06 融け合うもの
指先から伝い、滴り落ちる黒い雫。
ポタリ、ポタリと黒の水面に注いでいった。
そんな音も、周りの騒がしい音さえも届かない。
痛みは無いが止めどなく流れた漆黒の液体を、溜まった血溜まりを、リズは穢らわしいものを――最も見たく無い嫌悪しているものへの感情に瞳が歪む。
唇は青くなり、戦慄き震えが止まらない。
凄まじい感情に、頭がどうにかなってしまいそうであった。
こんなもの、認めない。
もしも言葉を話せるならば、リズは叫んでいたであろう。
とても正気など、保っていられない。
たった数滴であっても、深い闇へと続く奈落の門となった血溜り。世界の法則を嘲笑うかのように、そこから這い出ようとする亡者たち――人ならざるもの。同色の人骨の腕やら動物の足が現世に現れようとした。
それらを異形と化した自身の手で押さえつけ、闇の世界へ押し戻そうとリズは試みていた。
腕は何倍にも膨れ上がったかのように見える。黒い呪いが肉となって彼女の腕を包んでいた。袖から溢れて腕ごと取り込むように肥大化し、さらにその表皮と呼ぶべきか怪しい黒い艶やかなモノから、小さな生き物の手足が表に出たり、消えたりを繰り返していた。
恐怖はある。
だがそれ以上の吐き気を催すほどの嫌悪感で、リズは気が狂いそうになっていた。
勇者の本能どころの騒ぎではない。機械で出来た魔物の亡骸を背にし、へたり込んだまま彼女の精神は壊れかけていた。
「呑まれるな。力を御するのだ」
出来るなら最初からやっています、とリズは心の中で叫んだ。
「……そうだな。私も魔王の力を最初に得たときは、振り回されたものだ」
紅蓮の魔王の珍しい自分語り。
興味深い話だ、とリズもその続きも気になった。
心なしか暴れる黒も少しだけ治まったように見える。
だが時は止まらない。
現実は残酷であり、敵機の猛攻は続いていた。
複数の鉄蜘蛛が仲間だったジャンクを脚部にて乱暴に押し退けて、直接リズを貫こうと脚部を使って接近戦を仕掛けてくるのであった。
「元は光の勇者。それに教会に属していた人間だ。魔王の力など困惑の極みと言えただろう。だけど力自体は、忌むべきモノではないと“彼女”に教わった」
何事も使う人間の意思によるものだ、と彼は考えているようだ。
「妻にも言われたよ。与えられたものが何であれ、誰かのために使うことが重要だ、とな」
若干、彼の過去が――特にどのような夫婦であったのかが気になるところではあるが、リズは今それどころではなくなってしまった。
「その力、その形も、完全にコントロールができていないが――かなり近づけている証拠とも言えるだろう。認めたくないという意思が、こう在りたくないという願いが具現化しているのだ」
この男が何を言っているのか、リズには理解できなかった。
自分が望んでいないのに、頭で思い浮かべた嫌な感情をカタチとして現わしている?
