モニカの両親
モニカの重めの前世のお話。
お前は何をやらせてもうまくならないな。要領もよくないし頭もよくない。塾に通わせても成績はよくならないし、テストでよくなる気配すらない。泣くなうっとうしい。生まれてこなきゃよかったのに。やっぱりお前に金なんかかけても無駄なんだな。よくわかった。男の子が良かった。キャッチボールもまともに出来ないなんて。ま、最初から期待してなかったけどな。足が遅いな。笑うなうるさい。進学校は難しいか。こんなんじゃ大学なんて夢のまた夢だな。服なんて従妹のお下がりでいいだろ。これも母さんの育て方が悪いせいだな。あいつはお前を甘やかしてばっかりだ。10歳にもなって誕生会?車の中では黙ってろ。こんな底辺大学へ行って何がいいんだか。金の無駄じゃないか?将来どうせ大したところに就職しないんだ、卒業までの金がもったいないだろ。あんまり大学行ってないんだろ?バイトばっかりで。病気になった?言わんこっちゃない。面倒かけるなって言っただろ。治療費は出さないから大学は中退だな。入院代がもったいないからさっさと退院しろよ、治ってない?別にいいだろ、家から通えばいい。助けてもらえると思うなよ。そもそも俺は男の子が欲しかったんだ。お前なんていらない。俺の計画を狂わせやがって、母さんに近寄るな。電話もかけるな。いいか、俺の言ったことを誰かに言ったって、どうせお前の言うことなんて誰も信じやしない。お前と俺じゃ長年の信頼関係が違うんだ。自分が邪魔だと気付いたんならさっさと消えろ。お前に残す遺産はない。母さんと高級老人ホームでのんびり暮らすんだから、お前には残さない、放棄しろ。育ててやっただけ感謝するんだな。
そこから先の記憶はない。病気で死んだのか自殺したのか。あの人は非常に外面のいい人だった。ぶっきらぼうで口は悪い、と評されるが友人知人は多く、他人にはお人よしだった。そう、他人には。隣のおばさんにいつもいいパパね、と言われていた。休日は必ず出かけて公園に行った。公園では苦手な球技の練習をさせられ、50mダッシュを何本もやらされた。もう無理だというと今度はマラソンをさせられるから、黙って走っていた。そんなあの人の評価は、休日には必ず娘と公園に行って、遊ぶ子煩悩な人、だった。はた迷惑でしかなかった。風邪をひいていきたくないと泣いたときも、無理やり連れていかれて、案の定倒れて救急車で運ばれた。先生がもう大丈夫です、と言って病室から出て行った後、舌打ちして死ななかったか、と残念そうにつぶやいた。母は休日出勤の多い人で、あの人にすっかり騙されていた。母が病院に駆け付けた時、あの人は母の目の前で涙を流して謝っていた。そういう演技のできる人だった。
恐ろしい。思い出したくなかった過去がフラッシュバックして私は目が覚めた。昨日は宵の口にようやく家について、母と弟に出迎えられた。それから懐かしい母の手料理を食べて、深夜までおしゃべりをしていたのだ。幸せだった。幸せ過ぎて、過去の遺物が呼び覚まされてきた。まるで、今の幸せは全部夢で、現実はあっちだと。私は幸せになる資格がないのだと。幼少期から続いていた洗脳は、大人になって解けたと思っていた。しかし思い出しては私を苦しめる、トラウマになっただけだった。
かつて使っていた二段ベッドの上で体を起こした。ぎしぎしと音が鳴った。下では弟のジスが眠っているだろう。ゆっくり梯子を伝い、慎重に下に降りた。海から港町の涼しい風が入ってきた。眠っているジスの枕元には昨日上げたニットの帽子が置かれている。海色が気に入ったそうだ。
今は、違う。
あの人はこの世界にはいないし、今の家族は私を愛してくれた。生意気だけど可愛くて優しい弟に、愛情たっぷりの母に、不愛想だけど誠実な父。公爵家のご夫婦だってそうだ。私を本当の子供のように接してくれたし、愛してくれた。今回の人生は本当に家族に恵まれた。これ以上望むのは私にはできない。今で十分だからだ。今の記憶だけでこの先つらいことがあってもやっていけるくらい幸せだった。
まだお父さんもお母さんも寝ていた。お湯を沸かしてお茶を入れた。水平線をじっと眺め、灯台の光を目で追って朝日の到来を待った。明日の朝にはここを立たねばならない。また王都に行かねばならない。それがなんだっていうのだ。私のトラウマほどのことは、きっと起こらない。あれに耐えてちゃんと成人を迎えられたのだから、どんなことがあったって乗り越えられるはずだ。きっと大丈夫。
「あら早いのね、おはよう眠れた?」
「おはよう。よく寝たわ。」
「本当に?なんかクマができてるわよ?」
それは前々からある、なかなか消えないクマだ。
