EX.01 贄の少女
暗闇が、常に彼女を閉ざしていた。
光無き世界だけが、彼女の居場所となった。
声が聞こえる。
人々の呪詛のような声。
何の言葉かは八つになる人族の少女には理解できない。いや、常人であっても理解に苦しむものであったと言ってもいい。
ヴァーミリアル大陸南東部とある山の中――。
山の中腹に掘られた洞窟の深い深い奥の奥。
カルト教団が占有する儀式場は、邪悪な信徒の昏き望みで満ち満ちていたと言っていい。
少女は頭に布で出来た袋を被され、視界が塞がれ、また叫ぶ事をも縄と布で封じられていた。手も縛られ、乱暴に引きずられながら運ばれるは、赤い血で描かれた魔法陣の真ん中だ。
そこで手の縄だけが解ける。
平時通りに腹を自ら出す。
ボロ布一枚を被るだけの、汚れた服とも言えないそれをたくし上げてみせた。
そこへ、線でなぞるように冷たい感覚が走り、次に熱がやって来る。目で見えぬが、少女は理解している。自分の腹が切られたのだと。
傷は深くはないが、表面の薄皮をすっと切られ、血が滲み、零れる。
これが儀式であり、毎日続いていた。
最初こそ、怯え、泣き叫んだが……涙を流すという感情まで涸れてしまった。
抵抗すればするほど、報復が痛い。
泣いても誰も助けてくれない。
いつしか感情が、動かなくなった。
傷口から溢れた赤に触れる指の感触がする。
さらに、ベロリと温かく濡れた感触がした。
そして歓喜の声、絶叫が響く。
言語として発しているのに獣の声と相違ない音となって響く。
それが母の声だと、彼女は知っていた。
カルト教団の教祖たる母は、愛していた父の不貞に狂い、狂い、狂い、狂い、壊れてしまった。
教団員は全員が黒の装束で白い仮面を被る。それが神聖な格好と教義で決めていた。黒のローブは共通のものだろうが、首にかけた金のネックレスと仮面のデザインは異なる。それは階級や役職の違いを表している。
教祖はわかりやすく、仮面は鳥の嘴を彷彿とさせるものであり、頭には冠を思わせる帽子が被ってあった。
不気味な出で立ちの集団が、夜な夜な洞窟の奥のこの祭壇まで集まり、“儀式”を遂行する。
その贄たる少女は無抵抗でされるがまま、儀式によって日夜、血を流していた。
「――ぃぃいい! アーッハ!! もう最高っ! やはり……の血は格別! こんなにも成長している!」
狂喜乱舞する母の声が続き、自身の顔に近づいて囁く。撫でる手つきだけは本物の愛情が宿っているが、その矛先が少し特異である。
「最高よ『ソドム』ぅぅ……。愛しい私の『ソドム』……。やっぱり、やっぱり“この器”が良かったのねぇぇええ!!」
袋越しに顔に触れて酔いしれる狂人――母の嬌声が響き渡り、反響しては、少女は酷い頭痛に苛まれ始める。零す血の傷口よりも痛み出した。
儀式はまだ終わらない。
囲む七人の信者がそれぞれ祝詞を口にする。
それを聞けば、頭痛も吐き気も強まっていく。
そして胸の内側からも耐えられないほど痛みが襲い掛かり、少女は堪らず悲鳴を上げる。
縛られた口から出た絶叫は、被された袋によって幾分も弱まって流れた。
張り裂けてしまいそうな苦痛に悶えていると、
「キィイイイイッ!」
発狂する母――教祖は信じられぬ事に娘である少女の頭部に、横から蹴りを入れ出したのだ。
その勢いで魔法陣上から離れた途端、周囲から発せられた呪文は絶える。
それがさらに気に食わなかったと激しさが増してしまう要因となった。
「こっの、役立たずっ! 儀式の邪魔をするんじゃあないよッ!!」
そう叫ぶと近づいては屈みこみ、少女の首根っこを掴んでは力を込め始めたではないか。
少女の口から掠れた音が漏れる。さらにもう片手が回されて、供給されるべき酸素が足りず、意識が朦朧としていた。
このままでは死に至る――その寸前で一人の信者が止めに入る。無言で教祖の肩に手を置いた。
「あ、あぁぁ……!」
我に帰る母は、己の震える両手を見やり、再度発狂した。
後悔や懺悔の言葉を叫ぶが、それは自分に向けられたものではないと少女は知っていた。
「『ソドム』、『ソドム』……ごめんなさい、ごめんなさい……私の可愛い『ソドム』……! うぅううう、私は、私は……――!!」
顔を掻きむしるように黒い手袋で仮面に触れる教祖。
しかしその言葉が中断される。闇を照らす光が消えたのだ。
「!? な、何者だッ! ぎゃああああ!!」
「く、曲者だ! 異端者めええ――ぐぎゃっ!」
「うわあああああっ!!」
