第三話
そんな時だった。家でニュースを見ていて、ある特集に釘づけになった。
「さあ、今日は先日、フランスの眼鏡のデザインコンクールで最高金賞を受賞しました、眼鏡デザイナーの千条凱さんにお越しいただいています」
私はテレビからこの名前を聞いて、テレビにかぶりついた。その姿は間違いなく、一か月前、私の前に突然現れた、あの優しくて素敵な男性だった。
「嘘!まさか、千条さんて、眼鏡のデザイナーだったの?だからあんなに眼鏡に詳しかったんだ」
そして私はそのインタビューに集中した。
「千条さん、この度は本当におめでとうございます」
「ありがとうございます。私も今回は金賞は取れるかな?という自信は少しあったんです。でも最高金賞となると、さすがにね、フランスのコンクールだし、それに眼鏡のデザインに関しては、まだまだ日本は海外に及ばないかなと思ってたので。自分でもビックリしています」
「このコンクールには地元のフランスばかりでなく、イギリスやアメリカをはじめ、他の国からも名だたるデザイナーも出展してたんですよね。それを抑えて最高金賞というのは凄いことですよね」
「はい、だから自分でも凄く自信になりました。そして昨日、日本に帰ってきた時の日本の皆さんの出迎えを受けて、実感が湧いてきました。そして同時に少しは日本の眼鏡業界に貢献できる仕事がこれからできるのかな?やってやるぞという意欲とやらなきいけないという決意も湧いてきました」
「この賞を機に、千条さんは自分の眼鏡ブランドを立ち上げると聞いていますが」
「はい、もうブランド名はベタですけど、自分の名前を取って『凱GLASSES』と決めています」
「そうですか。続いて、千条さんは眼鏡のデザインで特に重要視していることは何ですか?」
「ああ、それはもう眼鏡のデザインを始めてから変わってません。掛ける人の日常に溶け込み、男女を問わず、掛ける人の美しさを引き立てるデザイン。これしかありません。眼鏡を掛けることが苦にならず、それでいてさりげなく存在感を示しつつ、掛ける人のかっこよさ、美しさを引き立てる、これが眼鏡の役割だと考えているからです。テレビとかを見ていて、芸能人の方なんかのインタビューを見てると、自分の存在を隠すために眼鏡を掛けるという方もいますが、その人の存在を隠してしまうような眼鏡は私は眼鏡とは考えません」
「んーー、さすが、その辺りは眼鏡デザイナーさんですね、眼鏡への愛情を感じますね。それから、まだブランドの立ち上げもこれからなので先になるとは聞いてますが、テレビCMの話も進んでると聞いていますが?」
「はい、既に私のブランドに興味を持って頂いてる企業もいらっしゃるので、少しずつ話は進めています」
「じゃあ、もう、モデルとして起用する方とかは決めていらっしゃるんですか?」
「あ、はい。最初に売り出す眼鏡は女性を意識したものと決めていますので、もちろんモデルは女性と決めてます」
「おお、何か初耳の話題が出ましたね」
「はい、最初にどんな眼鏡をデザインして出すかはまだ、どこでも言ってません。今、初めて言いました」
「じゃあ、もう少し突っ込んだ話を。もうそのCMに起用するモデルさん?ズバリ、お聞きします。現役のモデルさんですか?それとも女優さん?それともアスリート?それとも他の有名人ですか?」
「すいません。色々なご職業の方を出してもらいましたが、全部外れです。ただ、もう誰にお願いするかは決めています」
「おお!これはもうインタビュアーとしてもくすぐられますね。ズバリ、誰ですか?」
「言っても分からないと思います。一般の方を起用しようと思ってますので。それにまだ、その方の名前しか私も知らないので、今からその方がどんな方か、どこに住んでる方なのかも調べないといけないので。それに、モデルをお願いして、引き受けてもらえるかも、今の時点では分からないので、名前を明かす訳にはいきません」
「うわあ、何かミステリアスですね。でも、何故、その方なんですか?」
「はい、それは、その人が今回のフランスでのコンクールでの成功に導いてくれた一因にもなっている私にとってとても大切な女性だからです」
「おお、また何か凄く興味をそそられる話題が出てきましたね。千条さんとその女性との関わりは?」
「んーー、どうしようかな?こんな全国ネットの番組で話していいのかな?でもこれを見ててくれたら、もしかしたら連絡もらえるかもしれないな。
私がその女性と出会ったのはちょうどフランスに出発する当日、とあるビルの廊下で出会いました。何故か、その人の掛けていた眼鏡が私の足元に飛んで来たんです。それを私が踏んで壊してしまったんです」
私はこの時思った。これって、私のことだ。私のことをとても大切な女性だなんて、それにコンクールの成功の一因とまで言ってくれてる。私はその言葉を聞いただけで凄く心が暖かくなっていた。
「私はその女性に踏んで壊してしまった眼鏡を謝りながら渡しました。壊した状況がどうだったかもありますが、普通は怒って当然だと私も思ったんです」
「確かに、そうですね」
「でもその女性、私に何て言ったと思います。壊れた眼鏡を見てるのにですよ。私に拾って頂いてありがとうございます。って、私はもうその言葉を聞いて、んーー、すいません。こんなこと、テレビで言うことじゃないと思いますけど、あの日、会った時から今まで、遠いフランスにいたから余計にもう我慢できなくなって。もうその時から私はその女性に心を奪われました。好きです、大好きなんです。どうか、このテレビを見てたら連絡を下さい。君に会いたくて仕方ないんだ」
「ちょっと、千条さん。な、何言ってるんですか。まさかの公開告白ですか?」
「す、すいません。もうフランスでデザインに専念してる時もずっと頭から離れなくて、今、その女性の話をしてたら、我慢ができなくなってしまって。そうなんです。その私の今、心の支えになっている女性をCMのモデルに起用したいと思ってるんです。もう、その女性はとにかく凄く眼鏡の似合うとても可愛らしくて美しい女性なんです。私もいろいろな眼鏡の似合う女性を見てきましたが、その中でも私の中では一番の方なんです。あ!すいません、自分の想いを話し過ぎました」
