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しおり

 思いの外早く帰れたので、公爵夫人にご報告しに行くと、じゃあ今日はみんなで夕飯を食べられそうね、と笑っていた。夕飯を公爵閣下も合流して楽しく食べた後、ようやく別館にたどり着いた。鍵を開けて私の部屋に入った。ここは私が勝手に認定した私の部屋だ。隣の部屋は窓のない大きな衣裳部屋。そしてここは長椅子があり、鏡がある着替え部屋だ。別館でもここは鍵が付いているので物が盗まれない。メイドたちが私の部屋だ、と認識している寝起きするための私室は物が無くなりやすいのだ。だから貴重なものはこの衣裳部屋に置いていた。大衆小説もここの小さな本棚に、暇な時に読みますよという顔をして置いてあったし、ここの裁縫道具で作業することがあるので、ここにいること自体をおかしな行為だと思われたりはしていない。衣装係のフィナだけが信頼しているメイドだった。それも、余計なことを言ったりするような気やすい関係ではなかった。どちらかというと、侍女長とは雇い主が違うような気がした。見守っているというよりは監視しされているような。彼女がお帰りなさいませ、とノックの後入って来た。

「お茶はどうなさいますか。先にお風呂になさいますか?」

「そうね、お風呂に入るわ。準備をお願いします。」

「かしこまりました。」

 フィナはぺこりと頭を下げ出て行った。私はトランクを長椅子の上において、開いた。返してもらった本の手提げを取り出した。

 レオン様が面白かったって言っていた。好きそうだと思った。ああいう冒険譚は男の子が読んだら絶対ハマると。ついつい顔がニマニマしてしまう。同志が増えた。もっともっとお話ししたかった。しかし本日は時間がなかったので仕方ない。今度機会があれば…。本を取り出し本棚に戻そうとすると銀色の何かが長椅子にポトリと落ちた。

 しおりだ。といったレオン様の声が思い出された。薄い銀の繊細な彫り物に、ひもが付いていて先には直径1センチほどの琥珀がふたつ付いていた。

「きれい。」

 思わす見入ってしまった銀細工。椿の花が緻密に彫られていた。そして…。

 貴女の瞳は、…琥珀が近いんではないですか。

 あんなに適当に会話していたのに、もしかしてそれを覚えていたから琥珀の石をつけてくれたのかしら…。急に顔が熱くなってきた。ああ、どうしよう思ったより恥ずかしい!それ以上にすごく、うれしい。黒と茶色が濃く、本当に私の瞳みたいな琥珀だ。

「琥珀のお手入れの仕方、調べないと…。」

 これだけは絶対に盗まれたくない。でも箱にしまっておきたくもない。絶対に無くさないようにしよう。

 こんこん、とノックをされたので、本の間にしおりを挟んで、机の上に置いた。

「お風呂の準備ができました。」

「はい、ありがとう。」

 鍵を閉めてお風呂場に向かった。お風呂に入っている間もずっとしおりのことについて考えていた。だってあんなに素敵な贈り物は初めてだ。銀細工だって繊細で緻密で…美しいし私の好みだった。どうしてあんなに私好みのものをレオン様ったら送ってくださったのよ!前世だってあんなに好みのものをもらったことなかったわ!今度お礼をしなくちゃいけないけど…ああそうだ本をお貸しするときにしよう。

 私は水差しの水をおもむろに手に取り頭からかぶった。冷水がバスタブの中と混ざってぬるくなった。

「どうされました?モニカお嬢様?」

 フィナが引き気味に聞いてきた。うん、いきなり目の前の人が冷水を頭からかぶったら変に思うのは当然だ。私もそう思う。

「ちょっと顔がほてっちゃって。そろそろ上がるわね。」

 髪の手入れもフィナがしっかりやってくれているのでつやつやだし、肌の保湿もしてくれるのでもちもちだ。胸は断崖絶壁だが、そのうち成長するだろう。外から見ればちゃんと公爵令嬢に見えといいな。