悪意しか感じない。とても制御できるとは思えなかった。
止めどなく呪いは溢れ、それが抑えきれない。
リズの双眸に、溜まった雫。
それが黒く濁った瞬間――、
《あ……――》
何かが、音を立てて崩れる。
瞳からツーッと線を引いて落ちる黒。
呪いが活性化し、腕だけではなく捕食するかのように大きく開き、リズの肉体を包み込んでいった。
……――
……――
……――
暗闇に沈んでいく。
冷たさも暖かさもない濁り切った水の中。
リーゼロッテは膝を抱えるようにして、産まれたままの姿で墜ちていく。
目も見開けない中でも、確かに自分がそこにいることを認知していた。
《わたし、は……》
淀みの中で記憶が巡る。
自分の育ての父であるマクシミリアン卿との記憶。
少女リーゼロッテは、英雄と称された義父のようになりたかった。
内向的な性格ではあったけれど、いつか剣を手にして誰かを護れる人になりたいと願っていた。
願っていたはずなのに……――。
《わたしは、わたしは……!》
心が軋む。
ガラス玉に亀裂が入る。
突如現れた“迅雷の魔王”にすべてを奪われた悪夢のような記憶が蘇る。
成す術も無く人々は殺され、自身も死に目に見た。
闇の勇者として覚醒したけれど、すべては遅かった。
雷鳴よりも速い魔王の襲撃に、リーゼロッテは力を発揮する前に囚われてしまった。取られた人質も、その場で忌むべき呪いの泥に呑まれた。
あの日、世界が壊れてしまった。
一変したのではなく、終わってしまったのだ。
囚われた闇の勇者は、迅雷の魔王が居城にて地獄のような日々を過ごす。
リーゼロッテがただの少女ではないと気づき、人体実験が始まったのだ。
枷で捕らわれ、目隠しもされたまま――血を抜かれる。
既に狂気に精神が歪み切った迅雷の魔王ではあったが、リーゼロッテを殺すことも雑に扱うことも、女子供としても扱うこともしなかった。
女好きではあって子供は大して好きそうではなかった王ではあったが、宿敵として本気で向かい合っていた節がある。
魔王として勇者を恐れていたのか、あるいは彼自身の矜持か。
リズは、自分の血によってバケモノが生み出された事実を伝えられた。
真正面から叩き潰せはするが、ある意味遠回りするように――闇の勇者の精神を壊すことに真摯で全力であったと見える。
口枷が無ければ、リズは自身の舌を噛み切って自害を試みただろう。
石が積まれた城の冷たい床で、暗がりの牢で何度も涙を流した。
あまりにも醜悪な怪物――“黒泥”。
その見た目だけではなく、性能までもわざわざ見せつけられた。
その頃は現在は行方をくらました開発者である、ロイド博士なる人物もいた。
黒泥は生物を侵食し、増殖する。また、研究成果も見せつけられることもあった。命を弄ぶような邪悪なバケモノ――『魔獣』。それの実証実験を眼前で繰り広げられたのだ。
誰かを守るための力を欲した少女――その血が人々の生命を脅かす。
その事実にリーゼロッテは耐え切れなくなりそうであった。
《嫌、……あんなの、嫌……!》
リーゼロッテ――闇の勇者リズは“黒泥”を憎悪する。
自分からあんなものが生じたとは認めたくない。
認められない。
その存在そのものが勇者という在り方を否定しているように感じた。
何よりも、養父の功績に文字通り泥を塗るように思えたのだ。
それが、堪らなく嫌であったのだ。
だけど、紛れもない事実である。
目を背け続けたい現実である。
『勇者として救った命よりも、バケモノを生んで奪ってしまった命の方が多い。』この事実がリズを苦しめ続けるのであった。
せっかく、誰かを救える超常の力を得たというのに――憧れと対極にある、おそろしく醜く邪悪な怪物を生み出した元凶。
生きること自体が罪となり得るのではと、彼女は未だ自分を責め続けていた。
だからこそアンバードとヴェルミ、両方の国から黒泥とそれを影で操っていた団体を一掃することに成功したとき、心の底から安心した。
彼女の心は少しだけ救われた気がした。
それなのに、何故――?
