55 魔の光
魔力で出来た巨獣――。
アンバード王都バーレイから飛び立った大蛇は加速し、飛翔する。
数多の暴力によって引き起こされた悲劇に終止符を打つため……ではない。
そのような正義の心を持ち合わせてはいない。
ただ、己に宿る憎悪と破壊衝動、復讐心に従ったまでである。
湧き上がる感情に同調した立花颯汰はその内から出る凶悪な力と共に歩み、共に戦うと決意をした。
だからこそ颯汰に宿った“獣”も肉体を奪って支配するのを止めたのだろう。
暴走は止まり、極めて不安定ながらも、その存在を保っていた。
両手足に黒の装甲が顕現し、身体能力を飛躍的に上昇させただけではなく、備わった覚悟と『生存』への欲望をさらに強固なものとする――。
世界を滅ぼす力『デザイア・フォース』を発動させ、文字通りの一心同体となり、大きく弱体化をしていたとはいえ、迅雷の魔王を圧倒し撃退するに至る。
ただのちっぽけな人間が、生態系の枠を外れた超越者と呼ばれた魔王を追い詰め、空を駆ける。
周囲の魔力を吸い上げ、放った極太のエネルギー……濃密な魔力の塊はそれ自体が物質を焼き焦がす破壊の光となり、“獣”の真の姿を模り出した。
触れるもの全てを呑み込む極光の核たる銃弾こそ――立花颯汰自身であった。
しかし今、その核に向かって反攻の一撃が逼る。
飛行しながら逃亡を図っていた迅雷の魔王――。
追い詰められた男が決死の反撃に移ったのだ。
生き残るには巨獣を斃さねばならない。
死が眼前で口開き、恐怖が心を震わせる。
決死の覚悟で、大きく開いた口の奥――その核に向かって手を翳した。
左腕が赤黒く光りを発し、その手のひらから展開された魔方陣から雷撃が撃ちだされた。火よりも紅く光る雷撃は噴出した血を思わせる色合いであり、まさに光の性質を以て光速で昏いトンネルを照らしながら奥へ突き進んでいく。
赤く輝く棘が弾丸を真正面から貫く…………――――はずであった。
弾丸に赫雷が触れる一メルカンも満たない極至近距離にて、その赫雷が消滅した。――いや、正確に言えば「分解」され呑まれたのだ。白銀に輝く弾丸に当たらず、雷の魔法は分解され、不可視の体外魔力となって周りに溶け込む。
『喰らった』のだ。
地上で相対し、戦った時と寸分違えずその強大な能力を“獣”は行使した。
逃亡者は気付かなかった……のではない。気付いていた。その可能性が充分にあると理解しつつも、「魂」は損傷しボロボロな身体、善戦する力はなく逃走は不可能。そうして放った可能性の一手は容赦なく潰えて、黒の巨獣の大口は獲物に向かって速度を緩めず喰らい付こうとした。
思考停止の末、魔王であったものは声に成らぬ悲鳴が漏れ出るも、憎悪を振り撒く“獣”の咆哮に、その叫びが最後まで響く事なく掻き消されていった。
大蛇のような獣は、一瞬にしてその場所から大きく離れていく。
だが――、
「――ァッ、グッ……!! ォォオオオオッ!?」
獲物はまだ、抵抗していた。
生きる事を諦めていない。
片腕を失いつつも、両足と腕の膂力だけで挟み来る顎を何とか受け止めていた。押し潰されそうな重みにギリギリ耐えている形である。
そして、そのまま両者は雲の中へ入り込む。太陽の光が遮られた暗雲の世界から、元の白く輝かしい雲の上へ飛び込んで抜けた直後に上昇を始めた。ジグザグと雲を縫うように昇っては降りるを繰り返しながら、“獣”は獲物を万力で噛み砕こうとした。
超獣の叫びが大いなる天空に響き渡る。激しく揺れ動き雲海を上下しつつ進んでいき、大きな螺旋を描きながら上昇を始めた。
昇る。
昇る。
雲より上の、その先へ。
青く澄み渡る空の向こう側を目指すように。
その雄大で美しい景色を、眺める余裕は彼らには微塵もない。
ただ互いに、全力で向き合っていたのだ。
その目の前、昏くて禍々しい魔力を生み出すまさに心臓となっている場所――弾丸に異変が起きた。
錯覚に視えたが、核となっている弾丸が蠕動し、徐々に昇り近づいてきている。加えて、獲物のモノがもう見えぬ目ではあったが、形状が大きく変化している気配を感じ取っていた。
彼は静かにその先を視ていた。ゆっくりと、ゆっくりと、重力を無視して魔力の長い筒状となったトンネルを歩く者――。
「――……!?」
それは剣を持っていた。
幻聴か、堅い石畳を鉄靴で歩く音がツカツカと響き渡って聴こえる。
深い闇の世界から現れた魔の騎士?
