第4話:はじめてのお茶会(1)
「お嬢様、おはようございます」
ウルリケの声で、ヒルデガルトがパチリと目を開く。「おはようウルリケ」と応え、彼女はゆっくりとした朝を味わっている。
忙しない日々が終わりを迎え、ヒルデガルトの心にもだいぶ余裕が出てきた感じだ。
「すっかり隈も消えましたね」
ウルリケがヒルデガルトの目元を確認して微笑んだ。
この一週間、ヒルデガルトは夜も朝もきっちり寝ていた。隈が消えてくれなくては困ってしまう。
ヒルデガルトがそう言うと、ウルリケは「若さっていいですよね……」と、どこか遠くを見る目つきで床を見ていた。
肌のダメージは、年齢を重ねるほど治りにくくなる。その実感は年を経た時にしか得られない。後悔先に立たずである。
(これからは気を付けようっと!)
今日は午後からヒルデガルトのお茶会が開かれる日だ。
つまり、彼女の社交デビューということである。
普段の講義は丸一日、お休みになっている。
ヴォルフガングは誰を招待したかを、最後まで「古い友人とその娘たちだよ」としかヒルデガルトに教えなかった。
彼は悪巧みをする笑顔で毎日躱していた。
「相手の情報が分からないのでは、対策しようがないではありませんか」
そうヒルデガルトが訴えても
「対策なんて、しなくても大丈夫だよ」
と、優しく頭を撫でていた。
どうしても不安だったヒルデガルトは、彼女なりに対策は取っていた。だがそれが役に立つかは、彼女にもわからなかった。
ウルリケたちが忙しなくヒルデガルトを着飾らせていく。彼女はお人形のようにされるがままだ。
軽い昼食を取った後に最後の仕上げで化粧を施された頃、最初の客人が邸に辿り着いた。
「久しいな、ヴォルフガング。いつ以来だ?」
厳めしい武人のような男がヴォルフガングと握手を交わした。年の頃はヴォルフガングよりだいぶ若い印象を受ける。
「私が家督を譲って以来会っていないから――五年振り、といったところか。貴公は相変わらず若々しいなシュテファン」
ヴォルフガングが公爵家の家督を息子に譲って以来の邂逅だ。
シュテファン、と呼ばれた男の視線がヒルデガルトを捕らえた。
ヴォルフガングがヒルデガルトに頷いてみせる――挨拶をしろ、ということだ。
「お初にお目にかかりますシュテファン様。ヴォルフガング・フォン・ファルケンシュタインの娘、ヒルデガルトでございます」
恭しく淑女の礼で迎えた。
――このカーテシーは、連日ウルリケから厳しく採点され続け、最近になってようやく合格を貰ったものだ。伯爵令嬢として満点と言えよう。
シュテファンは「ほぅ」と声に出し、胸に手を置いた略式の礼で返した。
「シュテファン・フォン・ヴィンケルマンだ。今後ともよろしく」
男は恭しく名乗りを上げた。
(……今、なんと?)
ヒルデガルトは淑女の礼で固まったまま、横目でヴォルフガングに問いかける。
「お父様?」
「なんだい? ヒルダ」
「何故、西方辺境を守護するヴィンケルマン公爵がお見えになってるのですか?」
ヴォルフガングの眉が跳ね上がり口角が上がる。”面白いものを見た”という、実に楽しそうな表情だ。
ここまでヴォルフガングは、ヒルデガルトに国内の人材に関する教育など施していない。その彼女の口から、シュテファンの爵位や役職が飛び出て来たのだ。
「今回は親しいご友人と、わたくしと近い年頃の貴族令嬢を招いた、としか聞き及んでおりませんが、公爵のお身内で該当するのは、グランツ中央魔術学院に寄宿しているクラウディア様だけですわよね? まさか、本日のためにお二人をお呼び出ししたのですか?」
シュテファンの娘の情報までヒルデガルトの口から出て来たことで、ヴォルフガングの笑みが増す。
ヒルデガルトは、ギギギ、と油の切れたブリキ人形のような緩慢な動きでヴォルフガングを見上げた――連日の鍛錬で身に着けた淑女の微笑を浮かべつつ、オーラで威嚇している。
ヴォルフガングはとうとう、堪え切れずに笑い出した。
「はははは! よく知っていたね。その通りだとも。ほら、クラウディア嬢がやってくるよ」
(笑い事! じゃ! ない!)
