第一話
「し・ま・な・か~。お前、うちの社員なのに、我々の
仕事をバカにしてるのか?」
「申し訳ありません。決してそんなことは」
「そうとしか思えないんだよ。毎日必ず一回は大事なところでミスするだろ。書類作成で肝心な部分が一枚抜けてたり、データ入力を頼んだら最後に保存するのを忘れてたり。お前は大切なところでドジ過ぎるんだよ。今日だって最後までデータ入力して、保存画面でいいえのボタンを押してしまうなんてあり得ないだろ。どう考えても嫌がらせとしか思えないだろ」
「すいません。今からもう一度入力します」
「もういい、もういい。島中に頼んだ俺が悪かった。お前はもう帰っていい。おい、金屋、崎谷、悪いけど島中の同期のよしみで尻拭い頼んでいいか?」
「はぁ、仕方ないですね。課長の頼みですからね。分かりました。でも少し時間をもらっていいですか?みおちん、ちょっと一緒に来て」
そして私は同期入社の金屋幸と崎谷満留とトイレに行った。
「もう、みおちん、あんた、いい加減にしてよね。私、今日この後、彼とデートの予定だったのに、また彼との時間削らないといけないじゃない」
「私だってそうよ。あんたいつになったらミスなくまともに作業できるのよ」
私は毎回ミスをすると、いつも幸と満留に迷惑をかけていたので、終業時刻寸前にトイレに連れていかれて責められることがほぼ日課になっていた。そして今日も二人に髪を掴まれて毒を吐かれた。
「今度私たちにまた不快な思いさせたら、これくらいじゃ済まないからね」
「痛いよ、さっちゃん、みっちゃん。ごめんなさい、許してください」
「ふん!本当にムカつくよ。あんたのせいで今日も残業だよ。気分が悪くなるからさっさと帰りな、美央良」
私は涙ぐみながら会社を後にした。
私はこの日、家に帰り泣きながら自分の今までの人生を振り返っていた。
「グスン、何で私ってこんなにドジなんだろう」
私は島中美央良。普通に四年制の大学を卒業して、今の会社に入って二年目になる23歳。東京の多摩市に築二十年のアパートで一人暮らしをしている。私はこんな泣き虫で気弱な性格だけど大学卒業までは生まれも育ちもバリバリの大阪人である。両親はもう他界している。私が社会人になって三ヶ月が経ったくらいに、父が病気ど急死し、後を追うように母も亡くなってしまった。私は他に頼れる親類もいないので、両親が他界してからは本当に孤独なのだ。
私が毎回大事なところでドジるのは多分、小学三年生の時の先生に受けた恥ずかしめが原因なのだ。私は小学三年生の一学期の期末テストの国語の結果でクラスのみんなの前に立たされた。
「島中さん、ちょっと前へ出てきて」
私はテストの結果で褒められるのかと思って元気良く返事をして前に出た。
「はい、先生」
「ちょっと国語の答案用紙を見せてくれ。いいか、みんな。国語のテスト、問7の3問目、間違えた人」
そう言われて他のクラスメイトは誰も手を上げなかった。すると先生は私に問いかけた。
「おい、島中、お前は手を上げないとダメだろ。ほら」
「あ、はい」
「島中、お前だけだぞ、こんな簡単な問題を間違えているのは。いいか、みんな、こんな簡単な問題を間違えるんじゃないぞ。島中も国語の点数は78点で悪くはなかったけど、こんな簡単な問題を間違えたせいで80点越えを逃しているんだ。誰でも答えられるような問題こそ確実に答えられるようにすること、いいな。島中も、分かったな。またこんなことがあったら、みんなの前で発表するからな」
私はまさかこんなことをクラスみんなの前で発表されるとは思ってなかったので、顔から火がでるほど恥ずかしくなって、すぐに席に戻って机に顔を伏せた。担任の先生は私がどれだけ傷ついたかも気にせずに、そのままホームルームを続けた。
その後も私は、小学三年生のテストでは、この最初の担任による恥ずかしめがトラウマになり、同じような失敗を繰り返して、テストの返却の際にはいつもクラスメイトの前に立たされることが続いた。
こんなことが続いたため、私は自分の顔をみんなに見られるのが怖くなり、視力検査でわざと目が悪いように嘘の答えをして、目が悪くもないのに眼鏡を掛けるようになった。ここから私は笑顔というものを忘れていった。