汚染された黒い泥たちはリズの血液と“カケラ”と呼ばれる物質を素材にして生成された。
リーゼロッテが、心の奥底で蓋をしていた闇に触れる。
囚われた日々――。血を抜かれたものの、黒泥の元となる物質を取り込んだり取り込まれるようにされたりした記憶はなかった。
忌むべき黒泥は彼女の血液からは生まれはしたが、産み落としたものではない。
外部で造られた生物兵器のようなものだ。
黒泥とリズの流した黒い血。似ては非なる存在とは頭の中でなんとなく理解をしている。それなのに何故、引っ張られるのだろうか。
闇の水底。
昏い色の扉がある。
触れてはならない禁忌に思えた。
本能が警告を促す中で、リズは真実に触れるため、手を伸ばそうとした。
――……
――……
――……
そこへ、無情にも現実が襲い来る。
何十もの鉄蜘蛛が、黙って待っていたわけがない。
遺骸を背にして隠れた“侵略生物”の繭を、羽化する前に破壊する。
それが鉄蜘蛛たちに課せられた使命であった。
機械である彼らの選択は正しい。
仮に、リズがあのまま苦悩していた場合の未来は一体どうなってしまったか。扉の先に辿り着いてしまった場合はどうなってしまっていたか。
鉄蜘蛛たちが責め立てたことで、運命は決まった。
跳び込んで棘のような鋭い脚が突き立てられ、黒い物体から同色の液体が噴き出す。
三本、それぞれ別の方向から、囲って貫く。
さらに、周囲から一切の躊躇いのない砲撃が始まる。
仲間を巻き込む光線が放たれたのだ。
リズであった肉塊――泥に塗れた『魔獣』を想起させる怪物にも直撃した。
鉄蜘蛛の後部を変形させて発射された熱光線は、黒い泥を沸騰させる。
その熱は泥を融解させ、肉を塵へと変えていく。
まともな生物であれば秒も保てず焼き払われる放射された熱光線を、八つ以上も浴びせられたリズであった醜悪な魔獣は、光に呑まれて消えた。
「ふむ」
その光景を目の当たりにしていたはずの紅蓮の魔王が腕を組みながら呟く。
「その調子だ」
もしも言語を話せるものが他にいた場合、疑問符が浮かぶ言葉だろう。
しかし、直後にその意味がわかる。
敵を消滅させたはずだが、警告は消えない。
鉄蜘蛛に痛覚も恐怖の感情も存在しないが、故障した箇所は認知できる。
損害が軽微ならばどうとでも治せるが――機能が停止するほど中枢が一撃で壊されては意味がない。ゆえに奇襲を受けて対応しようにも、気づいたときに致命傷であると何もできない。他の生物と同じと言えるだろう。
突如、地面からリズが黒い波と共に現れる。斬撃だけではない。溢れ出した黒い波濤は隣接していたもう一機まで巻き込んだ。
魔獣がいた地点から、少し離れた場所。取り囲うように敵に釘付けとなったその背後どころか真下から、飛び出して奇襲をかけられた。
「感情は消えない。消してはならない。例えそれが憎悪であろうと」
上空腕組みおじさんがまだ続けている。
重い機械を持ち上げるほどの質量。浮かんで無防備になった敵機をリズはそのまま斬り刻んだ。
鉄蜘蛛が容赦なく、宙に浮かんだ敵を討つために味方の遺骸ごとビームを再度放射する。
リズの前の鉄蜘蛛であったジャンクが熱で赤くなった後に爆発を起こした。リズはそれに巻き込まれぬように、両肩から現れた黒い骨の腕にて包まれて防いだ。
「うむ。意識を戦いに向けているな。己の思考や自分の存在すら曖昧になるぐらいに集中している状態だ。……それも鍵となるだろう。だが――」
いわゆるフロー状態。そこまで至れば憎悪でおかしくなることは少ないとは紅蓮の魔王も考えている。しかしそれを維持するのも、フロー状態になるためのゾーンに入るまでが難しいだろう。魔王を前にして冷静さを保てるかどうか。
「――もう少しで治る。鉄蜘蛛からの攻撃で、回復が早まったな」
