第2話:ヒルデガルト・フォン・ファルケンシュタイン
窓の外――鈍色の空が、街を覆っている。新天地への旅立ちの日としては、生憎の曇天模様だ。
馬車が振動するたびに、頬杖を付いて窓から空を眺めている彼女の髪が揺れる。孤児院はもう遥か遠く、見えなくなってしまっていた。
あの後、院長から説得されたこともあり、ヒルデガルトは結局、領主であるヴォルフガングに引き取られることを選択した。
宛てのない逃亡生活で野垂死にするよりは、勉強漬けの毎日で押し潰される方がマシな気がして、ヒルデガルトも納得することにしたのだ。
(今から高等教育に加えて貴族の教養の詰め込み教育、下手をすると領主様の後継者教育まで……それに加えて魔術の勉強もしないといけない)
明らかに彼女の許容量を超えている。特大のため息が、ヒルデガルトの口から出ていった。
「お嬢様、領主様は大変人柄の良い方です。心配することはありませんよ」
そう声をかけたのは、今日からヒルデガルト付きの侍女になったウルリケだ。線の細い若い女性だが、仕事ができる女の雰囲気を纏っている。
ヒルデガルトはウルリケに振り向き、言葉を返した。
「……領主様の事は心配していません。あの方の人柄は、先日理解しましたから」
ヒルデガルトの正直な言葉だった。
ヴォルフガングは人の好い笑みの通りに穏やかで優しかったし、とても良識的だと感じていた。
自らを地位と力が十分にある貴族だと言い放ちながら、十四歳の孤児相手に誠意ある対応を貫いていた。
言葉を交わした時間は短かったが、信頼できる大人だと彼女は判断した。
ウルリケが不思議そうな眼差しでヒルデガルトに尋ねた。
「ではなぜ、そのようなため息を吐かれるのですか?」
「これから私が修めるべき、膨大な量の教養を考えて憂鬱になっているだけです。勉強は嫌いではありませんが、どう考えても量が多すぎます。分不相応というものです。責任が重すぎます。私には、小市民くらいの身分が丁度よいですよ」
ヒルデガルトは、小市民に求められる教養なら、なんとかする自信があった。だが貴族に求められるそれは、さすがに無理だと感じている。
勉強家だったヒルデガルトは、貴族の負う責務をよく理解していた。
ウルリケが感心したように微笑んだ。
「それを理解しているだけで及第点と言えます。勉強嫌いの貴族子女の中には、遊び惚けて己の責務を放棄するものもいます。お嬢様は貴族としての資質がおありですよ」
(お嬢様……私の柄じゃないわね)
それはおそらくウルリケの心からの賛辞なのだろうと、ヒルデガルトは思った。だが、その期待はあまりにも大きすぎる。自分に背負えるものではない。そう彼女は感じた。
ヒルデガルトは窓の外を改めて眺め、疲れたように言った。
「褒めてくださったのは感謝します。でも私には、期待に応える自信はありません」
馬車はヴォルフガングの家――伯爵邸に向かい進んでいった。
****
馬車が邸の前に止まると、従僕が扉を開け、ウルリケが先に降りた。
ヒルデガルトはウルリケに手を取ってもらい、足元を見ながら馬車を下りる。
ヒルデガルトが顔を上げると、邸の使用人が大勢整列し、一斉に「おかえりなさいませ、お嬢様」とお辞儀をした。一糸乱れぬ、見事な動きだ。
(「お帰りくださいませ、お嬢様」、だったら孤児院に戻れたのかな……いや逃亡生活になるだけか)
ヒルデガルトは現実逃避の下らない思考を振り払い、使用人全員に対して挨拶をする。
「みなさん、よろしくおねがいします!」
彼女は勢い良く頭を下げた。彼女の知る、最も気持ちの籠った礼だ。
貴族の礼節など、彼女は知らない。だがこれから世話になる者たちに、精一杯の誠意を見せておきたかったのだ。
「はっはっは! そう硬くならなくてもいいよ」
ヒルデガルトが顔を上げてみた先、お辞儀したままの姿勢で居並ぶ使用人の列の奥――玄関にヴォルフガングの姿があった。ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「君はまだ、貴族見習いだ。貴族の所作はこれから覚えればいい。見習いの君の態度を笑うものなど、この邸には居ないから安心しなさい」
この場に居る使用人たちに、彼女を蔑む様子はない。ヴォルフガングが言う通り、そんな者はこの邸に居ないのだろう――少なくとも、彼女の見ている前で蔑むような二流以下の使用人など雇っていない。そうヴォルフガングは言いたいのかもしれない。
