グロリア卿
グロリア・D・バージェス モニカのおじい様
社交シーズンが終わって、領地持ちの貴族たちは家族を王都に残して、大多数は帰っていった。バージェス公爵家も例にもれず公爵領の城にやってきた。シエナ様だけ王都に残る案もあったが、寂しいから無理ということでみんなで来た。始めは戸惑っていたようだが、こちらは騎士団もあり、馬に思いきり乗れるのでそれはそれで気に入ったようだった。私は相変わらず別邸にいるが、そこには眠るときぐらいしか使わなかった。ほぼ本邸で過ごしていた。朝から公爵夫婦とシエナ様と食事できるのでこちらのほうが幸せだ。
「モニカってこっちのほうが楽しそうね。いつもニコニコしているわ。」
「はい、こちらのほうが伸び伸びと出来ますね。」
それはもう、あちらの侍従長と侍女長に嫌われているようなので、あまり本館にはいきたくない。しかしあの二人は私一人の時ばかりを狙って、嫌みだの言ってくるので訴えようにもしっぽがつかめたためしがない。あの二人は私の何が不満なのか。
「ふーん。あ、モニカ、ダンスの練習するわよ。毎日フロア30周!」
「え、今日もですか。確か昨日も…。」
「するったらするの。あっちにいるときはお勉強が大変かと思って誘えなかったの!」
ああ、なんて健気で可愛いの!いくらでも練習します!でも私はこちらに来ても勉強することがたくさんある。いずれ私がこの領を支えなければならないのだ。公爵閣下の仕事を見て覚えねば。学園に通い出したらこちらにはこれなくなってしまう。ちらりと閣下を見ると目が合ってにっこりと笑っていた。
「ダンスの練習は大事だね。行っておいで。」
「しかし…。」
「大丈夫。去年一緒にやったことと一緒だよ。領内の道路の整備と灌漑設備のメンテナンスと、…商会のあいさつがあるから、明日からでいいよ。」
「今年の小麦の出来はどうでしょう?西側は去年水不足でしたが…。」
「うん、商会会長に聞いておくね。今年もきっと領内を回って商売していたんだろうからね。」
「はいお願いします。今年の風の状況も。雨季の様子も…。」
「うーん、じゃあ午後から使いを出すからそれまでダンスしてたら?」
「はいそうします。シエナ様。申し訳ありませんが中座させていただきます。」
「いいけど、モニカはこっちでも忙しいのね…。」
「いえ、わたくしの勉強不足ですわ。」
「モニカは昔から頑張り屋さんだものね。」
それは家に置いてもらっているのだから当然のことだ。その後も久しぶりにのどかな食事を続けた。王都にいるときとは比べるべくもなく上機嫌で過ごしていた。
こちらでは普段から公爵閣下と一緒に過ごし、補佐と言えないお手伝いをしていた。視察について行ったり、商会会長とのお話は知らない土地のことが知れる有意義な機会だ。忙しい日々に、あっという間に秋になった。
ああ、豊饒祭だ。
そう言えば第三王子殿下にプロポーズのことについてご報告するのを忘れていた。定期的に手紙は差し上げているが、去年まではめんどくさかった。今年は救世主シエナ様がいるので書くことに事欠かない。ペンがすいすい進んで一瞬でノルマ一枚が埋まった。今日もシエナ様について書こうと思っていたのだが、報告漏れはいけない。
ええっと、南部のプロポーズについてのご報告を忘れていました申し訳ありません、っと。どうやら豊饒祭で思い人をダンスに誘って告白するそうです。よく考えたらそれしか聞いてないな…えっとほかに何か書くこと…うわ、無いわ。えっと、あ、シエナ様の理想のプロポーズ!これは書かないと!結局いつもより長々とした手紙になってしまった。
第三王子殿下への手紙に封をして、机の上に置いた。ここは私が賜った別邸だ。マリアおばさまが管理してくれていた。油断すると物がなくなる王都別館よりも安心してベッドに横になった。もう少し私がこの公爵家のこういうことまで決められる権限があったら…。まずは使用人の刷新からしなくては。二人の背後にいるのは誰なんだろう。公爵閣下があまり気にしていないところを見ると、私も気にしなくてもいいのかもしれない。しかし何を考えているのかわからない人を家に入れておくのも、気持ちが悪い。敵意はあるが害意はないようなので放っておくのでもいいか。
ああどうしよう、もうベッドから出たくない。体が重い。
そう言えば、ほかの攻略対象はどうしていたっけ?