そのまま着地せず、リズは風のボードを操り機動する。
黒に染まった二本の鎌剣を手に、地下で暴風が駆け抜ける。
斬撃の嵐と降り注ぐ黒い雨。
通り抜けた後に残るは骸のみであった。
武器を振るいながら超高速で動き、さらに剣を伝う黒い液体が棘のように形を変えて落下し、敵機に突き刺さっていく。広範囲攻撃によって、鉄蜘蛛たちが次々と廃棄物と化していく。
さらに、リズは変則的な動きで敵機を翻弄して射撃を躱し、空中でボードのまま縦回転をし足が天井に向いた瞬間に、ボードを蹴り飛ばしてみせた。
風のボードが足から離れ、残存戦力に向かって飛んでいった。
突飛な行動に鉄蜘蛛は対応できず、着弾地点で暴風が生まれる。
身体が宙に持ち上がって落下して故障した機体も、風の刃に刻まれて損傷を負った機体も、巻き上がったスクラップに直撃して沈黙した機体も――すべてが動けなくなる。あとは死を待つだけとなった。
闇の勇者は再びボードを生成して、それらを冷酷に狩り取るのであった。
「…………」
最後の一体を壊し終えたリズ。
一息ついて、上を見上げる。
紅蓮の魔王がどう反応を示すか。
上空から、魔王は降りてくる。
「見事だ。もうあと一押しのようだ。地上に戻ろう」
そう言うと、紅蓮の魔王は浮上を始めた。
リズは黙ってそれを見つめたあと、風のボードにて追走する。
「少しばかり勿体ない気もするが、放っておくと少年も怒るだろうからな。点数稼ぎがてら、やるか」
製造プラントが自動で敵機を造り出すため、ほぼほぼ無限湧きするトレーニング相手として適していると思った紅蓮の魔王であるが、リズにはもう不要だと思い、施設を燃やし始める。破壊を決行したのだ。
ひょいひょいと、お手玉でも軽く放り投げるような感覚で、両手で機械群に火球を投げ込み――それらは爆弾のように大きく爆ぜた。
「!?」
突然の奇行にリズが目を丸くしていたところ、紅蓮の魔王は天井を指さして言った。
「早く脱出しないと生き埋めになるぞ?」
なんなのこのひと。
リズは驚き、ドン引きしながらこの地下からやって来た階段を探す。
そこへ、放送アナウンスと共に天井部分が扉のように二つに割れて開いていく。
何個もの層を隔てる天板が開き、地上への道が造られた。
リズにもアナウンスの言語はわからなかった。
だがこれは地上へ緊急脱出用の経路なのだろうということは察せられる。
せり上がる機械――おそらく、本来は何かしらの装置で地上へ向かって進むロープウェイみたいな構造と思われる。身体をベルトなどで固定して運ばれる仕組みかと。だがリズはそんなもの利用しなくてもいいし、それでは間に合わないと断じた。爆発の頻度と規模が尋常じゃない。
紅蓮の魔王は構わず、設備の破壊を続けていた。
消火設備も破壊し、地下施設を完全破壊を敢行していたのだ。
何に誘爆するかわからない。リズはすぐに飛んでいった。
風のボードをほぼ垂直にして、一気に飛び上がって地上を目指す。
必死であった。下から爆発の音が響き渡る。
巻き上がる熱。黒と赤、黄と白が大気を焦がしていく。
熱と爆風が追いつく前に、リズはどうにか地上へ逃げ切った。
城の跡地、ぽっかり空いた脱出口から炎が立ち昇った。唯一の空気の逃げ道でもあったから、爆炎は高く空まで届く勢いで、屹立していった。
リズは宙に浮かびながら、それを目を丸くして見ていたところに――、
『さて、では最後の試練だ』
声が脳に直接響く。
空まで焼き尽くさんとした焔火の中から、真紅の魔神が降臨する。
紅蓮の魔王が《王権》を纏った姿。
《黙示録の赤き竜王》――。
二本角に真っ赤な襤褸のマントを靡かせる魔神は、星の加護を受けた大剣を出現させ、切っ先をリズへと向ける。
最大にして絶望の試練が始まろうとしていた。




