過呼吸
「足をこっちにやるだけだろう、なんでできないんだ?」
私は息を切らしながら第三王子殿下と距離を取るべく手を離した。が、第三王子殿下は背中に回した手を離してくれなかった。汗のひどい手袋を変えたいのだが、どうしたものか。
「すみません。もう一度シャドーをしてきます。」
「すみませんじゃなくて、そうじゃないだろう。一人でやってても出来ないんだから、そんな練習は無駄だろう。二人でやるからほら、手を出せ。」
いや、一人でステップの確認をしたかったのだが、無駄と言い切られてしまってはできない。仕方なく離した手に再び手を乗せた。どのタイミングで行くんだろう。グン、といきなり引っ張られてスタートした。今だったのか、まだ心の準備ができていなかった。速足で第三王子殿下に追いついて、そろそろ曲がるからここらへんで…。
私はやっぱり足が絡まってバランスを崩した。とっさに手を放そうとしたが、がっちり掴まれて離せない。巻き込んでしまったら大変だ。もつれた足で立とうとして足を思いっきりひねった。
「痛い…」
「おい!手を離すなって言っただろう!倒れるじゃないか。」
今は痛くて返せなかった。手を離してくれれば第三王子殿下は倒れないので、離してください…。いまだに手を離さないこのひとは一体何なんだろう…。掴まれていない手で、足の様子を確認した。どうやら大したことはないようだ。殿下の握っている手に体重をかけないように、何とか立ち上がった。痛みも引いてきた。指先の震えはダンスの前からだし、息はいまだに上っていたが、いつものことだ。心臓も呼吸と同じ速さでなっていた。
「ハンカチを取り出してもよろしいですか?」
手を離してくださいを違う言い方で言ってみたが、第三王子殿下は気づいてくださらなかった。
「出せばいいだろう。」
むすっとした声で言ったので、手を引くとぎゅっと掴まれた。指先の震えが思いっきり伝わってしまっているので、気まずい。ポケットから取れないんですけど…。
「手をお離しいただけますか?」
「嫌だ。」
どうしろというのか。困った。それじゃあ体をどんどん後退していくことにした。第三王子殿下が付いてくるので、そのままトランクのところへ行った。そこまで行くとようやく離してくれた。いったい何なのか。迷惑すぎる。トランクから手袋を取り出して付け替え、ハンカチで汗をぬぐった。まだ春先なのに何なのこの汗の量。気持ち悪い。ひねった足も大丈夫そうだ。
「お待たせいたしました。」
ああ、涼しい顔をしている第三王子殿下の前は気まずい。
「じゃあ初めからやるぞ。まだフロア半周も行ってない。」
1周できる気がしない。隣のフロアではシエナ様とレオン様がくるくるフロアを回っていた。レオン様にはすっかり置いていかれてしまった。
「あの、第三王子殿下。」
「なんだ。」
「わたくしと踊っていると、第三王子殿下のダンスの練習にはなっていないように思うのですが…。」
もともと上手い人なのだからもっと実力の釣り合う人と練習したほうがいいように思う。
「…?練習になっているが?」
「いえ、フロア半周も出来ていませんから、練習になっていないでしょう?…わたくしはもう少し自主練習しますから、第三王子殿下は先生とダンスの練習をされてはいかがですか?」
「それではモニカの練習にならないだろう。ほら、さっさと始めるぞ。」
なんだか言いたいことが全く伝わっていない気がした。もうあきらめて手を重ねた。膝は相変わらずガクガクしていた。立っているだけで精一杯で、足運びなんて二の次だ。倒れないように第三王子殿下のスピードに合わせて小走りになった。
「モニカ遅いぞ。ぐずぐずするな。足運びもめちゃくちゃだ。」
息が上がっているので、ろくにしゃべれない。
「次は左だ。」