「そうですか、まさか、こんな公開告白というおまけまでつくインタビューになるとは思ってませんでしたが、千条さんの心の奥深いところまでお聞きできて、とても有意義な時間でした。ありがとうございました」
そして番組は終了した。私はその番組を見終えて、テレビの前でペシャンと座り込み、遠い目をして少しの間ボーっとしていた。私は心の中で自問自答していた。
「嘘だ。千条さんに大好きだなんて言われてる、この私が。あの千条さんが、私に会いたいって。どうする?今の番組のテレビ局に電話する?」
この時、私はふと思った。今の私はあの千条さんと出会った私と違う。そして、今は別の自分に頼り過ぎて、本当の私にどうやって戻ったらいいか分からなくなってる。ダメだ、こんな状態じゃ、とても千条さんに会える訳がない。どうしよう。私はこの時、頭の片隅に追いやっていた店主の忠告の真意を理解した。
「天馬さんの言いたかったのは、こういうことだったんだ。本当の自分をしっかり見つめてくれる人がいるのに、それを出せなくなる。まさか自分がこんなことになるなんて」
こう思いながらも、私は少し冷静に考えていた。でも、凱の想いは分かったけど、このまま会わなければ、所詮、一か月前にほんの一時、一緒に過ごした男性だからそのまま自然に忘れていくんじゃないかと考えていた。でもそれは安易な考えだった。
私は昨夜のテレビ番組で凱のことを知った翌日、いつもの日常に戻っていた。
「島中、今日は三時からの企画会議、君も一緒に同席してくれ。一度、資料作成だけじゃなく、君のプレゼン能力も見てみたいんだ。だから今日の資料説明も宜しく頼む」
「え!私がですか?」
「ダメか?」
「いえ、やります。これは課長の期待の表れと取っていいんですか?」
「ああ、もちろんだ。島中のこの一か月の仕事ぶりは、私を始め、課のみんなも認めるところだ。君の表に出ない部分での仕事ぶりはもう十分に分かった。だから、少しは表舞台でも評価を受けてもいいんじゃないかと思ってな」
「でも私は表には出なくてもいいと課長には言いましたが?」
「ああ、それはまあ聞いたがな。・・・実を言うとな、前も言ったが、島中が毎回作成してくれる資料はとにかく社長の評価が高くてな。是非、その資料を作ってる本人が説明してる姿を見たいと言われてるんだ。私だけでなく、社長にも島中の評価は高いんだ」
「分かりました。社長にまでそんなに評価してもらってるんでしたら、一度、チャレンジしてみます」
そして、私はその日の企画会議のプレゼンに挑んだ。そしてそのプレゼンも参加したメンバー全員の高い評価を受け、その説明をした企画も本格的に動き出すことになった。
「いや、資料も素晴らしかったが、島中、君のプレゼン能力も相当なものだ。資料の内容に付随するサブ情報についてもしっかり頭の中に入っていて、素晴らしいよ。相当、準備をしたんだな」
「いえ、これは資料を作るときに、ある程度、説明することをイメージして、この時にどんな質問が来るかを想定してますので、説明について準備するというよりは、資料を作るときの前準備でほぼ完結してるので、その時にだいたいは頭の中に入ってます」
「いやあ、本当に、今の島中は凄いな。君のような部下を持てて、私は幸せだ」
「ありがとうございます、課長。じゃあ、私はこれで。定時も過ぎてますので、課に戻って片づけをしてから帰ります。課長はこの後、社長と会食なんですよね」
「ああ、できれば、是非、君にも出席してもらいたかったんだがな。まさか、会議の後の社長の誘いをすっぱりと断るとはな。社長も納得してたからな。あんなにスパッと自分の誘いを断られたのは初めてだと。あの社長があんなにすぐに引き下がるなんて初めて見たからな」
「すいません。でも私は思うんです。別に社長のことも、もちろん課長のことだって嫌いな訳じゃないんですよ。でも基本的に会食は仕事が終わってからの話じゃないですか。それに今回の会食は社内のメンバーだけじゃないですか。行きたくなければはっきり断った方が失礼じゃないと思うんです。むしろいやいや出席する方が失礼だと思うんです。それに私はお酒は全く飲めないので」
「凄いな、確かにもっともな意見ではあるな。しかし・・・」
「な、何ですか?課長」
「いや、一か月以上前の、あの島中だったら、とてもじゃないけど、こんなにスパッと私に自分の意見をぶつけるなんてなかったけどな。それに今日はおまけに社長にまでだからな」
「すいません、課長も不愉快にさせたなら謝ります。あと、社長にも、不快な思いをさせたなら後日、謝罪に伺いますとお伝えください」
「もういいよ、島中。社長もそんなことは思ってないよ。それに俺もな。今日はご苦労さん、ありがとう。お疲れ様、気を付けて帰れよ」
そして私は帰り支度をして会社を出た。
会社の入っているビルの玄関を出ると、空は綺麗な夕焼け空で、真っ赤に染まっていた。
玄関を出て、私はふーっと大きく息を吐いて、駅に向かって歩き出した。しかし、すぐに足を止めた。会社の入っているビルの角に見覚えのある男性を見かけたのだ。私は思わず物陰に隠れてしまった。
「やだ、何で、何で千条さんがこんなとこにいるの?」
凱はビルから出てくる人を見ていた。どうやら誰かを探しているようだった。
「やだ、まさか、私のことを探しに来たの?あ、でも大丈夫だ。今の私なら千条さんに私のことが分かる訳がない。普通に帰ろう」
私は何事もなく凱の横を通り過ぎて家路に就いた。
家に帰った私はまず大きなため息をついた。
「はああ、ビックリしたな。まさか千条さんがあんなところにいるなんて。でも、私もあんなに会いたいと思ってた人なのに逃げるように帰ってきちゃうなんて。私、これからどうしたらいいんだろう。このまま、本当の自分を見失ったまま、生きていっていいのかな?」
私は予期せぬ形で凱に再会を果たして、気持ちが迷走し始めていた。
翌日の土曜日、私は自分自身を楽しむ黒髪ロングヘアーの私になっていた。
