誰が為の英雄譚:愚者の神話
『お疲れさまでした!これでユーザ設定は完了です。今までよりもダイナミックでダイレクトな体験をお楽しみください!』
眼前には青く透けて浮かび上がるメッセージウィンドウ。そこには機械からの労いの言葉が載っていた。
それが心にもないことであるのは確かだ。何故なら機械に心はないのだから。しかし、その文面が僕にとってうれしいものであることもまた確かである。長く苦しい戦いであった。IDだとかパスワードだとかその他諸々を現実と仮想現実とを行き来して入力し、操作ミスで消え、"0"と"O"、"l"と"1"と"I"を間違え…しかし、セットアップという万難を排したいま、素晴らしき新世界への扉は開かれたのだ…恐らくは。
メッセージウィンドウは閉じられ、一度深呼吸が出来るぐらいの長さで暗闇に閉ざされていた視界が少しづつ開けてくる。見渡した視界には底のない深海、もしくは星空のような空間が広がっている。それでも暗い訳ではなく、勿論明るすぎるわけでもない。さらにマークや絵の付いた球体が等間隔で立体的に並んでいる。どこかで見た塩化ナトリウムのモデルみたいな感じだ。見下ろした自分の身体は半透明な青いマネキンのようで体形は現実と同じようになっている。また、流れ星のようなものが視界に度々映り込む。それは直線的に空間を白い光が走っていっているのだが、同時にその光から電子音が鳴っている。その音は光の速さと位置によって変わっているようで、ゆっくり流れるそれが右から左へと目の前を通り抜けていくと低めの音も右から左へと流れ、上から下へと素早く落ちていくと高めの音もそれに付随して聴こえている。立体音響の機能のチェックも兼ねているのだろうか。一時間くらいは眺めていられそうだ。
僕の近くに光が流れてきたので手を伸ばしてみる。光が青く透ける右の手のひらに当たった瞬間、トンと軽い衝撃が伝わる。そして通り抜けて消えていった。掴めるわけではないが、当たり判定があるようだ。そして、今のこの感覚がVRでの初めての接触なのだ。そう、このVRには触覚がある。
視覚と聴覚、そしてコントローラーを介した限定的な触覚だけなら従来の”ヘッドギア型”でも十分だが、今身に着けている通称”スーツ型”は触覚、味覚、嗅覚、温感、その他諸々まで対応しているのだ。痛覚さえも最大の設定で抓られるのと同程度という制限のもとで実装している。値段はコラボモデルのゲーミングノートみたいな絶妙な高さで、お年玉貯金と誕生日、クリスマスの前借、そして高校の入学祝いという未成年の収入を全て費やし、さらに祖父の協力もあったために手に入れられたこれだが、やはりヘッドギア型で妥協せずにスーツ型にして正解だった。
配達された段ボールが重すぎたため、玄関で開封して出来る限り分割で部屋に運び込んだあの苦労も、電源を入れる前にスーツに入ってみたときに好奇心で見に来た姉に「スーツっていうより棺桶じゃん。タンポポ入れといてやるよ。」と変なからかいを受けた恥ずかしさも、このためのコラテラルダメージだと受け入れられるぐらいには楽しい。なんならこれが棺桶でも良いや。
さあ、夢にまで見たVRだ。この身を取り囲む音や色、感触によって本当にSFチックな異世界に入り込んだような気分で、いわゆる”ホーム”の空間だけでも楽しい。それに、聞いた話によればこの初期感溢れる青マネキンの体やこのホーム画面ぽくはあるけれど家っぽくは無い空間もほとんど自由に変えることができるそうなのだ。更には追加の物体だけでなく、ペットやNPCも置けるらしい。夢が広がる。ここで最高のホーム作りに入っても良いのだが、それよりもまずはゲームだ。
様々な球体のアイコンが規則的に並ぶ電脳空間から目的のそれを探し出す。
『誰が為の英雄譚:愚者の神話
ジャンル:アドベンチャー/RPG
対応モード:フルVR専用
プレイ人数:一人用
