37 精霊
振り下ろされ、立ち上る銀の光。
黒鉄の山を剣が斬り裂く。
金属製の菌糸を破り、刃が通る。
一刀にて両断されるかに思えたが、颯汰は黒い柄を握ったまま手を止める。
白銀の刃の、脈動するように明滅が加速した。
『捕食』という表現の正しさを颯汰は実感する。
その手に感じる重さは変わっていないというのに、剣を通して流れ込むものを確かに感じ取っていた。
「捕食っていうより、なんか、ちゅーちゅー吸ってる?」
それはそれで怖い。
そんな軽口のような言葉を吐けるのは今の内であった。
明滅が激しく、強くなっていくような気がした。
違和感を抱きつつもその手は『プロテア・グランディケプス』から離さないでいたから、流れ込む。
鼓動するように強くなる剣身から放たれる光の明滅。
眩い光が、いつの間にか世界を塗り替える。
それは憎悪か、嫌悪か。
少なくとも善意などなく、悪意に満ちていた――。
◇
灯りは消え、広がるは鬱然とした昏い森。
湿った土が踏みつけるたびに、嫌な感触と耳障りな音が、直に頭の中へと伝わるようなほど、深い沈黙に満ちた夜の森。
自然と足が後退する中、チラリと何かが光って見えた気がした。
そして首の裏に、何かが這ったような感覚が襲う。
背筋が凍る思いをした途端に手を使って振り払う。
それが過ちであった。首に這った何かを叩き落せた感覚はなく、代わりに振った手に絡まる粘性の何か。冷たく、自由を奪い始める。
それが月明かりに照らされ、無数に張り巡らされた蜘蛛の糸と気づいた時には遅かった。
驚き、左手を前に出そうにも粘着質で容易に剥がれず、恐怖に駆られた。
引っ張り、振り解こうとするほど、他の糸に絡まる。
動けば動くほどに支配が進んでいく。
息が浅く、短く、早くなる。
早急にこの場を脱するべきだと思った矢先、それは降って来た。
月光に濡れる巨躯。
影でその正体が見えぬのではなく、直視し難いものであった。
“彼女”の肌は白く、ひび割れている。
唇は藤の花を思わせる色合い、――から滴る毒のような液。
美しい顔に釘付けとなってしまいたい。
鮮やかな赤い布の下までは、陶磁の美が存在する。
だが、そこから下ることさらに下――目を覆いたくなる歪さが待っていた。
下半身が膨れ、六つの細長い脚がある。
人ならざるもの。両足の代わりに蜘蛛となっている怪物だ。
蜘蛛の身体から仰向けになるよう、上半身が付いている。
少し、見下ろす形となっている女の美しい顔。
瞳は感情がないように冷たく、眼が手足と同数もあった。
髪は影に溶け込みつつあるが、白か銀色だろうか。
湿った土に髪が触れようが気にしない。ただ獲物をジッと見つめている。
斜めに曲がっていた首の角度が機械的に、カタカタと正面を向いた途端、牙を剥いて襲い掛かる――。
◇
『俺は、この手のホラーはからっきしで、正直苦手なんだ。……だが、悪いな』
月光に乱れて煌めく光の軌跡。
颯汰が謝罪の言葉を口にした途端、颯汰を拘束していた糸と周囲の糸が次々と切断されていく。
そして噛みつこうと飛び込んできた女の額に、颯汰は右手で抑え込む。
幼く弱きものではなく、『デザイア・フォース』にて変身した姿であった。
『もし、この目であなたの正体を知らなかったら、マジでビビッて斬っていたところだよ』
実は恐怖を認めているのではなく、正しく見えなかったからこそ相手を立てるように言葉をかけていた。困惑している蜘蛛女に、颯汰は左の人差し指で自身の目を指し示して言う。
『俺に、……俺たちには幻覚とか、効かないんだ』
“獣”ゆずりの瞳は、まやかしを看破する。
颯汰は、彼女が何を伝えたいのかわかっていない。
剣を思いついた名前で言ってしまったことが逆鱗に触れたかもしれないが、この場合、(精霊とはいえ)女性が何について怒っているのかという箇所を間違うと、さらに炎が身を焦がす結果となるのを重々承知しているため、追求しない方向で進めていく。
