第3話:はじめての魔術講義
ヒルデガルトがヴォルフガングに引き取られて一週間が経過した。
朝は太陽が昇るより早く起きて予習し、午前三時間、午後三時間の所作の授業を受け終わると、寝るまで復習をする、という生活を彼女はしていた。
ウルリケが控えている時間帯は、ウルリケが所作の指導を行っていた。
夜遅くになり、ウルリケが下がってからは、明け方近くまで一人で教材を何度も読み込み練習していた。
その甲斐あってか、ウルリケから「甘く見れば及第点ですね」と言ってもらえるようになっていた。
「お嬢様、隈が酷いですよ」
ヒルデガルトの睡眠時間は平均二、三時間だった。そんな生活を一週間もしているのだ。隈ができて当然だった。
「貴族令嬢は美容にも配慮しなければなりません。こんなものを作ってはいけませんよ」
そんなウルリケの窘める言葉に、ヒルデガルトは言葉を返した。
「時間がないんですもの! 入学する四月までです!」
既に言葉遣いも矯正されていた。貴族らしい言葉遣いでウルリケに反抗したのだ。
そんなヒルデガルトに、ウルリケは首を横に振った。
「入学したときに隈が消えていないといけません。隈を消す期間を設けますので、期限はもっと手前になります」
(さらに密度を増さないといけないじゃないか……)
ヒルデガルトはがっくりと肩を落としつつ、日課になっている予習を、ウルリケに見てもらいながら再開する。
彼女の忙しない日々はそうして過ぎていった。
****
新年を迎えた邸の書斎で、ヴォルフガングはワインを嗜んでいた。
「お前の目から見て、我が娘はどう映る?」
背後に控える侍従に声をかける。侍従は恭しく頭を上げ、報告するように述べた。
「はい。昼夜問わず勤勉に励んでおられるようで、伯爵令嬢として十分な所作と教養を身に付けておられるかと。お嬢様は大変な努力家でいらっしゃいます」
侍従の、心からの賛辞だった。血の滲むような努力を重ね、ヒルデガルトは予定より遥かに早く目標に到達していた。それでも慢心せず、さらに先の勉強を続けている。
ヴォルフガングは頷きつつ、苦笑した。
「だが、使用人より早く起き、使用人より遅く寝る。こんな生活を続けていたら身体を壊すだけだ。勤勉すぎるのも考え物だな」
ヒルデガルトの隈は、日に日に重くなっていった。顔色もかなり悪い。それでも泣き言ひとつ言わず、必死に食らいついていた。
責務をよく理解し、努力を怠らない。実にヴォルフガング好みの人材だ。
だが、匙加減というものをどこかに置き忘れて来たらしい。周りがやりすぎないように目を光らせる必要があるように思えた。
侍従がヴォルフガングの言葉を受けて返答する。
「おっしゃる通りでございます。ウルリケからも自制するよう告げさせているのですが、ご本人が納得しておられないようで……」
ヒルデガルトはウルリケによく懐いていた。そのウルリケの言葉でも止まらなかった。
少しの間考えを巡らし、ヴォルフガングは計画を早めることに決めた。
「では、休まざるを得ない状況を作るとしよう」
そういってワインを飲み干すと、ヴォルフガングは机に向かい便箋にペンを走らせた。
****
「お茶会、ですか?」
朝食の席で、ヴォルフガングから意外な言葉が飛び出した。
「そう、お茶会だ。来週、私の親しい友人を招いて、お前に近い年頃の貴族令嬢を集めた小さなお茶会を開こうと思う。既に招待状は手配したから、今から中止にはできないよ」
ヴォルフガングはそう言ってヒルデガルトにウィンクを飛ばした。
(……お茶会って、そんな時間あるのかしら。いや、それよりも)
「でもお父様、貴族のお茶会というのは社交場ですわよね? お父様は社交界には出なくてもいいって仰ってませんでしたか?」