 服を着替えて今度は私室に来た。昨日から読んでいた農業に関する本を開いて、ぼんやり今日のことを考えた。

 アリアドネ様とロイ様のことだ。幸せそうに微笑みあうお二人に、じんわり胸が熱くなった。記憶を思い出してよかった。忘れていてもいいことまで思い出してしまったのはいただけないが、でもお二人が生きて、そして人生を一緒に歩んでくれたら。なんて素敵なことだろう。

「よかったぁ…。」

 こんなにうれしくて仕方のないことはない。ポロリと涙が一粒零れ落ちた。推しカプである以上の思いが込み上げてきた。もう二人は私の中の大事な人になっていた。そして人の思い次第で、未来は変わるのだ。ロイ様はそれを自ら証明してくれた。

 未来は自分で描けるのだ。そう、ここが作られた世界であろうがなかろうが、夢でも現でも頑張れば好転する。こうして見たかった未来を描いてみることができる。努力すれば幸せになれる。これほどうれしいことはない。

「私、まだ頑張れそう。」

 背筋を伸ばしてモニカ。そうして堂々としていなさい。そうだよね、お父さん。涙をぬぐって前を見た。


 ###


 公爵家のホール。まさかここでこんなピンチに陥るとは。先ほどまではレオン様と、ダンス練習という名の本の感想発表会をして楽しく過ごしていた。しおりのお礼も言えてよかった。当のレオン様は大したものではないではないですがね、とクールな様子だった。

「あの、ドラゴンの住処に行く途中の町にまさか、倒すヒントがあったなんて思いもしなかった。」

「そうですよね、わたくしもあんなドラゴン、どうやって倒すのかと思って読んでいました。」

 話しに夢中になっていたせいか、体が勝手に動くほどの練習のせいか、一度も足を踏まず踏まれず踊り切った。何といつの間にかフロア一周をしていたのだ。

「やったわね!モニカ!とうとうフロア一周を踊り切ったわね!」

 シエナ様が抱き着いてきた。ありがこうございますうう!じゃ、無かった。全然気が付かなかった。

「じゃあやっと俺と踊れるようになったんだな。」

 あ。しまった。レオン様には悪いが、一回くらい踏んでおけばよかった!どうしよう…第三王子殿下と、踊る…の…?

 先ほどまでどこかに家出していた緊張感が一気にやってきた。手汗と顔汗がぶわりと浮かんできた。

「少々お待ちくださいまし。」

 今日も持ってきていたトランクを開け、汗で手にぴったりくっついたシルクの手袋を何とか外して、新しいものに変えた。それから新しいハンカチで、額から滝のように流れ出てくる汗を必死にぬぐった。もうびちゃびちゃになって自分の汗の量にドン引きした。

 こんな状態で、第三王子殿下と踊るんですか?お風呂に入ってきていいですか?無理無理無理!

「ほらさっさと練習するぞ。こっちに来い。」

 無理。やりたくない。

「はい。おみ足を踏んでしまったら申し訳ありません。」

「許さないから覚えておけ。」

 ひいいいいコワ!しかし顔に出してはいけない。冷汗が今度は背中にじんわりと浮かんできた。どこもかしこも汗まみれだ。

「お手柔らかにお願いします。」

「ではお二人とも、まずはブルースを踊ってフロア一周してみましょうか。」

 先生の合図で、挨拶をした。第三王子殿下がホールドの姿勢で、私が組むのを待っていた。ダンスの初め、男性は迎えに行かず、女性を迎え入れるために待つ。そして手は握ってはいけない、添えるだけだ。それがダンスの組み方だ。久しぶりに第三王子殿下の目の前に立った。あれだけ踊れる第三王子殿下の目の前に立つのは勇気がいった。二の足を踏んでしまう気持ちに鞭を打ち、何とか背筋を伸ばす。第三王子殿下の手を取り、腕を回した。レオン様の時は感じなかった近すぎる距離に、もう耐えられなくなってきた。頬に汗が伝った。どうしよう。汗が止まらない。

 先生の手拍子がなんだか聞き取りずらい。はじめの一歩でつまずいた。私はすぐさま手を放した。

「申し訳ございません。」

 腰を90度に折って最敬礼の体勢だ。

「はあ、モニカがダンスが下手なのはもう知っている。いちいちそんなことで止めるな。」

「はい、申し訳ございません。」

 もう一度仕切りなおした第三王子殿下の手を取った。指先が震えているような気がした。今度はちゃんとスタートできた。シエナ様が何か言っているが何も聞こえない。なんでだろう?