否、それは剣を持っているだけだ。
それは暴走状態に陥った立花颯汰の“獣”の姿――だが、全身に白銀の亀裂が奔り、血のように銀を零している。
全身が濃紺を被ったように染まり、目は蒼銀に煌めき燃えている。
満身創痍の戦士が持つのは剣であった。
左には背中と全身の傷と同じ色の白銀の剣。
右手はだらりと垂れ下がり、裂傷から光る銀の血が零れ落ちる。それだけは重力に従って後方へ滴り落ちては闇の中へ溶けて消えた。
同じ“獣”の姿であるはずなのに、静かに重苦しい歩みで近づいてくる。死刑執行人が檀上へ歩いてくるのを、台に押さえつけられながら待つのに似た感覚であった。
冷たく、無慈悲に、死を与える者が近づいてくる。
「ア、アァァ、ァッ……!! ウ、ァァァアアッ!!」
呻き声が漏れた後、声ならぬ叫びが轟いた。
雷の魔法――乱雑にただ眼前の敵を、恐怖を拭い去るために飛びだした。彼の目の前に電気で出来た球が三つ生まれ、そこから攻撃魔法を発射する。どれも造形など拘らぬ、ただ電気を光線のように飛ばすだけだ。
光速で飛来する雷を、執行人は剣で払う。
受けた雷は刀身に一瞬だけ宿り、振るった切っ先から逃げて霧散する。
「――ァァア、アアッ!!」
二刀、三刀と襲い来る雷撃を躱す事をせず、全て切り払っては落とす。
真っ直ぐ歩みは止めず、どこか不気味な幽鬼のように押し黙って敵を見やる。
涸れた叫びを上げながら雷の激しさは増すが、斬撃は全てを受け止め、流していく。
阿鼻叫喚が木霊する“獣”の内部、弾丸から姿を変えた処刑人が口を開いた。
『終わりだ』
その短い一言と、輝く蒼い瞳が魂までこの場に縛り付けた。
喉から声も魔法すらも放てない。
この獣の体内という領域において彼の宣言は絶対なのだろうかと頭に過る前に、
「ッ!!??」
突如、押さえつけていた顎が思いきり開き、死を待つだけの男は、口腔から宙へ投げ出される。
冷たく青く、雲の遥か上の澄み渡る空間――。
“獣”は動きを止めたのか自身が遠く離れていくというより、真下へ下がっていくような錯覚をする。物体が運動を続けようと身体が重力に逆らって上へと飛んでいく。
そして超獣の口から、弾丸の勢いで死刑執行者が飛びだした。
片や回避不能の速度であっという間に距離を詰め、片や重力で降下し始めていた。浮遊感が襲う。
その瞬間、世界が凍り付いたように時間の流れが止まって見えた。否、厳密に言えば蛇に睨まれた蛙の如く、敵に睨めつけられて彼の身体が動かなくなってしまっただけである。ただ時間だけは着実に進んでいき、現実は何も変わらず、待ち受けている結末も同じであった。
もっと、もっと、生きたい。
まだ足りぬ。
まだ足りぬ。
全てを貪って、欠けた断片を埋め合わせたい。
道徳も倫理観も理性も捨て去り、何もかもが欠けた存在がただ生きたいと願って、祈った。
何であれ生まれた命だ。
害悪であれ、厭悪であれ、それを踏みにじる権利はないはずだという思いを叫びに乗せた。
「ァァァァァアアアッ――!!」
剣の間合いにしては少し遠いが、首筋に死神が鎌を突き付けている感覚がして血の気を引かせていく。
刹那の間が――永遠のように永く、だがそのくせ終焉は一瞬で訪れた。
執行人が放つ斬撃は、まさに彼に五年、剣術を叩き込んだ師匠――名を伏せて『湖の貴婦人』。彼女が放つ神速の剣術に似ていた。
『天鏡流――始剣・蛟牙!』
始剣・蛟牙――。
上段と下段から同時に挟み込むような斬撃を繰り出す天鏡流剣術の奥義である。
喰らい付く蛟の如き剣閃を颯汰は何度も見ていたが、五年程度ではその型を覚えても、実際に放てたのは今が初めてであり、また師も想定していない空中――それもあり得ないほど高い位置である。
師の剣は一太刀の速度でほぼ同時に多方向から複数で斬りつけるものであるため、これはまだ遅く太刀筋も甘いものであったが、この敵に対しては問題はなかった。二度の斬撃が残った腕を斬り飛ばし、左足も斬りつけていた。
