第五話
そして月曜日の朝、私は起きてリビングに行くと凱はまだスヤスヤと眠っていた。私はその寝顔を見ながら、この三日間の凱と過ごした時間の幸せを噛みしめていた。そうすると私の気配に気づいたのか、凱が目を覚ました。
「う、うん?あ、え!美央良?今日はまた金曜日の時の美央良に戻ったの。おはよう」
「おはよう、凱、ごめんね、起こしちゃったね。そうよ、私ね、一週間のサイクルが決まってるの。月曜から金曜まではこの姿、土曜日は凱と眼鏡店のイベントで会ったときの姿、日曜日は昨日の姿。だからね、凱、この意味が分かる?そう、あなたが会いたいと言ってくれてた、本当の私にはもう戻れないってこと」
ここで私は辛かったけど、凱にいきなり別れを告げた。
「だからね、凱、私ね、本当の自分が分からなくなってしまったのよ。だからもうあなたの期待には応えられない。だから今日で私のことはもう忘れてください」
「な、何を言ってるんだ、美央良」
「ねえ、お願い。帰る準備ができたら、何も言わずに出てっていいから」
そう言って私は再び寝室に戻った。
寝室に入った私は独り言を呟きながらベッドの上で寝室の入口に背中を向けて体操座りで顔を伏せていた。
「ごめんね、最後の最後まで凱に苦しい思いをさせて。ごめんなさい。でも本当にこれで終わりだから」
そう独り言を呟いてると寝室の外から凱の声がした。
「美央良、いいかい、入るよ」
「いや、入っちゃだめ。もう私のことはいいから、帰って」
「いや、ごめん。開けるよ」
そして凱は私の言うことを聞かずに寝室の扉を開けて入ってきた。
「美央良、何で突然、僕を遠ざけるようなことを言うんだよ。やっぱり、君、最後に僕に別れを告げようと決めてたんだね。だから昨日も保育施設を辞めてきたんだね」
私は何で?と思った。何で保育施設を辞めてきたことを知ってるのかと。
「え、何で知ってるの?私が辞めてきたことを」
「昨日、本当は仕事、もっと早く終わってたんだ。でも何か金曜日から今までの君の雰囲気が何か気になったから、日曜日の保育施設での君のことを園長さんに聞きに行ったんだ。そうしたら君が先生たちにも、そして子供たちにまで嘘をついて辞めたことを聞いたから。この三日間、君がどんな姿でも、君の僕に対する優しさは全く変わらなかったけど、ずっと何か、覚悟を決めた表情がずっと気になってたんだ。ずばり、聞くよ。美央良、君は僕をここから帰した後、金曜日の最初に約束していた話をし始めた時に言ってたことを・・・・。死のうと思ってるだろ」
私はドキッとした。自分では絶対にそんな素振りは見せていないつもりだった。でも凱はそんなちょっとした私の異変に気付いていて、私の覚悟を察していた。私は自分の覚悟を凱に見透かされて、思わず枕を投げつけてしまった。
「いいの、ほっといてよ。私はもう自分が自分でどうしたらいいか分からない。不安で不安で仕方ないの。こんな私があなたの傍にいたら、あなたを不幸にするだけ。あなたの仕事の邪魔になるだけ。こんな自分のことが不安でいっぱいの私はやっぱりいない方がいいの。もういいから帰って、帰ってよ、お願い」
そんな凱に背中を向けて俯いたままの私を、凱は投げつけた枕を手に持って、後ろからいきなり抱きしめてきた。
「ごめんよ、美央良をこんなに追い込んでしまったのは僕のせいだ。僕があの店を選んだせいで、そのせいでこの眼鏡と君が出会ってしまったから。全て僕のせいだ」
私はいきなり凱に背中から抱きしめられてドキッとした。でも私はその温かみに少しだけ自分の不安が和らいだ気がした。
「何言ってるの凱。離してよ。私にもう優しくしないで。あなたのせいじゃないんだから。これはあなたに会う前から自分が決めてたこと。ねえ、お願い離して。こんなことされたら私、私・・・」
「離すもんか。初めて君に会ったあの時から、やっとの思いで君を探し当てたんだ。もう君と別れるなんて嫌だ」
