32 黒の嵐
『わかっておるとは思うが、早まるなよ! 王よ!』
黒き泥の巨人となったバルクード・クレイモスが叫ぶ。
借りた名馬に跨り、颯汰は答えずに荒地を駆ける。
問答の間も、黒泥の巨人が自分を守っていた間もずっと左腕――己の内側にいる“獣”と対話を重ねていた。
『バルクード・クレイモスの発言は正しいものであると断定――。』
――断定?
『正しい確率:92%――。
霊器接続:正常を確認――。
当該器:応答有り――。』
――高っ……その、応答はどういったことを?
バルクード・クレイモスは「ボルヴェルグの剣」が本調子ではないと一目見て断じた。颯汰から見たら特に変化は感じられなかった。万が一、機能不全などを起こしていたのならば大問題であったが、そういったことではないらしい。
『敵・巨大機動兵器の装甲を破るための武器の強度が現時点で不足――。
推奨:当該器の強化――。
目標:バルクード・クレイモスの証言した地点と一致――。
推奨:早急な移動――。』
――でも、それはこのウマ次第だろう
バルクード・クレイモスが乗って来たウマは、颯汰が操縦していた戦車の近く、何十何百もの弾丸の中の一部にて、ズタズタにされた死骸を見てもなお、動揺を見せなかった。
その悍馬の襲歩は、まさに風となったように感じさせる。
此方を気遣う様子はない。
乗れるものなら乗りこなしてみせよ、と駆け抜けていく。
颯汰はその時点で何かを感じたが、そちらに意識を集中させることはなかった。
「……カァッ」
声にならない激しい揺れと襲い来る暴風。
少しでも気を緩めると落馬してしまう。
顔に掛かる風が、涙を誘う。
口を開ければ、口腔はすぐに風にて乾く。
変な声が出てしまうほどであった。
地上を、凄まじい速度で進んでいった。
颯汰は、他にも神速の域に至る者たちと行動を共にしているから、多少は慣れてきたとはいえ、この速度を恐ろしく感じる。
この速さで地面に落ちれば、間違いなく大怪我では済まない。
――俺、次第、だな……
考えを改めるのに時間は掛からなかった。
次代の風龍の王、光の勇者、忌まわしき簒奪者と比べるとさすがに劣るとはいえ、地上では最速を誇るのではなかろうか。
「……おい、無理をしすぎじゃ?」
走り出してから一刻以上、最高速を維持し続けている。
同じ大陸の荒地とはいえ、景色は歪んで変わっていく。
いくらなんでもおかしい。
息切れもせず、汗もかかず、黒馬は駆けていたのだ。
ここまで無理を続ければ、脚が潰れてしまうかもしれない。
何度も語り掛けたが、ウマは応じるわけがない。
――!? さらに加速した……?
反抗的、あるいは逆張りにしても自分の命を削ってまでやることではない。
人語を理解できないわけではないはずだ。
だが彼は、敵意も悪意も見せずして走り続けたのである。
途中で村が見えてきても、手綱による命令すら跳ね除け暴走する。
本来であれば、首都までは休憩を含めて一日以上は掛かる距離。颯汰たちも首都からは最速で駆け付けたが、全員が途中の村にてウマを交換する必要が生じていた。
それすら無視して、黒馬は首都へ向かう。
死ぬ気なのだろうか。
そこまで、主の命令を守るのだろうか、と思った矢先に颯汰の顔が歪む。
馬体から、どろりとした汗をかき始めたように思えたが、違ったのだ。
体表に浮かんだのは黒い汗ではなく、滑り気のある泥であった。
それは呪詛の塊。解くべき呪い。
これを打ち払うために、颯汰は北の大陸へ渡り、戻って来たのだ。
「……嫌悪感は、ある。命を何だと思っているんだという。……でも」
跨るウマは、黒泥に侵されていた。
頭に激情が過る中、冷静さを失わないように自身の心の手綱を強く握る。
この怪馬がいなければ、とても首都まで間に合わない。
彼女の命が燃やされていくのがわかる。
もし仮に、バルクードがこのウマの意思を奪い、意のままに操っていたならば許せなかっただろう。黒泥に侵食されてもなお、颯汰に対して攻撃をしてこない辺り、その辺を疑っていた。
だがこの黒馬は――関節や蹄から粘液を垂れ流しながらも、その眼は正気であったと颯汰は見抜く。主であるバルクード・クレイモスと同様に己の意志で、黒泥の呪いを抑え込んでいたのであった。
それはまさに驚嘆に値する“強さ”といえる。
だからこそ、死に向かって加速していく黒馬を止めることはできない。
