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第二話

 私は凱と別れた後、コンビニで弁当を買って家に帰った。そして私はテーブルの上に凱に買ってもらった眼鏡を置いて、その眼鏡を眺めながら弁当を食べ始めた。その眼鏡を眺めながら食べていたコンビニの弁当は何故か、どんな評判のいい店で食べる料理より美味しく感じていた。

「千条さん、素敵な人だったな。何をやってる人なんだろうな?あの時の眼鏡店での話からすると眼鏡に関連するお仕事かなぁ?」

 弁当を食べ終わり、シャワーを浴びた後、少しの間テレビでニュースを見てから、普段は眼鏡を外して寝るのに、この日は嬉しくてプレゼントされた眼鏡を掛けて眠りに就いた。

 私は夢を見ていた。会社で仕事をしている夢だった。私を取り囲む人物に変化はなかった。課長、幸、満留がいて普通に仕事をしている。

 しかし、一人だけ全く知らない人物が働いている。これは誰?嘘でしょ。何で?私の名前で呼ばれている。まさか!これが私なの?

 そう、夢の中の私は、現実とは全くの別人だった。私よりももっと細身でスタイルも良く、そして顔つきも意志の強さを感じ、瞳の奥に力強さを感じるとても美しい女性だった。そして夢の中の私の仕事振りはミスなく、課長にまで自分の意見を述べて課長を納得させるような立ち居振舞いをしていた。私はこの夢を見ている中で、現実でもこんな私でいられたらいいなと思いながら目を覚ました。

「あーあ、不思議な夢だったな。私もあんな風になれたらいいな。あ!思い出した。私、昨日、死のうと思って覚悟を決めたのに、千条さんに会って、幸せすぎて忘れてしまってたな。そうか、それだけの覚悟だったんだ、私の想いは。よし、じゃあ、今日、もう一日だけ頑張って生きてみよう」

 そう思って私は会社に出かける準備をするためにシャワーを浴びに少し寝ぼけながら浴室に入った。そして私は浴室の鏡に映った自分を見て思わず悲鳴を上げてしまった。

「きゃあーー、な、何これ?何で、何、まだ私、夢の中にいるの?夢の中の私じゃない」

 そう、鏡に映った私は、夢の中で物おじせずに課長に意見していた私そのものの姿だったのだ。

「何で?私、どうしちゃったの?」

 私はシャワーを浴びて浴室から出て、とにかく会社に遅れないように出かける準備をした。

「本当にこれが私なのかな?ああ、でもそんなこと考えてても仕方ないな。会社に行こう」

 私は会社に出勤し、普通に自分の机に座った。私はその姿を見ていた幸と満留に声を掛けられた。

「ちょっと、あなた誰?そこは今日、ここに来るかどうか分からないけど、島中さんの席よ。あなたどこの部署の人?それとも全く会社に関係ない人?」

 私は二人にそう言われても今までのようにおどおどしなかった。そして私は堂々と名乗った。

「何言ってるのよ。さっちゃん、みっちゃん。私、島中美央良よ。だからここに座ってるんじゃない」

「え?何であなた私達の名前を知ってるのよ。本当に誰?そんなバレバレの嘘ついて。いい加減にしないと警察に電話するわよ」

 私はそう言われて、免許証を出そうとした。でも、躊躇した。写真付きの身分証明書を出して、写真と今の自分を比べられたら別人だとばれてしまうと思ったのだ。

「何よ、あなた、何を出そうとしてるのよ。いいわよ、出してみなさいよ」

 私はここまできたらもう引けないと、思い切って免許証を出した。そうするとまさか!免許証の写真まで今日の姿に変わっていたのだ。

「嘘、満留、見てみなさいよ。本当に美央良の免許証よ。写真もこの人よ。あなた偽造したんじゃないの?そうだ、幸、去年の社員旅行の写真、あなた引き出しの中に持ってたよね。それを見れば間違いなく、昨日までのあのドン臭い美央良の姿が写ってるはずだよ」

 そう言って、幸は自分の机の引き出しから社員旅行の時の写真を取りだしてきた。

「嘘、何で、美央良が写ってない」

 そう言う二人の見ていた写真を私も見て、反論した。

「何言ってるの。写ってるじゃない。ほら、ここも、ここにも」

 そう、昨年、撮った社員旅行の写真まで今の私の姿に変わっていたのだ。私にも何がどうなってるのかさっぱり分からなかったが、不思議とこの姿に変わってからいつも自分でも思っていた弱弱しい自分は全くいなかった。

 そこへ課長も出勤してきた。

「おお、みんな、おはよう」

 私は課長に挨拶した。

「おはようございます、課長」

「おお、おはようって、え!誰?」

「何いってるんですか、課長。島中ですよ」

 そして普通に挨拶した私から離れて、課長の机のまわりに私以外の課全員が集まり課長に説明していた。

「金屋、崎谷、誰だよ、あの女性は?」

「はい、私たちも困惑してるんですよ。あの人が美央良だって言い張るから。あの女性の免許証も確認して、さらに昨年の社員旅行の写真まで確認したのに・・・。昨日までのあのドン臭い美央良が写ってないんですよ。昨日までの美央良が写っていたところには、あの女性の姿が写ってるんです。だから私達も訳が分からなくて」