インターネット:オフラインのみ
インストール中…』
妖精のような何かが映った球体に触れるとそのゲームの軽い情報が出てくる。
記念すべきVRゲーム一本目はこの『誰が為の英雄:愚者の神話』だ。このゲームは誰が為の英雄シリーズの一作品目とのことで、二作品目とかは現在制作中だそうだ。メーカーはどこかの世界的大企業で、その中の日本支部的なところで作っているらしい。正直に言えば広告で流れる部分以外はよく知らない。というのも、VRのレビュー、動画や配信、メーカーのHPはかなり漁ってきたが、どうせなら初見での感動を味わいたいと思ったため、比較的新作かつ事前情報を全く調べていないこのゲームを遊ぶことにしたのだ。
このゲームにした理由は色々とあるが、大事なポイントとしてオフラインで一人用なのがよい。確かに、大人数で撃ちあったり、世界中の人とスコアで競うのも面白いのだろう。絶対に面白いからこのゲームの後でそういうのもやるつもりではある。けれども、現実世界の存在が僕以外に居ない、ある意味完全に孤独なゲームの方がVRの強みである没入感を引き出せる筈なのだ。決してコミュニケーションが怖い訳ではない、ということもない。
それはさておき、ジャンルとしては中世風ファンタジーのRPGアドベンチャーという超王道である。そしてキャッチコピーは「この物語、語られるべきか、語られざるべきか」…意味深長なキャッチコピーもまた王道だと言えるだろう。そう、王道であるということは目新しさがないということだが、危険がないということでもある。安心して初体験に臨めよう。
さて、インストールも完了したようだ。起動するにはこの球体を心臓辺りにめり込ませれば良いらしい。ちょっと厨二心をくすぐられる起動方法だ。球体をつかんでみると、重さや硬さを感じないのに掴んでいるような不思議な感覚だ。
そして、仄かに暖かい。手にした球体を自分の体に近づけていく。
新しくゲームを始める、このどこか郷愁すら覚える高揚感がたまらない。
さあ、ゲーム開始だ。
視界が暗転していく…
暗闇の中で草木の匂い、少し冷たい風、ガタガタとする振動と騒音を感じ、いつの間にか閉じていた眼を開けると山道を馬車で通っている途中だということに気が付いた。馬車と言っても屋根は無く、御者に手綱を握られた馬が荷台のようなものを引いているだけのもののようだ。空から陽は差し込んでいるが、山だからか、それともそういう季節か土地なのか少し肌寒さを感じる。周りを見ると、荷台の車輪が見たことの無い草や藪の横を通り過ぎ、葉の擦れる音が聞こえる。風が吹くたびに木々が揺れ、たまに落ち葉が降ってくる。僕がいる荷台にもかさかさと音を立てて枯れ葉が転がっている。
そして、僕のほかに二人がこの馬車に乗っている。一人は、恰幅が良く、身なりも良さそうな茶色い髪の男性で、鈍く光る金属の腕輪や宝石の入った指輪やネックレスを着けていて、服装も色や柄で良く飾られている。彼の膝もとには布で巻かれた箱のような何かがあり、それを大事そうに両の手で持っている。商人か貴族だろうか、それともその両方かもしれない。もう一人は無地のベージュのチュニックを着ている女性で、商人っぽい彼と比べると少し質素なように見える。装飾品も日を浴びる稲穂のような色の髪を後ろで結わくための黒いリボンだけで、彼女の足もとには果物か野菜の植物が色々と入っている麻袋が置かれている。買い物の帰りなのだろうか、多分この人は普通の村人か町人かだろう、いわゆる一般人的な雰囲気だ。
草木、空気、人、どれをとっても現実のそれと差異がなく、あまりの現実感に感想が浮かぶよりも早くただただ感動だけに呑み込まれる。漸く浮かび上がる言葉も"凄い"の一つだけだ。木々、落葉、風、音、光、揺れ、硬さ、匂い、認識した全てに感動を覚える。人の技術は既にもうひとつの実存的現実となりうる世界を創りあげるまでに達していたのだ。目の前のそれ自体への感動とそれを作り上げるまでに対する敬意とが同時に来る。端的に言えばヤバい。
