第1話:神様の贈り物
「一人称よみづれぇ」って言われたので、一人称文体から三人称視点文体に変更しました。
「なにこれえええええええ!!!!!」
朝の凍えた空気で澄み渡る、孤児院の一室。
静寂は彼女の絶叫で破られていた。
彼女は熱病で三日三晩寝込み、今朝になってようやく熱が引いて目を覚ましたところだった。
起き上がった彼女の顔を見て、驚いた孤児院の院長がおずおずと手渡したのは小さな手鏡。
おそるおそる鏡を覗き込んだ、彼女の目に映る鏡の中の自分。それをただ茫然と眺めている。
そうして手鏡を覗き込んでいる彼女は、熱病に罹る前と変わってしまった部分がある。瞳の色、それも左目の瞳だけが以前と違うのだ。
「院長先生! これってどういうことですか?! 何かの病気なんですか?!」
彼女は涙目で訴えた。
院長は困惑した顔で応える。
「私にもわからないわ。私はお医者様を呼んできますから、あなたはもう少し横になっていなさい。いいわね?」
そう言い残し、院長は足早に部屋を飛び出していった。
院長を見送った彼女は、改めて手鏡を覗き込んでいるようだ。
少女は整った顔立ちをしていた。彼女自身、それは密かな自慢の様だった。時折、一人で鏡を見ては得意そうにしていた。だがそれを鼻にかける性格でもない。
街の人からは「見てると守ってあげたくなる」と言われていた。いわゆる可憐、というものだろうか。見ていて可愛らしく、庇護欲を掻き立てられる。
この孤児院の中では一番可愛がられていると言ってもいい。美人はお得、というものらしい。器量が良いので孤児たちからも慕われている。人気者だ。
もっとも、美人といっても「平民の中では比較的」という程度だ。素材はよいから磨けば光るだろうが、孤児院でできる手入れには限界がある。彼女自身も「その程度だろう」と思っている。そこまで自惚れる程、愚かではない。むしろ賢い部類だろう。
だが、孤児が生きて行くには十分な武器だ。
少女の右目は生来の色。彼女が見慣れた淡い鈍色だ。
一方、左目は不思議な色をしている。少なくとも人間の瞳の色ではないだろう。街の中にも、こんな瞳をした人間などいない。
まるで赤い宝石のようなその瞳は、比喩ではなく宝石そのものの輝きをしている。無機質で人間離れした印象を見た者に与え、感情も読み取り辛い。とても異質な瞳だ。
「せっかく可愛い顔に生まれたのに、これじゃあ台無しじゃない……」
彼女は深いため息をひとつ吐くと、ごろりとベッドに横たわった。
彼女は冬の朝、孤児院の前に捨てられていた赤ん坊だった。
両親の顔も声も彼女は知らない、天涯孤独の身だ。名前すらこの孤児院で付けられたもので、両親に縁あるものは彼女自身の身体だけだった。
それでも、優しい孤児院の院長や愉快な孤児院の仲間と共に、彼女は心身ともに健やかに成長していた。
このグランツと呼ばれる土地の領主はとても良識的な人間で、孤児でも基礎教養を学べるように各種制度を整備していた。子供たちはこの孤児院から巣立ち、真っ当な社会生活を送る大人になる。福祉の手が行き届いた街だった。彼女もじきに、その仲間になるはずだった。
親の愛を知らない彼女は、それに対してとても強い憧憬を抱いている。愛に飢えた生き物だった。
院長は慈しんでいたが、それだけでは彼女の飢餓感は満たされなかった。贅沢というものかもしれないが、それだけ親の愛情というのは大切なのだろう。彼女の心はいつも渇いていた。院長の慈しみは砂漠に水を撒くがごとく、吸われても吸われても渇いていった。だが彼女がそれを表に出すこともなかった。贅沢な欲望だという自覚があるのだろう。
そんな孤児の彼女は、自分の子供には自分が貰えなかった分だけ愛情をこめて育てよう、といつの頃からか決心していた。代償行為という奴だ。自分に愛される自分の子供を見ることで、自分が愛されている気分を味わいたかったのかもしれない。
彼女の夢は”可愛いお嫁さん”――優しい男性と恋をして、穏やかで慎ましいけれど、暖かで愛に溢れる家庭を築きたい。そう願っていた。平民の女の子が望める、平凡でささやかなな夢だ。
