第四話
仕事モードでの自分で凱と仲良くなった後、凱の人気は更に高まっていた。あの事故での神的な対応、そしてその後の病室での凱の語った一人間としての価値観を克己の母親がブログで語ったことで、凱の人間性の素晴らしさが爆発的に広がり、そのブランド立ち上げの期待も日に日に高まっていた。
そしてあの痛々しいギプスをしたままでも凱は勢力的にテレビなどのメディアにも出演し、自分のブランドのアピール活動にも力を入れていた。
私はその番組はしっかりチェックして見ていた。
「千条さん、まだ完治してないあんな怪我で大丈夫かな?少しは休んだ方がいいと思うんだけどな」
そんなある日の平日、私はいつもの仕事版の私で社内にいた。その昼休み。
「みおちん、お昼だよ。ランチしに行こう」
「うん、今日は私がお店探しておいたからね。そこに行こう、さっちゃん、みっちゃん」
そして私は幸と満留とランチに出かけた。ビルの玄関を出ると、その少し横の歩道に人だかりができていた。そこにはまた凱がいた。あの事件以降、一段と有名になった凱がサイン攻めにあっていたのだ。
「やだ、マジで!千条凱だよ。こんなとこで何してるんだろう」
「本当だね。もう今、話題の人だからね、サインお願いされて断わり切れなくなってるみたいだね」
「大丈夫かな?千条さん、まだあの時の事故の怪我、完治してないのに」
「本当だね、まだ左腕動かせないんでしょ。それなのに、ね、もっと安静にしてた方がいいと思うんだけど」
「本当だよ」
そして凱はサインを書いていてフッとこちらを見て私の姿を視界に捉えて、一瞬、驚きの表情を見せたが、すぐに優しく私に微笑んだ。それを見て私は近くに幸と満留がいることを忘れて思わず手を振ってしまった。
「ヤダ、今、千条凱がこっち見て笑ったよ」
「違うよ、幸。今は私達に微笑んだんじゃなくて、どうやらみおちんにみたいだよ。何、みおちん、千条凱と知り合いなの?今、笑い掛けられて手を振ったでしょ」
「あ、いや、それは」
「嘘、みおちん、そうなの?何で、どこでそんなことになったのよ」
「いや、実はこの前、偶然、千条さんが熱中症で倒れたところに遭遇して助けたのよ。それだけだよ」
「いや、みおちん、凄い人と知り合いなんだね」
そんなことを幸と満留と話していると、凱は疲れたのか一旦、サインしてる手を止めて、首を回してから、私たちのいるビルの前の上空を見詰めた。
すると凱は突然、私に微笑みかけた表情が真剣な鬼気迫る表情に変わり、私の方に向かって、まだギプスを付けたままの痛々しい体で、凄い勢いで突っ込んできた。
「美良さん、危ないーーー!」
そして私は幸と満留とともに凱に突き飛ばされ転倒した。
「痛ったーーい。何なのいきなり」
私は幸と満留と転倒したが、少しだけ膝を地面で打ち付けただけで、大きな怪我はなかった。しかし、私たち三人が凱に突き飛ばされた場所を見ると、そこには凱がうつ伏せで倒れていた。そして、その倒れた凱の周りには粉々に砕けた植木鉢が散乱していた。私はすぐに起き上がり凱に駆け寄った。
「いやあーー、千条さん、しっかりして。さっちゃん、きゅ、救急車呼んで、早く」
私は気を失った凱と一緒に救急車に乗り込み救急病院に向った。
凱はあの事故から一か月も経たないうちに、また病院の天井を見上げて目を覚ました。そのベッドの横には私と幸、満留が寄り添っていた。
「千条さん、良かった、意識が戻ったのね」
凱は先生の診察を受けた。凱はまだ左肩の骨折も治っていないのに、今度は肋骨を骨折していた。そして肋骨の骨折が少しだけ肺を傷つけていたので、凱は少し呼吸が苦しそうだった。でも幸いにもギプスがクッションとなり、植木鉢の衝撃を少しだけ和らげたので、この程度の怪我で済んだようだった。それがなければ、もっと大事になっていたと先生が言っていた。
「美良さん、それからこちらの方々は?」
「うん、こちらの二人は私の会社の同僚で、こちらが金屋幸さん、そして崎谷満留さん。私の会社の同期なの」
「そうですか。三人とも怪我は?大丈夫でしたか。激しく突き飛ばしてしまったから」
「いいえ、大丈夫です。少し膝を打っただけですから」
「そうですか、良かった」
「でも何で分かったんですか?上からあんなものが落ちてくるなんて」
「ええ、歩道上でみなさんにサイン攻めにあってたんですけど、さすがに疲れて遠くを見たら、美良さんが見えたので、少しここに来た甲斐があったなと思って、嬉しくなって笑ったんです。それでもさすがにサインするのに疲れて首を回して上の方を見たら、美良さんたちの背後のビルの多分、十階くらいかな?男性が窓の外に手を出して植木鉢を落とそうとしている光景が目に入ったから。知らない人でも関係ないけど、あの時は下にいたのが美良さんだったから、余計にね。思わず骨折してる左肩にも力が入っちゃって。引っ付きかけてたのにまたヒビが入っちゃって。まあ、美良さん、金屋さん、崎谷さんに大きな怪我がなかったから、最高の結果ということでいいよね。ハハハ」
この前の克己を助けた時もだったけど、こんなことを平気で最後に笑い飛ばす凱に少し腹が立って、命を救ってもらった立場なのに、私は凱を叱りつけた。