一人は第三王子殿下、天才ゆえの孤独。カラーは緑。
一人はレオン様。第三王子殿下に忠誠を誓う従者。カラーはオレンジ。
あと二人と、隠しキャラがいたはずだ。同学年の青髪の騎士科の青年と、魔法学科の赤髪のわんこ系の子だったが…。隠しキャラなら覚えているのに。
隠しキャラ、クラレンス・オーズ、学園の保険室の先生。カラーが黒。
なんでこんなに記憶があやふやなの?もしや顔を見たら思い出せるだろうか?ああだめだ。最近前世のことをどんどん忘れている気がする。急に怖気が走り、ベッドから飛び起き、机に向かった。手紙を本の上に避難して、今思い出せる前世の記憶を書き出そうとペンを紙に置いた。
「あれ…?」
おかしい。前世の母の顔が思い出せない。ペンがマルを紙にぐりぐりと書き出した。ゾッとするようなあの人の顔なら思い出せるのに。あの人に言われたことは一字一句覚えているのに。母との宝物のような思い出が、零れ落ちて無くなった。さげすむ様なあの人のことなら覚えているのに!なんで、なんで、忘れたかった。あの人のことなんて消し去ってしまいたい。呼吸が早くなって息ができない。たくさん呼吸をしているのに全然酸素が肺に入っていかない。何が起きているの?母がいない日のあの人の攻め立てる怒鳴り声しか思い出せない!いやだ。机に突っ伏してしばらくそのまま冷や汗を流しながら耐えていた。叫び声が出そうで口を抑えた。あのゲームはそんな日常の現実逃避だった。あの時の私は心からこの世界に来たかった。
しばらくして呼吸が落ち着いてきた。口を押えたのが良かったらしい。ハンカチで冷や汗をぬぐった。ゲームの記憶は日常とリンクしているのか、考えただけでいらない記憶まで芋ずる式に思い出された。
ちっ、死ななかったか。
もう嫌だ忘れよう。残響が頭にこびりついて離れない。
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冬に差し掛かってもう少しで社交シーズンが始まる時期だ。もう5か月もたったのか。
将来のことを考えようにも、記憶は一向に戻らず。苦しみの中でゲームのいくつかのイベントを思い出すことができただけだった。学園に入って出会いイベントと、騎士科の剣技大会と夏休み、文化祭があった気がする。第三王子殿下ルートは生徒会に入らなければならかったはずだが、あの忙しい殿下が生徒会に入るとは思えない。ゲームではなんで入っていたのだろう?
書類を分類し終わり、公爵閣下の机の箱に入れた。今年の侯爵領の収穫量は例年通り。去年一昨年と不作だった西側も収穫量が戻ってきた。種を支援したのが良かったようだ。進言してよかった。しかしまた水不足があると大変だ。農業用水の確保は喫緊の課題だ。
「モニカ、このチェックが終わった書類を…。」
「はい。いつものところに持っていきます。」
「うん。頼むよ。」
そう、私に今できることはこれくらいだ。小さいことではあるがやるしかない。
「モニカ?どうしたんだい、ボーっとして。」
「いえ、ちょっと、なんでもないです。」
公爵閣下はじっと私の顔を覗き込んで、席から立ち上がり私を持ち上げた。
「わあ」
久ぶりに抱き上げられた。
「ああ。久しぶりだ。」
ぎゅっと抱きしめて、ふう、と机に腰かけた。私は慌てて首の後ろに手を回して落ちないようしがみ付いた。
「モニカが何か聞きたい顔をしている。」
そう言って閣下は笑った。
「いえ、あの…」
うーん、どうしよう。あ、そうだ。
「学園ってどんな行事があるんですか?剣技大会って閣下も出たんですか?」
「ああ、モニカも通うからね。うーん、私は剣技大会って出なかったんだよ。あんまり剣は得意ではなかったしね。生徒会のほうを頑張っていたよ。生徒会と学級委員は高位貴族が必ず立候補しないと、だれもやる人がいないからやったほうがいいね。学園は平民の商家の子たちもいるから、そういう子が生徒会長とかなって、王子殿下に物申さないといけないことになったら命懸けだからね。」
ああ、確かに。不敬罪で捕まったら、平民は極刑になってしまう。そんなの誰もやりたがらないだろう。
「昔学園は、身分関係なく学問の門戸を開くっていうのが売りだったらしいけど、そのせいで王太子殿下が“真実の愛”に目覚めたとかいう醜聞もあるからね。一応、クラスも貴族と平民は分かれているし、そういうことは起こらないと思うけどね。」
過去には乙女ゲームみたいなことが起こっていたということか。
「昔のことなんでしょう?」
何百年前のことだろう?
