17 慟哭
ヴァーミリアル大陸ヴェルミ王国領南部――プロクス村。
未だ炎が村を喰らっては金色の火の粉と黒煙が空へと昇り、このまま燃え続けて大陸全土まで火の手が上がるのではないか思ってしまうほど勢いは衰えを見せなかった。
井戸や近くの河川から水を汲んで消火活動を行う人影は一切見られない。
周りの酸素を取り込んで燃焼を続けているせいで息が苦しく身体が重く感じる。
村に生存者はもういない。
皆がこの炎に呑まれたか、奇怪な“魔獣”によって惨殺されたのだろう。
――仇は、取った……
立花颯汰は何とか無傷で魔獣を倒すことに成功した。もし一撃でも貰えば骨まで砕けてそこで終わってしまっただろう。
相手が腹部から巨大な目玉を出した瞬間から動きがぎこちなくなった事も気になるが、まだこの生物が死んだとは断言できない。念のために首を刎ねておこうと颯汰は剣を持って油断をせずに歩み寄った。
倒れた肉塊を軽く押すように足で蹴るが、反応はない。
眼球部分からの出血量で死んでいるとは思うが、今まで見たことのない生物であるから安心が出来ない。両手で剣の柄を握り、この魔獣を現世から解放すべく首に向けて振り下ろそうとした時であった。
「――……!!」
肉塊に変化が起き、颯汰はすぐに距離を取る。
蛮勇で死ぬくらいなら臆病でも生きた方がマシなのだ。
横たわる全身が黒い脂肪で包まれた巨大な魔獣の身体が急に痙攣をし始めた。
――自爆か!?
颯汰は更に一歩足を退いたが、その心配はなくなった。
ぶくぶくと魔獣の体細胞が膨れ上がり、表皮が膨張し始めたが、ある一定で弾けるように縮み始め、肉は黒い汚泥となった。
泡のように弾けたそれは、地面へ吸われるようにゆっくりと溶け始めたのだ。
何が何だか分からない颯汰はその光景に釘付けになるしかなかった。
闇を形作る醜悪な肉人形の最期の姿――。
そこで、終われば何も迷いもなく進めただろう。
――ただ『邪悪な魔物を一匹、仕留めた』だけであると胸を張って。
「――――…………え?」
数瞬――彼の世界は時間までもが凍り付いた。
すぐ隣で燃える炎の熱さえ感じなくなる。
呼吸が出来なくなるほど、胸が苦しくなり始めていた。
――な、ぜ……?
何がどうなっているか理解が追い付かないでいた。
鎮まった怒りの代わりに湧き出たのは――様々な感情が一つの器にごった返しで掻き混ぜられ、何を表に出せば正しいのか心と身体が判断に困ったせいで正体が掴めない。
先ほどまで暴れ、村を壊滅まで追い込んだ漆黒の身体は溶けて消えた。
何も残らないで全てが消滅したのならば、どんなに良かった事だろうか。
そこで終われば人類の敵となる存在を殺したというだけで落ち着いただろう。
だが、悲しい事に溶けたのは“呪い”だけであった。
見上げるほどの巨躯を振り回し、命ある者を殺すだけの災厄の存在。
ぶよぶよとした漆黒の脂肪、細長いが生者を叩き潰せるほどの重さのある腕と肉を焼き骨まで焦がす――燃焼性もある黒い体液を有する邪悪な敵。
腹部の縦に付いた拳ほどの大きさの歯が左右に開くとルビーのような綺麗な瞳が出現し、それで颯汰を見て捉えてから、動きがぎこちなくなった魔獣。
村を、隣人を、家族を、祖父を、父を、姉を奪った憎き魔物。
溶けた肉は泡沫に消え、残ったものを見て、颯汰は剣を地面へ落した。
手から零れた剣が落ちた音も、村を焼く音さえ聞こえなくなる。
体中が震えあがり眼前の光景を疑いかかってしまう。
影の中に消えるように黒い液体は地面へ吸い込まれ、残ったのは――。
「――姉、さん……?」
魔獣が溶けた場所に、いるはずがない。いてはいけない存在が残った。
淡い金色の髪にルビーの様な真紅の瞳を持ったエルフの美少女。
外見年齢が颯汰と会った時から変化のない十歳前後のままの姉が、そこにいた。
寝間着の肩から紐で吊るす白い布のドレスだけを着ていたが、その布には黒の泥は付着していない。それなのに手足はエルフ特有の肌白さは失われ、代わりに黒炭のように真っ黒となっていた。首から右頬にかけても黒が浸食している。