「いいや、昨日は千条さんに会ったのは仕方ないよね。だって千条さんに初めて会ったのはあのビルの五階の廊下だもん。今日は大丈夫だよね。だって渋谷からこんなに離れた多摩市なんだもん。よし、時間だからダンススクールに出かけよう」
私は自分に言い聞かせる形で独り言を言って土曜日の楽しみ、ダンスのレッスンに出かけた。
「おはようございます、先生、それから皆さん、今日も宜しくお願いします」
「ああ、美央良さん、宜しくお願いします」
「みおちゃん、よろしくね」
そう、ダンススクールの仲間には、もう、みおちゃんと呼ばれ、溶け込んでいた。
「安田さん、相変わらず凄い奇抜な格好ですね。今日もその格好で家から来たんですか?」
「もちろんだよ。いつもの仕事はきちっとスーツを着て仕事をしてるからね。この時だけは絶対に自分の気持ちを爆発させたいんだ」
「羨ましいな、安田さんはこの時だけは絶対に自分の気持ちを何のためらいもなく、弾けさせますもんね」
「そんな、みおちゃんだって、そうでしょ?」
「いえ、確かに気持ちはそういう気持ちで来てますけど、さすがにファッションはそこまでの勇気は持てないんで。安田さんは本当にチャレンジャーですよね」
「いや、チャレンジャーなんかじゃないよ。ただ、僕は休日の時くらい自分の気持ちに正直になりたいだけだよ」
そして私は土曜日の自分の最高に楽しいダンスレッスンの一時を過ごした。楽しい時間は本当にあっという間に過ぎると実感していた。
「それでは、先生、また来週、宜しくお願いします」
「はい、お疲れ、美央良さん、気を付けて帰ってね」
「お疲れ様でした」
そして私はダンススクールの玄関を出た。すると玄関の前で安田さんを始め、一緒にレッスンを受けている仲間が全員集まって話をしていた。
「あ、みおちゃん、いいところに出てきた。ねえ、どうする?こんなチャンス、滅多にないよ」
「な、何?安田さん」
「ほら、見てみなよ。このダンススクールのある通りの東に行った三件先に、眼鏡屋さんがあるじゃない。そこに来てるんだって、まだ、発売前だけど、イベントで、今話題の眼鏡デザイナー、千条凱がさ」
私はそれを聞いて少し怖くなった。何で?私は凱に会うことを避けたいと思ってるのに、その気持に反して、凱に会うシチュエーションが自然に寄ってくることに。
私はすぐにそこを立ち去ろうとしたが、安田に無理矢理にそのイベント会場の眼鏡店に連れていかれた。
「じゃあ、私は帰るね」
「な、何で?みおちゃん、こんなチャンス滅多にないんだよ。それにね、イベントの内容を小耳に挟んだんだけど、会場に集まったお客さんの中から、千条凱が気に入ったお客さん一人に、まだ、発売前の眼鏡をプレゼントするという話だよ。ほら、みおちゃんも、行ってみよう。選ばれたら、多分五万円以上もする、千条凱がデザインした眼鏡をタダでもらえるかもしれないんだからさ」
「いや、でも私は」
「ほら、みおちゃん」
私は無理矢理、ダンス仲間に引っ張られて、凱のイベントが開催されている眼鏡店の会場に来てしまった。
「きゃあ、やっぱり、千条凱って、かっこいいんだね。この前の特集のテレビで見た時より、実物はもっとかっこいいね。すごいよね、ビジュアルもモデルやっててもおかしくないような人なのに、さらに眼鏡デザイナーとしての才能もピカイチなんでしょ。本当に神様って不公平よね。天は二物を与えずって言うけど、嘘よね。思い切り二物与えてるじゃない」
そんな話をしてるとイベントはクライマックスを迎え、凱がお気に入りのお客さんを選ぶ時間になった。
「それでは千条さん、最後にメインイベントです。お願いします。千条さんがこの人だと決めた、眼鏡の似合うと思うお客さんを一人だけ選んでください」
「はい、分かりました。でも、この前テレビで話したとおり、私には心の中に一番と思う女性がいるので、私の心がときめくような人、いるかな?あ、すいません、皆さん。こんなこと言ったらここに集まって下さったみなさんに失礼ですよね。申し訳ありません」
そう言って凱は深々と頭を下げた。そして、顔を挙げた瞬間、私は凱と思い切り目が合ってしまった。私は思わずドキッとした。
「ああ!い、いた、いました。あ、あの方です。あちらの黒髪のロングヘアーのとてもお似合いの、可愛らしい、ほら、あの女性です」
私は思わず背中を向けて立ち去ろうとしてしまった。でもそれが自分を目立たせる結果となってしまった。
「ほら、今、恥ずかしそうに背中を向けたあの女性です」
「うわあ、す、凄いよ、みおちゃん、ほら、みおちゃんのことだよ」
「や、やめて、安田くん、私、帰るから」
「はい、はい、今、そちらに連れて行きます」
そして私はダンス仲間のみんなに凱の横まで連れていかれてしまった。
「ねえ、みんな、やめて、私、嫌なの、ねえ」
凱の隣りに連れて来られた私は進行役の人に結局、メインイベントの主役として表舞台に立たされてしまった。
「凄いですね、お客様、千条さんに選ばれましたよ」
「は、はい、いえ、でも私は」
そしてこんな少し恥じらい気味の私の姿を見て、凱が一言漏らした。
「んーー、いいな、素敵な方だ。この美しい黒髪も素敵だし、それに恥じらったその頬を赤らめた表情、まるであの人みたいだ」
「え、千条さん、何ですか。そんなにこの女性が気に入ったんですか?それに今、あの人って?ああ、まさか千条さん、その人って、先日のテレビで公開告白した、まだ会えていない噂の女性ですか?」
「あ、しまった、つい、思わず。あ、すいません、そんなこと言ったら、選んでここに出てきてもらったあなたに失礼でした。申し訳ありません」
凱はそう言って私に深々と頭を下げた。そして私はやっぱり凱らしいなと思ったと同時に、あの時の私のことをずっと想い続けていてくれることに申し訳なさを感じていた。だから本当は私がその自分だと名乗りたかったが、その想いをまた飲み込んだ。
「いえ、そんなこと、いいんです。選んで頂けてとても光栄です。ただ、私は少し人前が苦手ですし、特にこんな沢山の人の前に出ることが・・・、すいません、もう胸がドキドキで」
「いやあ、本当に素敵な女性だ」
「はい、千条さん、じゃあ、進めていいですか。もう時間も無くなってきましたし」