「あーうん。前国王陛下。つまり現上王陛下だね。」
「え、近い。」
公爵閣下はすごく言いづらそうに苦笑いした。私を抱く手に力を込めた。前と言えばアリアドネ様のお父様のお父様。つまりはおじいさまの話だ。
「簡単に言うと、婚約者のいらっしゃった前国王陛下が、学園で男爵令嬢を見染めてご結婚なさったんだよ。そのころから“婚約者”というのが本当に、結婚を約束しただけの相手、という意味になってしまったね。」
貞操観念に何かあった世界なのかと思ったら、そんな理由があったとは。一国の王太子がそんなことをしたら、婚約者に不満があった貴族子女が我慢できずに“真実の愛”で逃亡してしまうだろう。そこに残るのは、約束を反故にした本人の実家の不名誉と信頼の枯渇だ。婚約という約束を守れない一族というレッテルを張られたものの末路は、想像に難くない。そして逃げられた本人も、きっと様々な噂にさらされただろう。なんて恐ろしい。
「あの、婚約者の女性はどうなったのですか?」
そんな扱いをされて自殺とかしていないといいが…。
「ああ、うん、それがね…。」
言い淀むのが不安な気持ちにさせた。顔に出ていたのか、慌てた口調で言った。
「彼女は苦労しただろうけど、世界一幸せになったよ。なにせそれがモニカのおばあさまだからね。」
「え?はい?」
「ああうん、ごめんね、一から説明する。彼女、マリエッタは侯爵家のご令嬢だったんだ。前国王陛下…当時の王太子殿下と、我がバージェス家の当時の嫡男グロリア伯父上と三人、幼馴染だった。幼いころから剣に秀でたグロリア伯父上は、いつも二人を振り回して遊びまわっていたらしい。正式にマリエッタ侯爵令嬢が王太子殿下の婚約者になった後も、三人は仲良くしていたそうだ。学園に入って一年が過ぎたころに、グロリア伯父上は剣技を磨くため、嫡子を返上して諸国剣客の旅に出たそうで…。」
「ちょっとお待ちください。公爵家を継がずに、ですか?」
「ああ、うん。勉強が本当に出来なかったそうだよ。当時の公爵がさじを投げて行ってこいと背中を押すくらいには、じっとしていられない性格だったそうだ。結局公爵家は、弟だった、私の父が後を継いだんだ。」
我がおじい様ながらなかなか…。
「酔狂な方ですね。」
「ああ、伯父上のめちゃくちゃな話はいくつか知っているけど、どれもかっこいいんだよ。街を五つ破壊しつくしたドラゴンに、街を失った人と協力して酒瓶を投げつけて火ダルマにする話とかね。そう、一言で人をまとめ上げられるカリスマを持ってる、豪快でダメな人だった。」
ダメな人だった…。そういった公爵閣下の顔は楽しげで、なんだかうれしくなってしまった。
「でも、曲がったことは大っ嫌いだった。王太子殿下が、男爵令嬢に入れあげて幼馴染を、婚約者をないがしろにして、黙っている人じゃなかった。卒業式のパーティに、北部で暴れていた“二つ首のフロストドラゴン”を狩って乗り込んだ。王太子の目の前に二つの首をぶん投げて、献上し、そしてこう言った。
『褒美をもらう!マリエッタだ!』
『ほら、ごちゃごちゃうるせぇ!俺と一緒に行くぞ!』
『ついて来い!世界は広い!』
そう言ってにっかり笑ったそうだ。現場で見ていた父が、何回も教えてくれたからね、間違いないよ。」
すごくさわやかなエピソードだ。小説のような漫画のような。
「伯父上が鮮やかに攫って行ったから、マリエッタ伯母上の様にグロリア卿に攫われたい、みたいなことを言う熱烈な人もいたらしいよ。で、お二人の間に生まれたのが、モニカの父のジンだね。伯父上は剣を教えていて、もちろんジンにも教えていたんだけどもう一人弟子が居たんだ。それが、シエナの父のジョコビッチ。」
急に出てきたシエナ様の名前に驚いた。
「えっと、おじい様の弟子が、シエナ様のお父様なのですか。」
「そうだよ。豪快なところは師匠譲りなんだ。」
くつくつと楽しそうに笑っていた。
「だから、モニカが公爵家を継ぐのは、正当なことなんだ。もともと公爵家を継ぐはずだったのは、グロリア伯父上なんだから。」
ああ、そういうことになるのか。しかし、話を聞いただけだが、おじい様に今公爵閣下がしている仕事ができそうか、と言えば…、
「公爵閣下。おじいさまにお会いしたことはありませんが、机に座ってることができないのですから、後を継ぐのは無理ではないですか?きっと三秒後には外に出て行ってしまいそうですが?」
「ふふ、モニカは私より、伯父上のことを分かっているね。さすがだよ。」
楽しそうな閣下は懐かしそうに天井を見た。
「伯父上にも言われたなあ、三秒もたん!って。」
「きっと閣下が継いで、よかったと思っていらっしゃいますよ。」
「そうかな。そうだといいな。うん。もうちょっと頑張れそうだ。」
「はい。わたくしはあの書類を置いてまいります。」
「うんよろしくね。」
すとんと下に降りたときに、執事長がほほえましいものを見る目でこちらを見ているのに気が付いた。急に恥ずかしくなって、さっさと部屋から出ていくことにした。
「失礼しました。」
ぱたんとドアを閉めた。
「もうモニカ様も13歳。そろそろ抱っこはおよし下さい。レディなのですから。」
「うっわかってる。わかってるけど…、可愛いんだよ、うちの娘は。世界で一番。」
「はいはいそれはわかっておりますとも。」