ヴィンケルマン公爵家はこの国でも屈指の家格を持つ。通常の伯爵家とは比べ物にならないほどの格上だ。本来なら交友関係がある訳がない。
だがヴォルフガングもまた、この国で一、二を争う家格を持つファルケンシュタイン公爵家の前当主だ。
この二人に交友関係があっても、それは当然の事と言えよう。
ヴォルフガングの来歴については、ヒルデガルトも教わってきたので知っている。
(けれど! 私は元孤児で社交デビューの、言ってみれば下っ端も下っ端、木っ端や塵芥なんだけど?! 初手から公爵家のお姫様?! お父様?! 手加減という言葉を少しは覚えてくれないかな?!)
スパルタここに極まれり、である。
ヒルデガルトが固まった笑顔でヴォルフガングを密かに睨みつけていると、ヒルデガルトに近づいてくる気配があった。
それに気づいたヒルデガルトが慌てて姿勢を正し、その気配を迎える。
ヒルデガルトは一目見て、心を奪われていた。
(これは……まさにお姫様だわ……)
長いシルバーブロンドを下ろし、上品だけれど質素なシルクに身を包んだクラウディアは、だがしかし、その気品に満ちた儚い微笑のみで周囲の空気を支配するだけのオーラを纏っていた。
(西方の妖精、なんて聞いていたけど、これは確かに妖精だわ……)
その切れ長の目が、ヒルデガルトを捕らえた。
ヒルデガルトは慌てて、しかしできる限り恭しく淑女の礼を深く取る。
「お初にお目にかかりますクラウディア様。ヴォルフガング・フォン・ファルケンシュタインの娘、ヒルデガルトでございます。西方の妖精と名高いクラウディア様にお会いできる僥倖、まことに光栄でございます」
クラウディアの目が、ガチガチに緊張したヒルデガルトを品定めしていく。
僅かな沈黙の後、クラウディアが淑女の礼を返した。
「ヴィンケルマン公爵家が次女、クラウディアでございます」
(声も、鈴が転がるような美声……)
ヒルデガルトがそのまま緊張していると、クラウディアから意外な言葉が投げかけられた。
「ヒルデガルト様、そのように硬くならずともよろしくてよ? もっと気楽に参りましょう?」
(え? 気楽って?)
いつの間にか、驚くヒルデガルトの目前まで歩を進めていたクラウディアが、その手を取っていた。
「今日は親しい間柄同士の小さなお茶会ですもの。リラックスリラックス!」
儚げな笑顔に促され、ヒルデガルトは淑女の礼を解いた。
(間近で見ると、破壊力倍増だわ)
ヒルデガルトはクラウディアの顔をまじまじと眺める余裕も生まれていた。
おずおずと、ヒルデガルトがクラウディアに尋ねる。
「あの、質問をよろしいでしょうかクラウディア様」
「ええ、よくってよ?」
敵意のなさそうな笑みに見惚れつつ、ヒルデガルトは言葉を続けた。
「クラウディア様は、本日お見えになる方々を存じ上げてらっしゃるのですか? お父様は教えてくださらなくて……」
クラウディアは「まぁ、ヴォルフガング様ったら、意地悪ね」とヴォルフガングを一瞥した後、
「私以外は、ルイーゼ・フォン・ブラウンシュヴァイク様、エミリ・フォン・レーカー様、アストリッド・フォン・シャーヴァン様がお見えになるそうよ?」
と答えた。
ピシリ、とまたもやヒルデガルトの笑みが固まる。
「……お父様?」
「はははは! なんだいヒルダ?」
ギギギギ、と再び回ったブリキ人形の首がヴォルフガングを見据えた。
「まさか、北方守護のブラウンシュヴァイク辺境伯と東方守護のレーカー侯爵、南方守護のシャーヴァン辺境伯が今日、お見えになるということですか?」
ヴォルフガングは本当に楽しそうに笑い続けている。
「はははは! そういうことになるね」
(――笑い事ではない!)
ヒルデガルトの堪忍袋の緒が切れた。我慢の限界、という奴だ。
「我が国の守護の要を軒並み呼びつけて、何かあったらどうするのですか?! わたくしなどより優先すべきことがございましょう?! お父様のお心遣いは感謝いたしますが、優先度を間違えるなど言語道断ですわ!」
ヴォルフガングに向き直り、ヒルデガルトは烈しく吼えた。
(いくらなんでも度が過ぎている!)