彼女はこの冬で十四歳を迎えた女子だった。恋愛には年相応に憧れを持って居た。
「こんな左目でも、私の事を愛してくれる男性を探さないと……」
そう呟いた彼女は、いつのまにかウトウトと微睡始めた。熱病で失った体力は、まだ戻っていない。
そうして彼女は、夢の世界へ旅立っていった。
****
彼女が目を覚ますと、室内に昼の強い陽射しが差し込んでいた。時刻は昼過ぎといったところだ。
彼女は上体をベッドから起こし、軽く伸びをした。
「んー! よく寝た!」
「おや、起きたかね?」
突然、すぐ傍から聞こえてきた男性の声に驚いた彼女は、慌ててそちらに振り向いた。
ベッドサイドには老人が一人、椅子に座っていた。彼がこの孤児院に直接足を運ぶのは今日が初めてだ。つまり初対面ということになる。
老人は読んでいた本を閉じ、彼女に向き直った。
(……ダンディなお爺さんだな)
彼女が抱いた、老人の第一印象はそれだった。
白いものが多く混じった深い灰色の髪の毛は後ろになでつけられ、額が露になっている。
髭はきちんと剃られており、清潔感がある。
皺が刻まれつつも凛々しい印象の輪郭は、若いころは異性にモテたであろうに違いない。
年齢は五十代くらいだろう。老境には入っているが、老人と呼ぶにはやや若い。そのくらいの年齢だ。
着ているスーツは貴族が身に纏う上質な物。ちょっとした振る舞いにも気品が漂っている。
「どなた……ですか?」
彼女はおそるおそる誰何しながら、視線を室内に走らせた。
室内には彼女とこの老人二人きりだ。冬は冷えるので、扉は閉められている。
それを確認した彼女は見るからに警戒し、身構えた。
いつでも殴りかかれるよう、老人に隠れて拳を握っている。年頃の乙女だ、それも仕方がない事だろう。
彼女の言葉を受けて、その老人は人の好い笑いを浮かべ、自己紹介を始めた。
「ああ、大丈夫。そんなに怖がらなくていいよ。私はヴォルフガングという……そうだな、君たちにとっては”領主”、といえばわかりやすいかな?」
「……領主? 領主様? この土地で一番偉い人?」
彼女が混乱していると、「ああ、そうだよ」と楽しそうに老人――ヴォルフガングは応えた。
「……なんで、領主様がいるんですか?」
「精霊眼の持ち主が出た、と報告を受けてね。面白そうだと思って直接見に来たのさ」
(暇か。領主様は暇なのか。貴族って、色々と仕事がたくさんあるって勉強したのに)
彼女は心の中で突っ込んでいた。
確かにヴォルフガングは領主であり、それなりに仕事を持つ身だ。領地の孤児院に足を運ぶなど彼としても初めての事だった。
だが彼女は心の中の突込みをぐっと抑え込んでいた。もっと聞き出したい大切な事が、彼女にはあったからだ。
「精霊眼? 精霊眼ってなんのことですか?」
彼女の興味は、その聞き覚えのない単語に吸い寄せられているようだった。
ヴォルフガングは、己の左目を指で指し示し「君の左目の事だよ」と優しく告げた。
彼女の左手はゆっくりと、己の左目に伸びていた。
彼女のその赤い瞳は”精霊眼”と呼ばれていた。
どんな色になるかは個人差があり、宝石のように無機質に輝く瞳であることが、共通した特徴だった。
「その瞳を持った者は、時折生まれてくるんだ。君のように、後天的に精霊眼が発現した人間の話は聞いたことがないが、その瞳自体はそこまで珍しいものじゃないよ。この国全体でも百人くらいは居るんじゃないかな」
ヴォルフガングは穏やかに彼女に語りかけていた。それを彼女も大人しく聞いている。
このレブナント王国は人口三十万人規模の国家だ。その中の百人であり、この街に精霊眼を持った者は居ない。幼い彼女が知らなくとも無理はない。
「病気ではないんですね?」
彼女は確認するように尋ねた。
「違うね。体質、みたいなものだ」
ヴォルフガングはハッキリとした口調で応えた。
(病気じゃないなら、とりあえず良かった、のかな? いや……)
「体質ってことは、私のこの左目、もう治らないんですか?!」
彼女にとって、とても大事なことだ。