そもそも、怒っているのかどうかもわからない。こういった悪戯(?)が彼女にとってコミュニケーションの一環かもしれない、とさえ颯汰は考えていた。
ともかく、ここで颯汰は初めてボルヴェルグの剣に宿っていた精霊と邂逅を果たす。悪辣なる蜘蛛に対して、颯汰は嫌悪や敵意ではなく『懇願』する。
『頼む。英雄の剣に宿っている精霊の方、今はちょっと先に、俺たちに力を貸してくれ。……お前からも頼んでくれよ』
颯汰が上を向いて言葉を発する。
昏い森はいつしかもっと深い闇となっている。
それは無明の闇。
その漆黒の世界の真なる支配者が現れる。
深淵に溶け込む腐食して爛れ落ちる肉、その中から白銀の骨を露出する巨大な怪物――“獣”の小さい唸り声が響く。
ここが颯汰の内面に広がる精神世界である証であった。
蜘蛛女は、霊器を通して颯汰の内側に侵入を果たしたのである。
守りが無く脆くなった精神を壊すがために、恐怖を流し込もうとしたのだろうか。
だが、生憎な話であるが彼の心の警備員たちは異様なまでに強力であり、さらに当人までもが駆け付けられるという狂った仕様であったのだ。おかしいよこんなの。
右手も変身もろくに使えないはずの颯汰が、ここは現実ではないため万全な姿となれるのも精神世界ならではだ。右腕の烈閃刃にて糸を斬り裂くのも、現実では今は不可能なほどに損傷している。
『……たぶん、同じこと言ってくれているな?』
唸り声から好意的に解釈をする颯汰。
ズズズと、闇に沈むように後退して消えゆく“獣”。
反論や、侵入してきた外敵として攻撃行動を取らなかったため、たぶん合っているな、と颯汰はポジティブに受け取ることにする。ここで揉め事を起こしている暇はない。
『いいかな、お姉さん』
颯汰は呆気にとられたままの悪辣なる蜘蛛の、人体部分の手を取った。
膝をついて彼女に合わせる。
握手は逆さなので難しく、一瞬戸惑ったあとに両手で握ることにする。
真っすぐした瞳が、複数の目と合う。
『今は、一刻も争う。頼む』
一方的な願いを口にするが、颯汰も必死であったのだ。
だから真摯な態度で頼み込むしかない。
今は捧げられるものはなく、本当に時間もない。
『…………あ、あとほら、鉄蜘蛛、食べ放題ですよ?』
プロテア自体が装甲とナノマシンを喰らうだけで、この蜘蛛がそれで腹の足しになるかどうかは怪しい。というか精霊であれば魔力があれば事足りるはずなので、かなり余計な一言だったかもしれない。発言に後悔をし始めた辺りで、やっと彼女から反応があった。
『…………はぁ』
呆れるような溜息が女から聞こえたと思った途端、蜘蛛女は光に包まれ形状が変わっていく。大きな身体と麗しい女体像は、一本の剣に変身した。
颯汰は立ち上がり、感謝を込めて頭を下げた後、地面に突き刺さった剣の柄に触れ、引き抜いては掲げる。
世界は光に包まれた後、現実が地続きに進んでいく。
金属の山はすべて平らげ、輝く剣が地下を照らしていた。
アンバードが首都バーレイ、第一騎士団基地の地下施設にて――。
「うぉおおおおおおッ!!」
月光を受けたように輝きをたたえた剣を構え、駆け出しては幼き颯汰少年が振るう。
四角い枠に向けて、X字に斬撃が奔る。
すると空間が斬り裂かれ――虹色の輝きが放たれた。
楕円形の異空間への扉が開かれる。
「なんじゃ!? この内から溢れんばかりの魔力! ま、まさか……」
「仙界への入口――ゲートを開きました。やっぱり、鉄蜘蛛は単体で次元を斬り裂き、仙界へ侵入ができるのかもしれません」
今、師である管理者が拒絶している様子はない。
巨蟲・鉄蜘蛛の遺骸を食い尽くし、プロテア・グランディケプスはさらなる力を得る。あるいは、もとより備わっていた機能が回復したのか。
