のところよね。」
「はい、海の見えるところに住んでおりました。グロリア灯台はまさに、わたくしの祖父が私財をはたいて立てた灯台で、現灯台守はわたくしの姉夫婦ですわ。」
「やっぱりそうなのね、すごいわモニカのおじい様!」
「そうですわね。」
その時の借金がまだ払い終わっていないので、父が払っていることは黙っておこう。
「いつかわたくしの故郷にも、シエナ様をご招待いたしますわ。その時は一緒に白い砂浜を歩きましょう。きっと楽しいですわ。きれいな貝殻がたくさん落ちておりますの。」
「いいわね、楽しそう。…海は怖いけど、一度は行ってみたいのよね。だってとても綺麗だって聞いたから。」
「はい是非に。」




