54 天空
輝く太陽が煌めく青空の下。
王都バーレイから遠く離れた空――。
長い長い厚い雲の廊下を過ぎ去った地点にて、それは飛行していた。
一見するとヒトの姿をしていたが、その身は奇妙なモノに包まれている。いや、発している……或いは垂れ流しているというのが正しいだろうか。
左半身から生じる黒い泥が風に流されていく。
既に体積以上の量を血のように滴らせて逃亡を試みていた。
右腕は失っており傷口すら焼け焦げている。口や額から黒い血を流し、衣服も元の綺麗さの欠片も残していない。
眩い陽光が煩わしい。
“それ”は忌々し気に空に浮かぶ円盤をチラリと横目で見た。蒼天を滑空しながら、怒りの雄叫びを上げたくなる衝動に駆られたが、それを押さえこむ。
今は、命からがら敵から逃走している最中である。
「ッ! グ……ッァア……!!」
苦悶の声。肉が裂け始め、赤黒い液体も撒き散らす。
顔の四分の一以上、右眉から右のほうが黒い泥に侵され、結膜の色は本来流れるべき血の紅さを持ち、角膜は漆黒であった。ほんの僅か前までは、国を力づくで治めた凶悪な支配者――『迅雷の魔王』であった者だ。
汚穢に侵され、身体が傷んでいるわけではない。肉体的にも深刻な傷を負っているが、何よりも『魂』の損傷が尋常ではないのだ。
それは精神的苦痛によるダメージではなく、誰もが何処かに持つ個々の“輝き”――不滅である筈の意志そのものが傷ついたのだ。
魂は身体と結びついているが、肉体に負った傷が直接魂まで及ぶことは普通はない、稀である。よほど埒外な存在であれば剣を振るっただけで傷つける事が可能であるらしいが、此度は激しい猛攻や掛け過ぎた負荷の影響により抉り削られていった結果、今に至る。
蓄積したダメージで堅牢な鎧を砕かれ、業火の刃にて肉と骨ごとを切り裂かれたのだ。今動けるだけ奇跡的だ。勇者の血が混ざった黒い泥と同化し、喰らった民草の血肉と魂を魔力へ変換、最低限の生命維持活動を行える程度に魔力にて治癒を試みたので、肉体的な“死”は回避できたおかげだ。
しかし『魂』は依然として亀裂が奔ってる。
魂の傷はそう簡単に治るものではないのだ。
内側からの(ストレスなどの)傷は、当人の気の持ちようで和らぎ、いつか治るものであるが、魂の外傷は違う。言わば呪いに近しい。
魂に直接傷が付けば肉体に何らかの変調をきたし続け、傷と痛みは徐々に広がって強くなり、緩慢的であるがいずれ魂は消滅に至る――即ち『死』が待っている。
現在どこへ向かって飛翔しているかすら理解していない。ただ闇雲に空を飛んでどこか遠くへ逃れようとしていた。
考える余裕がその身体から一切ない事は誰の目を見てもわかる事だろう。息は荒く、失った腕から泥を流し、赤い眼からは血の涙が風によって掬われて、後方へ散っていくのが見える。
ただどこかへ、安全な場所を求めているだけだ。
距離をとって身を隠し、傷が癒えるまで逃げおおせようと必死に飛ぶ。
肉体の傷は魔王のものであるから、現在はペナルティで使用が不能となっている王権――《神滅の雷帝》が再起動すればすぐにでも治るだろう。魂の修繕も王権の力を頼れば不可能ではないと知っていた。ただし、それがどれくらい時間が掛かるものかはわからない。
とにかく安地で身を隠す以外に助かる術はない。
空から落ちる雷の如き速度で飛行し、大きく距離を稼いだ。その際、もし固有能力「時間停止」と併用が出来たらば、もっと遠くまで飛んでいただろうが、残念なことにそれはできない。
残った魔力の量に問題はない。
十二分に命を吸い上げたがその殆どを泥として切り離したため、潤沢とは言い難いが、問題はない。
別の問題――固有能力のデメリットの部分が足を引っ張っているのだ。
転生した者たちはそれぞれに王権と固有能力が付与されるが、固有能力は強力ゆえに発動に『条件』や『制限』といった制約がある。