「あ、そうですね」
「じゃあ、お名前だけでも聞かせて下さい」
「え!」
私はそう言われて下を向いて黙ってしまった。自分の名前を言ったら多分、凱が不穏の表情を見せると思ったのだ。しかし、安田さんたち、ダンス仲間が私の名前をばらしてしまった。
「みおちゃん、何で黙ってるの?はいはい、じゃあ、僕が発表します」
「ちょっと、安田さん、やめてよ」
「何言ってるの。こんな光栄なことないよ。発表しまーす。この女性はみおちゃん、名前は島中美央良さんです」
「ええーー、あなた、島中美央良さんって言うの?ほ、本当に?」
「ねえ、みおちゃん」
「ああーん、やだ、千条さんに名前がばれちゃった」
この言葉に凱は少し首を傾げた。
「まさか、あなたの名前が?あ、いや、でも何で私に名前がばれるのがそんなに嫌だったの?」
「あ、いえ、それは・・・」
そう言って、私の顔から笑顔が消えると、凱はその空気を察したのか、自らその状況を終わらせるためにスーツの胸ポケットから眼鏡ケースを出した。
「申し訳ありません、あなたを、美央良さんを困らせるためにここに来てもらったんじゃないですもんね。さあ、これを、貰ってください。きっとあなたに似合うと思います」
私は大勢の人が羨ましそうに見ている中、凱のデザインした市販第一号になる予定の眼鏡をプレゼントされた。
「おめでとうございます。島中さん。これはまだ市販される前のものですから、レアものですよ」
「あ、ありがとうございます。大切にします」
眼鏡を受け取った私は凱のお願い事を一つだけ受けた。それはあの時と同じ眼鏡を掛けた姿を写メさせてほしいというものだった。
「ごめん、美央良さん、その僕の市販第一号となる眼鏡をあなたが掛けた姿を記念に写メ撮らしてもらっていいかな?」
「あ、はい」
私は貰った眼鏡を早速掛けて凱の顔を微笑みながら見詰めた。この姿だと私は無理なく笑える。
「思ったとおり。最高に似合うよ。素敵な笑顔だ。美しい、何て美しいんだ」
「さあ、それでは今日のイベントはこれで終了です。千条さん、もうお時間が」
「ああ、そうですね。じゃあ、ありがとうございました。美央良さん、何か無理に出てきていただいたみたいで本当に申し訳なかったです。私はこの後また別の仕事があるので失礼します。あなたのような眼鏡の似合う素敵な女性に出会えて、素敵な時間を過ごせました」
そして凱はイベント会場を後にした。
「いやあ、みおちゃん、凄いよ。こんな大勢の中から一人だけだよ。あの千条凱に選ばれたんだ」
「そんな、もうみんな酷いですよ。私、あんなに大勢の人前に出たくなかったのに」
「何言ってるんだよ、みおちゃん。もっと君は自信持った方がいいよ。千条凱だって写メ撮ってるときに連呼してたじゃないか。美しい、何て美しいんだって」
「もう、止めてくださいよ、安田さん。何も千条さんの真似まですることないでしょ」
「あ、分かった?少しは似てた?」
「もう、バカ。私、帰ります。それじゃあ、皆さん、お疲れ様でした。また、来週、楽しみにしてます」
私は家に帰った。私は久し振りに土曜日に家で大きなため息をついた。
「はーーーーー。何で、何でなの?昨日と言い、今日と言い、今の自分をどうしたらいいか分からないから、千条さんのことを忘れたいと思ってるのに、何で、気持ちに反して千条さんとあんなところで遭ってしまうの?」
私は気分的に土曜日としてはあり得ないほど疲れた状態でシャワーを浴びた。最近はシャワーを浴びて気持ちを落ち着かせても、本当の自分の姿には全く戻れなくなっていた。
「千条さんとこんな形で再会するなら・・・、天馬さんの忠告をもっと意識しておくべきだったな。あーーあ」
そして私は気持ちが少しモヤモヤするまま眠りに就き、日曜日の朝を迎えた。
「よし、おはよう、私。昨日までは昨日までのことよ。さすがに今日までは千条さんに遭うことなんて絶対にないはず。さあ、準備して可愛い天使たちのところに向かいましょう」
そして私は日曜日のライフワークである保育士の仕事に向かった。
「おはようございます、園長、美紀先輩」
「おはよう、島中先生」
「よし、今日もみんなと楽しく遊ぶぞ」
「フフフ、本当に島中先生は子供たちと遊ぶのが好きなのね。島中先生は子供達と同じ目線ですんなりと溶け込めるもんね。私もそのつもりで接するように意識してるけど、島中先生には勝てないもんな」
「あら?美紀先輩、それって褒められてると捉えていいんですか?何か、ちょっと捻くれた捉え方すると、何か私、気持ちは5、6歳の子供と同じだって言われてるような気がするんですが?」
「あら?分かっちゃった」
「もう、美紀先輩、酷いですよ」
「嘘、嘘よ、それくらい、島中先生は子供達の世界に溶け込めるということよ。それはこの仕事をしてる以上、凄い才能なのよ。私、羨ましいわ」
「ありがとうございます、美紀先輩」
「さあ、今日も橘先生、島中先生、宜しくね」
そして私はいつものように楽しくみんなと遊び、そして子供どうしで喧嘩が始まると、優しく子供達の話を聞き、そっと抱きしめながら、自分も喜びを感じていた。
そして、みんなで追いかけっこをして遊んでいる時だった。子供達には園の外には絶対に出ないように言い聞かせていたが、お調子者の克己が園の玄関を出て、外に飛び出し、道路まで逃げて行ってしまった。その時だった、不運にもあの事故が起こってしまった。
「へーだ、美央良、ほら捕まえてみろよ。ほら、ここまでおいで」
「もう、よし、絶対に捕まえてやる」
「ほーら、こっちだよ」
「ああ、ダメだよ、かっちゃん、そこから出てはダメ」
「いやだよーだ」
そして克己は道路に出てしまった。その道路は歩道がなく、歩車区分は白線で区切られているだけの狭い道路だった。そこに運悪くスピードを出してバイクが走ってきた。
「かっちゃん!」
その時だった。その道路の向かいから克己目掛けて男性が飛び込んで、克己を体ごと包んだ。そしてその男性はバイクに左肩を引っかけられて数メートル先の鉄柱に飛ばされて、その左肩を強打した。
「ううっ、ああ、おい、君、大丈夫だったか。怪我は?どこも痛くないか?」