「もう、千条さん、笑いごとじゃないでしょ。この前もそうだったけど、一つ間違ってれば自分が死んでたんだよ。この前の熱中症の時だって言ったでしょ。無茶したらダメだって。もう、何で千条さんはそんなに能天気なのよ。馬鹿」
「そんな、酷いよ。怪我人に馬鹿なんてさ」
「だってそうじゃない。私はもっと自分を大切にして欲しいって言ってるの。今日だってお仕事休みだったんじゃないの?そもそも左肩も完治してないんだから、休みの日は家でゆっくりしてなさいよね」
「美良さん、ごめん。熱中症の時に君に言われて今日は安静にしていようと思ったんだけど、ダメなんだ、やっぱり、忘れられないんだ。あの人を探したくなってしまうんだ」
「あ、千条さん、まさかあの人って?あのテレビの特集で告白したあの女性ですか?」
「はい。あ!そうだ、三人ともあのビルの中の会社で働いてるんだよね。あ、僕の携帯はどこかな?あ、あった」
凱は携帯を手にすると画面を操作し、私たちに画面を見せた。
「ねえ、この人、知らないかな?」
私はその写真を見せられてドキッとした。それは凱と初めて会って、あの眼鏡店の前で凱に撮られた写メだった。私はその写メに違和感を感じていた。本当の自分と別人の私になっている時は自分の周りの全てが別人の私に傾くのに、何故か凱が持っていた私に関する写メは本来の私そのものだったからだ。
その写メを見て幸と満留が話し出した。
「え!満留、これって?」
「え、金屋さん、崎谷さん、この人のこと、知ってるんですか?」
「知ってるもなにも、ねえ、みおちん、これって一か月前のあなたよね」
私は少ししどろもどろになった。
「な、何、言ってるの?さっちゃん、みっちゃん。私は私。これは私じゃないよ。見れば分かるよね」
「何、美良さん、君と何かこの人、関係があるの?ねえ、何か知ってるなら教えてよ」
「ねえ、千条さん、さっきからずっと気になってたんだけど、みおちんのこと、何て呼んでるの?」
「え!美良さんだけど?」
「ミラ?みおちん、不思議な呼び方されてるんだね。まさか、名前の真ん中の字を外して呼ばれてるなんて」
「え、金屋さん、どういうこと?だってこの人は美良って名前でしょ?」
私は少し幸と凱が話している内容で私がこの前ついた嘘の名前がばれそうだったので、ヤバいと思っていた。
「ねえ、もういいじゃない。名前のことなんて」
「良くないよ。金屋さん、教えて」
「だって、この娘は美央良、島中美央良って名前なんだもん」
「嘘だろ?まさか、島中美央良?ねえ、美良さんて言ったよね。この前、あの時、あの公園で助けてもらった日」
「う、うん」
「な、何で、何で偽名なんて?それに苗字もさ、教えてくれなかったよね。でもあの日の帰り、君の家の表札見た時、島中って?」
まさか、そんなところから苗字がばれるなんて、迂闊だったと思った。
「な、何で、何で嘘なんか」
「い、いや、それは」
「そうよ、みおちん、何で嘘なんかつくの」
私は自分のことで凱を何回も危険な目に遭わせている申し訳なさと、凱の私への一途さが苦しくてついた嘘の弁解ができなくて、その場を出ていってしまった。
「ごめんなさい、本当は千条さんに嘘なんてつきたくなかったの。ごめんなさい」
「美央良さん、ねえ、美央良さーーん」
その後、私は自宅に戻ってベッドの隅で膝を抱いて心の中で凱に謝っていた。あなたのことを精神的にも肉体的にも傷つけてしまってごめんなさいと。
その頃、凱の病室では凱が幸と満留に一か月前の本当の私について聞いていた。
「金屋さん、崎谷さん、お願いします。この島中美央良さんはどういう人なんですか?」
「んーー、そうですね。千条さんがこのみおちんのこと、凄く気に入ってるから言い難いですけど、はっきり言いますね。このみおちんはドン臭いですよ。今のあのみおちんとはまるで別人です。いつも仕事でミスばっかりして、私たちもウンザリしてたんです。だからいつも私達がトイレや給湯室で怒ってたんです。ごめんなさい、酷い女だと思ったでしょ。でもそれくらい、この時のみおちんは自分がミスすることにビクビクしてて。だから多分、それが影響して失敗を繰り返してたんだと思うんです」
「じゃあ、あの時も給湯室で?僕の美央良さんとの出会いは給湯室から飛んできた眼鏡を私が踏んづけて壊してしまったことだったんです」
「ああ、じゃあ、あの時だ。私達二人が会社辞めちゃえばなんて酷いこと言ったときだ。あの日以来、あのみおちんはいなくなってしまったんです。次の日は、今日のあのみおちんが会社にやってきて」
「それで、私が美良さんと呼んでいた今日の美央良さんの仕事振りは?」
「ええ、もうそれが前日までのみおちんとは別人で。やること全てが自信に満ち溢れてて、その仕事振りも完璧で、課長にもそして社長にも認められるような。それに今まで迷惑かけられてた私達にも、嫌な顔一つせずに手伝ってくれる凄い信頼できるみおちんになったの」
「そうですか?じゃあ、美央良さんにあの日、僕がフランスに去った後、きっと美央良さんに何かがあったんだ。ありがとうございます、金屋さん、崎谷さん、やっと僕が探していた島中美央良さんの手掛かりが見つかりました。やっぱり、今の美央良さんが何か知ってるんだ」