 次は右足をこっちにやってあそこでターン。そうしたらまた右足から…。

「さっきは、レオと何を楽しそうに話していたんだ?」

「はい…?」

 私は右足に左足を引っ掛けて倒れそうになったが、とっさに第三王子殿下から手を外した。足がもつれあったままお尻から思いっきり倒れた。よかった、第三王子殿下は巻き込まなかった。なんで右足に左足を引っ掛けるの?

「モニカ、大丈夫か?なんで手を放すんだ、掴んでいれば倒れなかったのに。」

「いえ、倒れるならわたくし一人でよいです。また仕切り直しですね、申し訳ございません。」

「本当にどんくさいな。まあ最初からうまくいくとは思っていない。」

 申し訳ございません。運動神経が悪いのは、前世からで…。そういつも、上手くいったためしがない。運動会も体育祭も普段の体育の授業でも。

「ほら、さっさとしろ。」

 ちっ、本当にどんくさいな。まあお前にはできないと思っていた。もう一度だ、さっさとしろ。お前の運動神経は繋がってないんだから人の数倍努力しろ。

 ああ、そうだった。私は運動音痴だから、もっと頑張らないと…。

 少ししか動いていないのに息が上がってきた。しかし練習しなければならない。第三王子殿下をお待たせしていた。焦って組み直してまたスタートを切った。でも今はもうどっちがどっちの足か分からなくなっていた。前を向いて足を適当に動かすことしかできなかった。ターンするときまたもつれたので手を放そうとしたが今度はがっちり掴まれていたため、倒れることができなかった。手を放してほしかった。今どっちの足が前に出ている?息が苦しい。私は下を向いて足を確認した。ああ、ええっと…第三王子殿下の足と反対の足を出せばいいからこっちか…。全然できない。ターンを何とかごまかして下を向いて踊っていた。

「おいモニカ、下を見るな、目線をあげろ。」

「はい。」

 でも次はどっちの足かわからない。見ないとわからない。さっきから先生の言っていることが理解できない。目まぐるしく最初の位置に戻ってきて、第三王子殿下の手を放そうとした。長かった。ああだめだ、もう一回シャドーで一人で踊りたい。ちょっと落ち着きたい。

「おいモニカ、このままもう一周行くぞ。練習しないとうまくならないからな。」

 さっきより遅くなってるな。もう一周だ、さっさと行って来い。速くならないぞ。

 口の中が血の味がして、気持ち悪い。耳の奥に心臓があるみたいだった。この一周がさっきより悪かったらもう一周だ。

「はあ、はあ、はい。」

「この程度でなんでそんなに息が上がっているんだ?体力ないな。」

 この程度でなんでそんなに疲れているんだ?もっと体力をつけないとだな。もう一周だ。

 さっきから幻聴が聞こえた。これは幻聴だ。まるですぐそばにいるような空耳だ。あの人がこんなところにいるわけないんだ。私はあっちにあの人を置いてきたんだから。他の持ってきたかったすべての記憶を差し引いても、あの人だけは連れてきたくなかったんだから。

「殿下、ちょっとモニカ嬢の様子がおかしいので、5分だけ休憩しましょう。」

「おかしい、か。」

「おかしいわ。モニカはフロア一周くらい…、シャドーで毎日30周しているのよ。息なんか上がる筈ないわ。」

「そうか、じゃあ休憩するか。」

 手を放されたとたんに、この間のように手で口を押えて座り込んだ。

「はあ、はあ、はい…。」

 神の使いか…天使か女神か。心配顔のレオン様とシエナ様が光り輝いて見えた。何とか呼吸が落ち着いてきたのでトランクに向かっていき、ハンカチで額の汗を拭いまた手袋を変えた。