克己はその衝撃に驚いて男性の問いかけに答えてから泣き出した。
「う、うん、大丈夫、でもお兄さんが。肩から血が・・・う、う、、うえーん」
「そうか、どこも怪我はないか、よかった」
そして男性は助けた子供に近寄ってきた美しい女性が視界に入ったところで意識を失った。
その克己を助けた男性は白い天井を見上げて目を覚ました。
「あ、せ、千条さん、良かった。目を覚ました。良かった、先生を呼ばなくちゃ」
その男性の横にはもちろん心配そうに涙ぐむ私が付き添っていた。さらに園長も。そして克己とその両親も凱の意識が戻ることを祈りながら見守っていた。
凱は意識が回復し、先生の診察も受けた結果、左肩甲骨の骨折と擦傷以外はどこも異常がないと診断された。
私は痛々しい姿でベッドに横たわる凱の右手を両手で包み込むように握りしめて、涙を流していた。
「ご、ごめんなさいね、千条さん、私のせいでこんな大怪我させてしまって」
「うう、俺の肩、そうか折れちゃったのか。そうだよな、あんな勢いで鉄柱にぶつかったら、ハハハ、でも生きてたか俺」
そして意識を取り戻した凱に克己の両親が頭を下げた。
「あの、この度は息子の克己が危ないところを命がけで救って頂いて、何てお礼を申し上げたらいいか」
「ああ、君、克己くんて言うのか。どうだ、その後、どこも痛くないかい?」
「う、うん、大丈夫。でも、でもお兄さんが・・・うわーん」
「おいおい、克己くん、男の子だろ、もう泣くな。俺のことで泣いてくれるのは嬉しいけどな。優しいんだな、克己くん。本当に君に怪我がなくて良かったよ」
「あの、千条さんて、あの眼鏡デザイナーの千条さんですよね。テレビで見ました。これからブランドの立ち上げだと聞きました。こんな大事な時に息子のせいで、本当に申し訳ありません」
「お父さん、お母さん、頭を上げて下さい。大丈夫ですよ、肩の骨折くらいで済んだんですから。こうして生きていたんだから、眼鏡のデザインはこのくらいの怪我をしててもできますから。それと、克己くんのこと、このことで叱らないでくださいね。原因がどこにあるにせよ、一番怖い思いをしたのは克己くんですから、優しくしてやって下さい。私だってまだ二十六歳です。若いですから、これくらいの怪我、すぐに治ります」
「ありがとうございます。何て優しい方なんでしょう、ね、あなた。こんな大怪我して真先に克己の心配してくれるなんて」
「そうだな、克己、もう一度、お礼をお前からも言っておけ」
「うん、ありがとう千条のお兄さん」
「ああ、もういいって」
そして克己の母親の怒りの矛先が私達、施設側に向けられた。
「それに比べて、園長、島中先生、先生たちは何をやってたんですか?特に島中先生は調子に乗って追いかけっこして、克己のことを子供みたいに追い回してたんですよね。子供の目線で遊ぶことも重要だと思いますけど、もう少しそこは大人としての配慮が必要なんじゃないかと思うんですけどね」
私が克己の母親に責められていると、何故か、克己が私を庇ってくれた。
「ママ、美央良を責めないで。全部、僕が悪いんだ。先生が何回も施設の外に出ちゃいけないって言ってるのに、調子に乗って外に出たのは僕なんだ。お願い、美央良を責めないで」
そして凱はその克己の言葉の私の名前に反応した。
「え!克己くん、今、美央良?って言った?」
そして克己は私を紹介した。
「うん、この先生のことだよ。僕が通ってる保育園の先生、島中美央良先生」
「う、嘘だろ?何で!あなた島中美央良さん?って言うの?」
私は驚く凱のことより、自分のせいで克己を危険に晒したこと、そして何より凱に大怪我させたことが許せなくて、自分のこの姿のことなんか考えられなくて混乱していた。
「はい、島中美央良です。克己くんのお父さん、お母さんに責められて当然です。それに今回は千条さんにこんな大怪我をさせてしまったんです。私の危機管理のなさが招いた結果です。園長、すいません、私、責任を取って今日で辞めます」
「ダメだよ、美央良、辞めちゃヤダよ」
「克己くん、これは仕方が・・」
そう私が先生を辞める決意を口にすると、凱が口を挟んだ。
「ちょ、ちょっと待った。み、美央良さん、ダメだよ、こんなことで辞めちゃ。好きなんでしょ、保育士のお仕事。それにこんなに涙ぐみながらあなたのことを庇ってくれるこんな可愛い味方がいるんだよ。あの、克己くんのお父さん、お母さん、あなたがたの息子さんがこんなに必死で、自分が責任を全部被ると言って守ろうとしてる先生なんですよ。克己くんの一番の味方であるお二人が、克己くんの気持ちを踏みにじっては、それこそ克己くんの心に大きな傷を付けることになると思うんです」
そして凱は左肩の痛みをこらえてベッドから起き上がり、克己の両親に頭を下げた。
「この通り、私からもお願いします。どうか施設の皆さんのことも、そして美央良さんのことも、子供達と真剣に向き合っていた結果が少し悪い方に流れてしまったと言うことで、ご理解いただけませんか。これからはこんなことがないように施設側としてももっと安全面に力を入れるとお約束しますから。あ、施設の関係者じゃない僕が言うことじゃないな」
「いや、千条さん、克己の命を救って頂いたあなたに頭を下げて頂いては。分かりました、それに、千条さんにそこまで克己の気持ちのことまでお気遣い頂いては、こちらとしても両親としての面目が保てません。島中先生、ごめんなさいね。克己のことだったから、ついムキになってしまって」
「いいえ、親として当然のことだと思います。でもお許し頂いてありがとうございます」
「いいえ、お礼なら千条さんに、ですよね」
私はこれまでの凱の話を聞いて、初めて会った一か月前の出会い、昨日、イベント会場での再会、そして今日のこれまでの命がけの行動とそして私を庇ってくれた言動で、心が完全に凱のことでいっぱいになり溢れそうになっていた。
「ありがとうございます、千条さん」
私がお礼を言った後、凱は少しふらついた。まだ、傷口がしっかり塞がってない状態で頭を下げたので傷口が開いてしまったようだった。私は凱を支えてベッドに寝かせた。