私は小学三年生の学校での生活がその後の人生に大きく影響し、これ以降、親密な友人関係も構築せず、今まで孤独な学生生活を送ってきた。節目である高校受験、大学受験も小学三年生に受けた大きなトラウマが影響し、第一志望に行くことは叶わず、両方とも滑り止めだったし、就職についても同様に第二志望の金属製品やプラスチック製品等の材料を取り扱う商社に入社した。私は今まで全ての大事な節目で自分の本当の実力を発揮できずに過ごしてきた。
しかし、こんな私でも生きてこられたのは、両親の支えがあったからだった。受験でも就活でも自分の目標としていた結果が得られなくても、美央良は頑張ってるから最後にはきっと幸せを掴めるからと、ずっと励ましてくれていた。私たちはずっと味方だからねと言ってくれていた。
そんな両親も就職してから立て続けに他界して、私は今、入社してから二年目を迎え、仕事でもミスを繰り返し、心が苦しくなっていた。こんな時でも両親が生きていれば、きっと家に帰って心が安らいでいたに違いない。しかし、今は家に帰っても安らぎを求める拠り所もなくなってしまっている。そんな苦しさから私は人生に終止符を打とうと良からぬことを考えるようになっていた。
「パパ、ママ、何で死んじゃったの?逢いたいよ。私苦しいよ。生きてるのが辛いよ」
私は再びいつもの日常に戻り、出勤して今日はミスしないようにと強く思いながら課長からお願いされた作業に集中していた。16時半頃、その作業のデータ入力が終わり、課長に確認してもらうため、印刷しようと思っていた。その前にデータ保存の画面を出し、いったん立ち上がって背伸びをした。その時に立ち眩みがして、まさかのクリック操作をしてしまい、保存しないで作業終了してしまった。あ!っと思ったがもう遅かった、後の祭り。私はまた課長に怒られる。幸と満留に迷惑をかけてしまう。そんな思いが駆け巡り、震えながら課長の机に向かった。
「か、課長」
「お、島中、できたか?」
「あ、あの、すいません。保存する前にデータが消えてしまいました。申し訳ありません」
「な、何だと!なんでだ、なんでそうなるんだ。あーー、島中、説明してみろ」
「あの、データは入力したんです。でも入力し終えた後、背伸びした時に立ち眩みして、保存しない設定で操作をしてしまいました」
「ばかやろー、島中、お前は本当に。全く、お前は会社に何をしに来てるんだ。この役立たずが。もう本当に勘弁してくれよ。あーあ、おーい、金屋、崎谷、ごめん、また悪いが、ちょっと来てくれ」
「はい、もう分かってますよ。そこに美央良がいるってことは、いつものことですね。なにも言わないで下さい。やりますよ、残業」
「悪いな、申し訳ない。終わったら晩御飯ご馳走するから、頼む」
「はい、でも今回は吉野家の牛丼じゃ納得しないですからね」
「分かった分かった」
「でもその前に、美央良、ほら、行くよ」
そして私はいつものようにトイレに連れていかれると思ったが、今回はトイレではなく、給湯室に連れていかれた。
「はあ、美央良さぁ、お前、いい加減、私たちの足を引っ張るのやめてくれる?お前がいると私たちの私生活までおかしくなっちゃうよ」
そう言って私は幸と満留にビンタされた。幸に左頬を、満留に右頬を立て続けに殴られて、私の眼鏡は給湯室の外へ飛んでいってしまった。
幸と満留は私に捨て台詞を吐いて社内に戻っていった。
「美央良さ、あんた会社辞めたら。みんなに迷惑かけて役に立ってないからさ。家に帰って自分のこれからをもう一度考えてみな。とっとと帰りな。あんたの眼鏡面見てると無性に腹が立つからさ」
「ご、ごめんなさい、さっちゃん、みっちゃん」
私は飛ばされた眼鏡を探すために、すぐにもう一つ、いつも携帯しているスペアの眼鏡をかけて、涙を拭いながら給湯室を出ようとした。その時、私は少し前からの考えを実行に移そうと決めた。
給湯室を出た途端、私は誰かとぶつかった。
「あ!ごめんなさい」
「あ、いや、こちらこそ。大丈夫でしたか?」
頭をあげるとそこに立っていたのは、爽やかなスカイブルーのストライプのスーツを着た、スタイリッシュな眼鏡をかけた身長180cmくらいのスリムな男性が立っていた。
「あ、あのう、これ、あなたのかな?」
男性の右手を見るとレンズの割れてしまった私の眼鏡を申し訳なさそうに持っていた。