洞窟に悲鳴、怒号、叫びという叫びのすべてが木霊し、拘束された少女だけが状況が掴めないでいた。いや、きっと襲撃を受けたカルト教団さえも掴めていまい。
やって来た独りの男が持った短刀を投げて、儀式場たる祭壇、唯一の光源である燭台の上――蝋燭の火を器用にも消して見せたのだ。
闇で視界が覆われた中、双刃が煌めいた。
状況は同じであるはずだが、襲撃者はそれでも的確に敵の居場所を掴み、斬り伏せていく。
何か作戦を考えていたが、少女の姿を見た瞬間、そんな悠長な暇がないと襲撃者の身体は動き出していた。
夜の闇に眼を慣れさせたがそれだけでは人が行き来が可能とはいえ洞窟内で剣を振るうのは難しいだろう。しかしこの男は敵の気配だけを追い、正確に斬りつけていた。
そのような芸当を成せる剣士は数少ない。
「誰か! 誰かあああ――」
見張りは既に片付けている。
また特別な儀式らしく、教団員は一部しかいないのは好都合であった。
あとは残る害悪を取り除くだけ。
ほんの僅かな時間で、六名が死に至る。
それぞれが一撃で喉元を斬り裂かれたり、背を貫かれたりして絶命していた。
大慌てでランプの明かりを灯した教祖。
「お、お前はマクシミ――」
それはかつて、ヴァーミリアル大陸東部の大国ヴェルミにて――“剣狂”と呼ばれた黒狼騎士団所属の騎士の名。
だがその先を語る事は、永遠に訪れない。
揺らめく炎の光が反り燦然と煌めく二つの刃。
襲撃者の双剣は同時に教祖の目と首を斬りつけ、また即座に心臓に向かって一刺しを入れる。
ランプの硝子が音を立てて砕け散ると、辺りは静寂に包まれていった。
暗澹たる狂信者たちが作り上げた魔窟の中は、人の心を苛ませる邪神像の他には、ものを言わなくなった遺体だけが転がる。
その中で生きる者は二人だけとなった。
「…………!」
少女は、怯えていた。何が起きたか、わかっていても、理解ができていなかった。
混乱のさ中、足音がした。
音の大きさから近づいてきていると察する。
「……、……!」
少女の心音が高鳴る。
迫る音よりも大きくなる。
「……、……! ……!」
何かを訴えても、声が出ない、響かない。
手足を懸命に動かしたとき、“ねちゃっ”っと粘着質の何かに触れた。何かの液体の感触に少女はもう気が狂いそうになっていた。
痛みはもはや忘れて、恐怖しか感じていない。
いや、恐怖が生まれたと言っていいだろう。
痛みに怯えて失っていた感情の数々、喜びも怒りも哀しみも楽しさすら無為であると少女は諦めてしまっていたのだ。
実の父が殺され、母が狂ったというのに少女にはもう、怒りや哀しみの感情がない。そしてその母が今、死んだというのに――それに対して心が動いていない。
塞がれて見えぬ恐怖も、手足の自由が奪われた恐怖だってすぐに慣れたのに、少女は純粋に痛みだけを嫌忌していた。
だから儀式の際に抵抗はせず、黙って儀式を我慢すれば、痛いのはそれだけで済む――しかし、その痛みは日を追うごとに強まっていった。
それでも我慢すれば余計な痛みはやってこない。不思議な事に恐怖や感情が、日に日に麻痺していったのに、それでも痛みだけが残っていた。
呪縛から解き放たれた途端、いやむしろ解き放たれたゆえに、心を覆う氷に亀裂が入ったから感情が取り戻されたのだ。そして、まず始めに蘇ったのは原初たる感情――生きるために必要な感情である“恐怖”であるのは必然だろう。
――こわい、こわい、こわい、こわい
なんて酷なものだろうかと感情を組み込んだ設計者を呪うべき状況だ。幼き彼女はそれ以外に何も持ち合わせていないのだから。ただ恐怖に成す術もなく、
「―――、―――!」
振り絞った叫びをあげた。
次は胸が潰される感覚を味わう以外にない。
しかし――、
次の瞬間――、
彼女の身を包むのは、
「遅くなって、…………すまない」
とても穏やかな男声と――、
抱きしめられ、忘れていた温もりであった。
◇
そして、その後――。
少女は保護され、とある貴族の養子として迎え入れられる事となった。
領主の屋敷はそれは広く、温かかった。
まだ彼女は心を完全に開き切れていないが、確かな愛情を周りから注がれ、少しずつその氷が解けていくだろう。
そんな彼女がよく訪れるのは執務室であった。
領主たる義父の執務室は、他の貴族たちと比べると些か飾り気がないと言えるほど地味で、実用的な部屋だ。
彼女は、壁に飾られる双剣を眺める……何となくそれが日課となっていた。
サクッと。
EX.02へ続きます。




