第14話:勝利の剣
(ああ、切られると熱いんだな)
ヒルデガルトは、そんな暢気なことを考えながら、自分の血飛沫を眺めていた。
水仙を思わせる白い制服が、彼女の左目のような鮮やかな赤に染まっていく。
帝国兵の刃は、深く彼女の胸を、縦に切り裂いていた。生徒たちでも一目でわかる――致命傷だ。
目撃していた者たちの顔から血の気が引いていく。
(せっかく覚えた防御魔法、使えなかったな……鍛錬不足だ)
自己嫌悪に陥っているヒルデガルトの目に、帝国兵の返す刃が映っていた――首を狙っている。
だがその刃がヒルデガルトの首に届く前に、ディーターの声と共に乱戦を突破してきたライナーが、その帝国兵の首を切り飛ばしていた。
(これで、残り七名ね……)
ヒルデガルトは血を流しながら、冷静に戦況を見つめていた――これで膠着状態から抜け出せるはず。
彼女はまだ自力で立っていた。だがその出血は酷い。そう遠くない時間に意識を、そして命を失うだろう。
(この傷で、遺跡破壊できるかな……)
ライナーは乱戦を抜ける無茶で負傷を負っていたが、なんとか帝国兵とは渡り合えている。全体で見れば優勢だ。
ノルベルトも歯を食いしばって懸命に耐えている――ヒルデガルトの傍に駆け寄りたい衝動を抑え、己の役目を果たしていた。
後からヒルデガルトの負傷を知った者たちも、青い顔をしながら必死に帝国兵と渡り合い続ける。
拮抗していた戦力の均衡が崩れたのだ。帝国兵の精鋭も押し負けていく。
次第に帝国兵は数を減らしていき、間もなく四人、三人となり、そしてついに最後の一人が切り捨てられた。
血塗れのヒルデガルトは、微笑んで皆の健闘を讃えた。
「いやー、みんなも凄かったけど、さすが魔術騎士の精鋭ですね。お強い!」
確かに彼らがいなければ、この部屋を制圧できなかっただろう。
だが胸と口からおびただしい血を流し続けるヒルデガルトに褒められても、彼らは喜ぶことなどできはしなかった。
皆が悲痛な面持ちで彼女の周囲に駆け寄る。
突如、力尽きたように倒れ込むヒルデガルトを、背後からヴォルフガングが抱きかかえた。
皆がヒルデガルトの名を叫ぶ。
まだ瞼が動き、それが開かれたことに安堵の息が漏れる――たとえ、わずかな時間しか残されていなかったとしても。
(あれ、いつ倒れたのかな? 記憶が飛んでる?)
ヒルデガルトがヴォルフガングを見上げた。
「解析は終わったのですか?」
ヴォルフガングは首を振って、ただヒルデガルトを強く抱きしめていた。
彼の頭の中は、既に真っ白だ。経験豊富な彼だからこそ、愛娘の傷が取り返しがつかないものだと理解してしまった。無力感に苛まれている。
「ダメですよ? お父様は、お父様の役目を果たしてください。わたくしはまだ、大丈夫です」
(そう、まだ大丈夫です。私の蝋燭はまだ燃え尽きません)
その瞳には、燃え盛る炎のような強い意志が宿っていた。
皆はヒルデガルトのその瞳に魅入られたかのように、目が離せなかった。
魔術騎士の精鋭たちにも、それは理解はできなかった。
これほどの致命傷を負っても全く折れない心を持つ年下の少女に、畏怖すら感じていた。
――彼女は命を失うことを恐れていない。ただ真っ直ぐ、役目を果たす事だけを考えている。まるで戦場の死兵を見ている気分だ。或いは話に聞く殉教者というものなのか。そんな思いで魔術騎士たちは彼女の瞳を見つめていた。
そんなものを、この少女に感じる事に、ただ戸惑っていた。
フィルが前に出て、ヒルデガルトに申し出てた。
「できる限り、私に治療させてください」
ヒルデガルトは少し考えて、頷いた――どこまで治癒できるかは解らないけど、それで燃え尽きるまでの時間が伸びるのならば。
フィルが魔力同調し、ヒルデガルトの身体を癒していく。
外傷は塞がっていき、少しして出血が止まった。
「……申し訳ありません。これ以上の治癒は、私には」
そう言って、口惜しそうにフィル様が言った。
「いえ、充分です。ありがとう」
ヒルデガルトは咳き込みながら、可憐に笑っていた。
その口からは、まだ血が流れ続けている。
帝国兵の刃がヒルデガルトの内臓に損傷を与え、フィルは、そこまでは癒すことができなかったのだ。
その様子を見れば、致命傷が癒えていないことは分かってしまう。
