04 夢と幻と襲撃者
白い闇が覆う記憶の奥先――脳裏に浮かぶのは白い病室に眠る一人の少女の姿。
周囲は白くぼやけて見える中、その姿だけはハッキリと映った。
手を伸ばしても届かない距離。近づいても、近づいても、届かない。
走っても、走っても、どんどん距離が離れていく。
それでも懸命に手を伸ばした。足を止めずに進んでいく。
自身の手足なんてどこにもないのに、必死に彼女の元へ。
だが、目の前でそれは火が付いた写真のように燃え広がり、思い出は一瞬で塵となった。
その次の瞬間には景色が一変し、いつも見慣れた街の、いつも通る道が出来上がっていた。住宅街が立ち並ぶ道だ。家と家の間の車が二台通れるかどうか怪しい少しだけ狭い道。少し視線を上にあげれば、彼女がいる病院が見える。それを見て、信じられないものを目にしたと驚く前に、身体が動き出していた。
薄暗い夜の闇の中、何度も何度も通った病院から赤い炎と煙が立ち昇っているのが見えた。夏の真夜中を照らすのは星と街灯と、屹立する火柱であった。
自分の身体が出来上がっている事に何も疑問は浮かばなかった。焦燥感が全身を支配し無我夢中で走りだした。
息が切れ、汗が垂れ、心臓が口から出そうなほどに全力で前へと進む。しかし、距離が一向に縮まない。間違いなく目的地へと進んでいるはずなのに、周りの景色が無限に引き延ばされていくのだ。
それでも、諦めきれなかった。足を止めたら最期だと思ったのだ。
どれくらいの距離を走っただろうか。
数十分か数時間か、あるいは一日か、もしくは一分も経っていないのか。
感覚が捩じれ曲げられて、どれも正解なのではないかと誤認してしまいそうだ。
だが、一向に目的地には辿り着かない。
背景は同じままであった。それでも止まることは許されない。
止まれば、必ず後悔するに違いないから。
例え手足がもがれても、心の臓が喰われても、這いずり回ってでも彼女を“救わないといけない”。身も心をも救ってくれた彼女を、今度こそ。
不自然なほど静まった街で、荒い呼吸音だけが反響している。
このままでは埒が明かない。途中で別の道から行こうという発想にやっと至ったとき、後ろの“存在”に気づいた。
それと同時に、今度は景色が全て逆さまになる。ぐるりと大きな音を立て終わると全てが黒一色へと暗転する。
光もない漆黒で染め上げられた世界で、同じ闇色に溶けたモノが背後にいた。
見た事のない、巨大な何かだ。生物であるとは思うが、その存在の正体が掴み損ねていた。目の前にいるのに、景色と同化していて分からない。
声をあげる間もなく、場違いであるが宝石のように映った青白く光る双眸に射貫かれて、身体が固まる。動けない。白銀の骨が剥き出しで、肉も翼も闇に溶けるように黒い雫となって腐り、滴り落ちている。一瞬、酷い腐臭がする、と思った。しかしその正体は臭いという不快感ではなかった。様々な感情が融け合って生まれた情報が鼻腔を突いてきたのだ。それだけではなく網膜から、耳朶から、眼前にいる何かドス黒い泥土のようなものから情報が受け取れた。
『悲嘆』『憎悪』『怨嗟』
……読み取れる分だけでも多くの負の感情が垣間見えた。
刹那の間に身体の半分以上がその何かに咬みつかれていた事に気付く。
巨大な顎に並び立つ鋭い牙が容赦なく襲い掛かっていた。
鈍い痛みが全身を侵食する。
皮膚を裂き、肉を食い破り、骨を砕き、臓物に染み渡る。
耐えがたい痛みに堪らず絶叫をあげた。
その叫び声すら響かない。光も音も何もかもが飲み込まれる。
――痛い。痛い。死にたくない。
『何のために生きようと足掻く』
――痛い。嫌だ。嫌だ。
『ならばそのまま身を委ねよ。死して終わればすべて済む』
――うっぐっ……! アッ、アァ、グァァァァァァアアアアッッッ!!!!
