23 幻想
……――
……――
……――
プロクス村が未だ炎に包まれていた頃まで時間を遡る。
立花颯汰は家族の一人をその手で殺めてしまった罪悪感に苛まれていた。
赤と黒の血で汚れ切った身体と手。
意識が途絶える前、最後に見たのは姉の亡骸であった。
――『き、て……』
最期に残してくれた言葉だけが心に響く。
黒泥が全身を浸食し切った悪意ある“魔獣”となったシャーロット――戻す術のない彼女を殺める事こそが、彼女を救う手段であったと紅蓮の魔王は言うが、颯汰自身はその罪の重さに押し潰れ折れたのであった。
たった五年間――されど何も知らない異なる世界で温かく過ごす事が出来たのは、彼女たちを始めとする家族や村の住民たちの優しさのお蔭であった。
それが今、猛火によって全てが呑み込まれ、少年は失意に沈む。
大火に雨がシトシトと降り始める。空は彼の心模様と同じく暗く染まっていた。
魔王が付近の森の木の下まで気を失った颯汰を運び、ラウムとシロすけに対しその場で待機を命じると、彼は村へやって来る二千の兵を狩ると言ってその場から離れ始めた。
それからほんの少し経つと気を失っていた立花颯汰はゆっくりと瞼を開け、目を覚ました。
ラウムもシロすけも声を掛けるが、颯汰は泣き声を枯らしたように黙りこけて、その場で消沈し続けた。目の焦点は合わず、口から洩れるのは、
「……………さい…、ごめんな、さい……」
耳を傾けてやっと聞こえる大きさの後悔と謝罪の言葉のみである。
心が、完全に折れていた。
ラウムは、同情の言葉も掛けない。
どう声を掛ければ正解か幼い彼女にはわからなかったのもあるが。
――この人は、……きっと、もう……。
露が葉からこぼれ落ちる。木陰で葉が傘となって雨を凌ぐが、僅かに葉から枝、枝から葉、葉から葉へと伝った滴が颯汰の頭に一滴落ちたのだ。
それに対し、彼は一切の反応を外界から切り離したかのように意識がどこか遠く――過去へ飛んでいたに違いない。
枯れ果てた双眸から光は失われていた。
彼はきっと、ここで脱落するとラウムは確信した。
それまで主の悲嘆に、静まっていた白き龍が唸るような声を上げ敵意を露にしていた。
ラウムはシロすけを見た後、彼(?)が向いた方向を見やる。
「――!!」
蠢く漆黒――魔獣の吐いた泥と同質であるが、先ほど見た村人と異なりただ純粋にその“黒”の集合体が人の形となった者――ドロイド兵と名付けられたそれが、辺りを取り囲み始めていた。
木陰の濃い闇と同化していたそれらは、空から落ちた滴が逆再生されるようにニュッと頭を出してから人の形を成し始めている。ルベル平原に現れたものとは異なり、武装はされていない代わりに、泥自体が武具を模り始めていた。
意識無き泥の塊であるこれらは、野生動物と違って龍の威嚇は通じない。
少女は息を呑んだ。
突如現れた多数の“敵”。
抜け殻となった少年を置いていくわけにもいかない今、切り抜けるのは不可能であった。
視界に映るだけで七体もの敵兵がいる。
ドロイド兵が進むたび、零れる泥が草を焦がすのが目に映る。
ラウムは一歩下がり、意識が喪失している颯汰を起こして――肩を貸してでも、身体を引きずってでもその場から動こうと考え彼の方へ視線を向けると、颯汰は木を背に立ち上がっていて――というよりも逃げようとして後退したところ、逃げ場がなくなったような様子であった。
颯汰は震える瞳で黒泥兵を見つめていた。
ガチガチと歯がぶつかる音は雨の寒さから来るものではなかった。
恐れ。
純粋な畏怖から彼は震えあがっていた。
その出で立ちのせいではない。
彼には、ドロイド兵の声が“聴こえた”のだ。
意思なき泥人形――純粋に黒の汚泥だけで造れた兵器から、濾された凄まじい殺意を彼だけが感じ取っていた。
『死ネ』
「…………!?」
最初、顔を伏せていた颯汰がそれらを見つめる。
『死ネ。死ネ。死ネ』
言葉が、強い殺意を込められた言葉が心を軋ませる。
『絞メラレテ死ネ』――首に痕が生じる。
『射貫カレテ死ネ』――矢が肩に刺さる。
『撃タレテ死ネ』――銃創が頬に生まれる。
『刺サレテ死ネ』背後から腹部にかけて刃物が貫通する痛み。
『首ヲ斬ラレ死ネ』――首が飛ぶ、幻。
無貌の闇であったそれらに次々と顔が出来て見えた。
――「……あ、あぁ――あぁぁあああああ!!」
『飢エテ死ネ』――それは、夢幻。
『衰弱シテ死ネ』――ありとあらゆる死を見せる悪夢。
『病デ死ネ』――心に巣食う醜悪な呪い。
『毒ニ侵サレ死ネ』――内側から強烈な吐き気を催す敵意。
『孤独ニ死ネ』――身も心も蝕む憎悪の形。
魔像は嗤う。人を呪いながら嗤い続ける。
――「やめろ……! やめてくれ……!!」
『転落シテ死ネ』――脂汗が浮く。
『潰サレテ死ネ』――許してくれ。
『轢カレ死ネ』――どうか、どうか許してくれ。
彼らの身体と同じくねっとりとした声音が耳ではなく心に反響する。
耳を塞ぎ身体を振るっても、彼らの言葉が心の中で入り込んでくる。
『溺レ死ネ』――息が苦しくなる。
『凍ッテ死ネ』――冷たさで身体が動かなくなる。
『爆ゼテ死ネ』――……死ねば、楽になるのでは。
『痺レ死ネ』――いっそ、いっそもう……!