今まさに命を張って戦ってくれている騎士達がいる。
このままでは鉄蜘蛛は首都に進み、もっと大勢の命が失われる。
この走りを止めることは死者を増やすことと、この一頭の英傑の“強さ”に対する冒涜となる。
一方で、立花颯汰という男は可能な限り手を伸ばそうとする。
彼もまた“欲深い”。すべて欠ける事なく手にしたがる。
それが非現実的だとわかっていても、思い知っても、その“欲望”は止まらない。少し大人になって賢しくなったせいか、強大すぎる力を手にしてしまったせいか、より眼前の理想と現実の乖離に苦心する事となってもなお――……。
しかし、現実は残酷だ。彼女は、間も無く死ぬ。
足を止めても、避けられない。むしろ既に死んでいるに等しく、呪いの力で生かされているカタチであったのだ。
それをわかっていて乗せたのかという怒りはあるが、彼女のおかげで太陽が沈む前に首都へ戻ることに成功する。蹄鉄が奏でる音と巻き上げる砂塵を置き去りにし、黒き風は突き抜けたのである。
首都の西門は颯汰の接近により開かれた。
次第にペースは落ち、門の前で足を止める。
颯汰は彼女から降りた。大きな身体を見上げる。
彼女はまるで何でもなかったように佇む。
「……プライド、高いんだな」
撫でることを憚れるような気配がした。
颯汰の言葉に、やっと彼女はぶるるるる、と鼻を鳴らして応えた。
「まるで、嵐の化身だった。すごいよ、キミは」
それは心からの言葉であった。
彼女は息を切らすような疲労は見せないが、身体から溢れる蒸気は隠せないでいる。長い顔、真っすぐな瞳で颯汰を捉えていたが、不意に顔を逸らし、どこかへ行こうと身体の向きを変えた。
「さようなら。本当にありがとう……」
颯汰が彼女から馬具を外す。黒いウマは一度だけ嘶き、南西方向に歩み出す。
死を悟り、人目の付かないところで最期を迎えるつもりなのだ。
動物が命が尽きる前に安全な地、安心ができる場所を目指すようのとは違う。明確に誰かの前で弱っているところを、最期の姿を見せたくないという矜持から来ている行動であった。
その影が遠くなるのを、最後まで見送ることはしない。
颯汰は、振り返って首都へと歩み出す。
「最期まで、プライドが高い子だ。訪れる静けさもまた、嵐のよう」
その呟きが風に乗って、彼女の耳に届くことはない。
それがわかっていても、彼女を想わずにいられなかった。
アンバードの首都バーレイは、厳戒態勢であった。
元より内乱を起こし、首都の空気は張り詰めていたところに、かつて大陸を荒らしまわった巨大な魔物がやって来た。
混乱のさ中にある首都に、王が戻って来た。
時間を少し遡る。――首都からバルクード・クレイモスたちが鉄蜘蛛討伐のために出撃した後のことだ。
立花颯汰は堂々と南門から首都バーレイに一度入った。
内通者に勝手に開けられた南門であるが、侵入を止めに入る騎士はいなかったわけではない。己が益のために内乱に協力した者こそ、離れて様子を窺うようにしていた中、望まぬとはいえ乱に加担した者たちこそが立ち塞がったのである。どうせ粛清されるという自棄か、それとも仰ぐべき主を一度変えたならば貫き通さねばならぬという騎士道に重きを置いたのか。定かではないが颯汰にとってはそんなことどうでもいい些末な問題であった。
最初こそ、逆鱗に触れると恐れた兵が多かった。
当たり散らすような理由もなければ、王位など欲しけりゃくれてやるという姿勢の颯汰は、並び立つ騎士たちに対し、歩みを止めず言い放つ。
『鉄蜘蛛を討つ。邪魔だから退いて』
その言葉には明確な敵意があった。完全武装した騎士たちが並ぶ中、王としての毅然とした態度、強い意志を示したのである。
そのたった一言で騎士たちを退かせ、颯汰たちは無事に都入りを果たした。
そして補給を受け次第、すぐに西門から発ち、バルクード・クレイモスたちと合流をしたのである。
乱を主導した三大貴族がいない中、賭けに乗った側の者たちは気が気ではなかったが、鉄蜘蛛という驚異の前に最強の兵器である『魔王』に頼るしかないという現実を受け入れ、逃げる準備を再開していた。堅牢な外壁の外側――首都から出るという選択を選ぶのは、行く宛とそれなりの金を持つ貴族に限っていたのだが。
そして時間は現在、颯汰は西門から入る。