「もう、大丈夫です…お待たせして申し訳ございません。」

 いまさらすまし顔をしても取り繕えないのはわかっていた。しかしせずにはいられなかった。

「もう大丈夫なんですか?」

「はい、落ち着きました。」

 嘘ですけど。全然大丈夫じゃないです。しかし練習しないと終わらない。

「もういいのか?」

 第三王子殿下の目の前に再び立つ。先ほどから膝ががくがく震えていた。

「はいお待たせしました。」

 胃がキリキリしてきた。口から心臓が出てきそうだった。先生が挨拶をしっかりして、始めましょう、と言っていた。また地獄が始まった。またテンポがうまくいかない。どうしても少し遅れている気がする。ああだめだ泣きそう。先生のほうを見るとなぜが頷いていた。その合図はいったい何ですか?ああ、ターンのところの歩幅が合わない。遅れを取り戻すのってどうやるんだろう?

「モニカ、遅いぞ。さっきはちゃんと踊れていただろう?」

 それはレオン様と踊っていたからですが…。しかし返す余裕はない。指先が冷たくて震えているのに、汗が出てきているのが分かる。さっき手袋変えたのに。

「また頭が下がっている。足を見るなよ。」

 慌てて顔をあげた。なるべく第三王子殿下のほうは見ないように、目線は進行方向だ。あと何歩でターンだっけ?

 また足を引っ掛けてしまった。手を離し、今度こそしりもちをついた。

「だからなんで、手を放すんだ!」

 怒鳴られて驚いて、声が出てこなかった。周りが静かなのか私の耳が聞こえないのか。

「第三王子殿下が一緒に倒れたら大変ですから。」

 思いのほかか細い声になってしまったが、しっかり言えたと思う。

「そんなのどうでもいいだろ、倒れそうならちゃんと手を掴めよ!そんなんで今までよく生きてこれたな。頭を打ったらどうするんだ!」

 いや、私が単独でケガをするのと。第三王子殿下を巻き込んでのケガなら前者のほうがいいに決まっている。どう考えても私の判断は正しい。しかし第三王子殿下が怒鳴って怒るほどだから、どういえばうまく伝えられるのか。

「わたしくしが頭を打つぶんには構いませんが…。」

 困った顔で立ち上がると二の腕を掴まれた。

「ダメに決まっているだろ。」

 ?一番ダメなのは第三王子殿下がケガをすること。最悪の場合私のせいでケガをすることだろう。そうなったら責任の取りようがない。王妃陛下が激怒したら、私の田舎の父と母と弟まで責任をとらされかねない。そうなるくらいなら私が頭を打って、最悪場合は死んでしまったほうがいい。本当に何がダメなのかわからない。それより掴まれた腕が痛い。ああ、目の前でケガをされるのは気分が悪いのか。

「わかりました。わたくしは頑丈に出来ているので、尻もちくらい平気ですわ。頭も石頭ですし。」

 はあああ、と第三王子殿下が大きなため息をついた。どんどん二の腕の血が無くなっているような気がする。何か呆れられるようなことは言ったつもりはないが、なんだろう…。また背中に嫌な汗をかいた。痛い。また何か間違ったのだろうか?怒鳴られた後遺症でまだ心臓がバクバクと鳴っていた。

「もういい。お前には何を言っても無駄なんだな。」

 要領もよくないし頭もよくない。成績はよくならないし、テストでよくなる気配すらない。生まれてこなきゃよかったのに。やっぱりお前に金なんかかけても無駄なんだな。

 そうだった。私はすごく無価値な人間だった。第三王子殿下が時間をかけるほどの人間ではない。どうせ来年になったら婚約解消するのだから、このまま…、って、あれ?第三王子殿下はそのことを知っているのだろうか?王妃陛下が話しているようには見えない。時間を無駄にしない殿下のことだ、解消が決まっている相手に時間を取ること自体に違和感があった。いや、対外的なアピールだったと言われればその通りなのだが。しかしこういう繊細な話題はできれば人の目のない時にお話ししたい。やっと解放された二の腕をさすった。

「ほら、続きをやるぞ。練習しないとうまくならないからな。」

「はい。」

 今度からシャドーを40周にしようかしら。足先がもう感覚がないくらい冷たいが、無理やり動かす。その日は結局一度たりともまともに踊れはしなかった。


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