「よし、金屋、人事部行ってこい。あそこなら、入社時に会社に提出された履歴書があるだろ。履歴書なら昨日までの島中の姿のはずだろ」

「ああ、なるほど、そうですね。分かりました。確認してきます」

 そして幸は人事部に駆け込み、私の履歴書を借りて戻ってきた。

「金屋、どうだった。島中じゃないだろ」

 そう課長に言われて、幸は無言で課長に私の履歴書を手渡した。

「う、何で、本当にこれが島中?じゃあ、俺たちは昨日まで誰と仕事をしていたんだ?」

「ちょっと、課長。私だって普通の人間ですよ。私を見てこれ、呼ばわりはないでしょ。さあ、皆さん、無駄話してないで仕事をしましょう。課長、今日は私は、どんな作業をしたらいいですか。何でも言ってください」

 私は昨日までの私じゃなかった。何の根拠もなかったけど、不思議と何でも完璧にできそうな自信が漲っていた。

 戸惑う課長は私にそう言われて、作業してもらう資料を渡した。

「あ、ああ。し、島中?今日はこのデータの入力を頼む。これだけ膨大なデータだ。お前のポテンシャルからして、明日一杯かかってもいいから」

 私はそう言われて渡された資料をさらっと確認して平然と自信満々で言い放った。

「課長、これくらいのデータ量なら、今日の四時までには片づけますよ。任せてください」

 課長は私のこの言葉を聞いて、ただ頷くしかなかった。多分、昨日までの私からはとても考えられない返答だったに違いないからだ。

 そして私は早速、作業に取り掛かった。その手際の良さ、さらにキーボード操作を見て、幸も満留も呆気に取られていた。

「ねえ、満留、あれが本当に美央良なの?何なの、あのキーボード操作、とても昨日までの美央良とは思えない。完全に別人じゃない」

 そんな声を背後から聞いていた私は、幸と満留に作業しながら声をかけた。

「ほら、さっちゃん、みっちゃん、自分の仕事始めないと定時に帰れないよ。今日こそ彼氏とたっぷりデートしないと。昨日までは本当にごめんなさい、これからはさっちゃんとみっちゃんに迷惑かけた分、必要なら二人の作業手伝うから、遠慮なく言ってね。残業でも何でもするから。ほら、私の作業見てたって時間の無駄よ」

 そう言われて幸も満留もただただ、驚きの表情のまま自分の席に戻って作業を始めた。

 そしてお昼休憩になった。

「し、島中さん、お昼だよ。どう?一緒にランチに行かない」

「さっちゃん、みっちゃん、ありがとう。でも、ごめんなさい。課長に啖呵を切った以上、四時までにこのデータ上げないと。私、今日はお昼なしでこのまま作業続けるから。それと、さっちゃんもみっちゃんも、私のこと何でいつも通り呼んでくれないの?いつも通り、みおちんか呼び捨てでいいよ」

「あ、うん、分かった。じゃあ、頑張って。みおちん、そうだ、コンビニで何か買ってきてあげようか」

「いいよ、ありがとうさっちゃん。気持ちだけもらっておく。二人はゆっくりランチ楽しんできて。大事な二人の休み時間を私のために割いてもらったら申し訳ないから。今まで散々迷惑かけてるから」

「う、うん、でも」

「いいから、早く行かないと。時間なくなっちゃうから」

 私は昼もそのまま作業を続け、課長に言ったとおり、四時に入力データを提出した。

「課長、終わりました」

「え!本当に終わったのか?何かまたドジってるんじゃないのか?本当にこんな短時間であのデータを入力し終えたのか?」

「もう、課長、失礼ですよ。入力しただけじゃないですよ。ちゃんと入力ミスがないか、一回は見直しもしてるんですから。でも疑われても仕方ないですよね、昨日までの私のことが課長の頭の中にもある訳ですから」

「ああ、すまん。分かった。見せてもらうよ」

 そして定時五分前に課長に呼ばれた。

「島中。今日はお疲れ様。いやあ、入力、完璧だったよ。それにまさか今日、このデータが使えるようになるとはとても思ってなかったので、助かったよ。これからもこの調子で頼むよ」

「はい、任せてください」

 私は自分の席に戻り帰る準備をしていると幸と満留が近寄ってきた。

「あのさ、みおちん」

「何?さっちゃん、みっちゃん」

 私は幸と満留の顔を見て内容を察した。

「いいよ、何も言わないで。課長、金屋さんと崎谷さんに頼んでる今日の八時までに欲しいと言ってる資料作成、私が替わっていいですか?金屋さんと崎谷さんはこの後、大事な用事があるみたいなので」

「何だ、金屋、崎谷、仕事より大事な用事って」

「もう、課長、野暮なこと言わないの。あるに決まってるじゃないですか。まだ私達、若い女性なんですよ。私が八時までに仕上げますから」

「ああ、まあ別に時間までに資料が出来れば誰が作業してもいいが」

「私は今まで散々、二人に迷惑かけてますから、今度は私が二人に恩返ししないと」

「分かった、分かった。島中、お前の好きにしろ。但し、時間厳守だぞ」

「分かりました。よし、みっちゃん、さっちゃん、課長の了解ももらえたよ。ほら、早く行って」

 私はこの日、久しぶりの残業をして時間前に幸と満留に託された作業を仕上げて課長に提出した。

「課長、お願いします」

「おお、終わったか」

「はい、でもすいません。少し資料の中身で、こうした方が分かりやすいかな?と思ったところは勝手にアレンジしました。前の方がいいと課長が判断するならすぐに直しますからチェックしてください」