ヒルデガルトの目の前までやってきたヴォルフガングが、彼女の頭に硬い手をポン、と置いた。
「あの、領主様。本当に私なんかを引き取ってよかったんですか?」
「もちろんだとも。君――いやヒルダだったね。ヒルダはもう、養子縁組を済ませて、立派な私の娘となった。ヒルダは今日から、ヒルデガルト・フォン・ファルケンシュタインとして生きて行くんだ。私の事はお父様、とでも呼びなさい」
ヴォルフガングの笑顔は穏やかで優しい。その笑顔は孤児院の院長の浮かべる、慈しむ笑顔を連想させた。
「――はい、お父様!」
生まれて初めて、自分に父親という存在ができた――そのことに、ヒルデガルトの心は自覚するよりかなり高く舞い上がっていた。
とても可憐な心からの笑顔が、そこには在った。
ヴォルフガングはその様子に満足そうに頷いた。
「着替えたら、私の書斎に来なさい。食事の前に、少し話をしよう」
そう言うと、彼は邸の中へ戻っていった。
「お嬢様、ではお召替えをしましょうか」
ウルリケに背中を押されて、ヒルデガルトも邸に足を踏み入れていった。
****
ヒルデガルトは二階の一室に案内され、淡いオレンジのドレスに着替えた。貴族は一人で着替えないものだと言われ、ウルリケが他の侍女と共に着替えを手伝った。
(なんか、着心地悪い……)
上質の布地というのは、慣れないと気持ち悪いんだな、と彼女は痛感した。
「さぁお嬢様、旦那様の書斎へ参りましょう」
ウルリケに案内されるまま歩を進め、ヒルデガルトはヴォルフガングの書斎に辿り着いた。
「旦那様、お嬢様がおみえです」
ウルリケの声に、中から返事があって彼女らは招き入れられた。
「ああ、よかった。よく似合っているね――さ、そこに座りなさい」
言われるがまま、示された席にヒルデガルトは腰を下ろした。
侍従が入れてくれた紅茶で、彼女は緊張を紛らわしていた。
ヴォルフガングはゆっくりとヒルデガルトの向かいに腰を下ろし、さっそく話を始めた。
「まず、これからの予定について少しだけ話しをしておこうか」
ヒルデガルトは黙って頷いた。
「ヒルダは、社交界についてはどのくらい知っているかな?」
ヒルデガルトは勉強したことを思い出しながら、それを言葉に乗せる。
「貴族が交遊関係を育んだり、交渉を行う場だ、と勉強しました。”お茶を飲んだりお酒を飲んだりして楽しそうに見えるけど、あそこは戦場なんだよ”と先生が言ってました」
それを聞いたヴォルフガングは大笑いした後、言葉を返した。
「ヒルダは良い教師に恵まれたね! そう、社交界は戦場だ。華やかに見えるが、陰湿で血生臭い場所だ。お前は社交界に行ってみたいと思うかい?」
ヒルデガルトは素直に首を横に振った。
「そんな怖いところ、近づきたくないです」
またも大笑いしたヴォルフガングは「実はね、私も社交界は嫌いなんだ」と、ヒルデガルトにウィンクを飛ばした。
「よしわかった。まずお前がするべきことは、貴族の所作と教養、これを覚えてもらう。次に、魔術を覚えてもらう。その後、魔術を生かした職業に就きつつ、恋愛結婚を目指すといい。社交界には行かなくていいよ」
ヒルデガルトはきょとんとした顔で応える。
「でも私、お父様の、伯爵の娘ですよね? 貴族の子女は社交界に行くものなんじゃないですか?」
ヴォルフガングは楽しそうに頷いた。
「ああそうだ。だが、社交界は貴族の世界。お前が将来、貴族として生きて行くつもりがないなら、不要な世界だ。近づかなくていい。一人の魔術師として生きて行くだけなら、社交界はなくても困らないからね」
その言葉は、先程の言葉と矛盾したものだった。
ヒルデガルトはそのことを問い質した。
「でもお父様、私が最初に覚えるのは、貴族の所作と教養なんですよね? 社交界にいかなくていいのに、将来魔術師として生きて行くのにそんなものが必要なんですか?」
「お前には、グランツに通ってもらうことになるからね」
「グランツ? この領地の名前ですよね? 通うって?」
ヒルデガルトは意味が解らなくなって質問した。
「ああ、すまない――グランツ中央魔術学院、その通称を我々はグランツと呼ぶんだ。この領地を代表する施設だからね。学生や卒業生がグランツ、といえば魔術学院のことだと思えばいい」
(ややこしい……)