ありとあらゆる無念が、呪いが、彼の前に現れた。黒に染まった双眸、口、傷からも泥を滴り流す遺体の数々――颯汰にしか見えていない幻覚である。その中には、かつて襲ってきた者から、亡くなった者まで――日本からクルシュトガルの今まで出会った何百もの人々が亡者となり死を望み、唱える。代わりに死ねと詛呪を唱える。
『ドウシテ、助ケテクレナカッタンデスカ?』
――甘い声。きっと、手を伸ばしても届かなかった。
『置イテ、イカナイデ』
――愛しい声。胸に赤い血を零す幼き姉の姿。
『娘ヲ、何故、守ラナカッタ!』
――怒り猛る声。父が呪いを吐く。
『オ前トサエ、遭ワナケレバ』
――後悔の声。恩人の姿を模る幻影。
『ドウシテ、アナタガ生キテ、オ父サンハ死ンダノ?』
――冷たい声。現実の少女と幻が、重なり合う。
『死ネ。死ネ。貴様ハ生キテイル事ガ罪ダ』
――覚えのない声。そう、罪なのだと理解している。
夢現、何もかもが曖昧となり虚像と現実の区別がつかない。
心臓を始めとして焼けるように熱く、他の臓腑も異常を訴えだす。
「だ、大丈夫です……!?」「きゅう!! きゅうきゅう!!」
現実のラウムとシロすけが、必死に声を掛け揺さぶるも、突如発狂し始めた立花颯汰は正気に戻らない。ただ見開いた目は血走り、真っ青になった顔は震えっぱなしだ。
幻聴が聞こえ始め、さらには幻覚を見ているとわかっても少女には止めようがなかった。彼は身体のありとあらゆる箇所が幻肢痛にも似た存在しないはずの痛みに襲われ正常な意識を取り戻す事はかなり難しくなっていた。
今の彼には森や村、空も大地も何もかも目に映っても“見えていない”。
黒の世界に、佇む幾百を超える呪言の化身たちは颯汰へ生きる事自体を罪であると説く。自己の否定に、颯汰はますます叫びを上げた。
そんな時、無明の闇の中、一人だけ異なる者が目に留まった。
「……そ、そんな……それだけは、それだけは……!!」
――止めてくれと叫ぶ前に、形作られてしまった。
それは紛れもなく、今もなお病室で眠り続けているはずの朱堂美雪に相違ない。
美しい顔立ちであるのに、目は真っ黒に塗りつぶされ、泥が涙というより流血のように溢れ出す。白の病衣は黒泥に、美しい思い出までも穢されていく。衣も肉も、溶かし燃え上がる。伸ばそうとした血に濡れた手は届かない。
焼け残った白骨がカタカタと笑い口を開く。
『炎ニ焦ガレ、焼ケテ死ネ』
――何重にも声は重なり、彼の心を本気で折りに掛かる。
そう言い終わると、骨はまるで何か大きな物体に轢かれるように粉々になって消える。
「やけ、て……?」
その言葉を聞き項垂れた姿を見て、亡者たちは止めどなく呪いの大合唱を浴びせ続けた。
チリっと、心の奥に棘が刺さったような小さな刺激が生まれた。
それは次第に大きな熱を持ち始めた。
――そう、止めどなく溢れる怒りに火が付き爆発的に燃焼をし始める。
深夜に燃え上がる建造物――。
業火により焼け落ちる屋敷――。
この身を包んだ青の炎――。
脳裏に浮かぶ三つの情景がその感情を大きく昂らせる。
この世界に訪れてから、颯汰は火を見つめるたびに何か不安な気持ちが生まれていた。その理由はわからない。だが、何か“忘れている”気がする。それを思い出す欠片が足りない。
そんな今はどうでもいい不安や焦燥よりも、遥かに大きい比重で生じた感情が炎を上げていた。
「焼けて? ……炎で、死ね、……だと……?」
フラフラといつ倒れてもおかしくない挙動で前方へ進みだす颯汰。
震えていた声は、次第にはっきりと明確な意思を宿し始めた。
驚いたラウムが制止しようとした。前へと回り込もうとした。
だが――、
「っ!?」
その死んでいた瞳に何か宿っていた。
それは安寧を得た生ではない。
されど悲観に暮れる死でもない。
ラウムは心の底から恐怖を感じた。
その目は、生きる為の燈火が着いたわけではない。
その目は、殺すために生きると物語っていたのだ。
瞬間、“蒼銀の瞳”が敵を真正面に捉え、身体が加速する。
影をも残すような瞬足――縮地の走法で魔を討たんとした。
腰の鞘に収まった剣ごと、鯉口のやや下辺りを逆手で握り、振り抜く。その際に左手にやって来た剣の柄を握りしめた。