そして幸と満留は凱の病室を後にした。
帰ってからベッドの上でずっと私は凱に謝り続けていた。
「ごめんなさい、千条さん。こんな私のために辛い思いばかりさせて」
そんなことを思ってると携帯に着信があった。スマホの画面には千条さんと表示されていた。でも私は何回着メロが鳴っても出なかった。すると今度は凱からメールが届くようになった。何回も何回も。
「お願い、美央良さん、君は僕が探している美央良さんのこと、何か知ってるんだろ。頼むから教えてくれ」
「ねえ、お願いだ。僕はあの時、美央良さんに出会ったから、フランスに行っていつもの自分以上の力が出せたと思ってる。今の僕があるのは、僕の心に力をくれたあの美央良さんのおかげなんだ。あの人に会いたいんだ。何か知ってるなら教えてくれ」
「よし、もうすぐだ」
何?もうすぐって何だろう?そう思った。そうして少し待ってると玄関のインターホンが鳴った。
「着いたよ。聞こえただろ。お願いだ、美央良さん、ここを開けてくれ」
私はまさか!と思った。病院では先生に言われたのだ。骨折だけじゃなく、肺も少し傷ついてるから今日は絶対に安静にしてないとダメだと。
「美央良さん、開けてよ、開けて君の知ってること全部僕に話してくれ」
ずっと私が電話もメールも無視してると、ついにメールも来なくなった。ドアののぞき窓から見ても誰もいなかったので、帰ったかな?と思い、そっと確認のため玄関を開けた。
ドアを開けるとその外の横には壁にもたれかかって座り込んで、苦しそうな呼吸をしている凱がいた。
「はあ、はあ、やっと開けてくれたね、美央良さん」
「な、何をまた無茶してるのよ。先生に今日は絶対に安静だって言われてたでしょ。外出なんて許されてないでしょ」
「ハハハ、どうしても君に会いたくて、話を聞きたくて、脱走してきちゃった。ゲホッ、ゲホッ」
「馬鹿、何で、何で、こんなに無茶してまで私に会おうとなんてするのよ」
凱は無理して私の家まで来たので、もう意識が薄れてきていた。私は救急車を呼んで、病院に戻った。
「分かったから。何もかも千条さんに私のこと話すから。だから、今はとにかく病院に戻りましょう。千条さんが退院したら私の家で全てを話しますから。だからもう私のことで自分を傷つけないで、お願い」
「はあ、はあ、絶対だよ、美央良さん。分かったよ、今はしっかり自分の怪我を治すよ」
救急車で運ばれる途中で意識を失った凱は、また病室の天井を見上げて意識を取り戻した。
「もう、バカ、良かった。目を開けてくれた」
「美央良さん、ありがとう。また、君に心配かけてしまってごめんよ」
「そうだよ、今度無茶したらもう助けないよってあれ程言ったのに。馬鹿、馬鹿」
「でもできなかった。そんなこと君にできる訳ないよね。だって熱中症になった僕を自分の家に上げて介抱してくれるような優しい女性なんだから」
「馬鹿、それを分かってて、また無茶したんだね、もう」
私は怒ってたけど、自分のことを凄く分かってくれる凱のそんな優しさが心地よくて、少し可愛く膨れた。
「ハハハ、綺麗な顔が河豚になった」
「もう、凱の馬鹿」
この時私は初めて会話の流れの中でサラッと千条さんではなく、凱と名前を呼び捨てにしてしまった。
「ごめんなさい、呼び捨てにしちゃった」
「いいよ、やっと僕のことを名前で呼んでくれたね」
「じゃあ、私、帰るね。退院して私の家に来られる日が決まったら連絡してね。じゃあね凱」
そして三日後、凱から連絡があった。そしていよいよ凱に何もかも自分のことを話すときが近づいた。
「もしもし、ああ、凱です。美央良さん、さっきやっと退院しました。」
「あ、美央良です。良かった。もう大丈夫なんですか?」
「うん、もちろん、完治にはまだ一か月以上はかかると先生には言われているけど、今度は脱走はしてきてないよ。美央良さんが帰った後、裕康にはこっぴどく怒られたしね」
「もう、当たり前です。でも話してても苦しそうじゃないから、ホッとしました」
「ありがとう。何もかも美央良さんのおかげだよ」
「何言ってるんですか。あなたに無茶をさせたのは私のせいなのに」
「いや、無茶をしてるのは僕が勝手にあの女性を探してるからだから。美央良さんのせいじゃないから」
もう、この時、私は決めた。これから凱はもっと仕事で大事な時期を迎える。だからもうこれ以上、こんなに優しい凱のことを私のことで苦しめてはいけない、今までの私のことを全て話して、私のことから解放してあげようと。
「で、さ、美央良さん。あの約束のことなんだけど?」
「はい、もちろん。もう今度は嘘はつきません。全て話します」
「良かった。で、そちらに行く日時なんだけど」
「何時でもいいです。ただ、凱に全部話します。だから、私が決めていいですか?」
「あ、ええ、でも、もし僕の仕事の都合でそちらに伺うのが遅くなったら」
「いいです、何時になっても。全てを話すためには。だから今度の金曜日の夜、何時になってもいいので、こちらに来て貰えますか?」
「はい、分かりました」
「それと、その後の土曜日と日曜日は仕事のご予定はどうなってますか?」
「ああ、そ・れ・は、うん、その二日間は全て都内での仕事だから」
