2人の秘密(前編)
「ねえ、この間の偽マリオス様って実はどこかの王子様だったりしないのかしら」
読書をしていたセレナがいきなり声を上げる。偽マリオスとは、先日のサロンの日にマリオスと名乗った蒼白い青年のことである。リディアは失礼な人であったと思いつつ、具合が悪そうであったのに自分を抱きしめた後で元気になったことに違和感を覚える。どちらが嘘だったのか、どちらも本当だったのか?疑念が残るというものだ。
リディアはセレナが読んでいる本に目をやった。数冊おいてあるものの、すべて王子様と結ばれる類の話だったので、『なるほど』とリディアは内心納得していた。
「お兄様とマリオス様って、正反対よね」
「…セレナの話を聞いた限りではそんな感じするわね」
「だから素敵に思うのだわ、きっと。だってお兄様ったら扱いが最低だものね。この国の紳士の風上にもおけないわよ」
「あら、セレナとディランのやり取りは聞いていて面白いわよ。時々羨ましい、兄妹っていいなぁって思うもの」
「…兄妹として…ね」
実際、2人の楽しそうなやりとりを聞いていると、何だか無性に羨ましい気持ちと、寂しいような気持ちに苛まれる。昔はもっと無邪気で仲が良かったのに、今は他愛もないおしゃべりですら出来ないでいる自分がいる。
そう、2年前のあの日――。彼を遠ざけたのは自分自身。あの日、私は大人になった。リディアは2年前のあの日の朝を回想する。
「キャー!」
リディアが叫ぶ。そしてベッドの上で呆然としていた。ディランが駆けつけて部屋に入ったことも気付くこともなかった。
「何があっ…」
ディランはリディアの前に急に現れると、顔を赤らめ、口を手で押さえた。ベッドには血がついていて、リディアの寝巻きにも血痕がある。初潮を迎えたのだ。
「イヤ!あ、あ、あっちに行って!イヤ、イヤ、イヤァ!!」
リディアは無我夢中でディランを叩くようにして壁際までディランを追い詰めると、顔を疼くめている。それを見たディランは、顔を背けて言った。
「…悪かったよ」
リディアは黙っている。
「…俺、部屋からいなくなるから、離して」
リディアはどうしていいのか解らないまま、黙って手を離す。ディランが出て行って、少し経ったころメイド頭のアンナが部屋を訪れる。ディランから事情を聴いて部屋に来たのだろう。アンナはリディアを小さいころ頃から面倒見てきたメイドだ。リディアはアンナに黙って抱きついて、涙を流す。
「大丈夫ですよ、お嬢様。いつか女の子はみんな通る道です。毎月一度だいたい決まった日に来ます。これでいつでもお嫁にいけますよって合図です。喜ばしいことなんですよ」
何故こんなに涙がでるのだろう。
恥ずかしいから?
悲しいから?
切ないから?
恥ずかしくて、悲しくて、切ない、どれもみんな混ぜ合わせたような混沌とした気持ちが押し寄せる。
「私、変」
「何がです?」
「恥ずかしいのに、悲しくて、切ない、どの気持ちも全部ごちゃごちゃなの」
「月のものがくるときは、自然と皆さん苛立ったり、食欲が旺盛になったり、落ち込んだりと、何らかの変調があるんです、何も考えることはありません」
そうアンナは言ったが、リディアはそわそわした気持ちが落ち着くことはなかった。
(どうして私、あんな態度を…)
前述した気持ちに、後悔と罪悪感とが入り混じる。
――一方、ディランの部屋。
ディランはソファに横たわりながら、リディアが掴んだ腕を眺める。シャツには薄ら血液がついているようだった。
「無様なものだな…」
その腕でディランは目を隠す。そのまま呆けていると、いつのまにかうとうとと眠ってしまいそうになって、ディランは跳ね起きる。時計を見てすぐ食事の間へと急いだ。
「あらお兄様、今日は遅いのね。お寝坊?」
「……………」
ディランは黙ってセレナを睨みつけると席について、食事をし始めた。食事も半ば頃になってセレナがディランをまじまじと見ている。
「あら、お兄様、袖に何かついていてよ。…血?」
ディランは咄嗟に袖を掌で隠す。リディアはディランの方を見ると、顔を逸らして聞こえていないような素振りを見せた。それをディランは見逃さなかった。迂闊であった、と思った。
「どこかにぶつけたんだろう」
「嫌だわ、どこかだなんて。お兄様って意外とボーっとしてるのね」
「…そうかもな」
本当なら嫌味の一つでも言いたいところだが、リディアが気にするだろうと思ったのか、ディランは堪えて言葉で流す。そこで公爵が咳払いをした。
「我が子ども達は静かに食事もとれないのかい」
「本当ですよ。リディアはともかく、貴方たちは公爵家の子息と息女。もっと慎みを持っていただかないと。小さな弟妹たちの見本となっていただかなくては」
セレナとディランの母親、公爵夫人は4歳になり弟の口を拭きながら口を挟んだ。ディランは公爵夫人の言葉が気になってリディアの方に目をやったが、リディアはまた聞こえいないような素振りで朝食を頬張っていたので何か言うことはやめにした。事を荒立てることでまた嫌な思いをするのはリディアの方だと思ったからだ。
「君も、朝から説教じみたことはやめなさい。そうゆうことは、僕の役目だよ」
公爵は夫人に注意すると、夫人は「あら、あたくしは皆さんのためを思って言っただけですのに」と突っ張り気味に言って、公爵は小さく溜息をついた。父と母のやり取りを見て、子ども達は静かに朝食を済ませる。
部屋を出て、リディアとセレナは他愛もないおしゃべりを始める。
「…リディア」
何となく呼ばれた気がしたが、二人はおしゃべりをやめない。おしゃべりがセレナの番を回ったときリディアは薄ら後ろを振り向くが、ディランの姿があるのが分かると、振り向くのをやめた。目が合うのが怖かった。目が合った時どんな気持ちになるのかが怖かった。彼は恐らく気まずくならないような言葉をかけたかったのかもしれない。しかし、自分の中のもやもやした感情が、何もなかったようにしてしまいたくなかった。どうしてあの時、そう思ったのだろう。
二人は扉の向こうに消えていった。扉を閉めるなり、リディアはお腹を押さえしゃがみ込む。
「どうかした?リディア」
「ちょっと時々お腹が」
「食べすぎ?」
「…きっとそうね」
月のものが来ると、お腹の下の方が痛いとアンナが言っていた。これはきっとそれだと思った。気分が沈むのも、うまくやりすごそうとしたくないのも、みんなこれのせいだ。
そうしてリディアは意識を失った。
――そこでリディアは我に返った。今さら仲直りというのも変な話な気がするし、あの日のことを謝る勇気がない。きっと、ディランは「そんなことあったか?」なんて返してくれる気がするのに、そうしたくないのは何故なのだろう。しかし、今なら解る気がする。大人になったことで男女の違いを否応にも意識させられてしまったことだろう。もう、昔みたいに無邪気に遊んでいた子供ではないのだ。確実に私たちは皆、別々の未来が待っている。それを寂しく感じたのだと、きっとそうなのだと思った。