脳に直接語り掛けてくる声を押し退けて、身体――心、魂の奥底から出る悲鳴で全身を塗りつぶす。
肉が溶け、心が潰れ、魂が削られ、空の器だけが空間の取り残された。
最期に映るのはノイズ交じりの白黒の映像だった。
爆散する建造物。
古びた屋敷。
何かが滴るナイフを持つ焼け爛れた手。
転がる黒い物体。
長髪の女性。
それが何を意味するかは今は誰も分からない。
――死にたくない。まだ死ねない。理由は、理由は……――。
そして、そこで目が覚めた。
身体に落下の衝撃を感じた。少し高い場所からこの荒涼とした地に、落とされた感覚に飛び起きては、この少年は怪訝そうな表情をする。
疑問符が頭に浮かんでいるようだ。
「……ここは、……?」
自身の声に違和感を覚えた少年は、咳払いをした後に「あー、あー」と声の調子を確かめる。喉が渇いたせいか掠れているため変に聞こえたのだと納得する。それでも、まだ子供の高い、少年らしい声であった。
そして今いる場所より、少し高い位置――小さな丘へと登り上がった。辺り一面を見る街のような物は見えない。草も疎らに生えている砂地が続き、奥には岩肌を覗かせ山々と木々が生い茂る森が見えた。だが、少年の記憶にある景色とはどこにも合致しない。どこまでも広大であるが、何も無い。
「ここは……?」
少年は静かに呟く。そして、ふと自身の身なりへと視線を移して更に驚愕する。
「えっ……」
小さく零した言葉は風に攫われた土煙や枯草と一緒に舞っては掻き消されるが、心内には響く。鼓動が早くなる。意味が理解できず頭が脳が、熱でやられてしまったのではないかと自身の身体の変化に大いに驚いた。
驚愕のあまり足をふらつかせ、尻もちをついてしまうと同時に背中から転び、
「おわッ!? あ、あぁぁぁああああ!?」
その勢いのまま態勢が変わっては右回転して丘から滑り落ちた。
緩やかに滑り落ちて止まったところ、頭上に輝く太陽を仰向けで見る形となった。眩しさから反射的に目を細めては利き手である右手を突き出しては光を遮ろうとする。手の小ささに改めて気付いて静かに呟いた。
「目が覚めたら、身体が……縮んでしまった……!?」
幼い頃からあった右手の甲の小さなホクロだけは共通しているが、短くなった手足を見てそう思うしかない。――心なしか艶やかで若く瑞々しい気がする。
格好もよく分からない。裸足でズボンとパンツは履いている感覚はあるが、上半身は裸で灰色の外套を身に着けていたが今までこのような恰好をした記憶は彼の中にはなかった。
バーロー、と一蹴したいが紛れもなく現実であった。さすがに高校二年生から小学一年生までは戻っていないが、それでも十代を満たしているかいないか程度には幼くなっているのは間違いないと少年は認めたくはないが確信する。
荒地の乾燥した土を身体から払いながら少年は立ち上がった。次は自身の顔をペタペタ触るが、よく分からず首を傾げていた時であった。
鏡――それこそ飲み水がある場所でもあれば助かるのにと思った矢先、
「――ッ!?」
気配を感じて振り返る。
そんな瞬間に何かが最速の風を纏い飛び掛かってきた。少年は寸でのところで躱すことに成功する。
少年は平地であるがまたもや転がり落ちた。それに比べて襲撃者はシュタッと綺麗に着地をし、低い音を連続で響かせた後に、ゴォォォォォ、と呻るような声を混ぜて威嚇をしていた。
黒い毛で覆われた大型の猫の様な生物――豹であった。数は一頭だけではない。付近にもう一頭、離れて更に大きな個体が一頭いるのが見える。
同時に背中に汗が大量に流れ出す――暑さのせいではない。岩陰に隠れていたのか少年はそれらを発見できなかったのだ。
相手は成熟しきっていない様子であるが、それでも少年よりは明らかに大きい豹は牙を剥いた。爪を立てて少年の肉を裂こうと、しなやかな身体で動き出した。全身を使った突進による加速の勢いを右手に乗せた一撃。数メートルは飛び、高さも充分にある。大人でもひとたまりもない。
悲鳴を上げる余裕はない。ただ、砂地の上で転がり、必死に避けて起き上がる。
豹と目が合う、他の豹は動いていないのか確認したかったが視線を外せない。外した瞬間に再度飛び掛かって来るのが明白だった。
息を呑む暇すらもない。
流れる汗を拭きとる隙すら見せてはいけないと恐れていた。
豹は、再び動き出す。今度は噛みつきに飛び込んでくる。少年は咄嗟に足で砂地を蹴って豹に向かって飛ばすのと同時に全身で左へと飛び込んで、地面で一回転するように回避行動を行った。
眼前の敵は目の砂に怯んだ隙に、周囲を確認する。他の豹は一切動いていなかった。何故だ、と不思議に思う前に豹は吠える。
「…………怒っ、た……?」
返事の代わりに吠えて突進し始めた。砂地を蹴り飛び掛かる、そう思った矢先に緊急停止、右にステップを踏むように動き、翻弄を始める。
「フェイント!?」
対応にコンマ数秒遅れたため、それを理解して避けようとするが右肩の纏っていた外套に傷が走り、切り裂かれた。もう少し深ければ血が溢れ出ていただろう。外套に守られたが状況は絶望的であった。
すれ違いざまに攻撃され、振り返った瞬間には予想以上に接近されていた。
「まずッ!?」
黒豹の前足が両肩に乗り、少年を押し倒そうとする。
「――フッ!!」
しかし、そのまま押されながら地面に手を突いて転がる。そのまま押し倒されれば首を咬まれて絶命は必至であった。上手く勢いに乗せ、黒豹の攻撃を避けては前方へ飛ばす。
咄嗟の行動で偶然にも上手くいった。しかし、身体を一回転させようとしたが途中で体勢が崩れて仰向けとなる。それを急いで起こそうとする。綺麗に着地した黒豹が上体と首を少年の方に向けて小さく呻る。
獣が纏う空気が変わったのを少年はハッキリと知覚していた。
少年は己の死を予感する。先ほどよりも強烈に――まるで先ほどまでが児戯であって、これからが本番だと言わんばかりに空気が張り詰めるのを感じ取っていた。
生唾を飲もうにも口腔は砂漠のように乾ききっていた。
掠れた弱い痛みだけが喉に広がる。
流れる汗が冷たくなるのは血の気が引いているからだ。
荒地に吹く風の音すらも心臓の音で潰されていた。
修正:ルビの削除