「ハッキリとは言えないが、多分治らないね」
ヴォルフガングは無情に告げた。
(そんな……)
彼女は一瞬だけ落胆を見せた。だが次の瞬間、力一杯叫んだ。
「片方だけこんな目になっちゃったら、私の”可愛いお嫁さん”になる夢が遠のいていくじゃないですかーっ!」
両目とも精霊眼になったのなら、まだ望みはあったのかもしれない。
人間味がない瞳だが、宝石のように美しい色をしている。それを好む物好きも、見つかるかもしれない。
だが更に片目だけ、というのは嫁入り戦争で著しいハンディキャップだろう。
左右の目の色が違う人間など、この国には居ない。
人は異物を嫌う傾向がある。異物のような瞳であり、さらに片目だけだ。結婚相手を探すのに苦労する事だろう。それを彼女はよく理解していた。
「神様、あんまりですーっ!」
彼女は枕につっぷして泣き始めた。
彼女が落ち着くのを待ってから、ヴォルフガングが穏やかに話し始めた。
「その精霊眼はね。昔から”この世ならざるもの”を見ることができると言い伝えられているんだ――実際に、そんなものが見えた、という話は聞かないがね」
(この世ならざるもの……? なんだか難しそう)
彼女は頭が良いが、魔術の知識は乏しかった。今の彼女が理解するには、やや難しい概念だ。
「まぁただの言い伝えだ。そんなことよりも大事なのは、精霊眼の持ち主は、高い魔術の才能を持つ者が多い、ということなんだ」
”高い魔術の才能を持つ”――ヴォルフガングの興味は、そこにあるようだった。彼は魔術の道で大成した男だった。魔術に人並ならぬ興味を持つことで有名な男だ。
この世界の人間は魔力という不思議な力を持って生まれる。その力を使う術を魔術と呼んだ。幼い彼女も、それを勉強して知っていた。
「魔術っていっても、魔力が高くないと満足に使えないじゃないですか。私の魔力は五等級だって言われましたよ?」
高い魔力を持った人材は国力に大きく貢献する。その人数が、国力に比例する。国家は魔力の高い人間の育成に励んだ。
この国では、魔力の成長が終わる十二歳を迎える年に魔力検査を受ける義務があった。
そして彼女もその検査を受けたのだが、結果は最低の五等級。つまり、魔力をほとんど持たない人間と言われていた。
高い魔力を持って居れば、この国では教育費が免除され、高等教育を受ける事もできる。それを知っていた彼女は、自分の検査結果に激しく落胆していた――彼女は勉強家なのだ。
「確かに、魔術を行使するためには、相応の魔力の高さが求められる。だが君は後天性の精霊眼だ。その精霊眼が発現したことで、魔力が変化しているかもしれない。少し、調べてみてもいいかな?」
ヴォルフガングが優しく彼女に提案した。
つまり、もう一度魔力検査をしたいということだ。彼女はそれを理解し、無言で頷いた。
「ありがとう。ではこの検査器具を手に持ってくれ」
そういってヴォルフガングは、懐から水晶球を取り出して彼女に手渡した。
彼女は十二歳の時と同じように、それを両手で握りしめる。
ヴォルフガングの右手が彼女の額を抑え、検査用の魔術を発動させた――しばらくすると、彼女が手にした水晶球に赤い色が灯り始める。
(あれ? 前やったときは、こんな色じゃなかった)
光はどんどん強さを増していき、燃えるような赤色に水晶球は染まった。その輝きは、昼間だというのに陽光すら遮り部屋全体を赤く染め上げていった。
前回とまるで違う様子に、彼女の頭は混乱していた。前回の検査では、もっと淡い、部屋を暗くしないと見えない乏しい光だった。
ヴォルフガングは感心したように「ほぉ」と呟きつつ水晶球を見つめている。
「ねぇ領主様、これってどういうことなんですか?」
座っていても上背のあるヴォルフガングの顔を見上げ、彼女は尋ねた。
ヴォルフガングは優しい眼で彼女を見つめて応えた。
「まず君の魔力の強さだが、特等級だ。特等級の魔力保持者は極稀に生まれてくることがあるが、ここまで強い輝きは私でも見たことがない。少なくとも今現在、この国で一番強い魔力を、君は持っている」
(……はい?)