噴出する赤と黒。
真下から迫りくる大蛇の双眸、開いて並ぶ牙を見て魔王はふと覚めたような面持ちと声で呟いた。
「はっ――、何だよ。蛇じゃねぇじゃん、それ。立派な……、立派な、“龍”じゃねえかよ」
小さな呟きを聞き取れた者はいない。
憑き物が落ち、死を前にしているというのにどこか爽やかで、不敵にニヤリと嗤うと、その顎の中へ遂に呑まれていった。
剣を振るった執行者は光の粒子に溶け、龍の中へ吸い込まれていた。
超獣の叫びが響き渡ると、流星となって落下をし始めた。雲を切り裂き、空を侵し、大気に僅かに残っているマナを吸い込み、尾を引きながら落ちていく。
ヴァーミリアル大陸、アンバード領内南東。
鬼人族たちが住まう村があった。
そこは村というには、男たちの巨体にあまり似つかわない――岩山を掘った小規模な穴倉であった。
かつて住んでいた村は、迅雷の魔王に滅ぼされたため岩場だらけの荒涼とした山を開拓するしかなくなったのだ。
ヴェルミとの国境たるエリュトロン山脈から南西に位置するこの岩場に燦々と陽光が差し込む。砂地が焼けつくような熱と光を反射する。砂漠ではないため、熱が籠ったじっとりとした空気であり、また人が生きるには自然が少々心許ない。
戦士たちがこぞって迅雷の魔王に対し反抗的な態度を取ったばかりに、村が丸ごと悲惨な状態へ陥ってしまった。
一部の若い男は城へ兵として連れていかれ、女の殆ども死んだことにしてなんとか隠し通せたが、元より少ない人口が著しく減ってしまっていた。
河も遠く、食糧となる植物は乏しい。
苛酷な環境下であっても、ヒトは生き続ける道を選ぶしかない。
そんな場所であっても、懸命に咲く小さな花が揺れているのを鬼人の少女が見つけた。
砂と日差しを避ける為にレザーの外套を羽織りながら屈んでそれを見つめる。
名も無き白い花――。
指で花弁に触れようとした時、辺りが雨の日の如く昏さに沈み始めた。少女は驚いては立ち上がり、周囲を見渡した後、気配を感じて空を見た。
眩い星の明滅の如き、幻想的と言うにはあまりに風情もなく、凶悪な光景が一気に通り過ぎたのだ。少女は思わずその場でへたり込み、穴倉にいた巨躯の大人たちまで外へ飛びだして空を見つめる。
雲のなく、太陽は依然としてそこにあるのに世界は暗転した。
太古からヒトは世界は違えど、その時代の人智を超えた現象――自然そのものに“神”を見る。
災害に大いなる神の怒りを――。
荒れ狂う大河に多頭の蛇を――。
照りつける太陽に王者を――。
ヒトだけが、神を想うことが出来る。
ある者は恐怖や強迫観念で、ある者は憧憬でそれを見つめていた。
心を捧げてしまいそうなほど強い闇が光を集めていくのだろう。その逆も然り。
理解が出来ないから怖い。
理解の外にあるからこそ、心が奪われていく。
気が付けば大のオトナが何人か膝を突いて手を合わせて祈りを捧げていた。
後に彼ら鬼人たちはそれを『龍神』として崇め奉る事となる。
そう思わなざるを得ない現象が、“龍”が過ぎ去って晴れた空の向こう――エリュトロン山脈の南部にて起こるからだ。
奥の山塊――エリュトロン山脈の南部へ、流星の如き速度で巨龍が落ちていく。
地面に到達する直前、その内部――開けた口から二人の姿が見えた。
執行者の姿をした颯汰の伸ばした左手の先、迅雷の魔王の首を掴んでいた。このまま勢いに任せて降りる算段であると誰の目からでも明白だろう。
もはや、抵抗する腕も力も残ってはいないが、まだ迅雷の魔王の肉体は滅び切っていない。それもそのはず、この世界の摂理では魔王を討てるのは同じ魔王か、勇者のみである。
『勇者の星剣と魔王の大魔法が心臓を止める』。
民がどう足掻いても殺せない真の理由である。
心臓を焼き尽くすだけの魔力がヒトの手ではあまりにも遠く足りないのだ。
――だったら有りっ丈、全部喰らわしてやるよッ!