さて、僕を載せたこの馬車が行くのは轍の重なった道ではあるが、石や周りに生い茂る木々の根によって時折大きく跳ねる。運動神経の良い人間なら上手くバランスを取ることもできるのだろう。しかし、残念なことに僕の体育の成績は常に2であった。
ぼーっとはるか上空を過ぎ行く鳥っぽいものを眺めていたとき、ガッタンと一際大きな音が鳴り、景色が動き、後頭部に軽い衝撃が来た。
座っていた場所から何も敷かれていない、木の板が打ち付けられただけの底にずり落ちてしまったようだ。痛みは感じないが、少しの驚きと恥ずかしさがあった。「布でも敷いといてくれればいいのに」という文句を口に出さずに飲み込んでいると、
「おやおや、大丈夫ですか。」
この馬車の同乗者の一人である商人っぽい人が声をかけてくれた。この人は良い人だ、という直感と共に顔が熱を帯び始めるのを感じた。
「あっ、すみません。あまり馬車に慣れていなくて…ぁはは…」
馬車に一緒に乗っているはずのその人やもう一人の女性は体勢を崩した様子がないことに気付いて更に恥ずかしくなった。彼らがNPCであるということは分かっているが、座り直してからも少しの間は顔の熱を感じていた。少し冷たい空気のせいだろうか。
額が冷めてから無意識に他の人の顔から目を逸らしてしまう癖が出ていたことに気が付いた。彼らの顔の造形が気になり、NPCではあるのだが、なんとなく悟られないように少し商人っぽい人の顔を覗いてみる。
「うわぁ…」
荷物を抱えながら外の風景を眺める横顔は本物の人間と変わらない気がする程で、思わず声が出ていた。綺麗な外国人っぽいのだが、肌とかまつげとか細部まで完全にリアルだ。不気味の谷はとっくに通り越しており、美しさは芸術品のようでありながら被造物感がない自然さもある。そんな彼のその琥珀のような目は何処か遠くを見据えていて、後ろの雄大な自然と相まってとても絵になる。
そして矮小な僕は緊張し始める。遊園地の大きいぬいぐるみだと思っていたものが着ぐるみだったときのような気分だ。いや、今回はその着ぐるみの中身が結局のところロボットではあるのだが、人間のように見えるものが人間のように動いて話すのだ。
「おや、これが哲学ゾンビか、初めて見たなぁ」などと間違った感想を抱きつつも先ほどの醜態がまた恥ずかしくなってきた。つい、俯いて自分の額を手で押さえる。手が冷たくて心も冷たいタイプの人間なので、物理的に頭を冷やして少し落ち着けるのだ…しかし、期待以上のリアリティだ。素晴らしい。さっきの会話もあらかじめ設定されていたのか、それともAIで出力しているのかさえも分からないが、どちらにしろ現時点でも満足感がある。
「あら、具合でも悪いの?大丈夫?」
すると、頭を抱えた僕を見て今度は村人っぽい女の人が声をかけてきた。
「い、いえ、考え事してただけです、あっ、ありがとうございます、お気遣ぃ…」
「そう?ならいいのだけれど」
…
何故かさっきよりも静かな気がする。不思議だ。最初から変わらずに馬車や風の音は鳴っているのに。
…
僕にはこのゲームができないかもしれない。なぜ僕は人と話すというのがこんなにも下手なのだろうか。いったんクッションを挟んだり語順が前後したり、自分でも話しにくいはずなのに…いつからだろうか、うまく人と喋られなくなっていたのは。最初からかも…NPC相手でもしっかりコミュニケーション能力の弱さが出てしまう僕にげんなりする。ぐんにょりだったっけ…泣きそう。というよりもそもそもなぜゲームでこんな気分にならなければならないのだろうか。いや、さっきはすごく楽しかったんだけれどさ…
気分の寒暖差で風邪を引きそうになりながら、ふと気づく。