言われてもどうしたらいいか分からなかった。1周をぼろぼろの状態で走り抜けた。下を向いて踊れればいいほうで、ほどんどダンスと言える代物ではなかったと思う。
「第三王子殿下、少し私と変わっていただけますか?」
見かねたのか先生がこちらに寄ってきた。止まった瞬間、膝がガクンと折れた。
「なんでだ?」
「…、去年からモニカ嬢と踊っていなかったので、どの程度まで上達したのか、確かめようと思いまして。本日は最初から第三王子殿下とでしたから。」
一瞬言葉に詰まったが、それ以外はいつも通りの先生だった。先生は厳しくも優しい。今もこの申し出が私にとってものすごくありがたかった。心臓と肺を落ち着ける時間が少しだけ欲しかった。
「わかった。」
そう言って私の手を離し、壁際にあったテーブルセットへドカリと腰掛けた。思わずホッと気が抜けた。
「さあお立ちなさい、モニカ嬢。…先ほど足をひねりましたね?大丈夫かしら?」
「はい。」
先生の手につかまり、ゆっくりと立ち上がって、足の確認をした。
「足は大丈夫そうです。」
「念のため、今日はお風呂に入っても、マッサージしたり、お湯につけて温めないこと。いいわね?」
「はい、お気遣いありがとうございます。」
「では、始めましょう。」
先生がすっと手を出し待ってくれていた。私は一呼吸おいて先生の手に重ねた。さあ行くわよ、いち、にい、さん、しい、いち、にい、さん、しい…。
先生と一歩を踏み出し、難なくターンを決めた。リズム通り体を動かし、1周を危なげなく踊り切った。
「はいここで結構よ。前よりずっとスムースに出来ているわ。これと同じことを毎回できるようになれればいいのよ。大丈夫、あなたはちゃんと出来るんだから。」
先生の励ましに少し泣きそうになりながらはい、と返事をしていた。
「ちゃんと出来るじゃないか。なんで私と踊るときはできないんだ?」
こちらに寄ってきた第三王子殿下に心拍数が跳ね上がったのを感じた。
「そうですわね、殿下と踊っているとき、モニカ嬢は下を向いていることが多いわ。きっと殿下の足を踏んだらどうしようて思っているのよね?」
「はい。第三王子殿下にケガをさせてしまっては、事ですから。」
「そんなこと気にするな。踏んだらいい。」
いや、気にするに決まっている。第三王子殿下にケガさせるくらいなら自分がケガしたほうが何倍もいい。ましてや足を踏むなんて恐ろしい。
「いえ、お怪我させられません。」
「大丈夫だって言っているだろう!」
びくりと肩を跳ね上げた。落ち着いていた呼吸がまた激しくなったのと同じように動機も激しくなった。
「大体、レオの足は踏んだんだろ?それと同じでいい。」
レオン様は第三王子殿下のおみ足を踏むくらいなら俺の足を踏んでくださいと言っていたのであって、故意ではないのだが。しかも第三王子殿下を同じ扱いなんてできようものか。なんで何度もそう言っているのに分かってくださらないのか。
「殿下、御身は大事ですわ。モニカ嬢のお気持ちも分かってあげてくださいまし。」
先生がフォローを入れてくれてようやく引き下がってくれた。つまりは第三王子殿下は私の言うことなんて何の価値もないってことだ。なんだか話すのも億劫になってきてしまった。先ほどから深呼吸しても、全然呼吸が整わない。
第三王子殿下がダンスの姿勢を作ったので、そのまま手を乗せた。
(先生と踊った時と同じ、先生と踊った時と同じ…)
しかし全然違うのだ。一歩は大きいし、ターンは力強いし、そして何より、怖い。いつなんどき怒鳴られるかわからない。足を踏んだら?いや、かすったら?もしかしてリズムに遅れたら?さっきからずっとそうだからそろそろ怒鳴られるかも。手を掴まれて身動きができない状態で、いきなり殴られたら防ぎようがないじゃないか。さっきだって怖かった。手を掴まれたまま後ろに倒れたら?