 課長は元の資料と私が仕上げた資料を早速比較チェックした。

「島中」

「はい、課長。直しですか?」

「いや、お疲れ様。もういいよ、こんな時間までご苦労さん。島中のアレンジしてくれた資料、いいよ、凄くいい資料になった。もう十分だ。ありがとう」

「そうですか、良かったです。じゃあ、私はこれで失礼します」

「ああ、島中、待て待て。ほら、これで今日は帰りに何か食べて行け」

 そう言うと課長は私に二千円を差し出した。

「あ、いえ、いいですよ、課長。今まで何の役にも立ててなかった私を見捨てずに毎回作業を振ってくれてた課長には感謝してるんです。お気持ちだけで十分です。そんなお金があるなら、たまにはお子さんにでもお土産買って行ってあげたらどうですか?課長も残業ばかりで家族サービスできてないでしょ。それでは、課長もあまり無理しないでくださいね」

「あ、ああ、ありがとう。で、でも、ほ、本当におまえ、島中なのか??とても昨日までの島中とはとても思えない?」

 私も課長の言う通り、自分でも全くの別人だと十分分かっていた。とても昨日までの自分ではこんなに課長ともサラッと話すことなんでできてないはずだったからだ。でも、その気持は見せずに私は会社を後にした。

「何言ってるんですか課長。免許証でも履歴書でも確認してもらったじゃないですか。島中ですよ。御先に失礼します、課長。明日も宜しくお願いします」


 私はまたコンビニで弁当を買って家に帰った。私は家に着くなり、テーブルにバッグと弁当を置いて、洗面台に向かった。そして鏡に映った今日の自分の姿をマジマジと見つめていた。

「ふー、本当に何だったの、今日は?これが・・・私?」

 そして別人になった自分を見ながら、更なる異変に気付いた。昨日、凱に買ってもらった眼鏡が、昨日と全く別の形態に変化していたのだ。

「な、何で?昨日、千条さんに買ってもらった眼鏡よねこれ?何で?昨日と全く違う眼鏡になってる?私、今日、全く気付かずに掛けてた。一体どうなってるの?」

 私はとにかく気持ちを落ち着かせるために眼鏡を洗面台に置いて、シャワーを浴びた。浴室に入ったときは今日会社に行ったときの別人の姿だった。浴室から出てふっーと深呼吸して洗面台の鏡に映った自分を見たら昨日までの私の姿に戻っていた。

「な、何?いつもの私に戻った。え!眼鏡も、昨日の形態に戻ってる?何?一体なんなの?」

 私は少しこの眼鏡が恐ろしくなってきたが、とりあえず、昨日と同じようにテーブルにその眼鏡を置いて、買ってきた弁当を食べた。今日は昨日と違って弁当の味が全く分からない状態だった。そして、どうするか迷っていた。こんなことが続くなら怖すぎるから、あの眼鏡店に返しに行くか。

 でもその一方で今日の会社でのことが脳裏をよぎった。今日の会社での私、自分でも凄いと思った。私、落ち着いて行動すれば課長にも認められるような仕事ができるんだと。でもそれは今日の別人の私だったからよね、そう考えると私はまたテーブルに置いて見つめていたその眼鏡を手に取り、掛けていた。

「とにかく、今日の会社での私はしっかり仕事してた、できてた。もう一回だけ、もう一回だけ、この眼鏡で会社に行ってみよう」

 そう自分の心に言い聞かせながら、私はまたその眼鏡を掛けて眠りに就いた。

 その日の夜も私は会社の夢を見ていた。そこにはやっぱりあの別人がいた。そして私は課長にも幸にも満留にも認められてその中心にいて、時には楽しく、そして大事なときは厳しい表情で仕事に取り組む私がいた。

 朝、目覚めると、やはり私はあの仕事のできる別人の私になっていた。もちろん、眼鏡もその時の形態に変化して。私は怖さも依然として拭えなかったが、この姿になって少しホッとしていた。これで今日も仕事がバリバリできるという喜びで。

 今日もこの別人の姿で会社に向かった。出勤すると幸と満留がもう既に出勤していた。

「おはよう、みおちん」

「おはよう、さっちゃん、みっちゃん。どうだった、昨日は。楽しめた、彼氏と」

「みおちん、昨日は本当にありがとう。助かったよ。昨日は私の彼、仕事で少しミスってへこんでたから、少しでも長く一緒にいてあげようと思ってたのよ」

「私もよ。私の彼は風邪で会社休んでて、四時頃に私の携帯に苦しそうに電話してきたから、もう気になってたのよ」

「そう、で二人とも彼はどう、元気になった?」

「おかげ様で、私の顔みて元気でたって言ってくれたし」

「私も。昨日一日看病して精のつくもの作ってあげたら、今日の朝には熱も下がったから。私の彼、少しお調子者だから、もう大丈夫だとか言って、会社に行くとか言ったから、もう一日休みなさいって釘を刺しておいたわ。だから今日も退社したら様子を見に行くつもりなの」