そういえば、メニューボタンとか見てないな…
今現実で僕が入っているこのスーツ型のものにはヘッドギア型のものと異なりコントローラーが無い。そこもまた没入感を与えるうえで素晴らしい点ではあるのだが、ゲームにおける不文律であるメニューなどの操作が分かりにくいというデメリットもある。当然ながら安全対策として設定された時間(初期設定で6時間)が経過する、あるいは簡易的にモニターされている健康状態に異変があると自動で一度シャットダウンするようになっているので不安があるわけではない。しかし、どうしたものだろうか。普段のゲームは最初に設定をいじるところから始めるのだが、このゲームはそもそもタイトルすらなかった。そこも好みな部分ではあるのだけれど。
「えぇっと…?」
メニューを開くために手のひらや腕などを見たり、「メニュー」や「設定」、「オプション」など適当に呟いてみるが何も反応がない。
同乗者の目も忘れ、試行錯誤をしているといつの間にか馬車が止まっていたことに気が付いた。
目的地に到着したのだろうか?それにしては静かな様子で近くの二人も動く気配がないようだが…
僕の身体から視線を上げると、さっきよりも木々の密度が少し高くなり、それゆえに薄暗くなっていた。そして、馬車の周りには何か怖い雰囲気の男たちが僕たちを取り囲むように立っていた。男たちはその手に剣や斧、棍棒などの武器を持ち、革っぽいもので出来た防具を身に着けている。さっきの優しげだった商人っぽい人は荷物をかばうようにしながら屈強そうな男たちを睨みつけている。あの女の人は対照的に目を閉じて静かな顔をしているが、体の前で組まれた手は強く握りしめられ震えている。
「クソ、なんでこんなときに山賊が…」
商人っぽい人が静まり返ったこの空間にそう零す。
さっき確認できた僕の装備は目の前の山賊と同じくらいだ。武器は片手剣がベルトで腰にある。ただ、相手は見える限りで八人は居る。御者の方にも数人見えた。
山賊の一人が荒げた声で言った。
「男は3、女は2でかかれ!」
山賊たちが動き出す。商人っぽい人は僕のと同じような片手剣を、女の人は短剣を手に持った。僕もたどたどしく片手剣を抜き、荷台の上から降りて山賊に対峙する。
にじり寄ってくる三人の山賊の男たちも、リアルだ。汚れた髪の毛、呼吸する顔、武器を構えた腕、こちらを覗く眼。
見よう見まねで剣を持ち、様子をうかがう。
いきなり戦闘か?普通に剣を振れば良いんだよな?なんだか怖いな、心臓がバクバク言っているし、少し寒気がしてきた気がする。
「おらっ!」
山賊の一人がこちらに踏み込み、その手に持った斧を斜めにふるってきた。慌てて交差するように剣を当ててみる。
金属の擦れる音、手に伝わる強い衝撃、しかし振るわれた斧は止められた…そしてもう一人の山賊によって斧とは反対側から振るわれる剣。慌てて左手で身体を庇う。静電気のような小さい痛みが左腕に走る。瞑ってしまった目を開くと真正面に槍を構えた山賊が見えた。思わずまた目を瞑る。
あぁ、負けイベかな、これ怖いんだけど…でも、それ以上にすごい。
やっぱり、ゲームは楽しいなぁ
「吹色、見っけ!妖精の祝福!」
槍にビビッていたところに突然、卒業式ぶりな自分の名前が聞こえた。
「え?」
驚きと戸惑いで目を開けると、灰色の世界が広がっていた。
槍を刺そうとする山賊、剣を止める腕、鳥の飛ぶ空、見上げる程の木、全てがグレースケールで動きを止めている。色の抜けた世界で唯一の色は僕が握る剣の刃全体に灯った、青みがかった緑の光とその色で剣先から描かれた複雑な軌跡のような線だけだ。まるで時間が止まっているかのような光景だが、光は仄かに揺らめいている。揺らめく光…どちらかというと光よりも炎の方が正確そうだ。そして、その青緑色の炎は振るうべき剣の軌道を描いているのだろう。ゲーム脳がそう推理した。
