09 家族 ~姉の想い~
新緑の丘に薫風が駆け抜けた――。
幼き日の記憶。
母の、夢を……見ていた。
優しく、可憐であるとは耳にしていたが、あまりに幼い頃に死別したためか、それとも別の理由なのか、顔の形も目の色も思い出せず、覚えていない。
幼く走り回って疲れた私の頭を、優しくその膝へ乗させて撫でてくれたのはずっと覚えている。
――編んでもらった麦わら帽子が風に攫われてしまった。
何も特別な事はなくていいの。
そんな日常こそが愛おしくて大切だって知っているから。
だから、それを壊す存在が許せない。
忘れもしない。
あの悲劇を。
母の命を奪った凶刃を。
クローゼットの中で怯え、声を殺して震えたあの日を。
私は争いを憎む。
血を流す戦争を憎む。
何もしない為政者を憎む。
何故誰も、手を取り合うことが出来ないのかしらと声に出して叫ぶ。
人をすぐに争いへ駆り立てるすべてが憎くて憎くてしかたがない。
過去の傷を忘れかけても、いつだって諍いが私たちの心を傷つける。
新しくできた家族すら、剣を選び取ってしまった。
悲しくて、声が出なくなる。
また私は置いて行かれるの……?
行かないで。
どうか、行かないで。
お願いだから、……。
料理の最中、頭の中は“弟”の事でいっぱいになってしまった。
どうすれば剣を捨ててくれるだろうか。
それより、私が素直に送り出せないのが悪いのではないかと考えを巡らせていた。
新しい家族は賢くて背伸びをする男の子。
五年経ち、表向きでは真っ直ぐに育っているけど、中身は復讐で歪に捻じ曲げられている。
私にはわかる。
復讐心――。
それを失くすと、どうなってしまうの?
壊れて、しまうの――?
私は、……何をしてあげればいいのだろうか。
そう考えに更けている中、黒い衣服の集団が現れた。
かつてのトラウマが脳裏に浮かび、思考が停止した。
突き付けられた刃に私は身が竦み、声も出せずにいた。
抵抗する間もなく、何かを飲まされ、意識が闇に落とされた。
しばらくは完全に意識がなかった……と思う。
意識が戻っても、不思議な事に身体はまるで鉛でも流し込まれたかのように全く自由が利かない。
刺すような冷たさを感じるが、目は全く開こうとしない。
浮遊感の正体を気づくのに時間が掛かった。
息苦しさ。
呼吸が出来ない。
ここで森の大河に飲まれていると気が付いた。
疑問符が浮かぶ前に、情け容赦なく襲い掛かる波が私を沈めようと躍起となっているのを感じた。
助けを呼ぶ声も出せず、頭の中に過去の情景が幾つも流れ込むのが見えた。
母、祖父、父、新しい家族である――弟。
もう駄目だと心の中で叫んだ時、何かに足を掴まれた。
不思議と怖さは全くない、むしろ安堵するような感覚。
抱きしめられ、凍り付くような冷たさの中、確かな温もりが暖めてくれる。
気が付くと、また母の膝の上に戻っていた。
目が見えなくても、わかる。間違いなく母だ。
死後の世界か、それとも夢か。
感覚すら曖昧模糊の白い幻に揺れる。
それでも、優しく私の頭を撫でる感触は本物であって欲しいと願ってしまった。
息苦しさも、不安も、消え去り、このまま何もかもが解消されていくような気がした。
『おか……さん……』
唇が、少しだけ動いた。
“母”は驚いたのか、手が一瞬だけ動きを止めた。
ダメ、もっと。
子どものようにせがもうとするが、身体はまだ動かないままだ。
ポカポカと温かなこの世界は、きっと夢なのだろう。
揺り籠の中で揺られる微睡みの中、誰かの温かな背へと移らされた。
父の背だろうか。
普段は全く頼りようがないダメ人間であるが、ここぞという時は頼りになる……事も稀にあるかもしれない父親の背。
ゆらりゆらりと何処かへ私を運んでいく。
ダメ、お母さんから離さないで。
どうかお願い。おとうさんだっておかあさんと一緒に居たいでしょう?
