EX.02-2 救済
マクシミリアン卿は独りウマを走らせて屋敷を発った。
向かうは北の山奥にある古びた廃教会。
半年前の『児童連続誘拐事件』を起こしたゴモラ教団の潜伏先の一つであり、卿も以前、訪れた場所であった。
失踪した娘――彼女の部屋に残された書状に、ここへ来るようにと指示があって彼は従ったのだ。誰がどう見ても罠であるが、彼には従う以外に手だてを思いつかなかった。
山の麓に着いてウマから降りて暫く登っていった。中天を掛かる円盤から受けた熱と、募る焦燥感が汗となって流れる。脇腹の古傷が痛むが懸命に山道を独り歩き、そして辿り着いた教会の、今にも崩れそうな漆塗りの両扉を開いた。
ヴァーミリアル大陸は遥か昔は火山が連なる赤い大地であり、今こそ自然豊かであるのだが湖も山も大噴火によって形成されている。そしてこの教会は活動が停止し採石場となった火山から掘られた火山岩が使われているため、元より黒く重々しい雰囲気を醸し出す教会となっていた。
扉を開けると、埃が舞っているのが見える。内装もかなり痛んでおり、薄暗い教会の中を、所々引き裂くように陽光が差し込んでいた。
「――来ましたか」
低い女の声。再奥の祭壇に立つ。祭壇の割れたステンドグラスを覆うのは教団の悪趣味なマークが描かれた黒い布であった。
祭壇にいる狐面の女が手招きをする。その空いた左手で示すのは彼女たちが『ソドム』と呼ぶ娘――十字にした板と鎖で磔にされている少女であり、彼女の瞳は暗く沈んでいた。
普段は外套のフードなどを深く被って表情を隠していたが、それは取り払われ、栗色の髪が肩ぐらいまで掛かっているのが見える。白く清潔だが簡素なドレスを着せられていた。
一瞬、激情に駆られかけたマクシミリアン卿だが、冷静に呼吸を整えてから、ゆったりとした足取りで教会の身廊を――泥や埃で色が黒ずんだ真紅の絨毯を踏み進んでいく。
側面の長椅子は黒く朽ちていた。その奥で黒ローブに白い仮面をつけたゴモラ教団員たちが、不気味にゆらゆらと揺らめき、客を待っている。
想定以上の人数だ。正面を見据えて、視野に入るだけでも十数名はいる。
教団員たちはブツブツと何かを口走っているが、正確に聞き取れないでいた。
「約束通り、一人で来ました。私の“娘”を返してもらいましょうか」
両手を開き、武器を持っていない事を証明する。
「“娘”? フッ、クフハハハハ、アーッハッハッハ……! 片腹痛い。“娘”? これが? 無智蒙昧とはある意味で幸せですね……」
「その娘を解放しろ……!!」
嗤う敵の戯言に聞く耳を持たぬと勇敢に歩みを進める。いや、蛮勇と言うべきか。ジワリと染み込む穢れたる黒ローブの教徒が距離を詰め始めていた。既にマクシミリアン卿は教団員に囲まれていた。
「――動くな」
祭壇から五ムート(約五メートル)の地点で狐面女が言う。空いた手をくるりと回すと、ローブの袖に仕込んでいた短刀が取り出してマクシミリアン卿に切っ先を向けて制止を命じた。
そして横目で部下である信者に合図を送り、受け取った犬か狼かわからぬ白面の信者が農具である二股のピッチフォークを動かし、少女の頬を軽く触れる。もう少しめり込ませれば血が噴き出すだろうが、少女は泣きも叫びもしない。
何か薬でも盛られたのか、ぐったりとしているが目を開き、意識が半ばあるように見える少女は茫然としたまま、真っすぐと“父”を見ていた。
「貴様ッ! 目的は私なのだろう!? その娘は関係ない! 解放しろ!」
猛るマクシミリアン卿であったが、およそ三十メルカン(約三十センチメートル)の無骨で飾り気のない短刀の刃先がまだ彼を捉えたままだ。
「動くなと言っている! ……余計な真似をすると大事な“娘”が死にますが?」
語調を強くして命令し、次に嘲笑を浮かばせながら語り出す。
「人質とは、卑怯な……!」
睨む瞳を白面の双眸にある黒い穴二つで受け止めながら、狐面の女は一瞬だけ考え込む。
「卑怯? …………ふふふ、さっきの目的について、貴方は面白い勘違いをなさっているようだ」
「……勘違い? 教祖を討った復讐のために私を呼び寄せたのでは――」
屋敷に侵入し義理の娘を誘拐したこのカルト教団の目的を、教団を壊滅させた要因たる自分への復讐であるとばかり思っていた。
「――ないです。我々の目的は最初から一つ。それはずっと、これから先も不変でしょう……ただ、やり方が変わっただけ。貴方は大人しく“娘”の前で嬲られ、『ソドム』の覚醒の糧となるのですよ」
――覚醒……、糧……?