「そう、良かったね」

「本当に、全部みおちんのおかげ、ありがとう」

「ううん、だって今までさっちゃんとみっちゃんには迷惑ばかりかけてきたから。これくらい当然よ。また、どうしてもって時は言ってね。」

 そこへ課長が出社してきて、いきなり私に声をかけてきた。

「おはよう、おお、島中、昨日はありがとう。お前の資料のおかげで、あの後の企画の社長へのプレゼン、上手くいってあの企画、本格的に動き出すことが決まったよ。島中のアレンジしてくれた資料、社長が凄く気に入られてな。すまん、島中、勝手に自分の手柄みたいになってしまったが」

「いいですよ。今まで課長を始め、課の皆さんに迷惑ばかりかけてきた私です。私は表舞台に出るつもりはないです。陰ながら会社の発展の力になれればそれでいいです」

 別人の姿で出勤した二日目も無事に過ごし、木曜日、金曜日も課長に感謝されるような仕事をこなして週末を迎えることになった。

 私は金曜日、仕事を終えて、またいつものように弁当を買って帰った。今日はコンビニではなく弁当屋の暖かい出来立てを買って帰った。

「はー、終わった。明日はやっと仕事が休みだな。しかし、今週はこの姿のおかげで充実感のある一週間だったな。今日もこの眼鏡かけて寝ようかな。はあ、何か不思議だな。四日前は自殺しようと思ってたのに・・・。明日は仕事も休みだもんな。どうしようかな?こんな気持ち、そしてこんなに素敵な容姿なら、思い切って、明日、やりたいと思ってたダンススクールに行ってみようかな。フフフ、楽しみだな」

 こんなことを思いながら私はこの眼鏡を手にしてから初めての週末を迎えた。

 この日の夜、私はまた夢を見ていた。今度は寝る前に楽しみにしていたダンススクールで踊っている姿だった。ダンスを教わっている生徒のみんなは楽しそうな笑顔だった。そして私はと言うと、・・・。いない?あの仕事を完璧にこなすあの私がいない。あ!でも私の苗字が呼ばれてる、え!誰?これが私?また違う私なの?どういうこと?私は夢の中で自分の名前を呼ばれる新たな別人に戸惑い、苦しくなって目が覚めた。

「あ、あ、はああ、何、何だったの今の夢は?また別の私が夢に出てきた。と言うことはまさか!」

 私はそう思い、すぐに洗面所に駆け込み、鏡に映った自分を見た。

「嘘、何これ。ま、また、違う私?いやあーー、何なのよ一体。どうなっちゃったの私?というより、この眼鏡のせいなの?」

 今度、鏡に映った私は、昨日まで会社に行っていた私とは異なり、黒髪のロングヘアーで大きな前歯が特徴的なとても可愛らしい顔立ちの女性だった。

「何?この眼鏡、私をどうしたいのよ、もう嫌」

 そして私はこの時、再びあの時の眼鏡店を訪れようと決めた。あの眼鏡店の店主がこの眼鏡の秘密について何かを絶対知ってると思ったのだ。



 私は午前十時頃、早速、あの渋谷の眼鏡店に向かった。

「確かこの角を曲がった先だったはずだけど・・・」

 しかし店のシャッターは閉まっていて、張り紙がされていた。

「嘘でしょ。都合により閉店なんて。そんな、聞きたいことがあったのに」

 私が眼鏡店のシャッターの前で立ち尽くしていると、隣の酒屋の白髪の女性店主が声をかけてきた。

「何、あなた、天馬さんのところに何か用なの?」

「あ、あの、私、数日前にここで眼鏡を購入したものなのですが・・・」

「ああ、じゃあ、あなたね。天馬さんの最後のお客さんと言うのは。確か?ミオラさんというお嬢さんでしょ」

「あ、はい、そうです」

「そうか、じゃあ、ちょっと待っててね」

 するとその女性店主は店の奥に行って、手に封筒を持って私の前に戻ってきた。

「はい、これ。あなたが来たら、渡してくれって、天馬さんに頼まれてたのよ」

「え!何で?あのう、この眼鏡店の店主、天馬さん?ですか。何で閉店なんですか?」

「ああ、天馬さんね、あの人、一昨日の夜、亡くなったのよ。閉店時間を過ぎてシャッターを閉めた途端、突然、ほら、あなたが立ってるところで倒れてね。心臓発作だったのよ。その手紙はその前に、託されたのよ。まるで天馬さん、自分がこうなること分かってたみたいにね」