「そうですか。それなら、少し無理を言っていいですか?」
「な、何?」
「う、うん、き、金曜日の夜来て頂いてから、私の家に泊まっていってほしいんです。土曜日も日曜日も」
「え!な、何を言ってるの?美央良さん、そ、そんなこと」
「お願いします。あなたに全てを知ってもらうためには、もうそうするしかないんです。だから、ね、お願いします」
「は、はい、分かりました。僕の大切な人、あの時の美央良さんのことが分かるなら。僕の仕事のことは心配しなくていいから」
「ごめんなさい、無理を言って」
「いいんだよ。だって無理を言ってるのは僕の方なんだから。ありがとう、美央良さん、僕の仕事のことまで気遣ってくれて」
「じゃあ、金曜日、待ってますから。当日でいいから何時頃になるかメールして下さいね」
「はい、じゃあ、金曜日に」
「はい、凱、お仕事頑張って下さいね。でも無理しちゃダメだよ。じゃあね」
そして私は次の週末に全てを話したら凱とはもう会わないと覚悟を決めて電話切った。
そして凱と約束した金曜日、私はいつも通り会社にいた。しかし、この日はいつも完璧に仕事をこなす自分なのに、時々、窓の外から遠くを見つめてボーっとしていた。
「みおちん、ねえ、みおちん」
「あ、ああ、みっちゃん、何?」
「もう、どうしたの?珍しいね。みおちんがボーっとしてるなんて。もうお昼だよ。ランチに行こうよ」
「あ、うん、ありがとう。でも今日はさっちゃんと二人で行ってきて。私、今日は何だか食欲がないから」
「大丈夫?最近、課長にも頼りにされてるし、私たちの作業も手伝ってくれるから。ごめんね、残業が多いから、無理させちゃってるんじゃない?」
「ううん、違うよ。さっちゃん、みっちゃん。体は全然大丈夫なの?これは私の気分の問題だから」
「だからよ。私たちのせいでみおちんを精神的に追い込んでるんじゃないかなって」
「大丈夫よ、二人のせいでも仕事のせいでもないから。ほら、いいから、ランチに行って。時間がなくなっちゃうよ」
この日ばかりは課長をはじめ課の全員が私の異変を感じていた。だから最近、いつも私に残業をお願いしてくる課長も気を遣ってくれた。
「課長、今日は、この後、何かありますか?」
「ありがとう、島中。今日はいいよ。いつも無理をお願いしているんだ。せっかく、月曜日も有給を取ってるだろ。そんな週末くらい早く帰って自分の時間を満喫してくれ」
「はい、それではお先に失礼します」
そして私は珍しく定時に退社し、家路に就いた。いつもはこの姿の時の自分は会社で充実した時間を過ごし、その充実感を持ったままなのに、この日ばかりは、家に帰ったら一か月前に会った時よりも大好きになっている凱との別れの秒読みが始まってしまうという憂鬱な気持ちが支配していて、脚がもの凄く重たかった。
「はーーー、いよいよか。まだメールは来てないな。よし、シャワーを浴びて、晩御飯の下準備して待ってよう」
そう、私はこれで最後になると決めている凱との時間を辛いけど楽しもうと思い、この三日間は凱に手料理をご馳走しようと決めていたのだ。
料理の下準備をしている最中に凱からメールが届いた。
「今、今日の最後の仕事が終わりました。今からそちらに向かいます。一時間後くらいにそちらに到着できると思います。遅くなってごめんなさい」
「そうか、一時間後か。九時くらいだな。よし、もう作り始めなきゃ」
そして料理もほぼ完成した頃、インターホンが鳴った。
「はい」
「僕です、千条です」
「はい、今開けます」
「どうもすいません、美央良さん。遅くなってしまって」
「お疲れ様でした。千条さん、遠いのに無理を言ってごめんなさい」
「ちょっと、美央良さん。前も言ったでしょ、無理を言ってるのはこっちだから。それにまた僕の呼び方、よそよそしくなってる。凱でいいから、その方が嬉しいです。それに何か今、凄く幸せでした。美央良さんみたいな女性にお疲れ様って迎え入れてもらえるなんて。何か今の一言で今日の仕事の疲れなんて全部なくなったような気分です」
「ごめんなさい、じゃあ、凱。ほら、早く上がって。疲れたでしょ。まずはシャワーでも浴びてくる?」
「いや、でも、いいの。美央良さんの家でシャワーなんて浴びさせてもらって」
「いいよ、暑かったから沢山汗掻いたでしょ。遠慮しないで、明日も仕事があるんでしょ。それにこの後、大事な話もあるから。あ、でも凱は上半身は一人では無理だね。いいわ、上半身は私が体を拭いてあげる」
「いや、いいよ。そこまで君に迷惑をかけるのは」
「もう、怪我人は素直に言うこと聞きなさい」
「あ、そう、そうだね。分かりました。お言葉に甘えます」
「そうして。でも凱も私によそよそしいって言う割には自分だって、年下の私に言葉遣いが丁寧だよ」
「そうですね、あ、そ、そうだね。ごめん、美央良さん」
「美央良でいいよ。私達、友達でしょ」
「う、うん、でも呼び捨てじゃな」
「いいの、ほら、遠慮するな凱」
「分かったよ、美央良。じゃあ、シャワーをお借りするね、じゃなかった。シャワー浴びてくる」
私は幸せだった。例え最後になるとしても自分の名前を凱に呼び捨てにされて。
シャワーを浴びてきた凱に私は近寄り、そして上半身を拭いてあげた。