ヒルデガルトの目には、今この国の守備がノーガードに見えている。”兵が居ても指揮官が居なければ軍は機能しないではないか!”と憤っているのだ。
「ふむ。我が国はそこまで逼迫した状況に置かれていたかね?」
ヴォルフガングの試すような視線に苛つきながら、ヒルデガルトは一つ一つ答えていく。
「抑止力というものは、ただそこにあるだけで機能するものです」
有効戦力がそこに在る、ということが大事である。
そこに有効戦力が在るから、付近の敵対勢力は迂闊に動けなくなる。抑止力とはそういうものだ。
そしてヒルデガルトは”指揮官の居ない軍は有効戦力足り得ない”と考えているのだ。
「西方は内乱を平定して間がなく、いつまた争乱が起こるか分かりません。東方は隣国に他国との協調動作の兆しがあります。南方、北方は安定しておりますが、東西に動きがあればフォローに回らねばなりません。迂闊に動かしてよい方々でないのは、お父様なら十分ご理解しているはずでございましょう?」
レブナント王国は大陸中央に位置し、グランツ領はそのさらに中央に近い位置にある。
西方国家とは不可侵条約を結んでいるが、不法移民が春頃に武力蜂起し秋に鎮圧、平定したばかり。未だ小競り合いが絶えず、次にいつ爆発するかわからない状態だと言われている。
一方、東方には不可侵条約を結んだ国がない。この何十年もの間で、なんども侵攻を受けては退けているような間柄だ。攻め落としても旨味がない、ということで放置されている。
南方国家とは交易が盛んで、友好国ばかりだ。彼らには武力が乏しいので、交易で有利な条件を得ることと引き換えに、南方国家が侵攻された場合は助勢する同盟を結んでいる。彼らが侵略を受ければ兵を出さねばならない。
北方はこの季節、雪に閉ざされているので攻め込まれる心配はない。
だが東西が同時に争乱に巻き込まれた場合、南北の戦力は東西戦力のバックアップとして守備を担う必要が出てくる。
これが現在のレブナント王国の状況だ。少なくとも、ある程度以上の市民階級の者はそう認識している。それをヒルデガルトも知っていた。
そんな状況で東西南北の軍の要を中央に集めてお茶会など、ヒルデガルトには正気の沙汰とは思えなかった。
ヴォルフガングはニヤニヤとヒルデガルトを眺めながらシュテファン――ヴィンケルマン公爵に問いかける。
「……どう思うね? シュテファン」
「この娘は――いや失敬、ヒルデガルト嬢は、本当に一か月前に孤児院から引き取られたばかりなのか?」
驚いた様子で応えたヴィンケルマン公爵に、ヴォルフガングが「もちろんだとも」と頷いて返す。
少なくとも、無教養の孤児が、貴族の所作や教養と共に一か月で押さえられる情報量ではない。
「引き取られる前に知っていた……と、いうことではないのか?」
ヴィンケルマン公爵とヴォルフガングから目線で促されたので、ヒルデガルトが返答する。
「孤児院では、基本的な読み書きと数の計算、社会の仕組みの基礎だけを勉強しておりました。怠惰な平民よりは教養があったという自負はございますが」
ヒルデガルトの声には険が含まれていた。
ヴィンケルマン公爵が悪い訳ではないと分かっているのだが、ヒルデガルト自身にも抑えきれなかったのだ。
ヒルデガルトの言葉に、ヴィンケルマン公爵は目を瞠りながら応えた。
「本当に一か月で身につけさせた知識か。大したものだ――いったい、どれほどの無茶をさせたんだ?」
ヴィンケルマン公爵の眉が顰められ、非難めいた眼差しがヴォルフガングを射抜いていた。
ここまで、貴族の所作として不足はなかった。それらと並行して叩き込むには、過酷なスケジュールを組まされたはずだと判断したのだろう。とても子供に課するものではない。
「私は何も強要していないよ。娘が自発的に勉学に勤しみ身に着けた血肉だ。我が娘を侮ってもらっては困るな」
楽しそうなヴォルフガングの笑顔は崩れない。その目線はヒルデガルトを捕らえたままだ。
そしてヴォルフガングはヒルデガルトに優しく、窘めるように言葉を紡ぐ。
「ヒルダ。まだまだお前は勉強が足りていないから思い至らないのだろうが、最高指揮官が居なくとも軍が機能するように組織を整備するのもまた、最高指揮官の仕事のひとつだ」
(えっ? そんなことできるの?)