「そんな」

「でも良かったわ、あなたが来てくれて。天馬さん、何故かあなたのこと、やたらと気にされてたから」

 そして私は眼鏡店の店主、天馬さんの手紙を頂いて自分の家に戻った。私は早速、天馬さんが私に宛てた手紙を読み始めた。

「私の店の最後のお客さん、ミオラさんへ

  どうも、先日はありがとうございました。私はあなたがあの眼鏡『見つめ直しの眼鏡』を気に入ってくれた時点で、あなたをうちの店の最後のお客さんにすると決めていました。それは何故か?それは私もこの店を始める前にこの眼鏡に命を救われたからです。そしてこの眼鏡を必要とする誰かに渡すことが、この老いぼれの最後の役目だと自分の心の中で決めていたからです。多分、あなたもこの眼鏡が放つ柔らかい光に惹かれたんだと思いました。きっとあなたも私のお店に来られる前に自分のこれからを見失い、多分、私がこの眼鏡と出会う前と同じで、自分を消す覚悟を決めていたのでしょう。この眼鏡はそんな人を救ってくれる眼鏡です」

 ここまで天馬さんの手紙を読んで、私は頭の中に?が沢山出ていた。

「何なの、この内容。訳が分からない?」

 私は更に続きを読み出した。

「多分、この手紙を呼んでるということは、あなたはもうこの『見つめ直しの眼鏡』の能力を目の当たりにして、使い続けたのでしょう。あなたもこの眼鏡の能力への怖さより、その能力の素晴らしさの虜になったからだと思います。そうじゃなければ、怖さの方があなたの気持ちを動かし、すぐに私のもとに返品に来たはずです。その時は頂いたお金も返金するつもりでした。でも良かった。あなたがこの眼鏡を使ってくれることを選んでくれて」

「やだ、今日、本当は怖くて天馬さんにこの眼鏡返そうと思って行ったのに、もう私が使い続ける体になってる。でも、もうこの天馬さんの手紙の内容からすると私が使うしかないんだよね。それに千条さんにプレゼントしてもらったものだもの。捨てるなんて選択、とても私にはできないし」

 さらに読み続けた。

「どうか、ミオラさん、この眼鏡の能力を上手く使って本当のあなたの素晴らしさを見つけて、そして幸せになって下さい。

 でも、一つだけ忠告しておきます。この眼鏡に頼り過ぎてはダメです。本当の自分を見失います。この眼鏡はあなたが普段表に出さない自分を発見するためのアイテムなんです。だからその普段見せない自分が新鮮で、その自分に頼り過ぎてしまう可能性があります。そうなると最後は私のようになってしまいます。そうです、私は本来の自分を見失い、この眼鏡の能力を使う前の自分が分からなくなったまま、この歳まで生きてきました。この眼鏡の使い方を間違えた人間です。

 ミオラさん、どうかあなたは、この眼鏡を上手く使って今までの自分に新たに発見した自分を上乗せしてもっと素敵な女性になって下さい。

 これでやっと私も肩の荷がおりました。ミオラさん、ありがとうございました。

                          寂れた眼鏡店の老いぼれ店主より」

 私はこの手紙を読み終えて、この眼鏡を選んだときに天馬さんに言われた言葉の意味をやっと理解できた。

「天馬さん、本当の自分を見失ってずっと苦しんでたんだ。ありがとう、天馬さん、私はあなたの忠告を守って、自分自身を成長させてみせるわ。そうか、だからこの姿も私のまだ見せたことのない自分なんだ。でもこの姿の私はどんな私なんだろう?よし、どこのダンススクールがいいかネットで調べて、一度、体験に行ってみよう」

 そして私は検索して一番気に入ったダンススクールに出かけた。



「あのう、このスクールでは入会前に体験ができると聞いて来たんですが?」

「あ、いらっしゃい。ありがとうございます。この後、ちょうど三時からのレッスンが始まります。この回のレッスンに参加して頂けますか」

「はい、宜しくお願いします」

 私は小学生の頃からダンスには興味があったけど、小学三年生の一件以来、ずっと人前で何かをすることに恐怖を感じ続けていたので、その思いをずっと閉じ込めてきた。

 しかし、この眼鏡を掛けて昨日まで仕事が上手くできたことで少し前向きになっていた。そして、今日はまた昨日までの私と別の自分になって、昨日までとは違う気分だった。昨日までの仕事をしている私は自分の意思を周りに臆することなく表現できる力強い自分だったが、今日は自分の大好きなことを心から楽しもうとする素直な自分がいた。

「はい、それでは皆さん、始めましょう。今日はお一人、体験で来られてる?すいません、お名前を教えて頂けますか?」

「はい、島中です。島中美央良と言います」

「そうですか。島中さん、このようなダンスレッスンを受けるのは初めてですか?」

「あ、はい、初めてです。全くの素人です。宜しくお願いします」

「よし、皆さん、じゃあ、今日は久し振りに体験の方が参加しますので、レッスンの内容を少しだけ島中さんに寄せていいですか?」

 入会している生徒の方は賛成してくれた。

「いいですよ、先生。私達だって入会して一か月ですから」

「いえ、そんな、先生、私一人にレベルを合わせたら、皆さんに迷惑じゃ」

 生徒の一人が答えた。

「大丈夫ですよ、島中さん。私達だってみんな経験者じゃなく、本当にここに入って一か月、あなたと一緒でほぼ素人。私達も初心に戻れるから、初心忘るべからず、重要なことでしょ」