そう、以前ヴォルフガングは「不要だから行かなくて良い」と断言していたはずだ。
不思議に思い質問したヒルデガルトに対し、ヴォルフガングは笑みを浮かべて応えた。
「お前があまりにも強情だからね。睡眠時間を削ることができないようにしただけだよ」
ヴォルフガングは、己の目の下を指でトントン、と指差している。
つまり、不要な社交界デビューをさせてでも、ヒルデガルトの隈を消したいらしい。
(確かにひどい隈だと自分でも思うけど……)
「でもお父様、わたくしには時間がありません!」
ヒルデガルトに与えられた時間は四分の一を過ぎてしまった。残り三か月弱だ。
悲壮なヒルデガルトに、ヴォルフガングは笑顔で応えた。
「そんなことはないさ。お前は予定よりも、ずっと早く伯爵令嬢として恥ずかしくない所作と教養を身に着けた。だから今日からは午前中は今まで通りの授業を、午後は私が魔術を教えよう。もちろん、夜はきちんと寝ること。いいね?」
ヒルデガルトが納得できない顔をしていると、ヴォルフガングはさらに笑った。
「想定より二か月も早いよ! 大丈夫、安心しなさい」
その言葉でも、やはりヒルデガルトは納得できていない。
(お父様、笑い事じゃないです……)
「もう学院に通わせても問題ないレベルなんだよ? お前に着けた教師も、お前は飲み込みが早すぎて、予定より教えすぎてしまう、と笑っていたよ」
(だって不安だから、必死に勉強に打ち込むしかないんだもの……)
ウルリケがヒルデガルトを心配しているのは、その表情を見ていればヒルデガルトにもわかった。
だが、自身の不安を払拭するには、前に進み続けることしかヒルデガルトは知らなかったのだ。
毎日、渋るウルリケに「お願い!」と頼み込んで勉強に付き合ってもらっていた。
侍女の職務を超えた仕事をお願いしているのだ。ヒルデガルトはウルリケに本当に申し訳なく思っていた。
未だ不安がるヒルデガルトの態度を、ヴォルフガングは明るく笑い飛ばした。
「お前は心配性だね! もう私の自慢の娘だ、と胸を張って送り出せるくらいだというのに。来週になれば、お前もそれが解るだろう」
(お父様、娘は不安で胸が押しつぶされそうです……)
****
午前の所作と教養の授業が終わり、午後からの魔術講義が始まった。
講師はヴォルフガング本人だ。
彼は国内でも指折りの魔術師だ。若い頃は「近隣諸国を含めても並ぶものが居ない」とまで称えられていた。老境を迎えた現在は引退し、後進の指導に努めていた。
「まずは魔力を思うとおりに動かす訓練から始めようか」
いつものヴォルフガングの優しい笑顔で授業は始まった。
「はい、お父様」
今ヒルデガルトとヴォルフガングは、丸机を挟んで座っている。
机の上には燭台が置いてあって、蝋燭には灯がともっている。
「自分の魔力を指から伸ばして、蝋燭の火に触るんだ。魔力が届くと、火が揺れる――ああ、風は私の魔術で遮ってあるから、火が揺れたら魔力が届いた証拠だと思っていい」
そういってヴォルフガングは、伸ばした人差し指を蝋燭に向けた。
指先から数センチ先にある火が、ゆらゆらと揺れはじめた。
「とまぁ、こんな感じだ。最初のうちは、魔力を動かす感覚が解らないから時間がかかる。焦らず、根気強くやってごらん」
「はい、わかりました」
早速ヒルデガルトはヴォルフガングの真似をして指を火に向ける。
(魔力って、見えない力の事なのかな? さっきのお父様の指からは何も見えなかったし……見えない力を指先に集めるイメージ、でいいのかなぁ?)
彼女は、むむむ、と唸りながら意識を指先に集中する。
そうしてると、彼女の目には、自分の指先に薄い膜が被さっているのがうっすらと見えた。
(あれ? これが魔力?)