「な、何言ってるの?だからあの時の私はもういないのよ。もう私は本当の自分に戻れないのよ」
「いや、君はここにいるよ。どんなに姿があの時の美央良と変わっていようと、君の心、心の根底にある君自身は何にも変わっていない。僕はこの三日間、違う姿の君と接してみて、改めて思ったよ。だから三日間とも違う姿の君だったのに、ずっと最初に会った時の君の面影が被っていたんだ。それに天馬さんの手紙にもあったじゃないか。その眼鏡は、『見つめ直しの眼鏡』だって。まだ自分の知らない新たな自分を見つけるための眼鏡だって。そうなら、今の君だって、土曜日に見せてくれた君だって、日曜日に見せてくれた君だって、全て美央良、本当の君に変わりはないよ。だから、例え君があの時の君に戻れなくたって、いいんだ。そんなことはもう関係ない。君は僕のことを想って、今の自分を全て僕に見せてくれた。それなら今度は僕が君のことを受け止める番だよ。お願いだ、美央良、ずっと僕の傍にいてほしい。死ぬなんて選択はするな。お願いだ」
私は凱の言葉が凄く嬉しかった。こんな私でもこんなに必要としてくれる人がパパやママ以外に現れたことが。でも、それでも自分に自信がなくなっていて、心の中に不安が充満し始めていた私は凱の切実な告白を遠ざけようとした。
「嬉しい、こんな私でも必要としてくれるのね。でもやっぱり今の私は。あなたの傍にはいられないよ。だってこんな私が傍にいたら、あなたは女性にだらしない人って見られちゃう。だから、だから」
そう言ってると、背中から私を抱きしめていた凱は、私を振り向かせて今度は正面から思い切り私を抱きしめた。私はもうこれ以上は余計に別れが辛くなると思い、凱の抱擁を引き剥がそうしたが、その温もりに体からすうーっと力が抜けていった。
「やめてよ、凱、ねえ、もう優しくしないで」
「いいんだ、僕がどんな風に見られようが、そんなことは関係ないよ。今は君のことが大切なんだ。美央良、君は僕のことをどう思ってるの?君が僕のことを必要としてないならそれは仕方ない。でも、でも僕は、僕は・・・」
そう言いながら凱が私を抱きしめる力がより強くなり、私は凱の自分に対する想いが痛いほど伝わってきた。
「私は、私は、私もあなたのことが、ううん、でも」
「何だよ、僕は君の本当の気持ちが知りたい。頼むよ」
「うん、凱、あなたのことが、あの時、初めて会ったときから好きだった。そして今はあなたのことをもっと知って、もっと大好きになってしまった。だからこそ、あなたを私のことで苦しめたくないの」
「それならその気持があるなら、ずっと僕の傍にいてほしい。僕はもう君を失いたくない。今の僕にとってそれ以上の苦しみはないから。君が不安なら僕がずっと傍にいるから。僕がいることで君の不安が少しでも小さくなるなら、僕を君の傍にいさせてほしいんだ。僕は君の一番の味方になりたい、今からずっとね」
私は凱のこの言葉についに今までこの仕事を完璧にこなすこの姿で一度も流したことのない涙が瞳から零れていた。
「う、うえーん、い、いいのかな?こんな私でもあなたに甘えてしまって。グスン、凱の傍にずっといていいのかな?」
「僕がいてほしいとお願いしてるんだ。いいに決まってるだろ。フランスに旅立つ前から今まで、僕をここまで導いてくれたのは、あの番組でも言ったけど君との出会いなんだ。君と出会ってなかったら、僕の仕事だってここまで順調に来られなかったはずだ。君は僕の幸運の女神なんだよ」
そう言って凱は抱きしめていた私を少し離して私の顔を見詰めた。すると凱は驚きの表情で大声で吠えた。
「うおーーー、や、やった、美央良、やったよ。やったーーー」
私は凱の奇声を発した意味が分からなかった。
「う、な、何よ、ビックリしたわ。何よ突然大声で叫んで。やめてよね」
「これが驚かずにいられるか。ほら、美央良、見てみろよ、自分の姿を」
私は凱にそう言われてバッグからコンパクトを出して鏡で自分の顔を映した。
「え!も、戻ってる。私、自分に、本当の自分に」