『時間停止』の場合、停止中にヒトに攻撃を仕掛ければ自身の『魂』に傷が付くのだ。一部の魔法の使用も相手への攻撃と判断されるため、迅雷は魔法を放つ際、自動で時間が動き出すように設定していた。つまりはこれ以上魂についた傷を広げないために、これが精一杯の逃走方法であった。
ゆえに、追い付いた。
「――……!?」
強烈すぎる殺気を感じ取り、振り向く。
大気を揺らし押し潰すような圧力。
透き通る青の空――、未だ天高く昇る日の光がある中、そこだけ夜のように暗い色――異質な光に染まっていた。それはまるで、全てを己の色に染め上げようとしているようにも見える。
肌から伝わり全神経が恐怖を欠けた脳へ伝えいく。
まさに死を運ぶ風が迫っているのだ。
それは王都バーレイの古城から飛び立った“獣”であった。長い身体を揺らしながら空を滑空する。
迅雷の魔王は即座にその存在と、同時に正体に気が付いた。
凶悪なエネルギーは間違いなく、先ほど対峙した“敵”のものであり、黒い身体に蒼い目はあの“獣”のものであると。
すぐさま彼は再び身体を棒のように真っ直ぐとして、加速し始めた。雷を身に纏い――否、彼自身が雷霆となって空を翔けていく。
距離にしておよそ六十クルス(約六十キロメートル)、今はほんの小さいが、確かな存在感を与えている。
夜の帳を横から掴んで引いてくるように、夜闇を背負って“それ”は現れたのだ。
向こう側も、ターゲットを見つけて叫んでは燃え上がった。蒼い瞋恚の炎を瞳から輝かせ、長い身体を揺らしながら向かってくる。
“獣”は弾丸の如く尋常じゃない速度で追走した。
雲の切れ端があるからこそ分かりやすいが、目まぐるしく、のっぺりとした蒼の景色が引き延ばされるが如く変わっていく。一瞬で景色を夜にして、過ぎ去っては昼に戻る。遥か過去――神代の情景の再現のように昼夜が圧縮されていく。ジリジリと距離が詰められていったのだ。
そして、黒の獣が獲物を捉えた――。
再び、雲の絨毯が広がる景色、
『ぐがぁあああああああッ!!』
超獣の叫びが大いなる天空に響き渡る。
“獣”が大口を開けた。雲ごと呑み込まんと上から襲い掛かったのだ。ヒトなぞ容易に、魔獣ですら一口で呑み込めるだろう。並んだ歯は鋭く、闇色の身体も全てエネルギーで出来ている。
まさにその両顎に喰われる寸前のところ――、世界が冷たく、色褪せては静止した。満ちる全ての色と音が失われた不可侵の絶対領域をギリギリのところで展開したのだ。
「固有能力『時間停止!!』」
止まった時間の中、先ほどよりは遥かに遅い速度であるが、常人では追い付けまい速さで逃げ去ろうと試みた。雷瞬で移動できれば、さらに容易に撒く事は可能だろうが、そうすれば死ぬ危険性が増すばかりであるから、彼はすぐさま大地へ降り立とうと――厚い雲の下へ隠れ、息を潜め気配を殺し続けて再起を計るしかないと考えた。
その場で下がれば抜けた雲の跡がはっきりと残るから、揺れる巨体――大蛇の真下の死角へ潜り、一気に下降する。
高度六クルスを超えた遥か彼方から、雲を掻き分けて地上を見つめる。
森閑としたモノクロの世界の荒涼とした大地――その何処かへ身を隠そうと動きを止めずに思考を続ける。
ここが今どこかなぞ、すぐに浮かばないが、禿げた岩山が見え、その隙間にでも隠れようと方向転換した。無意識に生存本能がニヤリと笑い、安堵感が身体に張り巡らされた緊張の糸が弛緩する……、その直後だ。
血管中の全ての血が凍り付くような凛烈な怖気を、逃亡者は感じ取った。
馬鹿な、と口は動くが再び訪れた戦慄と緊張に喉の水分が一気に飛んでは貼り付いたみたいな渇きを訴え、声すら出なくなってしまっていた。
見上げる暗雲の先――蒼銀の光が二つ燃え上がる。引き延ばされ続ける静止した世界にて、それがいることはイレギュラーな事態である。
――馬鹿ナ!! 止マッタ時間ニ魔法ヲ行使シ続ケルノカ!? ソンナコトスレバ術者ノ魂ハ、崩壊……!