「あ、そ、そうです。その眼鏡、私のです。ありがとうございます」
私がその眼鏡を男性の右手から取ろうとすると、その男性はそれを阻止して私に語りかけた。
「やはりあなたのですか。まずは謝ります。ごめんなさい。突然僕が歩いている足元に飛んできたから踏んでしまいました」
「いえ、そんな。だって眼鏡を飛ばしたのは私ですし、どんな形でも拾って頂いたことに変わりはないですから。こちらこそ、すいません、余計な気を遣わせてしまったみたいで。本来なら私が謝らないと。改めて申し訳ありません」
私はもう一度頭を下げた。
「んー、何て優しい方なんだ。普通なら、こんな状態になった自分の眼鏡を見たら、それを責めたりしない?」
「いえ、私が眼鏡を飛ばしたのが原因ですから」
「いやぁ、本当に優しい方ですね。それにあなた、眼鏡が凄く似合ってます、素敵です」
私はその男性に顔をじっと見つめられていることに気づいて顔を手で覆った。
「やだ、そんなに見つめないで下さい」
「いいじゃないですか。本当に素敵な眼鏡顔です。思わず見惚れてしまいました」
私は自分の顔をこんなに褒められたことがなかったので、さらに真っ赤になって男性に背を向けた。
「やめて下さい、洒落になりませんよ、そんな冗談は」
「いや、冗談で言ったつもりはないんだけどな。僕は女性の容姿について、失礼になるようなことは言わないように気をつけているつもりなんだけど?気を悪くしたなら、謝ります。このとおり」
男性は私に頭を下げた。
「あ、ごめんなさい。頭をあげて下さい」
男性が頭をあげると私はその男性と至近距離で向き合った。
「本当にごめんね。眼鏡のこともあわせて許してくれるかな?え!あ、でも?」
男性はそう言いながら、私の頬に親指をあてた。
「もしかして、泣いてたの?ごめん、この眼鏡、そんなに大事な眼鏡だったんだね」
本当は眼鏡のことで泣いてた訳ではなかったので、そのことを伝えようとしたが、言葉を被せられてしまった。
「あ、これは・・・」
「よし!あなたの眼鏡を壊したのは僕だ。弁償するよ。今から少し時間あるかな?もうバッグ持ってるから大丈夫?」
「あ、はい、いや、でも」
「よし!じゃあ決まり。今から眼鏡買いに行こう」
そう言うと男性は私の右手を握って夕暮れの渋谷の街に出ていった。
「すいません。やっぱり結構です。そんな弁償なんて」
「いいんだよ。だって壊したのは僕だよ。それに泣いてしまうくらい大切な眼鏡だったんでしょ。そんな眼鏡を壊しちゃったんだから尚更だよ」
「いえ、あの涙は・・・」
「いいから、ほら、行くよ」
私は父親以外の男性とこんな風に手を繋いで歩くことが初めてだったので少し恥ずかしかった。でも今、私の手を引いている男性は凄いイケメンで、そして優しい、素敵な人。きっと覚悟を決めた私への神様がくれた最期のプレゼントだと思い、幸せな気分で心が膨らみ始めていた。
そして私はこの男性に連れられて趣のある眼鏡店に入った。
「よし、この店に入ろう。あ!そう言えばまだあなたの名前、お聞きしてなかったですね。僕は千条凱と言います」
「あ、私は島中美央良と言います」
「島中美央良さんか。素敵な名前だね。よし、美央良さんに似合う眼鏡、僕が選んであげるからね」
そして、その千条凱という男性は店に入るとすぐに店の品揃えを解説しながら、私に似合いそうな眼鏡を選んでいった。
「おおー、この店、中々いいですね。僕好みの品揃えだ。んー、そうだな、美央良さんには・・・、カラフルで可愛らしいセリマオプティーク、いきすぎないデザインで気軽に楽しめるハスキーノイズもいいな。あ!形はベーシックだけど、色使いに遊び心のあるオーアンドエックスニューヨークも合いそうだな。おお!店主、中々渋いところも入れてるね。国内屈指のチタン加工技術を持つ福井めがね工業のエスプレンドールシリーズまで置いてるじゃない。よし、とりあえずこんなところでどうかな?」
「せ、千条さんて、眼鏡に詳しいんですね」
「ああ、まあ、どうしても仕事柄ね。あ、僕のことはいいから美央良さん、今選んだもの掛けてみてよ」
私はそう言われて眼鏡を外した顔を見られないように、凱に背を向けて眼鏡を掛け替え始めた。
「美央良さん、何で後ろを向くの?」