ヒトを超えた“獣”――内側に宿りし力……枷を更にもう一段階、外す。
核――颯汰自身が魔力の塊に変換され、輝く魔人へと姿を変えたが……それは一瞬だけであった。
“獣”から颯汰の雄叫びが響く。
アンバードに目に視えぬ魔法の残滓、龍脈を流れる不可視の力、泥に溶け込んだ魔力――ここまで来る途中、大気から僅かに含まれた全ての魔力を掻き集め、それを使い魔王を追走していた。
身体が崩壊するほど無茶を続けてでも颯汰は止まらなかった。
颯汰は、先のことを考えていない。それと言うのも、ここで倒さねば未来がないと知っているからだ。
手を抜かず、全力で立ち向かわねば勝てない。或いは、この先もし死んでしまっても――憎き敵を討てるならばと考えていたのかもしれない。
誰かのための自己犠牲ではなく、己の感情に従って選んで決めた事であった。
直後、全てが光に包まれ、世界は啼いた――。
皓々たる日輪よりも眩しい白銀の煌めきが、辺りを否応なしに昼を超えた――明るすぎて目が焼けて見えない空間へ変えた後、すぐにそれすらを覆い尽くす闇――魔力の柱が屹立した。
落下地点――半径十二クルスの地面が割れ、そこから巨大な柱が天まで伸びたのだ。それはエネルギーの束――“獣”の全魔力が天を焦がす。紫と赤と黒が混ざり合った闇色の極光がどこまでも空へと進んで雲を割き、衝撃が周囲へ迸る。その存在を世界に知らしめるように。
半径約三十クルスの範囲がその余波に当てられ木々は薙ぎ倒され、地は抉られ、遠い建物も倒壊する。神龍の息吹をも超えた禍々しい破壊の光が、大地を砕き、雲を引き裂いては天を焦がしていく。
それはあまりに鮮烈な光景で、忘れたくても容易に離れない記憶として深く刻まれる事であろう。
醒刻歴四四三年“王の月”。
新たな時代の幕が開けた――。
古来の魔王の時代を、勇者の活躍で終えた事を告げる――そういった意味合いを持つ来月の“人の月”を前にして、世界中が震撼する。
紅蓮の魔王の火柱ですら、バーレイ中の人々の恐怖を大いに煽る、火力と規模を持ち合わせていたというのに、こちらはもはやその数倍以上であり、ヴァーミリアル大陸だけではなく、クルシュトガルを形成する他大陸――そこに住まう者たちも遠いながら凄まじく、この世とは思えない魔の波動をその目に収める事となる。
浮遊する大陸――水の都の宮殿に座する女帝。
熱砂に楽園を築いた砂漠の聖王。
遠い暗黒大陸で蠢く邪悪はその気配だけを察知する。
様々な者が――後に立花颯汰と共に歩む者も、相反する者たちも等しくその光を見て確信する。
『果実を巡って魔王同士の殺し合いが始まった』と。
知らぬ者は闇の柱こそ魔王の力だと畏れ、知る者は歓喜に打ち震えていた。
多くの思惑が行き交う中、闘争は始まる――。
あれこそが真の始まりの合図となったとは、魔王でも勇者でもない異例の存在――立花颯汰が知る由もなかった。
「――…………」
一方、遠く険しい霊峰の彼方に佇む龍の王はただじっとそこを睨み、目を細めていた。自身が見張るべき“悪意”とは異なる気配であり、新しくもどこか懐かしい空気を感じ取っていた。その暖かい眼差しに気づく者は誰もいやしない。
2019/01/29
ルビの追加。