握りなおした剣で線をなぞり始めると世界全体に若干色が戻り、空の鳥がゆっくりと羽ばたき始めるのが見えた。止まっていた時間がかなりの遅さで流れ始めたようだ。
青緑の炎に導かれた剣はまず斧を跳ね上げ、次に向かってきていた槍を払い、左腕の装備に食い込んだ剣をその刃の途中から折った。その刃先は加速度的に落ちていく。時間の流れが戻ったようだ。
「っ!なんだ?」
「やれてねぇ!?」
「クソっ、剣が!」
攻撃をいなされた山賊たちは距離を取った。
さっきは力負けしそうだったのに、剣をふるっている間は殆ど重さを感じなかった。それに、レールでもあるかのように軌跡をなぞることが出来ていた。
「死ねぇっ!」
「おい待てっ!」
槍を持った山賊が一人で向かってくる。
剣にまた青緑色の炎が灯る。しかし今回のそれは剣の先だけにとどまるような小さいものだ。世界の色は少し薄まり、向かってくる敵は歩きよりも遅くなったが、完全に止まってはいない。とはいえ、斬るのに十分な速度であることに変わりはなく、炎は振るわれた。槍の穂先を弾き、そのまま流れるように青緑に輝く刃は男の首を通り過ぎた。
世界は色を取り戻し、山賊は槍を構えた姿勢で崩れ落ち、その首は転がった。その身体は徐々に血だまりに沈み、目を見開いたままの頭が自らを制止していた仲間の下で止まる。
「ああっ!レモス!畜生が!」
「この野郎っ!」
軌跡をなぞったことで剣の振り方の感覚を少しつかめた気がする。あの火はまだ点かないままに剣の山賊との距離を詰めて革鎧の隙間である首を横に切りつける。
「ぐふっ!…」
山賊は狙われた首を剣で守ろうと構えたが、刀身が折れていたために止められず、振るわれた刃は首に入り込み、しかし刎ねられずに止まってしまう。仕方なく剣を抜くと血が吹きだした。
血を抑えようと両手を赤く染めた山賊は、残りの斧を持った山賊にすがるような眼をしていたが、膝から崩れ落ちて直ぐにその眼から光が失われた。
なるほど、補助なしでの攻撃もできるみたいだけれど、力とか素早さみたいなのは自力のものになってしまうみたいだ…というかこのゲーム結構グロいなぁ。
「ケファーまで!クソっ!なんでこんな奴が!」
次はこの斧の男だ。斧と言えばリーチは短いが、力は強いというのが定番だ。さっきのあれが発動すればやれるだろうけれど、素の力じゃ抑えるのがギリギリだろう。
すると、ザッザッと足音がした。
「メトポ、お前は一旦下がれ…こいつは俺が相手する」
「団長ぉっ!…どうか…どうかあいつらの仇をお願いしやす!」
斧を持った山賊との戦闘の予想を立てていると、いつの間に来ていたのか男が近くに現れていた。団長と呼ばれたその男の身体は上半身が裸であるにもかかわらず他の山賊に比べて一回り大きく、その手には赤黒く塗れた棍棒を持っている。山賊の団長がこちらへの距離をじりじりと詰めてくる一方で、退いた斧の山賊は仲間の遺体の下へ行き、何かを探しているようだ。
おお…ボス戦っぽい雰囲気だ。最近のRPGのボス戦と言えば、大抵の場合何らかのギミックがあるものだが、ここはまだチュートリアルの範疇で、ただひたすら強敵と戦うというのもあり得そうだ。
「なぁ…坊主、うちの団に入らねぇか?あの二人をやれる程の腕なら歓迎するぜ?」
「おっと?…うーん…」
これは、あれか。ある意味でお決まりの、悪へのいざないイベントだ。よくあるパターンでは夢オチだったり強制バッドエンドだったりで、基本的には禁忌肢となっているものだ。でもこのゲームではどうだろうか、そのまま進行できそうではないだろうか。
武器の構えこそ解いてはいないが、僕が考えている様子なのを読み取ったのか、さらに山賊に入ることを売り込んでくる。
「うちの団は強さで序列が決まるんだ。その腕さえあれば直ぐに副団長くらいにはなれるだろう。そしたら金も酒も女も好きに出来るぜ、坊主の思いのままだ。ただ甘ったれた商人とか貴族を取り巻きごと殺しさえすればいい。だから…なぁっ!」