「はい、上のシャツ脱いで」
「いや、でもやっぱり」
「いいから、私だって恥ずかしいんだから、早くする、ほら」
そして次は手料理を振る舞った。
「はい、どうぞ、ここに座って、凱。お腹空いてるでしょ」
「え、これ?全部、美央良が作ったの?」
「そうよ、前から決めてたの。三日間も泊まりでってお願いしたのは私だから、せめて晩御飯くらいはご馳走しないとと思って」
「す、凄いね。みんな、目茶苦茶美味しそう。本当にいいの?」
「いいに決まってるでしょ。凱のために作ったんだから。どうぞ、はい、お酒もあるよ。私は飲めないけど、ビールとワインは買っておいたから。でもワインは安いものだからね。私、お酒飲めないからお酒のことは分からないから」
「嬉しいな。じゃあ、ビールを一つだけ、お願いします」
そして私は凱と初めて二人で食事をした。それも自分の家で、私の手料理を囲んで。自分でもこんな幸せがあるんだなとしみじみ感じていた。
「どう?美味しい?」
「うん、うん、もう最高だよ。こんな幸せなことないよ。美央良さんて、和食も上手なんだね」
「今日作ったものは、全て、ママに教えてもらったの。もう亡くなったから、これ以上は教えてもらえないけど。唯一作れるママの味なの」
「そうなんだ。そう、グスン」
「え!どうしたの?まさか凱、泣いてるの」
「ごめん。実は僕も両親、いないんだ。父は僕が小学一年生の時に過労が原因の心臓発作で。母はそれから女手一つで僕を高校卒業まで育ててくれたけど、僕の就職が決まってから高校最後の春休みにね、母が大好きだったディズニーランドに連れて行った帰りに交通事故で。だから、それ以来、こんな美味しい味噌汁や煮物を食べたの久しぶりで。何か母の料理を思いだしちゃって、ごめん」
まさかの話だった。凱が私と同じで両親を亡くしていたなんて。
「ごめんなさい。凱にそんな辛い思い出があったなんて知らなかったから。辛いこと思いださせちゃったね」
「違うよ、美央良が何で謝るんだよ。凄く嬉しいんだ。美央良だって一年前に両親を亡くしてるのに、僕のためにこんなお袋の味を作ってくれるなんて。君だって両親のことを思い出してしまって辛いはずなのに」
凱は自分のことで泣いた訳ではなかった。私のことを気遣って泣いていた。やっぱり凱は本当に素敵な人、私は別れる決意をしてるのに、ますます凱に惹かれていた。
「ご馳走様でした。最高の晩御飯でした」
「どうも、御粗末様でした。じゃあ、少しだけ待っててね。さっと洗いものするから」
「あ、美央良、僕も手伝うよ。食器くらい拭くくらいできるからさ」
「いいよ、仕事で疲れてるでしょ。それにあなたは怪我人なのよ。そこに座ってて。ほら、もう一本、どうぞ、ビールでも飲んでて」
「うん、分かったよ。でも不思議だな。僕が一か月前に出会った島中美央良さんは、君と全く違うタイプの女性だったのに?」
「何?何が不思議なの?」
「うん、全く違うのに、何故か、君の今、洗物をしてる後ろ姿を見てると、あの時の美央良さんが被ってしまうんだ」
私はその言葉を聞いて少しドキッとした。凱は私のことを薄々、勘付いているんじゃないかと?でもこの数時間後にはそのことを全て話さないといけない。信じてもらえるかどうかは分からないけど。でも、土曜日、日曜日の別人になった私を見せればきっと驚いて、そして怖くなって離れていくに決まってる。
「そんな、凱が一番素敵だと言った女性と私が被るなんて、止めてよね、恥ずかしいから」
「ごめん、つい。君に失礼だよね。君は君で素敵な女性なのに違う女性と比べるなんて」
「よし、終わった」
洗物を終えた私は、いよいよ覚悟を決めて、凱をソファに座らせて、私も少し離れて凱の顔を見詰めながら真実を話し始めた。
「凱、あなたが知りたがってたこと、全て話すわ。ちょっと、こっちに座って」
そして私は話し始めて、思い出したように箪笥の引き出しから一通の封筒と眼鏡ケースを持ってきて、テーブルに凱の目の前に置いた。
「はい、これ」
「何、この封筒は?それとこれって?何で?何で君がこの眼鏡を持ってるの?」
「うん、だから、まずその封筒の中身を読んでみて」
そして凱は私に言われたとおりに、眼鏡店の主人、天馬さんが私に宛てた手紙に目を通した。
「え、これって、どういうこと?まさか!」
「そうです。そのまさか!、私が凱と一か月前、あのビルの五階の廊下で出会った島中美央良です」
「う、嘘だろ?そんな馬鹿なことって」
「本当よ。今までずっと黙っててごめんなさい。あの時、凱がテレビの特集でインタビューを受けてるのをテレビで見た時、私に問いかけてくれたよね。見てたら連絡を下さいって。私のことを大切な人って言ってくれて、とても嬉しかった。だからテレビ局に電話しようと思った。でもできなかった」
「な、何で、何で」
「一つはこの眼鏡のこと。凱も今、その手紙読んだから分かると思うけど、私がこんなことになったのはあなたにプレゼントしてもらったこの『見つめ直しの眼鏡』が原因。いくら選んだのが私だからって、優しい凱のことだもの、凄く責任を感じると思ったから。二つ目はその手紙の中にあったでしょ。店主の天馬さんもこの眼鏡の使い方を間違えたって。私もそうなの。この眼鏡の力に頼り過ぎちゃって、本当の自分に戻れなくなっちゃったの」