ヒルデガルトが立ち上がり、「解析を、お願いします」と、ヴォルフガングの背中を押した。
彼女の瞳は「役目を全うせよ」と、強く命じていた。
ヴォルフガングは泣きそうになりながらも、歯を食いしばって遺跡の解析を再開した。
(残された時間は、あとどれくらいだろうか)
解析が終わるのが早いか。
帝国兵の応援が到着するのが早いか。
あるいは、ヒルデガルトの蝋燭が燃え尽きるのが早いか。
ジュリアスも、泣きそうな顔でヒルデガルトを見つめている――また俺は、傍に居るのにあなたを守れなかった。
ヒルデガルトがそんな彼に気づき、優しい微笑みで語りかける。
「ジュリアス、そんな顔をしてないで、お父様のサポートをして差し上げて?」
ジュリアスはしばらくヒルデガルトの瞳を見つめ、何かを決意したようにヴォルフガングの横に並んだ。
彼女の瞳が命じるまま、己の役目を全うする。今の自分にできる、それが最善なのだと理解したのだ。
なんとか一人で立っていたヒルデガルトがふらついた。
慌ててクラウディアとルイーゼが支える。
クラウディアが泣きながら叫んだ。
「ねぇヒルダ! 魔法で傷を治せないの?!」
ヒルデガルトの力ない声が応える。
「治癒は、治癒の神の特権なんですって。だから私には使えないって言われたわ。それに、フィル様が治療してくださったから、少しはマシになったはずよ?」
涙目のクラウディアが、悔しそうに唇を噛む。
ヒルデガルトは二人に支えられながらヴォルフガングを見て、じっと解析が終わるのを待っている。
そんなヒルデガルトを、少し離れた背後でノルベルトが見つめていた。
歯を食いしばり、爪が食い込むほど両手を固く握っている。
彼もまた、己の役目を全うしようとしている。ヒルデガルトが役目を全うする姿を、見守っているのだ。彼女の命が燃え尽きるその瞬間まで共に居ようとしている。
そんなノルベルトの視線に気が付いたのか、ヒルデガルトが彼に振り向いた。そして、優しく微笑むのだ――そこに、死の影に対する怯えは全く見えなかった。
命を捨てている訳ではない。
着実に歩み寄ってきている死に怯えるわけでもない。
その双眸は燃え盛る意志でただ一つのことを、「己の役目を全うせよ」とひたむきに命じるのだ。
そんな彼女の姿に、その場に居る者は圧倒され、この部屋は支配されていた。
解析をしていたジュリアスが「クソッ!」と罵声を上げた。
隣ではヴォルフガングも項垂れ、肩を落としている。
ジュリアスの声に反応してヒルデガルトが振り向いて、尋ねる。
「解析、終わりました? この遺跡は破壊できそうですか? 無力化は?」
ヒルデガルトの問いに、ヴォルフガングが静かに応える。
「この遺跡も、存在が屈折している構造物だ。私たちの術式で傷をつけられるものではなかった。そして、この部屋のいたるところに古代魔法に関する記述があるようだ。この部屋全体を破壊しなければ、目的は果たせない」
「そう、ですか……」
ヒルデガルトが静かに応えた。
その瞳が伏せられ、何かを思案していた。
この部屋のどこまでを帝国が解析し終わっているのか、それを知る術はない。
確実に帝国の目論見を阻止するなら、完全破壊以外にはない。
――ならば、最後の手段を取るしかない、か。
ヒルデガルトにヴォルフガングが語りかける。
「ここは一度、退こう。あとは軍に任せるんだ」
当初のプラン通りだ。破壊が無理ならば軍で占拠し、防衛するのだ。
だがヒルデガルトはそれに対して、静かに首を横に振った。
破壊できなければ、帝国との戦争は避けられない。遺跡を占拠しても守り切れなければ、王国は滅ぼされる。
確実に国を守るためには、今此処で、遺跡を破壊しなければならない。
――私の蝋燭が残っている、今のうちに。
ヒルデガルトが伏していた目を上げた。その双眸は未だに熱く燃え盛っている。
彼女はヴォルフガングの瞳を見据えて言葉を発した。
「わたくしがこの部屋を破壊します」
それは、死にかけている人間が出した声とは思えないほど、明瞭で力強いものだった。
部屋全体に響き渡り、聞いていた者たちの心に届いた。
――ああ、彼女が果たそうとしていた役目はそれだったのか、と。
ヴォルフガングが破壊不可能だと判断した時、彼女がこの部屋の破壊を引き受ける。それこそが彼女の役目だったのだと理解させられたのだ。