ゆらり揺らめく幻想が一層深まってから、次第に景色が見えて来た。
少し冷たい風が肌をくすぐる。
きっと、もう夢から醒めようとしているのだろう。
段々と、白い闇の中から意識が明晰になっていく。身体の自由も、利き始めた。
まだ寝起きで視界がぼやける中、声が聞こえた。
「姉さん。起きた?」
会った頃より逞しくなったが、透き通ったままの声。
声を耳で堪能し、言葉の意味を反芻して、私は驚き跳ね上がりそうになった。いや、心臓は飛び出てたかもしれない。
「え? 何? えっ、えっ?」
パニックになり周囲を見渡すが更に理解が追い付かない。
雲の隙間から月で照らされた森が、赤く怪しく光っている。
「落ち着いてシャル姉さん。全部終わったから」
シャーロットの渾名を呼ぶ義弟の声――タチバナ・ソウタは優しい声音で宥めるように言う。こんな優しい声をシロすけ以外に向けるのは結構珍しい。
普段の私なら『熱でもあるの?』とおちょくってるかもしれないが、今はそれどころではない。
私の全身が、彼に背負わされている。
恥ずかしさが込み上げてきた。
つま先から頭頂まで、真っ赤になっているかもしれない。
背負われているのが幸いだ。顔を見られない。
……見られたくないから、……もう少しだけ、ここに居ようと決めた。
一瞬、埋めた背に湿り気を感じる。
――まさか、川に流されたのを助けて……?
夢と現実がごちゃ混ぜとなっていたが、互いの服の濡れ具合から、間違いなさそうだ。
そっと唇を押さえた。きっとまた赤くなっているかもしれない。
そう思えば、夢の中で唇に何か柔らかいものが当たった感触もしたような気が……。……熱でまた意識が遠のきそうになる。
「か、家族だからセーフ……! 家族だからセーフ……!」
小声で呪文のような囁きはどうやら弟には聞こえていなかったようだ。
濡れた衣服に冷たい風がやって来て寒いはずなのに、火照った身体がどうしようもないくらいに熱い。
「もうちょっとで村だから、帰ったら暖房で温まろう。風呂は姉さんが先でいいよ」
「おふッ……!? …………あ、あぁ、うん」
一瞬変な妄想で大焦りの声で返事をしたが、すぐに平静さを取り戻した。
どうにも思考がピンク色に染まっている自身の頬を両手で揉み解し頭の中まで柔軟化を図る。
――全く、相手は弟! 血は繋がっていないとはいえ家族なのよ私。
出会った頃は似た背丈だったのに。
いつの間にか大きくなった背に、乗りながら考える。
私はエルフでも、ちょっとだけ成長が遅いのか、置いてけぼりを食らっている。
急に何故か無性に腹立たしくて、その首筋と背にちょっかいを掛けた。
「ちょっと? 姉さん? くすぐったいんだけど?」
「うるさい。お姉ちゃんにされるがままになりなさいっ」
理不尽な命令を出し、指で首から背にかけてツーっと線を引くのを止めない。
その後背中に手を置いて呟いた。
「こんなに大きくなって……」
「姉さんが小さいまま、――って痛たたた!?」
気にしている事を言う弟には罰を。ちょっと指で首をつまむ。爪を立てないのは温情からだ。
久々に、家族としてじゃれ合った。不思議な気分で、とても暖かい。
――ソウタは、どう思っているかな。
――私と、同じ気持ちじゃ、ない、よね……。
空は遠く、雲の合間から紺色の帳に白の瞬きが映る。
金の月が幾重の灰色を掻き消そうとしているのか、薄っすらと奥の方にあった。
草は濡れ、露が風に吹かれてこぼれ落ちる。
談笑の和やかで、温まる空気は終わりを告げた。
「……姉さん、話があるんだけど、いい?」
睨め付く悪鬼のように赤い森が風によって騒めき、幾分も不気味に見え、そのせいで背を掴む手に力が込められていたが、弟はそれを受け止めてくれた。
――嫌だ、なんてわがまま言っても、きっと止まらない……。
投げかけてくる質問を、既に分かっていた。
「…………騎士学校行くって、話、してたじゃん?」
ソウタは、足を止めて言い始めた。
その内容だって分かっていた、覚悟はしていたのに。苦しいのが止まらない。
その先が、怖くて聞きたくなかった。
きっと私は震えていた。新しい家族である弟を、戦へ駆り出す全てが恐くて。
彼の中で、ボルヴェルグは大きな存在であるから、その仇討を成し遂げたい気持ちは痛いほど、痛いほど分かっている。
それでも――。
“その復讐に意味はあるの? それが叶ったら、心から笑えるの?”