颯汰は駆け寄って幼き姉を手を伸ばそうとするが、その手が途中で止まる。
「――……ッッ!!」
胸部と腹部に、赤い染みがじわりと白い布の下から浸透し始めたのが見えた。
原因は明白だ。
「……お、おぉ、お俺が……」
颯汰自身が気づいて後退りながら、その振るえる血塗られた両手を見やる。魔獣の紅い眼球――腹部を突き刺し抉り、斬った際に浴びた真っ赤な返り血。
「あ、あぁ、あぁぁぁああああッ……!!」
双眸から、熱い滴が零れ出す。悲鳴が、叫びが、止まらない。
敵だと思い込み激しく憎悪を燃やして、死を望んだ末に辿り着いたのが、守ると決めた存在を、自身の手で殺めるという悲惨な結末であった。
呻き声を上げ、叫びを上げ、涙を流して、頭が目の前の現実を理解するのを拒んでいた。
混乱が身体に異常をきたし始める。視界が歪み、体中が悲鳴を上げる。
身体に纏わりつく薄闇が歪な動きを見せていたが、だんだん弱まっていく。
涙で霞む景色。見上げた空へ黒の狼煙が幾つも上がるのが映った。
「……ソウ……タ……?」
消え入るような、か細い声。
名を呼ばれたもう一人の魔獣が、足元の少女へ視線を向けた。
「シャル姉さんッ!!」
何も考えず、シャーロットに近づき、彼女を抱き起す。
四肢に力が入らないのかダラリと垂れ、されるがままであった。
「姉さん……! ごめん……、ごめんよ! 俺は、俺はッ――」
少女は黒くなった重い右手を懸命に起こし、自身の唇の前に人差し指を立て、静かに首を横に振った。
「ソウ、タ……。あなたが、正し、い……わ」
あのまま、魔獣は村を壊し尽くし、近隣の村までも襲って被害が拡大しただろう。
「いずれ、誰か、騎士さま達にでも、殺され、ていたわ……。ソウタが、止めてく、れた……お蔭で、私は、最期に、元に戻れたん……だから――」
もし、この身体を蝕む漆黒に飲まれれば、彼女の意思とは無関係に、生者を殺戮をする機械となり果てていた。
でも、彼女は飲まれる寸前に、赤の瞳で大事な家族――いつまで経っても危なっかしくて心配してしまう可愛い弟が映ったからこそ、暴走する肉体を無理矢理抑え込む事が出来た。
「泣いちゃ、ダメじゃ……ない。男の、子……でしょ?」
「……うっ、うぅう……!!」
零れる熱い滴を受け止めた頬の黒い部分には既に感覚がない。
子供のように泣きじゃくる少年を見て、抱き起こされている少女は、黒ずんだ右手の人差し指と中指で自身の口角をクイッと上げようとするも、力が入らずそこで止まった。
泣かないで、微笑みなさいと、言葉には出来なかった。何故なら、彼女の双眸にも、溢れんばかりの涙が宿っていたからだ。
もうすぐ、別れの時がやってくる。彼女自身が、理解していた。
「お姉……ちゃんは、もう、ダメ、……みたい」
「あき、らめるなよ……!! 姉さん……!!」
たった五年という短い時間であるが、それでも颯汰にとって本当に温かみを感じた家族と過ごした掛け替えのない日々であった。例え血が繋がっていなくても、そこには家族の絆は確かに存在していたのだ。
怨讐の火が消えた事は一度もなかったが、それでも万が一もう元の世界へ帰れないと決まったならば、ここで生涯を過ごしてもいいと、心の奥底で思ってしまっていた。
自分より長生きであるエルフだから、先に老い、死ぬのは決まっていただろうが、この優しい温もりに浸りながら先に終わるならば、それも良いと頭の隅かどこかで考えていた。
だが、その小さな夢でさえ、転生者は奪っていったのだ。
生き残った唯一の家族――颯汰に対し言いたいことは山ほどあったが、彼女もまた彼を理解していたからこそ、復讐をもう止められないと知っていた。自身が死に行く事よりも、それが悲しくて涙を流していた。でも、別れる事がもっと辛かった。
最期を悟った少女は、静かに選んだ言葉を口にする。
「生き、て……」
彼に生きてほしいと願った。五体満足で、幸せな生活を築いてほしい。
村を、私たちを忘れてもいいから何処か遠くで。
戦争と、剣と無縁な世界で生きてほしい。
復讐なんて考えず、健やかに天寿を全うしてほしい。