「ありがとうございます、皆さん。ご迷惑にならないように頑張ります」

「よし、じゃあ、まずは柔軟で体をほぐしましょう」

 私はダンスは初めてだったけど、体の柔らかさには少し自信があった。小学生の時から一日も欠かさずお風呂に入る前に柔軟を続けていたからだ。

「うわあ、島中さん、何で、すごい柔らかいのね。ねえ、まさか学生時代、何かやってたの?体操部だったとか」

「いえ、私、学生時代は部活に入るのは強制ではなかったので、ずっと帰宅部でした。でも柔軟は小学生の時から毎日欠かさずやってます。今でも」

「す、すごいね。毎日欠かさずって。凄い、一日も欠かしたことないの?」

「はい、小学四年生になってからもうずっと」

「島中さんて、これだけ柔らかければ、ダンスの動きも幅が広がりますね。ね、先生」

「そうだね、いやあ、島中さんがこんなに柔らかいとは、驚きだ。後は音を自分の体の中に取り込んでどう動きに反映できるかだね、どうかなあ?よし、島中さんの柔軟性は分かったから、今度は一度、音楽に合わせて踊ってみよう。よし、島中さんは一度、外から見てて。僕と生徒のみんなで一度、通して踊ってみるから」

 そして私は先生と生徒のみんなが踊る姿を見学していた。

「よし、島中さん、どうだった?難しそうだったかな?一度見ただけじゃちょっと無理かな?でも一度、今の状態で島中さんがどれくらい踊れるのか、見せてくれる?」

「え!先生、まさかみんなの前で一人で踊るってことですか?」

「ダメかな、恥ずかしい?」

 多分、一週間前の私なら絶対に無理だと言って、この場から立ち去っていたに違いない。でも今日のこの姿の私は純粋にダンスを楽しみたいという思いでいっぱいだったので、不思議と恥ずかしいという感情はなかった。

「いえ、せっかく体験に来たんです。初めて人前で踊りますけど、頑張ってみます」

 そして私は先程、先生と生徒のみんなが踊った曲に合わせて、その動きを頭に浮かべながら一人で踊り出した。鏡に映る自分が踊ってる姿は、その動きは何となくそれなりの動きが出来てると思いながら見ていた。でもその動きよりも私はダンスってこんなに楽しいんだと思って、自然に笑顔になっている自分の表情に驚いていた。そして、その楽しさが自然に言葉として漏れた。

「はあ、はあ、ああ、楽しかった。先生、皆さん、ダンスって楽しいんですね。何か疲れましたけど、目の前が明るくなったような気がします」

 先生と生徒のみんなは口を開けて私を見詰めていた。

「あれ?先生、皆さん、どうしたんですか?ああ、やっぱり、ダメですよね。初めてですもの。ヤダ、素人ですから。ごめんなさい、先生も皆さんも、黙ってないで何か言って下さいよ。まだまだだな、とか、笑ってもらった方が私もスッキリします」

 この後、先生が私の両肩を掴んで私に語りかけた。

「し、島中さん、是非、うちに入会してくれないか?凄いよ、島中さん。本当に踊るの初めてなの?」

「あ、はい、人前で踊るのは。家で映像を見ながら一人ではたまに踊ってましたけど。やっぱり人前では恥ずかしかったから」

「島中さん、私と生徒のみんなが踊るのを一度見て、あれだけ踊れたの?」

「はい、ダンスを見るのも好きだから、皆さんの踊ってる姿を頭でリピートしながら踊ってみました」

「いやあ、島中さん、あなたダンスのセンスあるよ。体の柔軟性といい、一度動きを見ただけであそこまで動きをコピーできるなんて、リズム感も素晴らしかったし」

「もう、参ったな。僕たちの方がこのスクールでは先輩だと思ってたのに、レベルから言ったら完全に僕たち置いていかれてるじゃないか。ねえ、先生」

「あ、ああ、ごめん。嘘はつけないな。事実、安田くんの言うとおりだ。島中さんのレベルはもうこのクラスのレベルの遥か上を言ってるよ」

「そんな、私、本当に初めてで。まだ、ダンス本格的にやろうかどうかも迷いながらここに来たんです」

「いや、島中さん、あなたはダンスをやらなきゃもったいないよ。ダンスのセンスもそうだけど、この可愛らしいビジュアル、それにさっき踊ってた時の笑顔、自分でも凄く楽しかったんじゃない?今はここに来た時と気持は変わってきてるんじゃないの?どう?」

 私は先生に今の気持ちの核心を突かれた。

「あ、はい、こんな笑顔の自分を見たの小学三年生の時以来で。新しい自分が発見できたような気がします」

「じゃあ、どうする、島中さん。別にこのスクールじゃなくてもいいけど、君は是非、ダンスを本格的に始めるべきだよ」

「は、はい、じゃあ、先生、毎週、土曜日にレッスンを受けに来たいと思います。入会します。宜しくお願いします」

「おお、やったーー。じゃあ、書類に記入してから帰ってね。また来週の土曜日に待ってるから」

 私は家に帰って眼鏡を洗面所に置いて、シャワーを浴びた。そして浴室を出てホッと落ち着いた気持ちになると、いつもの自分の姿に戻っていた。

「うん、大丈夫。家に帰って来てシャワーを浴びたら、元に戻れる。大丈夫だ、仕事をする時の力強い自分、大好きなことを楽しむ今日の自分、いつもの泣き虫な自分、どれも私なんだ。上手く自分で使い分けて行こう」