現状を飲み込めず凍り付いた彼女の様子を見て、ヴォルフガングは微笑んだ。そして話を噛み砕いて説明を試みる。
「平民なら五等級から四等級、稀に三等級の魔力保持者がいる。魔力の強さは遺伝するから、血が濃い王侯貴族は三等級から一等級の魔力保持者ばかりだ」
少女は頷いた――勉強して、そこまでは知っているのだ。
「だが極稀に、一等級を凌ぐ魔力保持者が生まれるんだ。上限も解らないので、そういった魔力は特等級と呼んでいる」
(つまり、とっても強い魔力って意味かな?)
今まで最低だと思っていた自分が、いきなり国で一番強い魔力だと言われたのだ。実感もない彼女は、俄かに信じること等できていない。
「極稀って、今この国に特等級の魔力を持った人は何人くらいいるんですか?」
「私を含めて二人だけだよ。今日、君が加わったから三人だ」
人口三十万人のレブナント王国ですら、ヴォルフガング自身と彼女、そしてもう一人しかいない。そう彼は宣告した。
その意味を、彼女は直ぐに理解した。
「ええええええええええええ?! そんなに少ないんですか?!」
ヴォルフガングは頷いて肯定した。
「あの、領主様! この魔力、小さくすることはできないんですか?! 誰かに譲るとか!」
「小さく?」
ヴォルフガングは驚いたように聞き返した。魔力を小さくしたい、等と望む者を見たのは、彼も初めてだった。
「はい。こんな強い魔力は私の人生設計に邪魔なんです! どうにかできませんか!」
彼女は必死に訴えた。
ヴォルフガングはそれに、困ったように応える。いくら博識の彼でも限界はあるのだ。
「そのような方法は、私も知らないな。だが君の魔力は精霊眼が発現したことがきっかけで強くなった。その左目を取り除けば、もしかしたら魔力も元に戻るかもしれないね」
つまり、”左目を抉り出せば、魔力は元に戻るのではないか”という提案だ。
「嫌ですよそんな野蛮なこと! 第一、そんなことしたらそれこそ私の夢が遠のくじゃないですか!」
確かに、”魔力が欲しくないから左目を抉り出しました”なんてワイルドな女は、彼女の理想からは程遠い。”可愛いお嫁さん”が取る行動ではないだろう。
「さっき言っていた、”可愛いお嫁さん”の事かな?」
ヴォルフガングが優しく聞き返した――先程から彼の声は、彼女を気遣っているのが彼女にもよく伝わってきていた。聞いていると安心する。そんな声音だ。
「……はい。私は、普通の男性と恋愛結婚して、穏やかで慎ましい、暖かな家庭を築きたいんです。でもこの左目と魔力じゃ、夢を叶えるのが無茶苦茶大変じゃないですか!」
彼女は涙目で訴えた。この厳しい条件下でもまだ夢を諦めない、その強い意志が言葉に籠っていた。
ヴォルフガングは少し興味深そうに質問を重ねる。
「……特等級の魔力があったら、君の夢は叶わないのかい?」
彼女は俯いて応える。