聞きたくても聞けない疑問が頭に過る。
もしそれを聞けば“決定打”となってしまいそうで本当に恐くて堪らないのに。
離れたくない、傷ついて欲しくない。自暴自棄となって剣を振るって欲しくない。
「俺さ……――」
「――……たくない」
「え……?」
「聞きたく……ない……!」
弟の背が涙で濡れた。心からの叫びが、泣きじゃくるワガママな童女を生み出す。
嗚咽を必死に歯で噛み殺しても、溢れる涙だけは止まらない。
堰き止めようとした感情が、止まらない。
「やだ……、もう、いなくなるのは……嫌っ……!!」
その言葉で、どうにでもなる訳がない。
そんなことは分かり切っているのに、心が叫んで止まらない。
ワガママだって理解している。勝手に、母の消失と結びつけようとしているなんて、分かってる。
だけど、剣を持てば、誰だって傷つけ、傷つくんだから――。
「姉さん……」
「戦わなくたって、いいじゃない……! 傷つきに行かなくたって、いいじゃない……!」
彼が何のために生きているか、何を掲げて生きようとしているのかは重々承知の上で、私は感情をただ子供のように吐露する。
大きくなった背中だけではなく、切り傷や擦り傷が体中に付いているのも知っているから。
「ねぇ……、もう、やめよう? いつまでも傷つかなくたって、いいのよ?」
復讐に駆られ、延々と傷口を広げて戦うのは終わりにして欲しい。
復讐とは絶え間ない自傷行為であるのだから。
終わるまで傷は痛み続け、終わっても取り返しがつく事なんて稀なのだ。
失ったものが帰ってくる何て事は殆ど無い。
感情が止まらず、最後の言葉が喉元を通りかけた。
“復讐なんてしても、お父さんは帰ってこないんだよ”
決別への決定打となる言葉。
だが、それが出る前に、弟は語気を強めて言った。
「姉さん、聞いてくれ!」
森に静けさが戻った。
葉が揺れる音と、遠くで誰かの声が聞こえた。
村人の声だと気づいて私は冷静さを取り戻すと、ソウタは続けて言った。
「俺、騎士学校に通うのはやめるつもり、だったんだ」
「…………え」
泣きじゃくり埋めていた顔を上げた。目から伝う温かな滴がまた落ちる。
ソウタはハハっと乾いた苦笑いをしつつ、片手の人差し指で頬を掻いていた。
「あ、でも一回断りに直接マクシミリアン卿とクラィディム殿下に会いに行かなくちゃならないけど……。急に手紙だけで断りを入れるなんて失礼だし」
混乱に落ちている私に気づかず、ソウタは一人で語り始めた。
「だから姉さん、ごめん! 一か月か二か月は仕事の手伝い出来ないかもだけど! ちゃんと戻ってくるからさ!」
きっと両手が自由だったら手を合わせて頭を下げていただろう。
誠心誠意の気持ちが伝わる。
「どう、して……?」
やめて欲しいと、懇願はしていた。
でも、それが子供のワガママで、彼の生き方を否定した意見であると分かっていた。
理由が、知りたくなる。
「私が、連れ去られたから……?」
負い目となってしまったという罪悪感が込み上げた。
彼の生き方を、今ここで縛ってしまったのか。
そこで我ながら酷く身勝手だなと思い知った。姉失格だ。
自責の念に駆られていたが、弟の出す答えは違ったようで、いいやと否定した後に続けて言った。
「そもそも、学校ってのが性に合わないだろうし。あっちはエリート様だらけみたいだから……」――正直、もう学校での集団生活はこりごりだよ。
何か言葉に含みを感じた気がしたが、気のせいだろう。
「……ほんとうに? ほんとうに帰ってくるの? うそじゃない……?」
「嘘じゃない」
「ここで、お姉ちゃんを言いくるめて、……王都に住むとかしない?」
「しないしない」
真剣な問いに少し笑って返す弟にほんの少し怒りを覚える。でも――。
「第一、姉さんの料理が食えないとかそれこそ嫌だよ」
心を苦しめる氷が、溶けて蒸発する音が内側から私にだけ聞こえた。
どうも家族に甘い節のある私は、この一言で、全て許す事にした。
「ちょ、姉さん!? 大丈夫……?」
密着するほど抱きしめる。近かった距離が、もっと、もっと近くなる。暖かな背中越しに暖かで強い鼓動が聞こえる。それでも強く、強く抱きしめる。もう二度と離したくない。この温もりを争いなんかに奪わせない。大事な家族の、弟の背中へ姉の威厳をかなぐり捨てて頬まで付けて抱きしめた。
「もうっ……ほんとうに、仕方がない子なんだからっ……!!」
最初こそ困惑したのか歩みを止めていたが、気持ちを汲み取ったのかソウタはそのまま村へ向かって再び歩き出した。
少し離れた先から、声が聞こえた。村人が松明を片手に空いた手で手を振った。彼の号令で次々と村人がやってくる。
心の通り雨もいつしか消え、水溜りの深い青に幾つもの星がチラチラと反射して光る。
金の月が欠ける事無く優しい光をたたえていた。
こうして、事件は幕を閉じたのだ。
――まだ、剣を捨てるとは言ってくれない。それには気づいていた。でも、いつかきっと、付いた傷は消えないかもしれないけど、私たち家族が必ず忘れさせてあげるから。
「何か言った?」と言われたが、私は悪戯っぽく「何でもないよ」と笑って誤魔化した。
此度は趣向を変えて、ロリ姉であるシャーロット視点で書きました。
というわけで騎士学校編とかは別にないです。
また少し本筋から脱線してしまいそうなので、そのまま戦乱に巻き込もうと思ってます。