「そんな、どうして」
「多分ね、この眼鏡に私が魅かれたのは必然だったと思うの。だって私、凱に出会ったあの給湯室にいた時、決めてたから。家に帰ったら自殺をしようと」
「何で、何で君がそんなことを」
「凱もさっちゃんとみっちゃんからあの時、病室で聞いたでしょ。あなたが想い続けてくれた本当の私の時の仕事振り。私ね、小学校三年生の時のテストでね、担任の先生から人前でテストの間違いをいじられてから、それがトラウマで人がほとんどしないようなミスを頻繁にするようになって、人前に自分を晒すのが怖くなって。眼鏡を掛け始めたのもそれが原因なの。人前に素顔を晒すのが嫌で、目も悪くなかったのに、わざと視力検査で嘘をついて、眼鏡をかけた。それから、ずっと自分の目標としてることには必ずこの自分のことを内側に隠そうとする性格が影響して、何も上手くいかなかった。だから会社でも、何をやってもダメで、いつもさっちゃんとみっちゃん、課長にも迷惑ばかりかけて、怒られてばかりだった。だからあの時、もう限界だった。さっちゃんとみっちゃんに怒られて、覚悟を決めたの、決めたのに、そこに凱が現れた。あの時、凱が私のこと褒めてくれたでしょ。素敵だとか、眼鏡が凄く似合ってるとか。私ね、あんな風に自分のことを褒めてもらったの初めてだった。私のことをまともに見つめてくれる人なんてパパとママ以外いなかったから。凄く嬉しかったの、だから、あなたにプレゼントしてもらったこの眼鏡、嬉しくて、あの日、掛けて寝たの。そうしたら、次の日の朝、この姿に」
凱はこれまでの私の話を本当に信じられないというような顔で聞いていた。
「いいよ。そうだよね。最初は私も自分に何が起こってるか分からなかったもの。だからね、凱には信じてもらうために、だから今日から三日間、泊まっていってとお願いしたの」
「何、それはどういう意味なの?」
「うん、今日はもう遅いから明日にしましょう。明日の朝になったら分かるから。それに凱は明日も明後日も仕事でしょ。体を休めないと。いいよ、凱は私のベッドを使って」
「うわあ、頭がパニックだよ。こんなことが現実に自分の周りで起こるなんて。ふーー、落ち着こう。いいよ、美央良、君の家なんだから、僕はいいよ、ここで寝るから。そんなに気を遣わなくても。とても僕は寝られそうもないよ。話の内容が凄すぎて」
「本当にいいの、凱」
「いいよ、僕はもう一度、自分の頭の中を整理するから」
「ごめんね、凱のことを惑わせてしまって」
「大丈夫、僕が教えてくれって言い出したことなんだ。君が悪い訳じゃない。とにかく自分の気持ちを整理するから」
「じゃあ、私、寝るね。おやすみ」
「う、うん、おやすみ」
そして私は凱をリビングに残して寝室で眠りに就いた。凱はずっと頭の中を整理していてほとんど眠れなかったようだ。そして翌朝、私は寝室の扉を開けて、凱に挨拶した。
「おはよう、凱」
凱は挨拶すると同時に私の顔を見て、私の名前の呼び方につまった。
「おはよう、美央、美央良!さん?え!君はあの眼鏡店のイベントで会った、島中美央良さん?」
「これで凱、少しは信じてくれた?これも実は私なのよ。だから、ほら、このあなたにもらった眼鏡もここにあって当然なのよ」
「まさか、こんなことって?他に寝室に別の女性が隠れてないよね」
「当たり前でしょ。私一人よ」
凱はとにかく私の変貌ぶりに驚くしかなかった。
私はと言うと、月曜日には凱との別れを決めているから、本当は凄く凱のことが大好きでどんどんどんどん辛さが増してきているのに、それ以上にこれから凱に私のことで二度と辛い思いをさせたくないという思いが勝り、常に平静を装って対応していた。
「はい、これでまた別の私を凱に見せたわ。ほら、もう仕事に行かないと、遅れちゃうよ」
「う、うん、でも」
「ほら、早く行きなさい。今日も夜はメールしてね。晩御飯作って待ってるから」
そして私は後ろ髪を引かれる思いがありありと見える凱が仕事に行くのを見送り、その後、午後にはダンススクールへ向かった。そして私はこのダンススクールに通うのも今日が最後と、明日の日曜保育に向かうのも最後にすると決めていた。なぜなら、自分が幸せになれると思って今の生活を続けてきたが、自分の行動が結果的に凱を傷つける結果になっていることが許せなくなっていたから。今度こそ、凱と別れた後に自分の人生にけじめを付ける覚悟を決めていた。
「おはようございます、先生。みなさんも」
「やあ、おはよう、島中さん」
「おはよう、みおちゃん」
「先生、みなさん、お伝えしたいことがあります。いいですか?」
「何?どうしたの?」
「はい、突然で申し訳ないですけど、せっかく先生ともみなさんとも仲良くなれて、ダンスのレッスンも楽しかったんですけど私、来週に生まれ故郷の大阪に帰らないといけなくなってしまって。ここに来るの、今日で最後になるんです」
「え!そんな、本当なの?」
「うん、ごめんなさい。母の具合が悪くて、父も大変だから私が母の面倒を見ないといけなくて。私もとても残念ですけど」