「貴族に責務があるように、高い魔力を持ったものは社会に、国家に貢献する責務があります。この国に三人しかいないほど強い魔力なら、とても大変な責務を背負わされることになる。そんなことになったら、とてもじゃないですけど”穏やかで慎ましく温かい家庭”を築いている場合じゃなくなってしまいます」
その答えを聞いて、ヴォルフガングの目の光が変わった。彼女自身に興味を持ったようだ。
「そういえば、君の名前を聞いていなかったね」
ヴォルフガングは初めて彼女の名前を尋ねた――それまで、名前を聞く必要性を感じていなかったのだ。
「……ヒルデガルトといいます。みんなはヒルダって呼びます」
孤児院で付けられた、彼女を識別する為だけの名前だ。だが彼女は名前に愛着を持って居た。悪くない名前だと思っている。
「ではヒルダ。君は自分が、これからどういうことになるか、予想がつくかな?」
彼女――ヒルデガルトは膝の上に置いた自分の手を見つめ、少し考えてから口を開く。
「――まず、この魔力にふさわしい責務を国から背負わされるでしょう」
ヴォルフガングは無言で頷いた。
「ですが、貴族は強い魔力を求めると勉強しました。私はどこかの貴族に養子として引き取られ、政略結婚の道具にされる可能性が高い。私の魔力を餌に、より高位の貴族と縁を結ぼうとする連中が、私を狙う事でしょう。そんなことは受け入れられません。ですが、私にはそれに抗う力はない――今の私にできることは、彼らに見つかる前に、身元を眩ませて逃亡することぐらいじゃないでしょうか」
彼女は頭をフル回転させて今後の展開を予想した。身に降りかかる災難とその対策までを口にした。
ヴォルフガングはその事に感心していた。十四歳と聞いていたが、頭の回転が速い。その上、社会をよく理解している子だ。賞賛するかのように、彼女の発言をヴォルフガングは肯定する。
「そうだな。放っておけば、君が危惧する通りの展開になるだろう」
その言葉に、ヒルデガルトはがっくりと肩を落とした。彼女はどうやって逃げ出そうかと、頭の中で計画を練り始めた。見た目とは裏腹に強かな性格をしているのだ。
だがそんな彼女の様子を伺っていたヴォルフガングは、驚くべき提案をする――彼の中で、一つの計画が練りあがった瞬間だ。
「だが、君が逃げ出さずに済む方法がある、と言ったら、君はどうするね?」
ヴォルフガングの言葉に、ヒルデガルトは「え?」と顔を上げた。彼女も、縋れる藁があれば縋りたいのだ。
ヴォルフガングが言葉を続ける。
「既に十分な地位と力を持った貴族が、君を養子にとって保護する。そうすれば、君は不本意な結婚を強いられることはなくなるね」
しかしその言葉に、即座にヒルデガルトは力強く反論する――縋れる藁かとおもったら幻だったのだ。ぬか喜びさせられた怒りが籠っていた。
「私は孤児ですよ?! そんな酔狂な貴族様が、どこに居るって言うんですかっ!」
貴族が政略結婚の道具にすらならない十四歳の孤児を引き取るメリットなど、一切ないだろう。少なくとも、ヒルデガルトには見出せなかった。
「今、君の目の前にいる」
(……はい?)