ヒルデガルトが呆然としているところへ、ヴォルフガングの言葉が次々と紡がれていく。
「つまり、ごく短期間なら優秀な副官が代理を務めることができる。そして軍事は、事態が動くのに時間がかかる――大量の人間が動くからね。きちんと兆候を察知し、正しく迎え撃つのであれば最高指揮官が数日留守をしても問題はないのさ。そもそも現在、我が国周辺の状況はそこまで逼迫していない。西の武力蜂起は今後半年、大きな動きは起こせない。東の兆候もいつもの見せかけだ。そして今日招待した者たちは、一週間どころか一か月以上、指揮官代理を任せても不足はない駒を揃えている――つまり、お前の心配は杞憂、と言うことだ。何の問題もない。解ったかな?」
ヒルデガルトはヴォルフガングの言葉に、説得力を感じていた。
ヴォルフガングは一般の認識より遥かに正確に情勢を知っている。これまでの人生で培った人脈や情報網がそれらを教えてくれるのだ。
(確かに、言われた通りであれば問題はない――)
ヒルデガルトはがっくりと肩を落とした。
(私の早とちりだ。まだまだ勉強が足りていなかった……)
「理解しました。大きな声を上げてしまい、申し訳ありません」
ヒルデガルトは深く頭を下げ、ヴォルフガングに謝罪した。
だが、ヴォルフガングはヒルデガルトに優しく言葉を返した。
「気にすることはない。この短期間でそこまで把握できているだけでも並外れているのだよ。国内の重要人物もある程度把握しているようだし、どこで身に着けた知識なのか、私が聞きたいくらいだ。お前に着けた教師は、そこまで把握している人物ではなかっただろう?」
ヒルデガルトは渋々と答える。
「……一週間前から、屋敷内の使用人に手当たり次第聞いて回りました。皆の言う事を統合して現在の情勢や国内外の勢力図などを多少は存じあげている、というところです」
ヴォルフガングが「誰が来るか」を教えてなかったので、自力で国内の主要な人物について聞いて回る。これがヒルデガルトにできる精一杯のお茶会対策だった。国外の情勢は、おまけでついてきたので覚えていた。
ちなみに主な情報源はウルリケである。あの侍女は別格だ。国内外のかなりの所をフォローしていた。
ウルリケで分からないことを、ウルリケが判断した使用人の元へ行き話を聞いていた。
ヴォルフガングもそれに気づいたのか、ウルリケを見て「いい仕事をしたね」と褒めていた。
「ねぇヒルデガルト様、私とお友達にならない?」
鈴のような声が辺りに響いた。
ヒルデガルトは声をかけられたことで、クラウディアの存在を思い出していた。
「あっ! お見苦しいところをお見せして、大変申し訳ありませんクラウディア様――ってお友達、ですか?」
ヒルデガルトが目を瞠って問い返すと、クラウディアは相変わらず儚く笑っていた。
「あなた、一見すると可憐で可愛らしい方なのに、しっかりと自分を持ってらっしゃるのね――とても面白いわ」
(面白い、ですか?)
どうやら、ヒルデガルトの可憐な外見と裏腹に、義憤でヴォルフガングに吼えてみせた気概が気に入ったらしい。
「わたくし、努力できる方って好きよ? ――だから、お友達になってくださらない?」
このお姫様にこう言われて、断れる人が居るだろうか。いや居ない。
「わ、わたくしでよろしければ喜んで! ……あの、もしよろしければ、ですね……私のことはヒルダ、とお呼びください」
ヒルデガルトが顔を真っ赤にしながら願いをおずおずと口にした。
その様子を楽しそうに眺めながら、クラウディアは返答する。
「……解ったわヒルダ。ではわたくしの事はクラウと呼んで?」
(愛称で呼べと? このお姫様を? 私が? 神様、ハードルが雲の上に届きそうです)
格上のお姫様からの要望だ。拒否権などという甘いものは、ヒルデガルトにはない。
「く、クラウ様」
「様は要らないわ」
(そこは妥協してくれてもよくない?!)
「ぐっ……クラウ」
「ええ、なにかしら?」
真っ赤だったヒルデガルトの顔が更に茹でだこになっていった。首から上が全て朱に染まっている。
「これ、心臓に悪いです、クラウ……」
真っ赤な顔のまま泣き言を言うヒルデガルトを見て、クラウディアはクスクスと笑っていた。
こうしてヒルデガルトにとっての貴族最初の友人がお姫様、ということになった。
だがすぐにクラウディアの本性を思い知ることになるとはこの時、ヒルデガルトは露ほども考えていなかった。