「そうか、お母さんが体調が悪いんじゃ仕方ないね。僕たちも寂しいけど、みおちゃん、最後だけどみんなで楽しく踊ろう」
私は最後のレッスンを楽しんで家に戻った。
「あーあ、先生にもスクールのみんなにも嘘ついちゃった。でもいいよね、どうせ明後日には私はもう・・・。よし、あと二日、凱のために頑張ってお料理しなくちゃ」
そしてこの日も凱は昨日と同じで九時頃に帰ってきた。
「はーい」
「僕です、千条です」
「お帰りなさい、凱。疲れたでしょ、今日も暑かったから」
「うん、今日も遅くなってすいません」
「もう、また言葉遣い。ほら、いつも仕事で気を遣って話してるんでしょ。今日と明日、私といるときくらい、もっと気楽にね、ね」
「うん、分かったよ。でも何で君は・・・」
「何?私が何?」
「いや、何でもない」
「よし、じゃあ、今日もご飯の前にシャワー浴びてきて。出てきたら体拭いてあげるから」
「うん、ありがとう、美央良」
私は凱とのこんなやり取りが幸せだった。たとえ明日が最後でも。
私はシャワーを浴びて出てきた凱の上半身を優しく拭いた。
「はい、これでいいね。どうなの怪我の具合は」
「うん、美央良に怒られて三日間、病院で先生の言うことを聞いて安静にしてたから大丈夫だよ」
「もう、当たり前のことなのに、ドヤ顔でそんなこと言って。でも良かった。あ、それでも安心しちゃダメよ、仕事に託けて病院に行くことをさぼっちゃダメよ。定期的に診察受けに行かないと」
「分かってるよ」
「よし、分かってるならよろしい」
「もう、まるで美央良は僕の母親気取りだな。ありがとう」
「あ、今、ね、私のこと、うるさい女だなって思ったでしょ、ね、そうでしょ」
「いや、そ、そんなこと思ってないよ。ただ」
「何よ」
「君といると楽しいなって。仕事から疲れて帰ってきても、君の笑顔を見ると癒されるなって。素敵な笑顔だなって」
「ま、また、そんなこと言って」
「本当のことだから。素直な自分の気持ちを話しただけだよ」
「さあ、ご飯食べましょ。凱、今日はお酒は何を飲む?」
「今日もやっぱりビールで、お願いします。あ、でも今日は美味しそうなハンバーグだね。肉料理だから赤ワインにしようかな」
「分かった。じゃあ、冷蔵庫から持ってくるね」
「え!赤ワイン、冷蔵庫にずっと入れてたの?」
「うん、だって冷えてた方が美味しいんでしょ?」
「赤ワインは基本的に常温でいいんだよ」
「ごめんなさい、私、お酒飲めないから分からなかった」
「いいよ、ごめん、美央良を責めてる訳じゃないから。でも店員が飲み方くらい教えてくれなかった」
「うん、ごめんね、それと開け方も分からないから、自分で開けて」
「そうか、本当にダメなんだねお酒。何か今日の姿の美央良はそんな感じだもんね。可愛らしいから、お酒飲めないってイメージにピッタリ。よし、開いたよ。どう?美央良も少しだけ飲んでみる?赤ワインは肉料理に合うからさ」
「嫌だ、絶対に嫌。私、少しでも飲んだら酔っちゃうから」
「嘘だよ、冗談。今日もありがとね、美央良、食べていい?」
「うん、どうぞ」
「いただきます」
私は凱と今日も楽しいディナーを楽しみ、少しだけリビングでくつろいだ。
「あーー、美味しかった。今日も本当に泊まっていっていいの?」
「うん、だって私が言い出したことだから。どう?凱、少しは私に起こってる不思議な現実、あなたの中で整理できた?」
「あ、うん、まあ、少しは。だって君が今朝、別人の、あのイベントの時の美央良さんに変わっていたから。それに今こうして、普通にその人とこんな近くで話してるんだ。君に見せてもらった眼鏡店の店主の手紙の内容もあるし。信じるしかないよね。それに、君をあの店に連れて行ったのは僕だから、どうしたらいいんだろう、僕が君にできることって何があるんだろうと思って。今日は帰りにそんなことばかり考えてしまって。でも考えがまとまらなくて」
私はやっぱりなと思った。私に起こってる不思議な現実に向き合うと同時に、自分に責任を感じて、私のために何ができるのかを考えている。今までの凱の言動を見ていれば分かる。自分のことより、他人のことばかり考えてくれる、凱はそんな人だったから。だからそんな優しい凱を苦しめないためにも、今の私の全てを見せて、もうあの時、凱に初めて会ったときの私はもういないことを教えて、凱を私から解放しないと、凱の言葉を聞いて、よりその気持が強くなった。
「さあ、もう休みましょう。でも今日も凱、ここで大丈夫?」
「当たり前だよ。僕はここで十分」
「でもこんな狭いソファで寝てて、傷が痛まない?」
「大丈夫だから。いいよ、美央良はほら、寝室に行って。おやすみ」
そして私と凱は眠りに就き、翌朝、またリビングで休んでいた凱に近づきそっと起こした。
「ねえ、凱、時間だよ。準備しないと仕事遅れるよ」
「ううん、あ、ありがとう、美央、え!ええーー、美央良?え、まさか君はあの時の保育士の美央良さん?」
「うん、実はこれも私なの。ごめんなさい」
そんなまた違う私の姿を突きつけられて困惑してるはずなのに、凱はこんなことばを私に掛けた。
「いいよ、昨日のことで少しは覚悟してた。でも、僕より、美央良、君が心配だよ。大丈夫かい?君の心の中が」