「あ、大丈夫ですか、千条さん」
「ご、ごめんなさい。少し頭がふらついてしまって」
「はい、私に摑まって下さい。はい、ベッドに横になってください」
凱をベッドに横にした後、勢いよく病室のドアが開き、凱と同じ歳くらいの体つきのがっちりした男性が入ってきた。
「凱、あ、凱、大丈夫なのか?おい、何だこの肩はギプスまでして」
「おい、おい、落ち着けよ。裕康。ただの骨折だ」
「バカヤロー、俺がどれだけ心配したか分かってるのか。お前がバイクに撥ねられたと警察から連絡を受けた時は、もう、俺まで意識が飛びそうだったんだぞ」
「悪い悪い。でも安心しろ、ほら、大した怪我じゃない」
「馬鹿か、お前は能天気すぎるんだよ。打ちどころが悪かったら死んでたかもしれないんだぞ」
「おい、裕康、お前熱くなりすぎだ。ほら、見てみろ。俺が助けたのこの子だよ。この子が怪我一つなかったんだ、俺のこの程度の怪我で済んで、ラッキーと思わないと。あ、皆さん、ごめんなさい、紹介しておきます。今度、ブランドを立ち上げる際の僕のパートナーになる南郷裕康です。僕は社長で本職の眼鏡のデザインを担当します。そしてこいつは僕の苦手な経営面の一切を担当してもらう予定なんです。小学校時代から今までずっと一緒にここまで苦楽を共にしてきた悪友です」
「もう、いいんだよ俺の紹介なんかは。本当にお前は今の自分の置かれている状況を見て行動しろよな。こんなことでお前が取り返しのつかないことになっていたら、それこそ、これからの日本の、いや世界の眼鏡界の大きな痛手になってたかもしれないんだぞ。たかが子供一人のために」
そう続けた南郷の言葉に凱は厳しい表情になった。
「おい、裕康、今の言葉、撤回しろ!お前、言葉が過ぎるぞ。何だ、今のたかが子供一人のためにって。いくら、お前でも許さんぞ」
「だってそうだろ、お前は今の眼鏡界の宝なん・・」
凱は南郷の言葉を遮って、南郷を叱りつけた。
「いい加減にしろ、裕康。お前、ふざけるなよ。何が眼鏡界の宝だ。だったらお前は俺にあの時、自分の立場を考えてこの子を助けずに指を咥えて見ていればよかったと言うのか。そんなことできる訳ないだろ。確かに俺はこれからお前と新たな眼鏡ブランドを立ち上げるための大事な時期を迎えている。そんなことは分かってるよ。でもな、その前に俺は一人の常識ある人間だと思ってる。俺はただこの子が危ないと思ったから自然に体が動いたんだ。あの時に自分の立場がどうかなんて考えてられるか。そんなこと考えて行動してたら、多分、この子を助けられていないよ」
「いや、でもな、それでお前が死んでたらだな」
「お前、まだ分からないのか?それで死んでたら、俺はそれまでの運命だったということだよ。この子の未来は、きっと俺よりもっと長いはずだ。それにもしかしたら俺よりももっと凄い男になるかもしれない。俺の命でその未来が繋がる、そう考えたら、な、こんな嬉しいことはないだろ」
私と克己の両親、そして少し離れたところで聞いていた園長も涙を流していた。
「だから、裕康、今の失言、克己くんと御両親に謝れ」
「あ、いきなり病室に入ってきて数々の失言、申し訳ありませんでした。凱を想うあまり熱くなりすぎました、お許し下さい。」
「いえ、とんでもないです。こちらこそ息子のために大事なブランドの顔となる方を危険に晒してしまったこと、お詫び申し上げます。お許しください」
「よし、裕康、それでいいんだ。あれ?でも美央良さん、それに園長さんまで、何で泣いてるんですか?」
「だって千条さんのお話、あまりに素晴らしいお話だったから」
「え!僕、何かそんな感動する話しましたか?人として当たり前のことを裕康に語っただけなんですけど」
こんな凱の対応に克己の両親も痛く感動していた。
「千条さんて、眼鏡界で凄い方だとこの前のテレビの特集を見て思ってましたけど、人間的に見てもこんなに素晴らしい人だったなんて、私、もの凄く感動しました。まだ、こんなにお若いのに、ね、あなた」
「そうだな。普通これだけの成功者なら自分を第一に考えてもいいのに、常に他人のことを第一に考えていらっしゃる。私達の方が年上なのに、反対に私達が人としての考え方を教えられるよ」
「他人のことを第一に考えること、それが眼鏡作りの基本ですからね、当たり前のことです」
「私達、千条さんのファンになっちゃいました。そうだ、あなた、私達も眼鏡掛ける時あるから、千条さんの眼鏡が発売になったら是非、買いましょうよ」
「ああ、もちろんだよ。こんな素晴らしい人が作った眼鏡なら、掛けてるだけで幸せになれそうな気がするよ」
「やったぞ、裕康。ほら、もう発売する前からお買い上げ確約だぞ」
「ふっ、参ったな、お前には。昔からお前はそうだもんな。お前と触れ合うと自然と周りを幸せにしてしまう、お前はそんな力を持ってるからな」
「さあ、皆さん、もうお帰り下さい。明日は月曜日、仕事がありますよね。僕のことは心配いりませんから。僕も夜には退院しますから」
「馬鹿か、凱。お前は明日までここでゆっくりしてろ。明日のイベントはキャンセルしておくから」
「裕康、お前こそアホなこと言うな。明日のイベントだってどれだけ関係スタッフの方が、どれだけの熱量を傾けて準備して来てくれたか考えろよ。滅多なことでキャンセルなんてできるか」
「分かったよ。でも明日のイベントが終わった翌日は外出禁止だ。ゆっくり家で療養だぞ。そんな大怪我もしたんだ。日本に帰ってきてから続けてる、あの女性を探すのはいい加減諦めろ。これから、もっと忙しくなるんだ、休みの日までそんなこと続けてたら、お前の体がもたないからな」
私はこの話を隣で聞いていて、凱がこんなに私のことを想いながら行動してることに心苦しくなった。私は凱に優しい言葉を掛けて病室を出ていった。
「あの、千条さん」
「何?美央良さん?んーー、何か不思議な気持ちだな」
「あなたの怪我の原因を作った私が失礼かもしれないですけど、早く怪我、治して下さいね」
「ああ、ありがとう。美央良さんも、自分のことあまり責めちゃダメだよ。あれはタダの事故、あなたのせいじゃないからね。あ、それから美央良さん、意識が戻るまでずっと手を握ってくれてたんだよね、ありがとう。さっき、克己くんが帰る時に教えてくれた」