「だって、眼鏡外したところは見られたくないんだもん」
「なんで?眼鏡がこんなに似合うんだ。素顔だって素敵に決まってる。素顔も見たいな」
「嫌です。これだけは嫌なんです」
「ごめん。分かったよ、これ以上は無理強いはしないよ。でも眼鏡を掛けたところだけは見せて」
そして私は凱の選んでくれた眼鏡をかわるがわる掛けていった。
「んー、これも中々いいね。おお!こっちもいいよ」
私はそう言って凱に見つめられて少しずつ顔が赤らんでいった。
「あれ?美央良さん、どうしたの?顔が真っ赤になってきてるよ」
「だって、千条さんにじっと見つめられてるんだもん。私、こんなに間近で男性に見つめられるの初めてだから」
「なんで?今まで彼氏にいくらでも見つめられたことあるだろ」
「そんなのない。だって私、男性とお付き合いしたこと一度もないもん。あ!私、何を話してるんだろ。まださっき初めて会った人に」
「嘘だろ、美央良さん、こんなに素敵な女性なのに。なんだよ、美央良さんの周りには見る目のない男性ばかりだったのかな?じゃあ僕が美央良さんの彼氏に立候補しちゃおうかな?」
私はこんなことを言われてさらに真っ赤になり顔を背けた。
「ごめん、冗談だよ、冗談。美央良さんにも好みがあるもんね。困らせてごめん」
でも私はこんなに褒められて、冗談だったとしても恥ずかしかったけど、凄く嬉しかった。そして、会ってまだ数時間しか経ってなかったけど、凱のことが凄く気になり始めていた。
「んー、でも僕が選んだ眼鏡、似合ってることは確かなんだけど、いまいち決定打に欠けるな。どうしようかな?」
そう言うと凱は店内を見回し、他のものを探し始めた。私も自分で気に入るものがないか、探そうと店内を見回し始めた。そうすると私は、ある一点に目が止まった。そこには淡くて柔らかいピンク色の光を放つ不思議な眼鏡が
陳列されていた。私はその光に導かれるように近づいていった。
「千条さん、私、これがいい」
「何?美央良さんの好みの眼鏡があったの?ほお、これが気に入ったの、んん、ああ、いいかもしれないね。似合いそうだ。でもこの眼鏡、どこのかな?」
私がこの眼鏡に惹かれていく姿を見ていて、この眼鏡店の店主は私に向かって意味深な言葉を投げ掛けた。
「ありがとう、これでやっと私の役目も終わったよ」
「ん?なんですか、おじさま。今なにか言いました?」
「いや、なんでもないよ。掛ける方が気に入ったなら、是非、その眼鏡にするといい。それは私がこの店を始めた45年前からずっとここにある眼鏡です。その眼鏡はこの店の店主と言ってもいい」
「ほ、本当ですか?って店主、と言うことは売れ残りってことじゃないですか。そんな眼鏡を勧めるなんて」
「いえ、千条さん、確かにそうとも言えますが、よく見て下さい。45年も前にずっとここにあるのに傷一つないですよ。店主のおじさまがどれだけ大切にしてこられたかが、分かる気がします。それに私なんだか、この眼鏡に選んでくれって言われたような気がするんです」
「そうですか、美央良さんはやっぱり本当に優しいんだね。普通は僕のような気持ちになると思うんだけどな。いいよ、分かった。美央良さんが気に入ったなら、その眼鏡にしよう。店主、この眼鏡いくらですか?あ、でも美央良さんの目に度を合わせないと」
そう言うと店主は妙なことを言い出した。
「ああ、その眼鏡は度の調整は考えなくていいですよ。そのお嬢さんがその眼鏡を掛ければ、度は自然に合うはずです」
「そ、そんな馬鹿なことって・・・」
私はその不思議な光を放っていた眼鏡を掛けてみた。すると店主の言う通り、度の調整なんて全く必要がなかった。
「わあ、千条さん、店主のおじさまの言う通り、ピッタリです。今までの眼鏡よりハッキリ見えます。視界良好です」
「ほ、本当に?」
「だから言ったでしょ」
「店主、じゃあ、この眼鏡にします。おいくらですか?」
「百万円です」
「え!う、嘘だろ」
私はその額を聞いて、すぐに眼鏡を外し店主に返した。
「やだ、そんな高額な眼鏡だったんですか?ごめんなさい、別のにします」
そんな私の気持ちを後目に凱は迷いなく言い放った。
「よし、店主、分かった。百万だな」
「ちょっと、千条さん、なに言ってるんですか?」