迎えにやって来た兵やご機嫌取りに回ろうとする貴族たちを軽く挨拶で流し、颯汰は目的地へ移動する。
整備されていた石畳の路はまだ裂け目が入ったまま。迅雷の魔王がつけた傷はまだ癒えていなかった。
人の営みは、意外にも続けられている。
外出禁止令は命じていない。殺戮兵器が迫る中、普通は怯えて家などに籠るところを、民は街の修復作業やら商売を続けていた。
どうあってもお腹は空くし、働かなければ飯にありつけないのは世の常だ。
一度、王都に戻った際に驚き、近くにいた兵士に理由を訊ねたところ、内乱は早期に集結するだろうと見越していたらしい。上に立つ者が誰であろうと下々の者には関係ない、という話ではなく、魔王を討った化け物が人間が起こした内乱如きで苦戦するはずがないという新手の信頼から来ている。それを聞き、颯汰は微妙な顔つきとなっていた。
また近くに寄れば声を掛けられるであろうなと溜息を吐き、瓦礫を撤去し終えた場所から、新たに基礎から作り直して建築を始めようとしている――働く様子を眺めながらも、干渉することはなるべく避けようと颯汰は決意する。自分の中で決めたことがブレるのを恐れたのだ。
目的地へ行く前に颯汰は、“監視者”のもとへ行く。
「戻ってきましたか坊ちゃん。……その様子だと勝って凱旋ってわけじゃなさそうですが」
西門近くの、本来は外から外敵の接近を知らせるための塔にいたレライエに颯汰は会いに来た。
「はい。まだ倒せていません。それで、人質の様子は?」
「相変わらず厳重ですよー」
「やっぱり、このまま直接黒泥を追い払おうとすると、エリゴスさんたちは殺される。『早まるな』、か。確かにこのまま払えば、鉄蜘蛛を抑えている黒泥も弾け飛んで、騎士達は全滅するもんな」
一度訪れた際も三大貴族が居ぬ合間に、颶風王龍から頂いた鱗と星輝晶を用いた『外敵』の一掃を実行すべきか思案した。しかし颯汰は人質もいる事だし、紅蓮の魔王とリズと合流してから対処した方が確実だと踏んで先送りにした。さらに今回は一時的に協力関係を結んでいる。忌むべき呪いであるが、今消し去ると大変なことになってしまう。
一度バーレイに到着したとき狙撃手であるレライエをこの場に置いて、敵の行動を監視させていたのだ。監視先はピュロボロス城――アンバードの古城だ。その中庭にはまだ颯汰たちの根城とも呼べるアジトの、ログハウスが残っている。
さすがに木製オンリーの紅蓮の魔王のお手製建築物は利用されず、城の崩壊していない部分の監獄塔に人質であるエリゴスとエイルは収監されているようだ。
「ウチの最大戦力ズが整った段階で、相手も自棄っぱちになりませんかね?」
「……俺だったらやります。けどバルクード・クレイモスという男はやらないと思う」
勝てないと踏んで嫌がらせに移行する可能性は充分にあり得る話だ。だがあの武人はきっと異なると颯汰は感じ取っていた。
「あんまりこう言っちゃなんだが、希望的観測はやめといた方がいいと思うけどなー?」
「確かにそれはそうなんですが……」
本当にごく短い時間だが、彼の人となりと目的が見えてきた気がする。単に乱を起こしつつも、有事の際に颯汰を利用する、のではなくある目的のために動いているように思えた。それはおそらく黒幕側と異なるもの。
「それで、陛下は何をなさりに?」
「第一騎士団のところに行きます。地下に用向きが」
「なるほど承知しました。俺は監視を続けた方がいいでしょう? 念の為、護衛をつけて向かってくださいな」
狙撃銃型霊器のスコープを覗く。崩れた建物を利用するのは危険ではあるが、現国王への皮肉か、あるいは単純に侵入が難しく敵の奇襲に気づけば即座に対応ができるからだろうか。大胆にも城を奪ってそこに人質を幽閉したのである。
見張りの兵士の頭をレライエは撃ち抜けるが、そうすれば他の見張りに人質が殺される可能性がある。そこら辺の家や屋敷なんかより厳重であるのは間違いない。
ゆえに大人しく、今回も引き下がることを選ぶ。
颯汰は頷き、目的地へ向かった。
空気は東から西へと巡っていくのを感じる。もうすぐ遠くから颶風を纏った影が二つやって来るだろう、と颯汰は東の空を見やる。
一瞬止めた足、再び踏み出し進んでいくのであった。
2025/06/29
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