私は家に戻った。さすがに今日はもの凄い事故があり、その当事者が凱だったこともあって、家に戻った途端、どっと疲れが出た。
翌日、私はいつものように仕事モードの自分になり、その次の日も何事もなく普通に仕事をこなし、家路に就いた。
私は最寄り駅を降りて家に向かって歩きだした。この日は雲一つない快晴で、最高気温が三十五℃を超える猛暑日だったので、家路に就いた時間帯も陽が落ちたとは言え、息苦しくなるほどの暑さが残っていた。
そんな家までの道のりを歩くなか、私はふと凱のことを考えていた。
「今日は千条さんはお仕事お休みだって言ってたな。南郷さんにも外出禁止だって釘を刺されてたからな。あの怪我もあるし、今日は家でゆっくりしてるだろうな」
そんなことを思いながら私はこの前の土曜日に凱と再会を果たした眼鏡店の前を通りすぎた。その時だった。眼鏡店とその隣りのケーキ店の間にある小さな公園のベンチに座っていた白いYシャツとダメージジーンズを穿いた男性が視界に入った。
「こんなに暑いのに、あの人、大丈夫かな」
そう言いながら通り過ぎながら見ていると、その男性はふらついて座っていたベンチに倒れ込んでしまった。その時に私は倒れ込んだ男性の顔を確認して思わず目を見開いた。
「え!何で?千条さん?何で、こんなところで何してるの?」
私は血相を変えて凱に駆け寄り声をかけた。
「せ、千条さん、ねえ、どうしたの、大丈夫?しっかりして」
私は何とかしないといけないと思い、凱に寄り添いながら、その大きな体を起こして、何とか大通りの歩道まで連れていった。ぐったりしている凱の体は重くて、細身の私にはとても支えられないとも思っていたけど、こんな時は凄いパワーがでるものだと思った。これが火事場の馬鹿力なんだな、そんなことを思いながら私は凱を支えたまま、タクシーを停めた。
「すいません、近いんですけど、この通りの五個目の信号交差点まで、お願いします」
そしてタクシーのメーターは千二百円を表示していたけど、小銭を出す余裕はなかったので、五千円札を運転手に渡して、すぐにタクシーを降りた。
「はい、運転手さん、これで、おつりはいいです」
「え!いいんですか」
「いいです、急いでるんで。ありがとうございました」
私は最後の力を振り絞って、凱を自宅に運び込んで、自分のベッドに寝かせた。
「な、何で?千条さん、あんなところで何してたんだろう。あ、そんなこと言ってる場合じゃない。千条さん、さっきから凄い熱が体から出てる。どうしよう、とにかく氷枕だ」
私は冷凍庫からアイスノンを出してきて凱の頭の下に入れた。そして私は洗面器に氷水を入れてきて、その水にタオルを浸して絞り、凱の額に当てた。
「まだ、暑そうだな。そうだ、苦しそうだからシャツのボタンも外した方がいいな」
私は男性のシャツのボタンを外すなんて初めてだったので、もの凄くドキドキしたけど、凱のシャツのボタンをそっと外していった。そして、少しだけボタンを外したシャツを肌蹴た。「あ、千条さん汗でビッショリ。タオルで拭いてあげなきゃ。千条さん苦しそう」
そんな苦しそうな凱の口からうわ言が聞こえた。
「み、美央良さん」
「やだ、私のこと呼んだ」
そしてしばらくの間、看病してると凱は目を覚ました。
「あ!良かった。気付かれましたか?」
「あれ?俺、どうしたんですか。それにここは?」
「あ、勝手にごめんなさい。ここは私の家です。千条さんがこの近くの眼鏡店の隣りの公園のベンチで座ってて倒れられたので、ここに連れてきたんです」
「ああ、そうか、俺、暑さで頭がぼっーっとしてきて。ごめんなさい、でも君がここまで一人で」
「はい、でもタクシーですけど」
「いや、それでも、タクシーに乗せるとき、降りてからここまで運ぶ時、君が一人で、そんな華奢な体で。ごめんね、大変だったでしょ」
「大丈夫です。こんな時は信じられない力がでるものです」
「それに、こんな汗でベタベタなのに、あなたのベットをこんなに汚してしまって。すぐに出ていきますので」
そう言って凱は痛々しい体を起こそうとしたので、私は制止した。
「ダメですよ、千条さん。まだ、ダメ。あんな日陰もないところでずっと座っていたんだから。あんなところに長時間いたら倒れるに決まってます。一体、あんなところにいつからいたんですか?」
「お昼食べてからだから十三時くらいからかな?」
「もう、なにを無茶苦茶なことしてるんですか?あんなところに五時間以上もいたら倒れるに決まってますよ。ほら、いいから、横になってください」
「いや、でも」
「ダメですよ、私がいいと言うまで帰しませんよ。ほら、今、お茶を持ってきますから」
「すいません、本当にご迷惑をおかけして」
「本当ですよ。一昨日だって病院で南郷さんに言われたじゃないですか。外出禁止だって。何で言うこと聞かないんですか?」
「え!何で、何であなたが一昨日の病院でのことを知ってるんですか?」
私はつい口を滑らせて一昨日の病院での話の内容を話してしまった。私は咄嗟に嘘をついた。
「あ、いえ、それは、美央良に聞いたからですよ。千条さんに大怪我させてしまったって、凄くへこんでたから」
「え!まさか、あなたはあの保育施設の美央良さんと知り合いなんですか?」
「ええ、まあ」
「そうですか、それで」
「はい、冷たいお茶をお持ちしました、どうぞ」
凱は一気に飲み干した。
「はああ、美味しかった。ふうう、ありがとう。何か、見ず知らずの私を、自分の家にまで連れてきて介抱してくれるなんて、何て優しい人なんだ。僕が悪人だったら?とは考えなかったんですか」
「思う訳ないじゃないですか。あなたの顔が見えて千条さんだって分かりましたから。それにもう一昨日の事故、有名じゃないですか。自分の子供でなくても平気で自分の命を投げ出して助けてくれる、そんな方を悪人なんて思わないですよ。その傷だって、元はと言えば私のせいで」
「え、何で、あなたは一昨日の事故は無関係でしょ」
「あ、そ、そうですね」
「全く、変なことを言う人だ」