空間を引き裂き、仙界へと繋がる通り道を形成してみせたのであった。
「……主は、どうするつもりじゃ?」
「師、……ごほん! ……仙界の管理者に会い、鉄蜘蛛が仙界を超えて移動をしているかどうかを確かめたいです。今戦っている人たちの地点に移動するには、管理者の協力が不可欠みたいなので、それもお願いしてきます」
ウマで移動していたら到底間に合いそうもないので、と颯汰は付け加える。嵐の化身のような名馬でもない限り、戻っていった頃に騎士たちは全滅するおそれがある。
仙界を介して大陸間を爆速で移動は便利であるが、管理者・管理者代行などの権限を有する者の協力が必須であるため、結局は彼女に会うしかない。
それに加え、頭の中では「あり得ない」と断じていても、それが正しいかの保証がないため、師に会う必要があると考えた。この時点で拒絶ができるならば、ゲートは開通されていないし、何かしらの反応があるはずである。少なくとも、敵対することはないと思える。……思いたい。
――……右腕の件でどやされるだろうが、それでも
颯汰は剣を『亜空の柩』に格納し、ゲートへ進んでいく。入る前に、呼吸を整えてから異界へ侵入していく。
颯汰とて緊張するのだ。
頭の中では色々と覚悟はできていても、やはり心が落ち着かない。
しかし、ぼんやりもしていられない。武器の強化が終わったので最速で戦場に舞い戻らねば仲間の騎士も一時的な同盟を組んだ叛逆者たちも平等に死んでしまう。ゆえに前へと進むことを決める。
「おじいちゃん、行ってくるから。……他にたぶん、人族の女の子と竜種の子がすぐに来るから、先に行ってるって伝えてほしい。頼みましたよ。では――」
颯汰は返事を待たず、光の乱舞へ突き進む。
待て、という老人の言葉が途絶え、颯汰は世界を越える。
広がる景色と空気がガラリと変わる。
元より澄んでいたと言えるクルシュトガル全域のものとは異なる。
この森を構成する木々は白く、葉は淡く白みがかった蒼である。
空間を満たすは青や蛍を思わせる光のオーブ。無数に浮かんで漂っていた。
「着水しないでここに訪れるのって結構、珍しい」
だいたい川か泉にドボンからスタートする。
颯汰は、師である“白亜の森”の管理者の下へ駆け出した。
何事にも焦りは禁物とは言うが、それでも彼は焦っていたのであろう。
数分、森の中を駆けて足を止めた。
「……どうやって探せばいいんだ?」
普段は彼女の方から現れてくれるパターンが多い。
森を宛もなく放浪するのは地上でも仙界でも危険な行為である。
息を切らして肩を上下させたときに、気配を感じて颯汰は振り向く。
茂みが揺れ、葉が擦れ合う音がした。
「きみ、だれ?」
「おうち、ないない?」
「あそぼ、あそぼ」
「おっと、これはマズいか……?」
幼き颯汰と似た背丈(と颯汰は言い張る)の少年か少女のような精霊が現れる。白亜の森で言葉を使うのは青く透き通る水の精。緑に透き通る木の精が殆どを占める。しかし、幼い見た目の者ほど気を付けねばならぬ。
純粋無垢であるゆえに、危険だ――。
「次々と集まって来る……!」
木々の影、灌木の向こうから集合し始める。
最初は四体ほどが、すでに倍以上いる。
愛らしさや美しさよりも喧しさが勝るのは集合した子どもの常。そこは地上も仙界も、どの世界であっても共通していることだろうか。
ただ颯汰は考えあぐねる。
彼らがこの領域を治める女主人の所在を知っていようと、おそらくすぐに話してくれまい。遊んでからと条件を付けるはずだ。
――参ったな。時間を食ってはいられないんだが
平時なら別に相手をしてやってもいい。
ただ今だけはかなり困る。
――後で遊んでやる! って言って納得してくれるだろうか
ないなと思いながら逸らした目線を前にすると、