 そして私は土曜日は初めて人前で思い切り踊った楽しい一時を振り返りながら眠りに就いた。


 私は土曜日に眠りに就いてから、日曜日の深夜、また夢を見ていた。そこには大勢の小さな子供に囲まれ、つぶらな瞳で優しい笑顔を振りまく美しい女性がいた。その女性は優しく子供を抱っこしたり、泣いてる子供がいれば、暖かく抱きしめたりして、子供達に凄く愛されている雰囲気が溢れていた。その女性はやはり、私と同じ名前で呼ばれていた。

「美央良先生、大好き」

 男の子の中には私を呼び捨てにしている子もいた。

「美央良、抱っこして」

「もう、美央良先生でしょ」

「いいじゃんか、美央良は美央良だろ」

「もう!」

 そう言って優しく男の子を抱っこする女性、これも私なんだ。そう思いながら私は日曜日の朝を迎えた。

「次は子供と戯れる私?」

 私はすぐに洗面所に向かった。鏡に映った私はやはり、夢で見たまた別人の私の姿になっていた。もちろん、眼鏡の形態も変化していた。

 私は今日見た夢を思い返してふと思った。

「まさか!一度、諦めたこともやってみたらってことなの?」

 そう、私は今は金属製品やプラスチック製品の材料を扱う商社に入社して働いているが、本当は小さな子供が好きで、保育士になろうと思っていた。大学でもそのための勉強をして保育士の資格は何とか取得したのだ。しかし、実習で子供の前でなかなか上手く笑えなくて、子供を不安にさせてしまう自分に失望して、大学卒業と同時にその夢には蓋をしていた。

「今日は夢の内容からすると、この自分で保育士の仕事をしてみろってことなのかな?でも今そんなことしちゃうと、今の仕事の副業になっちゃうな。でもこれはいいか、とりあえず、子供のお世話をするのは大好きだから、お金をもらわなきゃ副業にはならないよね。私の趣味として保育士として働けばいいんだ。よし、今日はこの近くで日曜保育してる施設を調べて行ってみよう」

 そして私は、家の近くで日曜保育で子供を預かっている施設を探して訪ねてみた。

「すいません、この施設の責任者の方はいますか?」

「はい、私がこの施設の施設長ですが、何か?」

「あの、日曜日限定なんですが、朝開園から三時までなんですが、働かせてもらえませんか?保育士の資格は持ってるんですが」

「ああ、何てこと、助かるわ。この仕事は日曜日の人手が本当に不足してるのよ。助かるわ」

「じゃあ、いいんですか?」

「もちろん、こちらがお願いしたいわ」

「ありがとうございます。で、もう一つお願いなんですが・・・」

「何?バイト代のこと?」

「はい、できればバイト代はなしでお願いしたいんですが」

 この要求にはさすがに施設長も驚きを隠せなかった。

「ちょ、ちょっと、あなた、何を言ってるの。バイト代なしって、本人からタダ働きのお願いって?」

「すいません、私、平日は別の会社で働いてるので副業はできないんです。だから大好きな保育士の仕事は、別に趣味でもいいなって」

「まあ、真面目な人ね、あなた。副業なんて会社で禁止されててもやってる人なんていくらでもいるのに」

「いいんです。別に、お金が欲しくてお願いに来た訳じゃないので。ただ、私、可愛い子供のお世話するのが単に好きなだけなので」

「まあ、今時、奇特な方ね。こんな施設側にとっては願ってもない方だわ。あの、いきなりで申し訳ないけど、今からお願いできる?今日は保育士一人しかいなくて困ってたのよ」

「はい、構いませんけど」

 そして私はこの日すぐに保育士としての仕事をすることになった。

「はい、みんな、ちょっといいかな」

「はい、何?園長先生」

「新しい先生を紹介するからね。日曜日の三時まで限定だけどね。こちら、あ、そう言えばお名前まだ聞いてなかったわね」

「あ、じゃあ自己紹介します。私、島中美央良と言います。美央良先生でもいいし、島中先生でも、呼び方はみんなの好きにしていいから。日曜日だけだけど、宜しくお願いしますね」

 そう言って私は子供たちに優しく微笑みかけた。そうすると一人の男の子が私に向かって話した。

「俺たちの好きな呼び方していいんだな。じゃあ、美央良、宜しくな」

「ちょっと、克己くん、呼び捨てなんてダメでしょ」

「いいじゃんか、美央良が好きに呼んでいいって言ったんだぞ。なあ、美央良」

「すいません、んーー、先輩先生、お名前は?」

「ああ、俺が教えてやるよ。こいつは橘美紀だ。俺は美紀って呼んでるぞ」

「こら、いい加減にしなさいよ、克己くん。美紀先生って呼びなさいって言ってるでしょ。ごめんなさいね、島中先生、あの子だけは、この施設の中でも本当に生意気なのよ」

「おい、美紀、何が生意気だよ。俺に失礼だろ」

「もう、どっちが失礼なのよ。克己!」

「べーだ」

「フフフ、面白い子ですね。すいません、日曜日だけですけど、美紀先輩、宜しくお願いします」

「こちらこそ、それにしても、島中さん、スタイルいいのね」

「いえ、そんな」

「橘先生、島中さん、もうこちらにとっては願ってもない働き手なのよ。なんと!バイト代いらないって言うのよ」

「え?はあ?島中さん、本当なの?あなた頭、大丈夫?」

「ちょっと、美紀先輩、酷いですよ。まるで私のこと変人扱いじゃないですか?」

「だってそうでしょ。普通はそんなことを本人からお願いするなんて」

「いいんです。お給料は平日の仕事でもらってますから。保育士の仕事は大学時代に目指していた夢だったんです。私、小さな子供が大好きだから」

 そう美紀先輩と話してると克己にお尻を叩かれた。バシィ!