不意に山賊の団長は棍棒を振りぬいてきた…のだが、瞬時に視界は灰色がかり、本来ならば到底避けられるとは思えない不意打ちも昼間の公園で見る太極拳のようにゆっくりだ。そして、青とも緑とも言い切れないが、綺麗であるのは確かなその色の線は相手の棍棒を持った右腕の肘、大きく地を踏み込む左足の膝、そして剥き出しの首を通るように浮かんでいる。その輝く線は今までの二倍ほどの長さだ。
色の消えた世界で青緑の火を宿した片手剣を低めに構え直し、斬撃を導く線をなぞる。
全く抵抗感のないまま腕を斬り上げる。肘の断面から血がゆっくりと染み出している。
続けて膝に刃を滑らすと、少し重さを感じる。肘から先が離れ、握られていた手から棍棒も離れ、斬り終わる頃には共に地に落ちていた。灰色もほとんど薄れている。
最後に首を刎ねる線へと進むと、斬っている山賊の左腕が首を庇うように上げられ、首の代わりに手首を切断する感覚が手に伝わった。
「ぐぉおおお!」
「なるほど…」
どうやらこの時間が遅くなるのには切り終わったかどうかにかかわらず、斬り始めたタイミングからの制限時間があるようだ。そして、終わりに近づくにつれて効果が弱まっていくようだ。
ボトボトと手首と身体とが連続して地に落ちる音がした。
「クソ!完全に入ったはずだろぉっ!畜生!」
「結構おもしろいなぁ、このシステム。」
時間が止まったり、遅くなったりするものは遊びやすさと満足感がすごい。序盤はメアリー・スー的な、新しく言えば俺TUEEE的な爽快感があり、後半はむしろそれ前提での高難易度をこなす達成感があり、それも基本的には優先順位を考えるようなもので技術を要するようなものではないのが好ましい。つまり、僕の大好物である。
「よし、最初のボス撃破だ。難易度は低めっぽいね。」
「ぐっ…くそが…」
地に伏す山賊を見下ろせば、優し気に淡く色づいていた草花など見る影もなく、辺り一面を暴力的な赤が覆い隠している。放っておいても彼は死ぬのだろう。それでも僕は急かされるように首を落とす剣を構える。
彼が倒すべき敵であるうちに、彼が僕と同じ形をした人間であることに気付かぬうちに、終わらせなければならない。こんなことはゲームでなければならないのだから。
「…。」
剣は振るわれ、戦闘は完全に終了した。
さて、馬車を背に戦っていた筈だが他の二人はどうしていたのだろうか。振り返ると商人っぽい人は荷台にもたれかかるように座り込んでいて、女の人はうつ伏せに倒れていた。それぞれ周りには数人の山賊の死体があるが、何人か逃げたのか数が少ないように見える。
ひとまず、うつ伏せになっている女の人の息を確認するために仰向けに直そうと肩と腰に手を添えると、異様な冷たさを感じた。そのおぞましい冷たさに怯えながらも身体を転がすように仰向けにすると、腹部の辺りはナイフが刺さって赤黒く染まっており、美しかった彼女の顔は目と口を開けて、ただ必死さを見せるだけの表情で血に濡れて固まっていた。小麦色であった肌は青白さを帯び、どうしてよいかもわからず、そのままにしておくことにした。
次に、商人っぽい人の様子を見てみる。座っているので、まだ息があるかもしれないと考え、顔を見るために俯いた彼の頬に触れた瞬間、冷たく、そして油粘土のような感触がした。さっきと同じだ。取りあえず、横に落ちていた彼の剣をどけて彼の身体を横たえさせていると、彼の血で染まった布に包まれた荷物が彼の身体からずり落ちた。彼はこれを死んでもなお抱えていたようだ。
今ここにあるのは空の荷台と沢山の死体と血塗れの自分だけだ。これからどうしたら良いのだろうか。
「ふぅ、なんとか切り抜けられたね、吹色。それじゃあ荷物を漁ってから町に向かおう!」