その言葉を聞いて、颯汰はハッとして呻きを止めた。
奇しくも彼女の願いは、颯汰のもう一人の亡き父――
魔人族の英雄、ボルヴェルグ・グレンデルと同じ想いが込められていた。
「無茶は、ダメ、なん……、からね……?」
諭すような優しく震える声音。
小さな手を弟の頭に持っていき、撫でようとした。
だがそれは二度と届くことはなかった。
伸ばした手が撃ち落とされたかのように急降下して地に触れた。
「……姉さん? 姉さん!?」
颯汰が、姉を――たった今まで姉だった亡骸を揺する。
「返事をしてくれ!! 姉さん……!! 姉さん!! ――ウソだ、ろッ……!!」
大声を上げ情けないと言われても構わない。
颯汰は感情を叫ばずにいられなくなった。
バチバチと燃える村の真ん中で、もう一人の魔獣の慟哭が響き渡る。
そこへ、紅蓮の魔王が降りて来た。
文字通り飛び、シュタッと音を立て着地をする。
その背には少女ラウム。すぐ傍にシロすけが浮いていた。
普段は絶対に大事な颯汰の元から離れなかった龍が、やっと彼の前に現れた。復讐に駆られた姿を醜いと嫌悪したのだろうか。だが、今は、彼と一緒に涙を流している。シロすけにとっても共に過ごした大事な家族であったのだ。
悲嘆に暮れる颯汰に対し、魔王は静かに告げた。
「まだ終わりじゃない」
え? と颯汰が聞き返して魔王の方を向いたとき、彼の手には以前、颯汰と殺し合ったがシロすけの《神龍の息吹》で吹き飛ばされた傭兵の籠手を持っていた。
腕ごと切断したのが見て取れたがその腕も、先ほど対峙した魔獣と同じ黒くてぶよぶよとしたものであった。
魔王は籠手からその腕を興味なさそうに抜き取って乱暴に火に焼べた後、それを前方に突き出すように構えた。ラウムはそっと降りて距離を取って走る。
ジャキンと金属の爪を展開し、その籠手の付け根に紅の魔方陣が浮かぶと、ジェット噴射の要領で火を後ろへ放ちながら飛んで行く。
ロケットのように直進する鋭い爪が何か突き刺さった。
飛んで行った方向へ颯汰が視線を動かすと、そこにいたのは十数名の村人たちだった。だが、誰もが生きていないと瞬時に理解する。
その証拠に身体の殆どが真っ黒に塗りつぶされ、目は白目を剥いていた。身体に欠損がある者、材木が刺さったまま――とても生きていける怪我じゃない者も皆等しくゆらゆらと不安定な動きをしていた。
そして爪付きブーストナックルを受けたのは、巨体に細長い手を持つ颯汰が対峙した魔獣と全く同じであったが、一撃で粉々に砕け散っていた。
魔王は追い打ちで手から火球を放ち、情け容赦、躊躇いなどなく村人と村人だった魔獣を焼き殺し始めた。
さらに攻撃を加えようとした魔王に、シャーロットの亡骸を丁重に、静かに置いて横たわらせてから颯汰は一気に近づいて魔王の襟首を掴んだ。
「――放せ少年。この者たちは既に死んでいる」
わかっていたのに、改めてそう言われ、颯汰の掴みかかった手が弱まる。この王は、颯汰が今はもう戦えないと契約繋がりからではなく、様子だけで察していた。
紅蓮の魔王は颯汰の手を払いのけ、次は紅い大剣を空間から出現させた。
重量のある剣を身体の一部のように軽々と振り回し、一気に敵の眼前へ迫り、次々と真っ二つにしていった。燃える家の残骸もまとめて一閃で斬り倒す。
――やめろ。やめてくれ……
意思なき死体であるとしても、例え邪悪な手駒であっても、共に過ごした村人が、死んでいく様を見るのは堪えられなかった。村人だった者を葬る存在へ伸ばした手の赤を見て、颯汰は視界がぼやけるのを感じた。
――あ……
煙を吸いすぎたのか、脳へ供給されるべき酸素が足りなくなったのか、心がここで止まれと叫んだのか、景色が明滅して身体の自由が利かなくなる。
ふらりと宙から落ちるように後ろ向きへ倒れ込んだ。
最後に見つめ手を伸ばした先は、黒煙と合流し溶け合って一つになったかのように、厚く暗くなった曇り空ではなく、先に眠りについた姉であった。
――……ねえ、さん……。
倒れた颯汰の遠退く意識、彼女の最期の言葉だけが再度響いた。