殴打してよろける黒泥に、剣から抜き放つように振り上げた鞘での一撃、そこへ抜かれた剣による斬撃を加えた。雨天の森の下の暗い中、確かな銀の閃きが腕から奔り――直後に濃い紫と赤が混じった闇を思わせる色が輝き、剣ごと包む。その異常と変容に当人だけが気づいていない。
切り裂かれた黒泥は、静かに崩れては闇に溶け込む。
その姿を見て、颯汰は『殺せる』と確認出来て頷いた。
動き出した敵に呼応したのか黒泥は颯汰に向かう。
矢を受けても、切り裂かれても斃れもしない泥の塊が――何も変哲もない剣によって熨されていく。剣技が特別なのか? 否――剣術を教えた存在は確かに異界に住む者であるが、それが答えではない。
「俺は、生きる……っ!!」
銀閃が次々と敵を切り捨てていく。
この世界でできた父と、姉が残した遺志は『平穏に過ごして生きてもらいたい』という優しいものであった。だが、彼は自身に相応しい形で捉えた。
『死ネ! 死ネ! 罪深キ者!!』
ドロイド兵の発する罵倒が感情的なものとなっていく。
それに対して少年は応えた。
「――だから……、お前たちが、お前たちが死ね」
異質な憎悪に塗れ、必ず生きて復讐を――この世界に呼んだ者さえ恨み、生き残る決意を刃に乗せて斬りつけたのであった。
全ての敵を葬り去った後、紅蓮の魔王が文字通り飛んでやって来た。外套と髪が雨に濡れているだけで、まるで草原を駆けまわって二千を超え、三千近い敵を滅ぼした後の姿には全くもって見えやしない。
対して颯汰たちは、本物の泥や何やらで汚れていたが、誰一人怪我はしていなかった。
そうして、戦える――生きるために立ち上がった颯汰を見て、紅蓮は迅雷を討つために考えた作戦を話した。当初はクラィディム王子と魔女グレモリーが荷馬車でやって来た頃に作戦を練ろうと考えていたが、今すぐにでも決行した方がいいと急いだため、現行で穴だらけの無茶な潜入作戦をやる羽目となっている。実際、紅蓮の魔王の予想通り、各地域で襲撃が起きていた。
雨はすっかり火を鎮めていた。颯汰たちが村から発つ前、村人の遺体を埋葬し、名前が分かるものだけは十字架に名を彫った。おびただしい数となったが、大半は魔獣の炎に焼け、建物の下敷きとなって身元が分からない者となっていた。
全ての遺体を埋葬し終えた後、颯汰は神妙な顔で尋ねる。
「一つ、訪ねたい事があるんですけど、いいですか?」
「あぁ」
「“魔王”って……――」
「――――――」
颯汰の疑問に魔王は淡々と答えた。その答えを信じ、“あるもの”を取りに行く許可を得た彼は森の奥へ先に進んでいく。そこで見つけた“あるもの”を革袋に入れ厳重に保管した。
――保存と携帯が利くように“加工”した方がいいな。
そうして出発の準備が整えて、彼らは隣国アンバードの王都を目指す。
元に戻った黒の瞳であるが、深い憎悪と狂気に彩られているのを、ラウムは見逃さなかった。
――……
――……
――……
「……本当大丈夫?」
颯汰の声で、我に帰ったラウムはハッとする。
差し出された左手をジッと見つめる幼き少女。
魔王同士が殺し合う際に生じた余波により、人民が恐れ慄き逃げ惑う中、逃げていた人とぶつかって転んだのだとラウムはすぐに思い出した。
普段は右利きで、剣を振るうのも通常は右手で行っていたはずだが、よりにもよって異質な力を発した左手を向けるものだから、例え外套を脱ぎ去っても彼女は表情の変化こそわかりづらいが、心底恐怖を覚えていた。外套の奥、見えない闇の中でまた“あの目”をしているのではないかと恐ろしく思った。
ラウムは、静かに首を横に振った後、自力で起き上がった。
――怖い。でも、……きっと、目を離しちゃだめ……。
真っ直ぐ颯汰を見上げるラウム。彼の力は、正体は謎のままで得体も知れなく恐ろしい。だからこそ絶えず見続けないといけない、と少女は決心していたのだ。
どうしたのだろうとは一瞬思いつつも、目的地まで急ぐ必要のある颯汰は直ぐに視線を前へと戻した。
奴隷に扮した颯汰の腰には剣はない。
代わりに厳重に保管していた革袋が結ばれていたのであった。
ラウム「急に発狂して剣を振り回すのもこわい」
そいつ主人公なんすよ。
で、剣を仕方がなく一時的に手放しましたがその代わりに切札を持ち出してました。
次話は来週。
スマホで編集やり辛いっすね。