「おぉん、さらに倍……!」
ちょっとしたホラーだ。目を離した隙に人数が先ほどより倍増している。先ほどの剣に宿った精霊が見せた幻覚は看破していたので恐怖の大部分はカットされていたが、こちらの方がシンプルに怖さを感じる。
「あぁ、ごめん、俺、師匠のところに行かなきゃ――」
颯汰の願いは、子供たちの願いの声に搔き消される。
どんどんと数を増やし、包囲網が構築されていく。
いつの間にか、腕や服をべたべたと触られ始める。
肉に触れるのは久しいのだろう。霊獣の類い以外は仙界ではいないだろうし、知能がある霊獣が精霊に身体を簡単に触らせやしない。
掴む力が生命を扱うものではなくなるまで、時間は残されていなかった。
「なっ、バカ、止せ――」
颯汰が集団に呑まれて押し潰されてしまう前に突然、何かが地面から噴き出した。
身体が宙に浮かぶほどの水圧。周囲の精霊は笑いながら飛んでいく。
「――、な、んなぁぁあああっ!?」
背の高い木々のてっぺんまで届かないとしても、自分の身長の数倍の高さまで身体が宙に浮かび上がるのは恐怖である。
水浸しよりも心の底から冷え切った颯汰は、徐々に近づく地面を見て咄嗟に頭を庇おうと『ディアブロ』を用いて全身を保護するように包まったところで、何も見えなくなった。
地面にぶつかる衝撃ではなく、ふわりと全身を押し上げる水の気配を感じて颯汰は右腕代わりの『ディアブロ』を通常形態に戻した。
地面から噴き出す清らかな水によって、颯汰はゆったりと地面に近づく。
噴水が徐々に勢いを減らして、颯汰が地面に足をつけたときに声がかかる。
「おハロー」
「やぁやぁやぁ」
「あれま、これはお久のお久」
かしましいはずなのに、どこか心地がよく、聞いていると落ち着く声。
全身が透けている水の精がふたりと木の精がひとり。
先の子供たちに比べると成熟した、と呼べる感じの精霊たちが現れた。
「相変わらずモテモテですな~」
茶化すように言う水の精霊。嬉しくないと答えるかどうか若干迷った颯汰ではあったが、とりあえず礼の言葉だけを口にした。
「あ、えー。……とりあえず、助けてくれてありがとうございました」
「良いの良いの」
「アンタは何もやっとらんがなー」
木の精霊の小ボケにツッコミを入れている。
見た目以外はヒトのそれであるが、油断はしない方が身のためだ。
声音も気性も落ち着いて聞こえるし、実際に何かヒーリング効果があるような気がする。
それでも彼女たちは精霊であり、次の瞬間に何が起きるか不思議ではない。
「あはははは。……師匠がどこにいるかわかります?」
湖の貴婦人に仕えるというには若干フリーダムであるが、他の精霊に比べるとかなり温和で大人びている彼女たちと出会えたのは、だいぶ僥倖と言える。
子供型の精霊たちを、もう一人の水の精霊が追っかけていき始め、子精霊たちはキャッキャと笑いながら走って逃げていった。人間に対して危害を加えようとした注意や怒りなどではなく、ただ代わりに遊んであげているだけである。
「……えー。ちょっとなー、タダで教えるのはねー」
颯汰の問いに精霊たちが目を見合わせて、言う。
仕草が本当に、あまりにも人間的である。
笑う表情も、動きも何ら違いはないように錯覚させる。
「(こっちは時間がないんだが……!)あげられるようなものは、持ってませんよ。あ、でも今度お土産でも地上から持って――」
次回にでも訪れた際には地上からお土産か何かを手渡すから、と約束をしようとした。だが精霊たちは聞く耳を持たぬように言葉を遮る。ずいッと一歩、距離を詰められた。見上げるその目は光を失ったように座っていて、颯汰の心に警鐘が鳴り響いて止まない。
「――うーん。だったら少し、お姉さんたちと、イイこと、しない?」
2025/08/03
修正されてなかった部分を修正