「消えないんだよね、ビタミン不足かな…あ、お茶飲む?入れるよ。」
「うん、ちょうだい。」
お母さんの黒髪が目に入った。髪も黒いが瞳も真っ黒だ。この国では相当珍しい。そういえばお母さんは外国の生まれだった。
「そういえばお母さんって、お父さんとどこで知り合ったの?」
「なあに、いきなり。」
「なんとなく。」
「そう、うーん、ここから東に船に乗っていったところにある、ベルンっていう国よ。私の故郷はそこからもっと東だけど。」
「そうなんだ。お母さんは何でそこにいたの?」
「…、いろいろあったのよ。で、ちょっと困っていたところで、お父さんが助けてくれてね。あの頃お父さんは、モニカのおじいさまと傭兵をしていたのよね。」
「え、お父さんって傭兵だったの?初耳。」
「絵描きになったのは結婚した後よ。」
「そうだったんだ。」
「あ、そうだ。南部ってプロポーズってどうやってするの?」
「え、急に何よ。」
「北部は花束と花の冠を渡すんだって。それで、相手の人はその花束で冠を作って、パイを焼いて持っていくんだって。」
「パイ?面白いのね。」
「うん。こっちにもそういうしきたり?みたいなことってあるのかなって思って。聞かれたけど分からなかったから。」
「そうね…、うーん、プロポーズは王都と一緒だと思うけど…あ、豊穣祭りってあるじゃない。あれで告白する人が多いかもね。一緒に踊ってくださいって。お向かいのレナード君はそれで彼女さんにプロポーズしたって聞いたわ。」
「レナードさん、懐かしい。よく遊んでもらったわ。ご結婚なさったの?」
「そうよ…言ってなかったっけ?2,3年前ね。」
「踊るってあの、夜までやってるやつ?最後までいたことなかったけど、適当にいる人と踊るんじゃないのね。私、何時もそこにいた知り合いと踊ってたわ。」
隣の家のおじさんとか、顔見知りの果物屋さんのおかみさんとか、大工の棟梁とか、そういえばレナードさんとも踊ったことがある。
「フフフ、それは前半だからいいのよ。夜はもっとしっとりした曲でゆったり踊るの。子供は前半だけよ。」
「お母さんのプロポーズも豊饒祭りなの?」
「ううん、違うわ。お父さんが踊ってプロポーズするように見える?」
「しない。絶対。」
「そうでしょ。あーえっと、普通だったわよ。花束を持って、指輪をくれて…でも私の故郷ではやり方が違ったから、すごく感動したのよ。この不愛想な人がお花?!って。」
「お母さんの故郷ってどんなことするの?」
「あのね、腕に嵌める輪っかみたいなのを糸で編んで交換するのよ。魔よけの模様なんか入れてね。」
お母さんの腕にはカラフルな腕輪がまかれていた。添えられた手がやさしくそれを撫でていた。意外と器用なお父さんの作品らしく、緻密な模様が見て取れた。
「千代輪って呼ばれているの。千代っていうのはまあ、長い間とか永遠とかそういう意味よ。」
「チヨワ…千代輪ね。素敵だね。」
お母さんは照れたようにプイッとあらぬ方向を向いてまあね、とだけ言った。お父さんの手首にも色違いの千代輪があったはずだ。なるほど夫婦の証というわけだ。
「どうやって編むの?難しそう。」
「フフフ、後で教えてあげるわね。いつかモニカもプロポーズするかもしれないしね。」
「されるんじゃないのね…あとで教えて。」
「それにしてもプロポーズの話なんか誰としたのよ?モニカのお友達にそんな話するような子いたっけ?」
「この間の手紙に書いた、シエナ様だよ。あと、婚約者の第三王子殿下と、北部の伯爵家のレオン様。第三王子殿下のお兄さんの、王太子殿下のプロポーズの話の流れで。」
「あら~婚約者と仲がいいのね。」
一瞬笑顔が固まってしまったが、何とか声を絞り出す。
「どうだろう。あんまり好かれてない気がする。」
「プロポーズの話題なんて、好きじゃなかったら出さないわよ!大丈夫!」
一瞬だったが不安な気持ちがあったのが、お母さんにはバレバレだった。急に明るく言い放った。
「うん。…婚約解消しても、何とかやるつもりだから、心配しないでね。」
「モニカ、辛かったら、いつでも帰ってくるのよ。公爵様にだって、モニカが幸せになれないようならお返しくださいって言ってあるのだから、遠慮なく帰ってきていいのよ。」
お母さんの優しい言葉にじんわり胸が熱くなった。ちょっと泣きそうだ。
「うん。でも、公爵閣下のお役に立ちたいのは本当だから、何とか頑張ってみるよ。限界が来たら逃げてくるね。」
「そうしなさいね。絶対よ。」
こくりと頷くと、にこりと笑ってくれた。
「じゃあ朝ごはんの準備をしましょう。何が食べたい?」
「パンケーキ!自分で焼くの。」
「いいわね。」
ウキウキしながらボールを用意した。