「いいよ、だって、美央良さんが気に入ったんだろ。弁償すると言った以上、美央良さんの気持ちを大事にしたい」
「すいません、冗談ですよ。本当はそれくらい、私としても大事にしてた眼鏡だったんですが、45年間で初めて、この眼鏡を選んでくれたんです。95%引きにしておきます」
「え?じゃあ5万円でいいってこと?」
「はい、5万円で結構です」
「よし、じゃあ買います」
「お買い上げありがとうございます。お嬢さん、美央良さんて言いましたよね。大切にして下さいね」
「はい、もちろんです。店主のおじさまの愛情もこもってるし、それに千条さんにプレゼントしていただくものだから、大切にします」
「プレゼントって。プレゼントじゃなくて、僕が壊してしまったから弁償ね」
「弁償じゃありません。だって、さっき百万円て言われても買おうとしてくれたじゃないですか。それを考えたらとても弁償で頂くレベルの話ではないです。本当に千条さん、ありがとうございます」
「いや、こちらこそ、ありがとう。出発前に楽しい思い出ができたよ」
そう言うと凱の携帯に着信があった。
「あ、もしもし、おお、そうか、もうそんな時間か。ごめん、分かった。すぐに向かうよ」
「どうされたんですか?千条さん」
「あ、ごめんね、今から僕、フランスに行かないといけなくて。そろそろ空港に向かわないと」
「ごめんなさい、そんなお忙しいときに私のために」
「いいんだよ。美央良さんと短い時間だったけど、僕の方が一緒に過ごせて楽しかったよ。フランスに旅立つ前に、こんな素敵な眼鏡の似合う女性に出会えて、一段と僕のやる気にも火がついたよ。あ、でも最後に一つだけお願い聞いてもらっていいかな?」
「なんですか?私ができることなら何でも言って下さい」
「君がその眼鏡を掛けた姿を写メさせてもらえないかな?」
「そんな、私の姿を写メしてどうするんですか?」
「お願い!君の眼鏡をかけた素敵な姿を写メさせてもらえたらフランスでもまた見られるだろ。仕事に行き詰まったら、また君の姿を見たら頑張れる気がするんだ」
「私の姿にそんな力は・・・・・」
「いや、美央良さんにはそんな力がある。少なくとも僕には必要なんだ。君は自分のことを卑下しすぎだよ。まだ数時間しか話してないけど、性格はとても可愛いし、見た目だって、素顔は見せてくれなかったけど、眼鏡を掛けた姿は僕が今まで見てきた中で一番だよ。だからお願いします。宝物にするから写メさせて下さい」
私はこんなに自分を褒められて、必死に写メを懇願する凱に完全に心を奪われていた。
「はい、そんなに言うなら。だから頭を上げて下さい、千条さん」
「よかった、撮らせてくれるんだね」
「はい」
「じゃあ時間もないから、この店の外でお願いできるかな?」
そして私は恥ずかしかったけど、眼鏡店の入口を出てすぐのところで、凱の写メのモデルになった。しかし、小学三年生から笑うことを忘れていた私の表情は強張っていた。
「美央良さん、表情が硬いよ。君はもっと笑った方が絶対に素敵だよ。ほら、笑って、お願い」
しかし、そう言われても、もう15年もの間、笑うことを忘れていた私にとって笑顔を作ることは、今の自分にはもの凄く難しいことだった。
「どうしたの?笑えないの?」
私は凱にそう言われて笑えない自分が悔しくて、反対に涙が零れてしまった。
「ごめんなさい千条さん、私、上手く笑えないの。あなたの要求に応えられなくてごめんなさい」
「ご、ごめん、美央良さん、君を苦しめるつもりなんてなかったのに。ごめん、分かった。もう無理な要求はしないよ。そこで何もしないでこちらを見ててくれればいいから」
そう言って凱は店で買った眼鏡を掛けた私の写メを数枚撮った。
「うん、素敵だ。いい写メが撮れたよ。今度日本に帰ってきたときは笑顔の美央良さんを撮らせてもらおう。あ、もう時間が、ヤバい」
凱はタクシーを止めて乗り込んだ。
「ごめんね、美央良さん、僕はここで失礼するよ。もう少し時間があれば君とお食事でもと思ってたんだけど」
「いえ、もう十分です。こんな素敵な眼鏡をありがとうございました」
「こちらこそ、本当に楽しかったよ。じゃあまたね。ドライバーさん、成田空港までお願いします」
私は遠ざかっていくタクシーが見えなくなるまで見送った。