と、途方に暮れていたのもつかの間に、どこかで聞いた明るい声が不意に聞こえ、体がビクッとこわばる。
「ッ!、え…?」
目の前の惨状とかけ離れた調子の声は頭上から聞こえた。見上げると、とても小さい少女がどこかで見たような顔でこちらを上から見つめていた。
「あっ、そっか。まだ会ってなかったっけ。ふふふ。私は妖精!妖精のクーだよ!これからよろしくね!」
「えっ、あっ、はい、よろしく。」
「うん!」
自称妖精の明るい調子に気圧され、僕には取り敢えずの同調しかできない。まるでまだ席が近い同級生と会話できていたときのようだ。
「…」
「…?」
しかし、この既視感はどこからだろうか。原作と名前が変わっていたために、それと気づかずに見たアニメのような…
血の匂いが漂ってきている。妖精の茶色く、肩にかからない程度の髪は風に揺れ、橙色に丸い瞳は煌めいている。
「…」
「どうしたの?…はっ、もしかして私の顔に何かついてる!?とってとってー!」
いつの間にか忘れていた肌寒さを再び感じ出した。活発な声による印象なのかもしれないが、どこかあどけない彼女には、頬と肩には謎の赤と青の紋様があり、たまに小動物のように動くエルフ耳が目に付く。
ゆったりと動かされる彼女の翅は陽を受けて青緑色に透け、ガラス細工のようだ。重ねられたシースルーの布でひらひらとしたファンタジーなドレスは風にはためき、そんな妖精のような装いの彼女はキャーキャー言いながら宙を楽し気に揺れている。
「…」
「…。ふふ…」
他のゲームに似たキャラがいたのだろうか?いや、でも…
訝しんで僕が覗き、そして深淵のようにこちらを覗き返す瞳は光の射した琥珀のように輝いている、太陽を背にしているはずなのに。
「あっ」
「おっ?」
…そうだ、この妖精はこのゲームのアイコンに描かれていた妖精だ。
VR機器が届くまで何度も開いた公式のHPにもいたのも思い出した。というよりこの子以外に紹介されているキャラクターが居なかった気がする。かっこかわいい立ち絵とファンタジーな紹介文でもう少しクールでツンデレっぽい雰囲気だと僕が勝手に想像していたのも、ここまで見つめ合い続ける時間を作った原因だろう。
「あれっ、にらめっこはもうおしまい?もう少ししよっ?」
「あっ、ご、ごめん。」
「えー?なんで謝るの?やらないってこと?残念だなー」
確かに、なぜ自分は謝っているのだろうか。自分でも疑問に思う。しかし、条件反射的な謝罪は僕のような存在が生きていく上で必須なパッシブスキルなのだ。ただこの妖精のご指摘の通りで、相手からしたら急に謝りだすめんどくさい奴とも見られてしまうのが難点ではある。
いつの間にか始まっていた”にらめっこ”は僕の負けで終わったというのに何故か刺すように彼女は僕を見続ける。じわじわとせり上がる不安感と落ち着かなさが僕に話を強制する。
「あー、えっと…」
「どうしたの?吹色」
「その…し、視線が…」
「視線がどうしたの?誰かに見られてる気でもするの?あんさつしゃ?」
ここで僕はハッとした。よく考えてみれば、別に見られているとは限らないのだ。そもそも、人の顔なんて基本的には見ないものだ。僕だって興味ないし。だというのに僕は自意識過剰になり、インターネットで路上の吸殻のように見飽きている哀れな怪物になるところだった。自分を見ているのは自分ぐらいなものだ。きっとこの妖精もにらめっこの後もこちらの方向をぼーっと見ていただけだろう。
「いや、何でもないです…気のせいだった…みたいな…はは…ごめん。」
「むー、また謝ってる。なにも悪いことしてないでしょー?」
「ああ、うん、そうですね…ごめん…」
「もー」
なぜ僕は、僕を誰かが気にすると思っていたのだろうか。僕は路傍の石だと僕自身で考えているはずなのに。やはり表層ではそのように思っていても深層心理では違うものなのだろうか。フロイトでも読むべきか…いや、そんなことよりゲームしよう…ああ、そういえば。