「おお、美央良、お前いいケツしてるな。いい音したぞ」

「もう、こら、かっちゃん、女性にそんなことしちゃダメでしょ」

「おお、逃げろー。美央良が怒ったぞーー」

 その横では別の男の子が女の子にぶつかって、女の子が倒れて泣いていた。

「うええーん、痛いよ」

「あらあら、大丈夫?」

 私は倒れた女の子を優しく抱き上げ抱っこしてあやした。優しく頭を撫でながら、女の子に微笑みかけた。

「どこ、どこが痛いの?ああ、ここだね、擦りむいちゃってるね、よし」

 そう言って私は腰に付けたポーチから絆創膏を出し、女の子の擦りむいた膝に貼った。

「はい、これでよし。痛いの痛いの、先生の膝に飛んでった。あ、来た、痛いよ、先生の膝が痛くなった」

 私は胸に付いてる名札で名前を確認した。

「よし、もう咲和ちゃんの膝からは痛みが飛んでったよ。あいたたた、先生の膝が」

 このやり取りをまた克己に馬鹿にされた。

「アホか、美央良。お前、痛いのを自分の体に飛ばしてどうするんだよ」

「もう、いいでしょ。また、かっちゃんはすぐに私のこと馬鹿にする」

 私は学生時代に受けてた実習で上手く笑えなかったことが嘘のように、子供達に自然に微笑みかけられている。自分でも凄く幸せな気持ちになっていた。

「あら、島中さん、凄いわね、あっという間にみんなの心を掴んじゃったわね」

「本当ですね、園長先生、私でも一日目は中々懐いてくれなかったのに。まだ、一時間も経ってないのに、もう子供達の中心で、子供達の取り合いが始まってる」

「ねえ、美央良先生、こっちで私達とおままごとしよ」

「ダメだよ、美央良はこっちで俺達とチャンバラして遊ぶんだよ」

「かっちゃん、待っててくれる。咲和ちゃんたちとおままごとし終わってからチャンバラは付き合うから」

「嫌だね」

「お願い、後で」

「じゃあ、俺の言うこと聞けよ」

「何?」

「俺のほっぺにキスしたらままごと終わるまで待っててやるよ」

 私は少し恥ずかしがりながら、仕方なく克己の頬にキスした。チユ!

「はい、これでいい?」

 克己は本当にキスされるとは思ってなかったので、真っ赤になった。

「な、何だ、かっちゃん、真っ赤になって。自分から要求しておいて恥ずかしがってるじゃないの」

「う、うるさいぞ、美央良。いいよ、待っててやるよ」

 私は子供たちと楽しい一時を過ごし、自分も子供達から癒しを貰った。あっという間に時間が過ぎ、午後三時になって帰る時間になった。

「島中先生、三時過ぎたわよ」

「何?美央良先生、もう帰っちゃうの?」

「ごめんね、咲和ちゃん」

「嫌だ、まだ、美央良先生と一緒にいたいよ」

 私は咲和を始め、女の子全員に抱き着かれた。

「あらあら、どうしようかな?ねえ、みんな、美紀先生がいるでしょ」

「美紀先生もいるけど、美央良先生ともっと遊びたいもん」

 わがままを言う女の子たちに克己が口を挟んだ。

「おい、お前ら、美央良をあんまりわがまま言って困らせるな。美央良だって色々あるんだぞ。帰してやれよ」

 こんなことを言って克己は女の子たちからツッコまれた。

「何言ってるのよ。さっきから散々、美央良先生を困らせていたのは克己くんじゃない」

「う、うるさいな。とにかくだ。美央良だって忙しいんだ。ほら、こいつらは俺が相手してやるから、美央良、帰っていいぞ」

「ありがとう、かっちゃん。みんなもごめんね。また、今度の日曜日ね」

 私は少し後ろ髪を引かれながらも日曜日に働くことになった保育施設を後にした。

 家に戻り、ホッと一息ついた。

「ああーあ、楽しかったな。やっぱり、いいな、保育士の仕事は。みんな、私と遊んだこと、喜んでくれたかな?また、今度の日曜日も楽しみ」

 そして私はシャワーを浴び、浴室から出るといつもの自分に戻った。

 この後も私は『見つめ直しの眼鏡』によって新しく発見した自分で仕事もプライベートも充実した時間を過ごして一か月が過ぎていた。この頃になると私は、『見つめ直しの眼鏡』によって見つけた新たな自分で過ごす充実感が心を支配し、あの眼鏡店の店主の忠告を頭の中の片隅に追いやり、家に戻って心の緊張を緩めても、本来の自分に戻ることがほとんどなくなっていた。

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