ちょっと試してみると、その膜は彼女がイメージする通りに動かせた。
(じゃあこの膜を火に向かって伸ばすイメージをすればいいのかな)
膜はイメージ通りに指から延びていき、火に触れると火が揺らめき始めた。
「ほぅ……」
ヴォルフガングから感嘆の声が上がった。こうもあっさりと魔力を制御できる子供は、とても珍しいのだ。
(うーん、この膜、火全体を包み込めそうだなぁ)
できそうな気がすればイメージも容易い。そうして膜は火全体を包み込んだ。
(このまま持ち上がりそう……)
空中に火を持ち上げるイメージをすれば、膜はその通りに火を蝋燭から奪い空中に火が浮かんだ。
「わー、浮いた」
ヒルデガルトの意識にはもう、ヴォルフガングの存在はなかった。初めての魔術、その現象に興奮しているのだ。
(なんだか膜と火が混じってる感じがする……このまま火を大きくできないかなぁ)
火を大きくするイメージを浮かべれば、膜を消費して火は大きくなった。消費した分を指先からつぎ足しつつ、慎重に火を大きくしていく。
手のひら大にまで大きくなった火に対して、今度は形を変えるイメージを与え始めた。
(花になれー……できた! じゃあ今度は……)
「人形?!」
ヴォルフガングが驚いて声を上げた。
それはぬいぐるみの様なフォルムだが、頭と手足、胴体があった。
形を変えるたびに膜は消費されるので、先程から継続して膜を指先から送り続けている。
(人形だから人の動きができるよね……午前にならったダンスを躍らせよう)
イメージすればイメージ通りに火は動く。動くたびに膜は消費されるので慎重に膜を継ぎ足していく。
空中でダンスを踊る火の人形は、最後にお辞儀をした辺りでふっと消えてしまった。
「あれ?」
よく見ると、彼女の指先にはもう膜がなかった。使い切ってしまったのだ。
なんだかどっと疲れを感じたヒルデガルトは、どさりと椅子にもたれかかった。
(でも、たのしかったー)
「ヒルダ」
ヴォルフガングに名前を呼ばれ、ヒルデガルトは慌てて姿勢を正した。
「はい! なんでしょうかお父様!」
(よく考えてみたら、言われてないことをやりまくってしまった。これは怒られる……)
ようやくこれが魔術講義であることを思い出したヒルデガルトは、冷や汗で背を濡らしていた。
だが、ヴォルフガングは怯えるヒルデガルトに優しく語りかける。
「ああいや、怖がることはないよ――予習をしてきた、ということではないのだね?」
(予習?)
ヒルデガルトは小首を傾げる。
「ええ、お父様。今日は何をするか教えていただいてませんし、予習はしておりません」
「では、何か変わったことはあったかい?」
(変わったこと、といえば、お父様の説明になかった透明な膜のことかな?)
ヒルデガルトはヴォルフガングに、最初の膜が見えたところから説明した。
「――そうか、精霊眼! お前は、自分の魔力をその左目で見ることができるんだね」
(あー、言われてみれば、あの膜って左目にしか映ってなかった気がする)
「だからうまく動かせたんですね。精霊眼って便利ですね」
ヴォルフガングは首を横に振ってヒルデガルトの言葉を否定した。
「いや、魔力が見えただけでは説明がつかない。思った通りに動かすにはセンスが必要なんだ。お前には、魔術の才能があるよ」
そういってヒルデガルトの頭に硬い手をポン、と置いて撫でた。
「だが、魔力が尽きるまで力を使うのはやり過ぎだ。それはとっても危険なことなんだよ?」
尽きる、とは先ほどの膜を使い切ってしまう状態だ。
「お父様、魔力が尽きるとどうなるのですか?」
ヒルデガルトの質問に、やや深刻な顔でヴォルフガングは応えた。
「使い過ぎた魔力を急速に回復する状態になるんだ。魔力は生命力を使って回復することになる。時にそれは、命を削ることに等しい。場合によっては命を落としかねないんだ。だから、自分の限界を見極めて、力尽きないように魔力を使う癖をつけるんだ。いいね?」
ヒルデガルトは勢い良く手を上げた。
「はい! お父様!」
淑女としては元気すぎる返事だったが、彼女は「咎められなかったのでセーフ!」と判定した。
ヒルデガルトも命を削ってまで魔術を使いたい訳ではない。加減を覚えなければならない。
だがそこで、ヒルデガルトの脳裏に疑問がよぎった。
「ねぇお父様、質問してもいいですか?」
「ああ、いいよ。どうしたんだい?」
「人間は、生命力が尽きれば死んでしまうのですよね?」
「うん、そうだね」
大前提である。
「魔力が尽きると、生命力を使って回復するんですよね?」
「うん、そうだ」
「そして、生命力が低いときに魔力が尽きると、生命力を使い切ってでも魔力を回復しようとする、そういうことですよね?」
命を削る、時に命を落とす、とはそういうことになる。
「ああ、その通り」
「死んでしまえば元も子もないのに、どうして体は生命力を使い切ってでも魔力を回復しようとするんですか?」
ここが彼女には納得いかなかった。何故そんな仕組みになっているのか、理解できない。
ヴォルフガングはとても楽しそうに応えた。
「いいところに気が付いたね」
そう言うとヴォルフガングは、横から大きな黒板を持ってきて図解を始めた。
「魔力は魂の力だと言われている。人間は肉体、精神、魂、この三つから構成されると言われているんだ」
ふむふむ、とヒルデガルトは頷きながらノートにペンを走らせていく。
「一方で生命力は精神や肉体の力だ」
ヒルデガルトのノートには「魔力(魂)」と「生命力(肉体/精神)」と記されていく。
「そして人間の根源は魂に宿ると言われている」
(人間の根源?)