私はもっと元に戻った自分を見たくて洗面所に駈け出した。
「戻ってる、私、自分に戻った。何で、何で?」
洗面所で鏡を見ながらずっと驚いていると、凱が私を後ろから抱きしめた。
「やったね、美央良。戻れたね、あの時の君に」
「でも何で、何でだろう?何で突然戻れたんだろう」
そう疑問を抱く私を後ろから抱きしめていた凱は私を振り向かせた。
「いいじゃないか、元に戻れたんだから。じゃあ、あの時に見せてくれなかった君を見せてもらおうかな」
そう言うと凱は私の掛けていた『見つめ直しの眼鏡』を外した。
「あ!ちょっと凱、止めてよ。返して、眼鏡を返して」
私は手で顔を覆い隠した。
「ほら、手をどかして。僕は君の全てを受け止めたいんだ。だから、いいだろ、君の素顔も見せてほしい」
私は恥ずかしかったけど、凱の要求に素直に応えた。。
「は、はい。でもあんまり見詰めないでね。んーーーー、んー」
そう言って恥らう私の唇を凱はいきなり奪った。私はそのいきなりのキスに脱力して、目を瞑ってしばらくの間、凱に身を委ねてしまった。そして凱はキスを終えると私の素顔を見詰めていた。
「ほら、やっぱりだ。レンズの向こう側の君も素敵じゃないか。綺麗だよ、美央良」
バシッ、私は凱をビンタした。
「痛っ!な、何するんだよ」
「それはこっちの台詞よ。何よいきなりキスなんてして、バカ」
そんな私を見て、凱は殴られたのに微笑んでいた。
「フフフ、良かった、多分これがきっと本当の君なんだね。自分の気持ちを素直に僕にぶつけてくれる、これできっと君ももっと自信を持てるはずだよ。今僕を殴ったのはきっと自信を持って仕事をしていた少し口の悪い君なんだ」
「もう、酷いよ口が悪いなんて。凱がいきなり」
私はまた凱に抱きしめられた。
「良かった。美央良、きっともう君は別人に姿を変えることはないと思うよ。だっていつもの自分の姿でその時の感情を僕にぶつけてくれた。今までそんなこと君はできなかったんだろ。それにほら」
そう言って凱は私にスマホの画面を見せた。そこには土曜日に眼鏡店のイベントで撮った私の写メだった。でもその画像には違和感があった。それはあの黒髪のロングヘアーの可愛らしい姿の私で撮ったはずなのに、元の姿の私で写っていたからだ。
「な、何で、どういうこと?あ、凱、この画像、修正したんでしょ」
「馬鹿だな、そんなことしないよ。きっと君がこの眼鏡で自分のことを上手く見つめ直せたということなんじゃないかな。なんかこんな不思議なことを自然に受け止めている自分にも驚いてるんだけどね。多分、大好きな美央良、君のことだから受け止められてるんだと思う」
「そうか、結果的に天馬さんの忠告どおりにできたのかな?私。ありがとう、凱、あなたがいなかったら私、今ここにきっといなかった」
「ううん、僕の方こそだよ。ありがとう。じゃあ、改めていいかな?」
「何が?」
「うん、今度こそ、はっきり返事を聞かせてくれよ。千条凱は島中美央良、あなたのことを愛してます。これからもずっと傍にいてほしい。だから友達としてではなく、僕の一番大切な女性としてお付き合いしてください、お願いします」
私はこの凱のど直球の告白を素直に受け入れた。
「はい、こんな私で良ければ宜しくお願いします。私も凱、あなたのことが大好き、愛してます」
この私の言葉に凱は喜びを爆発させた。
「よし!よし!最高ハッピーだーー。やったよ」
「いやだ、凱。何か子供みたい」
そして私は素顔のままで凱に最高の笑顔を見せていた。
「やった、これだよ、やっと咲いたね、美央良、君の本当のえがおの花がさ。最高に素敵な笑顔だ」
そして凱は調子に乗ってまた私にキスをしようとしたので、私は指で凱の唇を抑えた。
「もう、調子に乗り過ぎ。馬鹿」
私はこうしてついに不思議な眼鏡に翻弄されながらも本当の自分らしさを手に入れると同時に、私のことを真っ直ぐに見つめてくれる素敵なパートナーも手に入れた。