気になるワードが出てきたがそれより先を考える間もなく、衝撃が後頭部を襲う。
ピクリと反応を示す少女に、狐面の目の部分――奥にある真の目が細くなった。
「ッ!!」
倒れこんだマクシミリアン卿だが、彼は油断なく、背後に近づく気配を察知し、迫る攻撃の急所だけ外れるように、また衝撃を和らげるために当たる瞬間に力が流れる向きに身体を動かしていた。
「やはり衝撃を逃がしましたか。きちんと喰らわねば、“娘”に傷が増えますよ?」
「……!」
素人目では判断できない一瞬の出来事を事前に知っていたように語る狐面。戦の心得がある者なのかもしれないと領主は警戒を強める。
「さっさと立ち上がりなさい。その反抗的な顔を、よく見えるように」
狐面に言われ、成す術もないマクシミリアン卿は立ち上がるが、先ほどの杖の打撃が今度は背中に当てられる。態勢を崩した瞬間に、他の教団員が詰め寄り、両手首に金属の手枷をそれぞれはめた。それは鎖と繋がっており、上のシャンデリアを通して二階のギャラリーにいる教団員たちが握りしめていた。左右から鎖を引き上げ、マクシミリアン卿は強制的に立ち上がらされる。
そして、また殴打が始まる。杖で頭を叩かれ、もう一人は腹を思いきり蹴る。痛みに苦悶し、倒れこもうとするが、鎖が引かれてマリオネットの如く立ち上がらされる。
「――……やめ、……」
少女の口から言葉が漏れ、狐面は笑う。
かつては屈強な戦士とはいえ、退役してから日が長い。衰え錆びた肉体に入る一撃一撃は並み程度であっても長くは耐えられない。運がよく古傷に一撃が入っていないが、それでも痛みは増して、身体に力が抜け始める。
あっという間に、痣だらけとなっていた。
それを見て、仮面の奥の瞳が満足そうに光をたたえると、狐面は祭壇を下り始めた。
また手品のように短刀を取り出し、両手にそれぞれを握りながら近づいた。
痣だらけになる顎に側面を押し付けて、首を持ち上げるようにした。
「頑丈ですね」
「はぁ……、はぁ……、ぐっ……何が、目的で――」
「『ソドム』を覚醒させる為に必要な儀式です」
「“儀式”……、そう称して、貴方たちは、弱き子供を、殺した……、最低最悪です、ね」
狐面を睨みそう吐き捨てたが、
「それも救いのため」
まさに神に祈りを捧げるよう、人に慈しみをもって接するような声音で答えた。
「救い……? 未来ある子供の命を奪う行いが?」
罪なき子供たちが、彼らの身勝手な行いにより命を落としていた。領主としてではなく一人の人間として憤りを覚え、彼は剣を取った。昔負った古傷の痛みよりも、今を生きる尊い命が失われる方が何倍も痛かったからだ。だから彼らを許せない。弱者を殺す彼らの考えが理解できず、「救い」と言われて、納得できるはずもなかった。
マクシミリアン卿は突き立てられた短刀を押し返すように顔を下げて反論した。
「何が“神”、ですか。……醜悪な、妄想で、命を徒に奪う事が、救いに繋がるはずが――」
「いいえ、繋がるのですよ」
息荒く返した言葉に、狐面は、物わかりの悪い教え子を諭す優しい声で指摘する。
「弱き子供と申しましたが、それは全然違いますよ。貴方は子供を侮りすぎです」
彼女はそっと短刀を引いて、それをくるりと回しながら黒ローブの袖の中にしまい込む。細くて白い、透き通るような指で領主の顎を撫でるように触り始めた。抵抗する体力もないが、離れようとすると綺麗な爪が肉に優しく食い込ませながら語る。
「――彼らは強い。生きているだけで可能性とやらを信じられている眩い彼らが弱いはずがない。むしろ、我々のような者たちが本当の弱者だ。疎まれ、蔑まれて、排除されるのが常だから――」
そっと手を放して振り返った狐面は喋りながら祭壇へ足を進める。他の信者たちも、二階で鎖を引いている者たち以外はぞろぞろと集まっていく。