「大丈夫だよ。ほら、いいから。準備しないと、仕事遅れちゃう」
「うん、美央良は保育園に行くのかい」
「うん。はい、できたよ、朝ご飯、どうぞ」
「ありがとう」
私は凱を送り出してから保育園に向かった。
「園長、美紀先輩、おはようございます」
「おはよう、島中先生」
「園長、すいません。実はお話しが」
「何?」
「まだ、数回しか働かせてもらってなくて申し訳ないですけど、今日で辞めさせてもらいたいんですが」
「え!何で」
「はい、実家の母が体調を崩して、父一人じゃ大変なので大阪に戻らないといけなくなってしまって」
「まあ、そうなの。残念だわ。でもそんな事情なら仕方ないわね。島中先生が来てくれて本当に助かったけど」
「本当にすいません、園長、美紀先輩」
「いいのよ私達は。でも子供達が寂しがるわね」
そして私は子供達にも最後の挨拶をした。
「はい、みんな、今日は悲しいお知らせがあります。今日で島中先生と遊べるのは最後になります。島中先生のお母様が病気なのでね、島中先生は家に帰らないといけなくなりました」
「ごめんね、みんな、先生もみんなと遊べて本当に楽しかったのに、こんなにすぐに別れることになって」
「嫌だ、美央良先生、やだよ、やめないでよ。もっと一緒にいたいよ。えーん」
私は女の子全員に抱き着かれた。私はみんなが愛おしくなって、そして自分が嘘をついてることも辛くてみんなを抱きしめた。
「ごめんね、みんな。ごめん」
でも男の子たちは私に辛い気持ちをぶつけるのを我慢していた。そして克己はその辛さを我慢して私が別れを辛くならないように庇ってくれた。
「おい、泣くなよ。美央良が余計に辛くなるだろ。美央良だって辛いんだぞ。仕方ないんだ。俺たちだってパパやママが病気なら一緒にいてやりたいって思うのが当たり前だろ。泣くなよ、みんな、気持ちよく美央良を送り出してやるんだよ」
私はこの克己の優しい気遣いの言葉が余計に辛くなり、思い切り涙が零れた。
「ごめんね、かっちゃん、みんなも本当にごめん」
「美央良、先生がそんなに泣いたら、俺たちだって、えーん」
そして私は子供達を裏切ってる自分が許せない気持ちを引き摺ったまま、保育施設を後にした。
「あーー、こんな辛い別れになるなら、止めておけばよかったな。うん、でも大丈夫、明日にはもう私は・・・、これでいいのよ」
私は自分に言い聞かせて、凱に作る最後の料理の下準備を始めた。そして日曜日のこの日は凱からのメールが早く、六時頃に届いた。
「今日は今からそちらに向かいます。七時頃には着けると思います。早すぎるなら返信下さい。どこかで時間を潰してきますから」
「もう、凱は。どこまで私に気を遣うのかしら」
私は凱にすぐにメールを返した。
「もう、気を遣わなくていいです。すぐに帰ってきて下さい。私は早くあなたの顔が見たいです。待ってますから」
そして凱は七時過ぎに帰ってきた。
「はーい、今開けます。お帰りなさい。疲れたでしょ。さあ、どうぞ」
「う、うん、ただいま」
凱はそう言って、私を上から下まで不思議そうな顔で見つめた。
「な、何?どうしたの凱?やだ、そんなに見詰めないでよ」
「いや、ごめん。何か、毎日、違う姿の美央良に迎えてもらって、不思議な気分。でもどの姿の美央良も同じ女性なんだなって思うとさ。どの美央良も素敵だから、凄く心が落ち着くんだ」
「やだ、ほら、早くシャワー浴びてきて」
凱が私に投げかけてくれる一言一言が凄く嬉しかった。
「よし、はい、拭けたよ。さあ、ご飯にしましょう」
「ありがとう、美央良。あれ?今日も和食?でも一昨日のと違うメニューだね。お袋の味はこの前のしか作れないって言ってたのに」
「うん、でも凱は和食が大好きそうだったから、チャレンジしてみたの。初めて作るものばかりだったけど、これ、本屋さんで買ってきて」
「もう、そこまでして頑張ってくれなくてもいいのに」
「いいの、私がそうしたかったんだから。だって凱の喜んでくれる顔が見たかったから」
「本当に君って女性は。外見はもちろんだけど、中身が素敵なんだ。僕のことを心から想ってくれて。君といると本当に癒されるよ」
「もう、そんなこと真顔で見つめたまま言わないで。恥ずかしいじゃない」
「いいじゃないか。そんな手で顔を隠さないでくれよ。君の素敵な笑顔を見ながら、こんな美味しい料理をいただけるなんて、最高に幸せなんだから」
そして凱と最後になる楽しいディナーを終えて、リビングで少し話した。
「いやあ、美味しかった」
「お粗末様でした。ねえ、凱、明日はどこでお仕事なの?」
「いや、明日は仕事は休みなんだ」
「そう、私も明日は有給休暇だから。じゃあ、明日は起こさなくていいね」
「いや、君が起きたら起こしてよ。じゃないな、僕が自分で起きないといけないな。泊めてもらってる身で美央良に頼り過ぎだね」
「いいよ、明日が最後だから起こしてあげるよ」
「な、何、今の最後って?」
「いや、だから、凱に泊まってもらうのがよ。別に変な意味はないよ」
「うん、そ、それならいいけど」
「じゃあ、もう寝ましょ。凱がせっかく休みなんだから、体をしっかり休めないと」
「ああ、そうだね、おやすみ、美央良」
「おやすみなさい、凱」