「ひいっ!」
ホールに悲鳴がこだましてしまった。第三王子殿下から一歩離れて、自分の手を強引に引いた。体がガクガク震え出してめまいがした。気持ち悪い。息をしているのに、止まらなかった。足を動かしたような気がする。その場に座り込んで動機のする胸を抑えていた。胸の肺が心臓が痛くて止まってほしかった。周りの声が耳鳴りに消されてなんだか遠くからした。視界に赤と青と黄色と白の虫食いのようなものが、チカチカ遮り蠢いて周りがよく見えない。後頭部がぼんやりして何を考えているのか分からなくなった。呼吸が短くて浅い。この症状なんかみたことがあるきがする。これって…。
「過呼吸ですね。急激な運動をしたり、緊張したりすると息が浅くなって、動機めまい等引き起こす疾患です。」
白衣を着た、落ち着きのある男性に、椅子に座らされて処置を受けていた。
「はい、息をゆっくりするように意識して、はい、吐いて~。」
彼の表情があまりにも動かなく冷静だったため、こちらも冷静になってきた。やっと呼吸が落ち着いてきた。
「ありがとうございます。落ち着きました。」
どうやってこの椅子まで来たか覚えていなかった。何をしていたのかを思い出しつつ周りを見れば少し離れたところに、先生と第三王子殿下、シエナ様とレオン様が立っていた。
「わたくしはなぜここに座っているんでしょう?」
とりあえず目の前の白衣の王宮医師に問いかけてみた。彼は後ろを向くと第三王子殿下がこくりと頷いた。
「モニカが自分で急に走り出して、椅子の近くでうずくまったから、そのままシエナ嬢が座らせたんだ。その間にレオに医師を呼んできてもらって…。」
「まあそうでしたか。お手数おかけいたしました。」
過呼吸というのは聞いたことがあった。確かに症状が一致していた。最近運動もしていないのに呼吸が荒くなっていたのはそのせいか。そういえばダンスの練習中ずっと呼吸がしづらく、動悸が激しかった。
「そういう症状が出た場合、どのように対処したらよいですか?」
「そうですね、さっきやったみたいに、ゆっくり呼吸を意識して、ゆっくり吐き出すというのがいいと思います。」
なるほどあれなら一人でできそうだ。
「それよりも、昨日の夜はよく眠れましたか?」
「実は昨日はあまり眠れませんでした。」
そりゃあ待ちに待った新刊小説が発売されて、面白過ぎて上巻中巻を見返して、小説のこと考えていたらいつの間にか朝だっただけだが。昼間に本を読めないから睡眠時間を削っていたことは確かだった。
「何かお悩みでもあるんですか?心的ストレスによっても出たりします。それから運動不足によるものかもしれませんが。」
心的ストレスにはあちらにおわす第三王子殿下だろうが、そんなこと言ったら何されるか分かったものではい。
「睡眠不足と運動不足でしょう。きっとたぶん。」
最後だけ小声で言うと、医師は何かを察したのか、そうかもしれませんね、とだけ言った。
「ゆっくりお風呂に入ったり、リラックスするのも効果があります。好きなものを食べたり、アロマを焚いたり、音楽を聴いたり。」
「わかりました。参考にさせていただきます。」
そこで私の近くにシエナ様が寄ってきていたのが目に入った。私は居住まいを正した。
「お医者様、モニカは入院になるの?悪い病気なの?」
目の中に涙を一杯にためたシエナ様が、か細い声でそう言った。
「大丈夫ですわシエナ様!もうこの通りすっかり治りました。」
「だってモニカ、私と初めて会った時、いきなり気を失ったのよ。何か悪い病気かもしれないじゃない!ああもう、モニカはあれから元気だったから忘れてたわ!叔父様も叔母様もいっつもモニカの体調を気にしていたのに!私がもっとしっかりしていれば!」
「シエナ様…!?大丈夫ですって、対処法も予防もお聞きしましたから…。」
「そうですね、日ごろの疲れが出てしまったのでしょう。対処法をしっかりしていれば、また過呼吸に陥っても、呼吸を戻すことができますから。」
「本当に大丈夫なんだろうな?」
今度は第三王子殿下が割って入って来た。びっくりしてまた呼吸が早くなった。呼吸を意識してゆっくりとした。医師の方が背中をポンポンたたいてリズムを取ってくれた。
「大丈夫ですよ。あのまま放っておいたら呼吸がうまくできずに、気を失っていたかもしれませんが、公爵令嬢がそうそうお一人になる機会なんてないでしょうし。」
一同、それはそうかみたいな空気になっているが、私は公爵令嬢としては一人になる機会があるほうだが、黙っておこう。あのままではまずいというのは覚えておくべきだ。やっと落ち着いてきた。
「ご心配おかけいたしました。ではダンスの続きをしましょうか。」
「…本日は大事を取ってお休みされたほうが良いでしょう。睡眠不足はいけません。」
なんとドクターストップがかかってしまった。
「そうだな、無理をしてもいけないしな。応接室にお茶を用意させよう。レオ。」
「はい、ご準備いたします。」
「お医者様、過呼吸ってどんな病ですの?」
シエナ様が熱心に医師に聞いていた。なんだか大事にしてもらって気恥ずかしいような、むず痒いような…。
「でも、ストレスの原因を取り除くことが一番、完治の近道だったりするのです。」