「それで、妖精さん。」
「ク―って呼んでほしいんだけどなー。まーいっか。どうしたの?」
烏の鳴き声が遠くから聞こえる。
「セーブして一回ホーム画面に戻りたいんですけど…」
「?…ああっ、アレね!えっと、せーぶは”このゲームはオートセーブです”…で、ほーむが
”ホーム画面に戻るにはガイドの妖精に『特別な魔法』を使うように伝えてください”だよ!」
妖精の容姿や声も相まって小学校での音読のようだ。その内容は国語の教科書ではなく、このゲームのシステムではあるけれども。
しかしなるほど、この妖精もあくまでゲーム側の住人であるようだ。このゲームは出来るかぎりメタさを無くそうとしているようだ。もう少し分かりやすくても良さそうだけれど、チュートリアルが終わるまでメインメニューが開けないゲームも少なくないだろう。
「そっか、最近のゲームは殆どオートセーブだもんなぁ。こういうゲームならなおさらか。」
「あっ、またせーぶの伝言を言うの?」
単語に反応するようになっているのだろうか、それとも、それがよくわからないためにそのようになるのだろうか。どちらにせよ一回現実世界に帰ろう。
「いや、大丈夫です。…えっと、セーブの伝言とホームの伝言は、しばらく言わなくて良いです」
「うん!わかったー!唱えるの大変なんだー。えへへ」
彼女は”唱える”と言った。それこそ呪文のように暗記しているのだとしたらいったい誰に教わったのだろう。妖精訓練学校みたいなところでもあるのだろうか。
「それで…特別な魔法っていうのを、お願いして良いですか?」
「おっけー!…吹色、あのね。」
「何ですか?」
初VRのひとり感想会が脳内で始まろうとしていたところに不意に聞こえたのは湖畔から零れたような静かな声だった。普段からは、と言ってもついさっき出会ったばかりではあるが、全く想像できないような様子で言う。
「吹色のラクな接し方で良いんだよ?私は吹色のことを嫌いにならないからね?」
「え?…あっ、はい…?」
十秒にも満たない間ではあったが、そのときの妖精は何処か魂が別人であるかのような雰囲気さえもまとわせていた。そこには早朝の霧がかった湖畔のような静けさと優しさと、そして何も見えないような深みがあった。
「うん!それじゃあ特別な魔法いくよー!さん、にー、いちっ!」
様子の戻った妖精は何かを尋ねられる前に逃げ切ろうとしているように見えた。
視界は瞬時にフェードアウトし、まぶたを開けるとホーム画面に、青く透けるマネキンの身体で立っていた。寄り道への好奇心を押し殺しながら電源マークのアイコンを探し出し、触れて出てくる「シャットダウン」の文字を確認してゲームを起動したときと同じように胸へ持っていく。
名残惜しいが一旦現実に帰る時間だ。夕飯の手伝いもVRを遊ぶ条件なのだ。
視界がだんだんと光に包まれていく。それは、夢から覚めるような、洞窟から抜け出すような感覚だと思った。そして僕は気づく。すでに僕の心は囚われたと。
…真っ暗だ。
重い蓋を開け、よく見知った天井を見る。ダイビングの終わりのように腕と足とを棺のようなスーツから抜いて、外へと抜け出す。さっきまで自分が入っていた機体に触れると、朝のベッドのように少し冷えていた。
「んんーっ、と。」
ひとつ伸びをしたら十数年間付き合ってきた肉の体で部屋を出て、リビングへ階段を降りていく…
「VRどうだった?弟よ。」
「いやー、最高に面白かったよ、姉ちゃん。」
「そんなに?あとで貸してよ。」
「えー。まあいいけど」
「ほらほら、話してないで吹色はさっさと手伝いな、世玲も食器並べて。」
「「はーい。」」
夜は更けていき、月と星が空に浮かぶ。人々は夢という内在する異世界に、彼は再びプログラミングに存在する異世界に入り込む。
ふふ、吹色、もう戻ってきたんだ。嬉しいな!…本当に。