確かに、グランツ領に住む人間からすればややこしいだろう。だがグランツ領は小さい領地だ。困るのは僅かな人間だけと言えた。
「そこに通っている間、お前が周囲から侮られないようにするためには、貴族の所作と教養が必要だ。お前も、そんなことで侮られるのは嫌だろう?」
(確かに、教養が足りずに侮られるなど、自分を許せなくなる)
ヒルデガルトは小さく頷いた。
勉強すれば身につくようなものを、努力を怠って身に着けていないなど、それが理由で侮られるなど、ヒルデガルト自身が怠惰だと言われるようなものだ。
そんな誹りを、ヒルデガルトは激しく拒絶した。
ヴォルフガングは短い付き合いだというのに、ヒルデガルトの事をよく理解しているようだった。
「その魔術学院って、どういうところなんですか?」
「この国では十五歳で成人だ。その成人になるまでの、十三歳から十五歳の間通う魔術の学校だよ。その後三年間の延長カリキュラムもあるがね。各地から優秀な生徒を集めているから、生徒はほぼ全員、魔力の強い貴族だ。だから、他の生徒に侮られないような所作と教養が必要となる」
「私は来年十五歳です。この場合はどうなるんですか?」
ヴォルフガングは顎に手を当てて考え、少ししてから応える。
「んー、そうだな。前例はないが、十三歳の子供たちに交じって入学し、三年間のカリキュラムを受けることになるだろう」
(う゛……なんかすごい気まずい状況になりそう……少なくとも友達はできないな)
だがどちらにしろ、貴族に友達など作ってもしょうがない。と彼女は前向きに考えることにした。
「解りました。では頑張って貴族の所作と教養を勉強します」
ヴォルフガングはヒルデガルトの返事に満足したように頷く。
「伯爵令嬢として問題がないところまで身に着けたら、それと並行して魔術を教える。入学までに覚えておかねばならない、基本的な魔力の使い方をね。魔力検査に合格した平民が一年間で受けるカリキュラムを、四月の入学までに修めればいい」
(今は十二月……お父様、それって残り四か月で一年分ということ?)
密度三倍である。所作や教養の勉強の分を差し引くと、時間はもっと少ない。
満足に寝ている時間もないだろう。
「が、がんばります……」
彼女はがっくり肩を落として返事をする。
そんなヒルデガルトに、ヴォルフガングは穏やかに声をかける。
「あまり気張らなくてもいい。あくまでも予定だ。学力や魔術の力量が足りなければ、入学を後ろに伸ばせばいいだけだ」
「入学を遅らせるって……そんなことできるんですか?」
ヴォルフガングは得意げに笑った。
「もちろんできるとも。学院の最高責任者は、私だからね。私の娘の入学くらい、融通させるさ」
見事な職権乱用である。ヒルデガルトは呆れて絶句した。
ヴォルフガングは手をパンと鳴らし「さぁ話は終わりだ。続きは食事をしながら話そう」と、ヒルデガルトの背後に待機していたウルリケに目配せした。
ヒルデガルトはヴォルフガングに頭を下げ、ウルリケに促されるまま部屋を辞した。
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ヒルデガルトは歩きながら、今後の事について考えていた。
(入学が遅れると学院のカリキュラムに遅れが出る。どっちにしろどこかにしわ寄せが来るなら、先に済ませておくべきだ)
彼女は背後に着き従うウルリケに声をかける。
「ねぇウルリケさん、お願いがあるんですがよろしいでしょうか」
ウルリケは優しい笑顔で窘めてきた。
「お嬢様。貴族は使用人に敬語など使わないものですよ。そういった態度は、侮られる元です」
身分が下の者に敬語など使わないのが貴族の常識だ。それを知らぬ愚か者、と見られるだけだろう。
その言葉を受け取ったヒルデガルトは改めて、ウルリケに声をかけなおす。
「ウルリケ、食事までどのくらい時間がありますか」
ウルリケはポケットから懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
「……四時間少々です。それがどうしましたか?」
ヒルデガルトは真正面からウルリケの両手を掴み、頼み込んだ。
「お願いウルリケ! 今夜の食事に必要な所作を、出来る限り教えて!」
時間は有限である。今も刻一刻と、期限は迫っているのだ。
ヒルデガルトは、一秒でも無駄にしたくなかった。