理解が追い付かないヒルデガルトに、ヴォルフガングが穏やかな口調で噛み砕いて言葉を続けた。
「ヒルダ、私が君を引き取ろう。我が家には既に、十分な地位と力がある。他の家から婚姻を強要されることがないほどの力がね。尤も、王家は別だ。国家には逆らえないからね」
ヒルデガルトの目が、疑い深くヴォルフガングを睨み付ける。
「……そんなことをして、領主様にどんなメリットがあるんですか」
ヒルデガルトの猜疑の視線を涼しい顔で受け止めながら、ヴォルフガングは穏やかに応える。
「私はね。高い能力を持った者は、相応に国家に貢献するべきだ、と考えている人間だ。実際に私自身、そうして生きてきた。だから、強い魔力を持った君には、この国に貢献してもらいたい。自己満足みたいなものだね」
ヒルデガルトの目には、ヴォルフガングが嘘を言っているようには見えなかった。国家への忠誠心が高いのだろうと判断した。これまでの発言で、孤児の子供相手でも誠意ある対応を見せて来たことも評価していた。
事実、ヴォルフガングは高潔な人間だ。彼女の人を見る目は悪くない。
だがそれでも彼女には疑問が残った。その疑問を口にする。
「……私のような孤児が、貴族の責務を背負えると、本気で思っているんですか?」
保護する名目とはいえ、養子に取るのだ。当然、貴族の責務は背負わされることになるはずだとヒルデガルトは考えた。
貴族の責務とは、領民の人生を背負うことだ。保有する領地に暮らす人々が安心して暮らしていけるよう心を砕く。それこそが貴族の責務だと彼女は勉強で知っていた。
だが、彼女は十五歳で成人を迎えるこの国で、十四歳まで基礎教養しか身に着けてこなかった孤児だ。そんな自分に貴族の責務など背負えるわけがない。彼女はそう考えた。
そんな彼女の心を見透かしたように、ヴォルフガングは楽しそうにヒルデガルトに言葉を返す。
「それは君次第だ。だが、宛てのない逃亡生活を続けていくよりは、マシな人生になると思わないかい?」
(どっちがマシだろう)
ヒルデガルトは視線を床に落として考えている。
ヴォルフガングはその様子を確認してから、言葉を続けた。
「……ヒルダ。私は院長と話をしてくる。それまでに、考えをまとめておくといい」
そういってヴォルフガングは立ち上がり、部屋を出ていった。
ヒルデガルトは再びベッドに倒れこみ、どちらがマシな人生か検討を始めていた。
****
応接室に院長とヴォルフガングの姿があった。
二人はテーブルで向かい合って座っている。
「利発な子だね」
ヴォルフガングは率直な感想を述べた。
「ええ、昔からそうでした。面倒見もよくて機転が利く。まっとうな職に就くために、夜遅くまで勉強をしているような子でした」
院長は、ティーカップの中の紅茶に視線を落としていた。カップの中には、昔日が映し出されているかのような目だった。
「彼女を引き取ろうと思う」
ヴォルフガングは単刀直入に告げた。
もちろんこれは領主の意向だ。院長に逆らう権利はない。だがそれでも院長は尋ねた。
「あの子を、どうするおつもりですか?」
今まで我が子のように慈しんできた子供だ。納得できなければ全力で抵抗する。院長の目は、そう物語っていた。
ヴォルフガングはその警戒する眼差しを受け、穏やかな笑みを浮かべた。
「あの子の夢の、後押しをしてやりたい、と思ってね」
「あの子の? あの子の夢は、ありふれたお嫁さんになることですよ?」
「今、あの子に与えられた境遇では”ありふれた”は無理だ。だが”可愛いお嫁さん”なら、可能性はある。そして、今私が引き取らねば、その可能性すら奪われるだろう――私はね、あの子を見ていて、望まぬ婚姻をさせたくない、そう思ってしまったんだよ。なに、年寄りの酔狂、と思ってくれればいいさ」
院長はヴォルフガングの人柄を、制度を通じてだが十分に知っている。
この孤児院で子供たちが健全に成長し、立派に社会に出て行けているのは、ヴォルフガングの整備した各種支援の恩恵が大きかった。
例え孤児でも、領民として大切に扱う人間だ。
こうまでヴォルフガングが言うのなら、ヒルデガルトにとって悪いことにはならない気がしたのだろう。その顔から緊張感が薄れていった。
「では、あの子をお願いしてもよろしいですか?」
ヴォルフガングはゆっくりと頷き「心得よう」と答えた。