「根源とは何ですか? お父様」
「人間を人間として定義する存在、そう思っておけばいいよ」
今のヒルデガルトには難しかったので、言葉をそのままノートに記していく。
(あとで復習しようっと)
この”根源”の概念は魔術世界でも諸説があった。ヒルデガルトが理解するのはだいぶ先の事だろう。
「これは、肉体や精神が滅んでも、魂が残っていれば人間は人間足りうる、という仮説だ」
「つまり、精神や肉体は、魂の器、ということですか? 新しい器があれば、人は復活できるということですか?」
そうでなければ筋が通らない。器は代用が効くが魂は代用が効かない、だから魂を優先する、としか彼女には思えなかった。
「まさにその通り。だから肉体や精神は、魂の力、つまり魔力を優先して回復しようとする、という仮説だ。残念ながら、魂の抽出や新しい器への移植は机上の空論止まりで、実践には至っていない――倫理上の問題でね。生きた人間で試すわけにはいかないからね」
ヒルデガルトはペンを走らせながら、大きく頷いた。確かに、試される側としてはたまったものではない。
「まぁ、この理論の通りであれば、死後、神の身許へ召された魂が新しい器へ生まれ変わる、という神話を裏付けることにもつながるんだがね」
ヴォルフガングの目が遠くを見ていた。かつて研究してたのかもしれない。
現在、この大陸で広く信仰されている宗教は、そういう教義になっている。
それが魔術体系に裏打ちされたものになる、ということになる。
もし裏打ちできれば、神の存在もまた、実在するものとして魔術理論で定義する方法があるのではないか――ヒルデガルトにはそう思えた。
中々に浪漫溢れる話だ。
「お父様」
「なんだい?」
「魔術って、とっても面白いのですね!」
笑みを零すヒルデガルトの感想に、ヴォルフガングはとても満足げに頷いていた。
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ヒルデガルトの魔力が尽きてしまったので、残りの時間は予定を変更して座学となった。
魔術とは、魔力を使ってこの世の法則を利用し変容させる超常現象である事。
高度な魔術によってこの世の法則を塗り替える超常現象を、魔法と呼ぶ事。
親から遺伝で受け継ぐものは肉体や精神であり、生まれ変わりで受け継ぐ魂とは別者であるという事。
だが魔力が遺伝する事から、魔力の強い魂には魔力の強い魂が引き寄せられると考えられているという事。
等々、ヒルデガルトは興味が赴くままに質問を繰り返した。彼女のノートは半分くらい埋まってしまっていた。
この調子では、次の時間には新しいノートを用意しておかないと足りなくなるだろう。
「――なるほど、『ついつい教えすぎてしまう』というのはこういうことか」
講義の終了と共に、ヴォルフガングは額を叩きながら、自嘲するように笑っていた。
「どういうことですかお父様?」
ヒルデガルトはノートを胸に抱え、小首を傾げて尋ねた。
「今日教えた範囲は、一週間かけて教えるつもりだったものだ。なのに、理解が早く、良い質問がポンポンと返ってくるものだから、予定外の事までどんどん口にしてしまう――怖い生徒だよ、お前は」
ヴォルフガングは笑みを浮かべ、ヒルデガルトの頭を硬い手が撫でている。
「でも、とっても楽しい時間でした! ありがとうございますお父様!」
心からの笑みでお礼を言うヒルデガルトを、ヴォルフガングは眩しそうに見て笑っていた。
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夕食後、ヒルデガルトは「気になることを調べたい」と言って書庫に来ていた。
ヴォルフガングはウルリケと目配せをした後、頷いた――睡眠時間を削らせるな、ということだ。それはもちろん、ヒルデガルトも解っていた。
彼女は目当てに近いタイトルの本を取り出しては斜め読みをしていく。
(――みつけた)
『魔力の総量は急激には増えていきません。長い時間をかけて鍛錬をすることで伸ばすことは可能ですが、生来の魔力量より大幅に増えることはありません。一方で精神力や体力は鍛錬次第でずっと多く伸ばすことができます。そして精神力と体力は魔力に変換することが可能なのです。つまり、魔術師も肉体の鍛錬を欠かしてはならないのです』
横の挿絵には、ムキムキになった魔術師が描いてあった。
「さすがにそこまで鍛えたら、お嫁の貰い手が減る……」
ムキムキになった自分を想像して、ヒルデガルトはげんなりした。
だが精神力を鍛えて魔力に変換する効率を上げれば、今よりずっと魔術を多く使えるはずだ、と考えていた。
(こういうことは実践あるのみ!)
何冊かを胸に抱いて、ヒルデガルトは部屋に戻っていった。