「――だが、それも!! 『ソドム』が覚醒すれば、全てが救済される!! “神の子”は我々……否、全ての弱者を救い、世界を照らす光となる存在ッ!!」
両手を開き、訴えかける。そう高らかに宣言した時、信者たちは震えながら両手を合わせ、膝を突く。
祭壇の上で磔刑に処された聖者のように晒されている少女に向けて、信者たちが拝み始めた。
口々に詛呪にも似た祝詞を唱え、救世主に祈りを捧げ始める。ブツブツと一斉に喋りながら拝む姿を見て、マクシミリアン卿の顔が歪む。戦場で恐怖を味わった事は多々あったが、これは体感した事のない類いであったのだ。
気味の悪く響く声の中で、狐面は言い切る。
「ゆえに、多少の犠牲は目を瞑りましょう?」
元より狂ったカルト教団――話が通じるとは思っていなかった。
「犠牲……だと……?」
だがその一言で、腸が煮えくり返り、血潮が沸騰するように、卿の身体に力が入った。
「ふざけるなよ……」
温厚であった男が憤りは炎となり燃え上がるが、それは活力と呼ぶには些か暗い。
「ふざけるな……」
その正体が純然たる怒り、
「ふざけているのかぁあ!! 貴ッ様らぁああッ!!」
――あるいは、憎悪であるからだ。
マクシミリアン卿は衝動に駆られ右腕を思いきり伸ばそうとするが、騒々しく鳴る金属音――鎖が引っ張られ、進む事もままならない。しかし、それでも緩徐に、震える腕と、汚れた絨毯を踏む足が、前へと身体を動かしていた。かつて、敵兵だけではなく味方からも“剣狂”と恐れられていたマクシミリアン卿。――今、その面影が徐々に濃くなっていく。声を荒げてその本性が垣間見え始めるが、相対する狐面は逆に熱が冷めたように淡々と説明をし始めた。
「尊い犠牲ですよ。私たちだって代われるならば代わりたい。むしろその身を捧げたって良いとすら思っている。でも私たちではダメなのです」
血走った瞳で睨み付け、繋がれてもなお、鎖から音を立てて暴れるマクシミリアン卿に対し、狐面は自身の胸に手を当て正当性を誇示するように続けた。
「そもそも『ソドム』は子供にしか“発芽”しない仕組み。私たちではもう器になり得ないのです。本当なら、私自身が救世主の器となりたい。大人にはそんな浅ましい欲を持つと見透かされたのか、大人を器にした場合、すぐに器ごと崩壊してしまいます。いわゆる拒絶反応です。死んでしまった子供も、運悪く適合できなかっただけです」
それはマクシミリアン卿にとって理解ができない言葉の羅列であったと言っていい。いやこの世界にて生きる者には、安易に想像ができない事象であるのだ。だが聡明たる彼は、不穏な気配を確かに感じ取っていた。
「――な、何を? “発芽”? 拒絶? 貴様らは何を、……何をしたというのだ?」
マクシミリアン卿は大前提として『ソドム』を娘の事を指すと思い込んでいた。だが、違うと気づく。狂信者の口ぶりから、ただ子供を拉致して、切り刻んで血を啜る以外に、重要な何かをやっていたと。想像よりもずっと悪魔らしい、非人道的な何かをやっているのだと卿は悟る。
熱しかけた憎しみの焔が、慄きでも侮蔑でも、同情ですらない感情によって勢いが失せ、ほんの僅か小さく鎮まりかける。
どんな熱量をもってしても理性のある人でいる限りは、得体の知れないものと直面した時――理解できない謎を前にすると、思考が優先される。
原初たる感情――“恐怖”が、生きるために不確定要素に対して働くからだろう。
およそ頭がイカれた狂信者たちであると頭では理解していたが、その根付く闇の深さに怖気が奔る。一体、この怪物たちはどのように生まれ――何を知りここまで変質してしまったのだろうか、と。
続きますが、ちょっと後になるかと思います