ヒルデガルトがクラウディアとルイーゼを押しのけ、一人で立った。
わずかにふらついて、すぐにクラウディアが駆け寄ろうとしたが、彼女はそれを手で制止した。自らの足で力強く床を踏みしめ、立ち直していた。
絶えず口から血を流しながらも、気高く、そして凛々しく、一人で立っている。
皆を見渡した後、血に塗れてしまった水仙が、燃える双眸で再び言葉を発する。
「これから神の権能を使います。みなさまは遺跡の外まで避難してください。どこまで力が及ぶか、わたくしにも解らないの」
ヒルデガルトの言葉は、再び力強く部屋に響き渡った。
彼女は「この遺跡から逃げろ」と命じた。それほどの力をこれから使うのだと。その瀕死の身体で。
誰かは思った「もういいじゃないか」と。「なぜそこまでするのか」と。
誰かは思った「一緒に逃げよう」と。「共に行こう」と。
その想いを口にしたいのに、その力強い双眸に見据えられて、言葉を口に出すことができなかった。
わずかな沈黙。重苦しい空気があった。
不意に彼女は、とても可憐で愛らしい笑顔に変わった。
「破壊が終わったら、ちゃんと迎えに来てくださいね!」
――それは、「もう、自力ではみんなの所へ帰ることはできないけれど」と密かに告げる言葉だった。
残った命の全てを燃やしてでも、自分は役目を全うすると、燃え盛る双眸が語っていた。
だが「一人では寂しいから、迎えには来て欲しい」と、愛らしい笑顔でお願いするのだ。
――それが彼女の最後の願いであるならば、役目を終えた彼女を迎えに来るのが、我々の最後の役目なのだろう。
そう理解したものから順に、部屋から通路へ駆け出していく。
一人、また一人と足音が駆けていく。
嗚咽を堪えながら駆ける者、涙をこぼしながら駆ける者、歯を食いしばりながら駆ける者――
「共に生きてくれるといったじゃないか! ならば死ぬ時は私も共に! 最後まであなたを見守らせてくれ!」
ノルベルトが遂に耐え切れずに叫んだ。
それをライナーとフランツ王子が引き留め、通路へ引きずっていく。
「お前の役目は! 彼女を最初に迎えに来ることだろう!」
フランツ王子が叫んでいた。その言葉で、ようやくノルベルトの足も遺跡の出口へ向かい始める。
そんなノルベルトの背を、ヒルデガルトが可憐な微笑で見つめ続けていた。
(今までありがとう、ベルト。一緒に生きてあげられなくて、ごめんね)
****
皆の気配が遠のき、ヒルデガルトがふぅ、と息を吐く。
吐息と共に、彼女の短くなった蝋燭の炎が揺らめいた。
――あともう少しだけ。まだ、早い。
目を開けたまま、彼女はイングヴェイの気配を手繰り寄せ語りかける。
――今、目を瞑ったら、もう開けられないかもしれないから。
(イングヴェイ、聞こえてるー?)
『ああ、もちろん。感度良好だ』
軽妙な声が彼女の頭に響き渡る。
(あなたの破壊の権能、借りるわね)
『……全力を尽くすつもりかい?』
(今の私に、二回目はないと思うの。一回で確実に破壊しなければならないわ)
一呼吸の間があった。
『それが君の意志ならば、私はそれを尊重しよう』
軽妙なのに、どこか寂しい色をはらんだ彼の声が、彼女の頭に響いた。
(ではお願いイングヴェイ。あなたの権能を私に貸して!)
『心得た』
彼の覚悟を決めた声が、彼女の願いに応じた。
イングヴェイの濃密な魔力が、ヒルデガルトの手元に集まってくる。
魔力は眩い金色の剣を形作り、彼女の両手に握られていた。
(綺麗……)
ヒルデガルトは一瞬、その美しさに見惚れていた。
――イングヴェイの権能そのものは、彼と同じ美しさと力強さを持っていた。神々でさえも抗うことのできない、絶対の力だ。
不意に彼女は一度大きく咳き込んだ後、口の中にある鉄錆の味を吐き捨てた。淑女としては減点行為だ。
これで彼女の蝋燭はもう――でも、間に合った。
「あーすっきりした。あの味、ずっと邪魔だったのよね――じゃあ、最後に一発、派手なのいくわよ!」
彼女は自分に言い聞かせるように、力強く独り言ちた。その双眸は未だ、熱く燃え盛っている。
床をその双眸で見据え、剣を頭上に振りかぶった。
「せーのっ!」
残った力、全てを込めて振り下した。
その視界を、金色の閃光が覆った。