敵である相手は迅雷の血肉を喰らい、その能力すら咀嚼し身へと収め、時間を止めて見せた。なればこそ、奥底から生じる耐え難い痛みを知っているはずなのだ。現に立花颯汰は時間を止めている最中に、迅雷の攻撃を腕ぐために触れていた。間違いなく魂は損傷しているはずであり、生物であれば、二度と行使を躊躇うに違いない。
『時間停止』中に攻撃や体外に魔法を発する事は厳禁である。それなのに、巨大な獣の顎が迫る。
斜め上から、ばっくりと大口を開けて、暗雲をその両顎で押し退けて現れた。
時間は動き出す――。
逃亡者は宙を蹴り、真横に飛んで回避に成功するが、“獣”はまさに大蛇のように長い体躯をうねらせ、目標を再び捉えては喰らい付こうとした。
必死の逃走と猛追で、数百ムートの距離を一瞬で駆け抜けていくと、凄まじい衝撃波が雲を散らし、轟音が地上にまで降り注いでいく。
遮る物が雲以外に存在しない自由な空であるのも要因の一つであるが、本来なら十スヴァン……この世界の馬を駆って十日ほどの距離すらもあっという間に過ぎ去っていく。その僅かな間、生死を賭けた攻防――否、一方的な蹂躙が繰り広げられていたのだ。
アンバード領内のあらゆる生命が上空を眺めていた。
真昼の流星が闇と共に翔ける。遠い上空の明滅、矢よりも速く通り過ぎるそれを白昼夢か幻覚かと目を疑う者もいただろう。
戦争に参加した者たちも状況を知る者たちも、そうでない者たちも、ただ茫然と彼方を見やる。瞬きする内に消え去り、目で追えない速度で遠ざかっていくそれに人々は畏怖を抱いていた。
再度、上空。
三度目の時間停止――。
未だ、“獣”の勢いは衰えない。それどころか、時間を止める度に逆に加速するという最悪な状況下で、逃亡者は確信する。
『この“獣”は不死身でも無敵でもない』。
生物的な動きで逃亡者を追い詰め、外面も中身も凄まじい魔力の塊が模った“獣”の身体に亀裂が奔り、そこから白銀の光が溢れて風に流されていく。
魂の傷が身体――外殻とも呼べるエネルギー体にも及んでいるのだ。
それでも、時間が止まった中で自身を傷つけてまで全力で襲い掛かる理由は「憎悪」、或いは「正義感」から生まれたのだろう。
『特攻』……己の全てを犠牲にしてでも相手を討ち滅ぼそうとする狂気にも似た苛烈な意志――。何が彼をそこまでさせるのか、その強すぎる殺意に対し迅雷が選んだ選択は――反攻であった。
――核ヲ、破壊スレバ……!!
どうすれば生き延びられるだろうかと考え、逃走は不可能であると断じた末に、行動を移す。
時間停止の連打はある意味で有効であるが、同時にリスクが大きすぎるし、間違いなく相手は滅びるまで止まった時の中で殺そうと動き続けるだろう。
彼の視覚は既に正常に働かず、エネルギーの密度を“視”て判別していたため、相手の状態をある種、目が見えている時よりもはっきりと知覚する事が出来ていた。“獣”の内部の核である弾丸に薄っすらと亀裂が生じている事も、何百ムートもある巨体の中に臓器などなく、代わりに一つだけある核である弾丸は渦を巻きながら進み、その速度に合わせてこのエネルギーの塊の身体を動かしている事も把握済みだ。
だから術者を殺せばいい。
外のエネルギー自体にも損傷が及んでいるならば、その発生源の中心核――即ち術者を討てば崩壊すると逃亡者は睨み、行動に移した。
今もなお外敵を喰らわんとする大顎に、窮鼠は蛇に牙を剥く。
引き攣った顔で昏い闇の奥――鈍く煌めく魔弾を捉え、残った左手に集めた雷を放つ。気圧の低い空の上、凍えるほどの寒さは緊張の熱による発汗で異様に冷たく感じていた。
「ッゥウウゥウ……!! ――シャッ!!」
手のひらの魔方陣から飛び出した電撃は空気中に一部拡散し、多少細かく枝分かれをしながらも、成人男性の腕並みの大きさの雷は概ね真っ直ぐ突き進んでいった。か細く見える赤黒い雷であるが、人の手のひらに収まる程度の小さな弾丸であれば容易に焼き焦がし、塵に出来るだろう。起死回生の一手はこれしかない今、全てを賭けた一撃だ。
これが外れれば、終わる。
肉体の生命維持は困難な状況へ陥り、それこそ塵に帰するだろう。それは嫌だ、と本能が叫んだ。
触れればその箇所が怒りと憎しみによって焼き尽くされる闇のトンネルを、電撃が赤く照らしながら奥へと突き進む。手のひらから伸びた紅い雷撃は、まるで勢いよく噴出する鮮血が槍を思わせる鋭さを持って、白銀に輝く銃弾に突き刺さるように見えた。
――殺ッた!
生存への「最善」にして「唯一」の一手が届いた。
いくら強大なエネルギーを外側に展開しているとはいえその核が小さな小さな銃弾であれば斃せる、外面にリソースを割いただけで中心は脆弱な存在であると、その顔の口角がスッと上がっていた。
赤く輝く棘が弾丸を真正面から貫く――。
(久々でいつもより長く書いてしまって、前後編に分けようと思い投稿する直前に致命的な矛盾を見つけて修正しましたが……うん)
2018/01/28
一部修正