「もう、いいから。はい、余計なことベラベラ話してないで。全く、具合が悪いというのにおしゃべりね。黙ってもう少し休んで下さい」
「あ、はい、でも君、綺麗な顔して結構毒づくね。そんなところもギャップがあっていいね。それにあなたもその眼鏡を掛けた姿、素敵だ」
私はまた凱にそんな自分を褒められて恥ずかしくなった。
「な、何を言ってるんですか?」
私は思わず手に握っていた凱の額に当てていた濡れたタオルを凱の顔に投げつけてしまった。バシッ。
「痛ってー。な、何するんだよ。まさか君のことを褒めてタオルを投げつけられるとは思わなかったな」
「ご、ごめんなさい。つい、千条さんが変なこと言うから」
「いや、別に変なことは」
「もういいの。ほら、病人はもう少し寝るの」
そして凱はもう少し眠った。そして二十二時の少し前に目を覚ました。凱が目を覚ますと私はベッドにもたれかかって凱の顔の隣りに顔を擡げて眠ってしまっていた。凱は思わず私の頭を撫でながら言葉を漏らした。
「ありがとう。何て可愛い寝顔なんだ。あ、そう言えばまだこの女性の名前聞いてなかったな」
「ううんんーー、あ!千条さん、ごめんなさい。私、寝ちゃってたのね」
「あ、いいよ。それに可愛い寝顔が見れたし」
「もう、また、やめて。恥ずかしい。あ、そんなことより、お腹空いたでしょ。何か作るね、と言っても、そうだな。ちょっと冷蔵庫見てくるね」
私は冷蔵庫の中を見てまた寝室に戻った。
「ごめんね、スパゲティくらいしか作れないな。カルボナーラでいいかな?」
「いいよ。こんなにしてもらって、その上、お食事まで。もう帰るからさ」
「いいよ、ここまで迷惑かけたんだから、もっと迷惑かけていきなさいよ」
「やっぱり、迷惑だと思ってるんだ。当たり前だよな」
「嘘よ、嘘。迷惑だなんて思ってないわ。私がたまにはお料理したいだけよ。いつもは自分一人だから買ってきた弁当で済ませちゃうから。人のために作るなんて、パパとママ以外初めてだし」
「そ、そう言えば、まだ君の名前、聞いてなかったね。教えてよ」
私は名前を聞かれて少し焦ったが、少し考えて偽名を名乗った。
「あ、名前ね。美良よ」
「そうか、美良さんか。生まれはどこなの?」
「生まれは大阪よ」
「なるほど、だからか」
「な、何よ、その言い方。ああ、私が少し口が悪いから、今の言葉なのね。それは大阪への偏見よ、失礼しちゃうわ」
「ごめんごめん。じゃあ、ご両親は大阪で」
私は凱に両親のことを言われて寝室の角の写真と位牌を指差した。
「パパとママはあそこよ。一年前に亡くなったの」
「あ、ご、ごめん」
「いいよ、大丈夫、もう一年も経ってるから」
「他に親類は?」
「いない。パパもママも一人っ子だったし、祖父母も両方とも亡くなってるから。今は彼氏もいないし、完全にシングルでーす。あ、もともと一度も彼氏がいたことなんてないけどね」
「ごめん、変なこと聞いちゃったな」
「じゃあ今から作るから少し待っててね」
そして私はカルボナーラを作り、寝室に持って行った。
「はい、できたわよ。あ、千条さん、左が怪我で、そうか。じゃあ、私が食べさせてあげるね」
「ああ、いいよ、美良さん。自分で食べるよ」
「いいの、病人は言うことを聞く。ほら」
「もう大丈夫だよ、いつまでも病人扱いするなよ」
「熱中症は治ったかも知れないけど、怪我人でしょ。それに私の家に男性として初めて上り込んだんだから、言うこと聞きなさい」
「上り込んだだ?美良さんが連れ込んだんじゃないか」
「連れ込んだ?何て言い方するのよ。私そんなつもりであなたを運んできたんじゃ・・・って何このやり取り」
「フフフ、そうだね。何かカップルのじゃれ合いだな。でもプライベートでこんなに楽しく話したの久しぶりだな」
そんな凱の一言を聞いて私は嬉しかった。
「ほら、冷めちゃうから、はい、アーンして」
「分かったよ、言うこと聞くよ」
私は凱に全部食べさせてあげた。
「ご馳走様でした。とても美味しかったよ。美良さん、料理上手なんだね」
「ううん、あまり手の込んだものは作れないけど、簡単に作れるものならね」
「さあ、帰ろうかな。美良さんも明日、仕事でしょ。本当に今日はごめんなさい。仕事終えてからの家でのホッとできる時間を僕のために台無しにしてしまって」
「本当よ、全く。フフフ、何てね。最初はあそこで千条さんを見つけてここに連れてきたときはどうなるかと思ったけど、千条さんが元気になってからはお話ししててとても楽しかったわ。いい、もうこんな無茶したらダメよ。今度、無茶なことしたら助けてあげないからね」
「はい、肝に銘じておきます。クス、何か俺、美良さんと付き合ったら、こんな風に尻に敷かれるのかな。でも何か僕も楽しかったよ。じゃあ、美良さん、本当に今日はありがとう」
「じゃあ、タクシーを停められる通りまで送るわ、千条さん」
「いいよ、もう時間も時間だから。君みたいな美しい女性がこんな時間に危ないからさ。外はこの辺り暗そうだし。僕ならもう大丈夫だから。あ、帰る前にもう一つ」
「何?」
「あのーさ、美良さん、また、ここに君に会いに来ていいかな?」
そう言われて私は少し戸惑った。今の私の状態だと土曜日、日曜日は会えない。だから私は条件を付けて了解した。
「どうしようかな?私も仕事があるから、そうだな、火曜日、水曜日、木曜日なら仕事の残業さえなければ会えるかな?」
「じゃあ、連絡するから携帯の番号教えてよ」
私はそう言われて迷ったが、名前も偽名しか教えてないから、本当の自分のことはばれることはないと思い、凱に携帯の番号を教えた。
「はい、これが私の番号ね、届いた?」
「うん、よし届いたよ」
「じゃあ、美良さん。また連絡するね」
そして凱は私の家の玄関を出た。凱はそして振り向いて私の家のドアに向かって頭を下げた。
そして凱は頭を上げた時、ドアの隣の表札の表示が目に入った。そこには私の苗字が表示されていた。
「え!し、島中さん?美良さんて、島中美良って言うの?親類はいないと言ってたけど、あの保育士の島中美央良さんと何か関係があるんじゃ?」
凱はその表札を見て少し疑問を抱きながら帰って行った。