21 退却
黒い呪いが立ち上る。
影は闇を生むものであるが、この巨影は闇そのものだ。
颯汰はじっとりとした脂汗を誤魔化し、強気なふりをした。
これから逃げるつもりとは思えぬ言葉――。
たった一言ではあるが、浴びせてやった。
よく効く、挑発的なセリフを思い浮かべられるほど颯汰に余裕はなかった。
しかし、敵にとっては充分だったようだ。
呪物の塊が蠢き、怒りの叫びを上げる。
びりびりと耳朶の奥まで届き、全身を震わせる衝撃は波となって襲い掛かる。
もちろん、顔のない頭からではなく、腹部に並んだ剥き出しの歯が開き、その口から怒号が響いてきたのだ。
彼らが守ろうとした御者は颯汰と龍の子シロすけの手によって丘を越え、彼らでも見えなくなっていた。
特に長い間、共にいたわけでも恩義のある相手ではないが、操影者たちは御者の男を逃がそうとして命を賭した。
颯汰もあえて抵抗させて敵内部の結晶物を捕食して回復を図るという、性質の悪いチンピラ化け物ムーブをしたため、抵抗されるのは当たり前だったとは自覚はあるが、想定以上に全力で抗われたカタチである。
目的を悟られぬよう誤認させるためだったとはいえ、少しやりすぎてしまった感はある。
時は戻らぬため、どうしようもない……と言い切るには少しばかり心苦しいものがある。ただ、ここで颯汰がしてやれることは一択しかない。
「……まずい、一人ひとり“欠片”と一体化してる」
「どういうこと?」
「前は乱暴に結晶物さえ取り出せばよかったんです。それに最悪、“欠片”さえ破壊すれば活動は止まる。……それが追加投入の分、増えた“欠片”までもが核である中のヒトらとそれぞれ結合している……。ひとりどうにかしたところで、止まらないかも」
操影者が肉体に埋め込んだ小さな“欠片”と呼ばれる結晶物であるが、黒泥自体にもそれが微量に含まれている。集結して巨大化した黒泥は液状の中で“欠片”までもが結合し大きくなる。
颯汰的にはでかくなった方が回収にかかる手間がなくて楽ができる。つまり戦闘での消耗を抑えて回復が可能である。ゆえにあえて黒泥だけによる合体を誘発させた。
各地域に嘘の情報をばら撒き、攪乱させたうえに自分が北部にいるとデマを流せばそちらに兵をやると睨んだのだ。また南西の暗黒大陸から北上してくる魔物を討伐・撃退は避けて通れぬ問題であるからそこへ少数精鋭を投入する――大量の魔物を打ち倒せるだけの“兵力”として黒泥が使われる、とまで颯汰は読んでいた。
問題は本来は核となる生贄たる人間が操影者であるせいなのか、“欠片”が核とまで結合してしまっている。それが五体分、一体の魔神の内部にばらばらに存在している。
現状、“欠片”を回収し力を取り戻す――充分に戦えるだけ回復しなければ『次』の戦いで勝てない可能性がある。アンバードから黒泥の呪いを残らず全て祓うには、中心地に赴く必要がある。それを阻む――王都に座する叛逆者であるバルクード・クレイモス公爵との戦いを控えている以上、ここでは殺さずという選択を取るしかない。
「……それで、どうするの?」
「目標を繊細に扱わなきゃいけませんが基本的なアプローチは変わらないです。今度は当人たちを直接引っこ抜く必要があります」
「なるほど、だからプランB、あれを使うために」
「そういうことです」
だからこそ、まずはこの場を退く。
だが、ただで逃がすはずもなく、歪な泥の魔神の猛攻が始まる。
黒泥の魔神が殺意を持って攻めてくる。守るべきものが手元にいない分、攻撃が激しくなった。
縦方向に振り下ろされる腕は電柱よりも遥かに太い巨木の幹。
速度が増して地面がへこむほどの怒りが乗った重い一撃が、連撃となって襲い来る。一撃一撃がぶつかる度に大地が揺れるように思えた。どんな英雄であろうと建物すら押し潰す“重さ”に抗える術はない。
黒泥の魔神は逃げ場を塞ぐように両手を使っていた。
そして、自分の身体の一部である泥を銃弾のように降らせる。
狼となった獣刃族の雪の民であるマルコシアスは軽快に避けているように見えて、実のところかなり必死だ。
仲間たちの撤退させるための時間稼ぎ役を買って出たふたりであるが、すでに厳しい状況であった。
あえて目標地点を遠回りし、敵の攻撃を引き付けようとしていたが、限界が迫る。黒泥の魔神の振り回す長腕が鞭のようにしなった。横方向からの薙ぎ払いだ。触れれば即死、あるいは呪いで確実な死が待っている。
なんとかマルコシアスが飛び越えた先に、追撃と言わんばかりにもう一方の腕が横から振るわれていた。
声を失うが、目を閉じずにいたマルコシアス。
そこで颯汰は左腕を先の地面に向けて構え、瘴気を射出する。
黒の粒子が集合して作られた黒鉄の顎は地面に食らいつき、颯汰たちをその地面に向かって引き寄せる。巻き取り式のフックによるワイヤーアクションだ。
突如、軌道を変えた緊急脱出にて回避したところ、掴むように下げられる巨大な手。着地後、マルコシアスは地面をすぐに蹴って加速し、どうにか逃れられた。ふと叩きつけられた大きな手を見ると、魔神の黒い指から触手がびらびらと発生している。
「うわキモっ!?」
「あんなのに捕まりたくなーい!!」
どうにか腕を伸ばした範囲から外れたと思った矢先である。
魔神は黒の腹部から下が埋まっている漆黒の水面から足を出し、立ち上がった。
「うわ」
「なんなのアレー!?」
人型ではない。魔獣はただでさえ人としてシルエットがズレ始めているというのに、加えて足が四つある。後ろの足は逆関節、前足は蹄がついているのはわかるが何の動物かは黒一色で分かりづらい。
足が生えても両手は地面につくぐらい長い。
何よりも目を引くのは、下半身が四足動物のケンタウロススタイルなのだが、その人間の股にあたる部分よりやや上から、股下まで縦に歯が並んでいる。
何のためか考えるのが馬鹿らしくなるような歪な存在だ。
その崩れかけた翼も後光のようについた輪も、意味などないのだろう。
ただ、人の心を苛むためだけに存在するような怪物が、駆けながら手を伸ばした。
奥へと逃げる颯汰たちを掴みにかかる。
先ほどまで移動は緩慢な動きであり、小さいときより鋭敏に攻めることもできなくなっていたが、質量が大きくなったことにより攻撃範囲が激増していた。そこに移動が可能となり、機動力までもが加わった。
数十ムート先を行っても、たった一瞬で攻撃範囲内に到達させたのは多脚のせいである。
風は命が救われた知らせだ。
巨手が過ぎて、巻き起こる暴風が髪の毛を乱暴に撫でていく。
直後、移動を続ける颯汰たちに反して魔神が動きを止める。
何かの予備動作であることに颯汰は気づいた。
「まずい――、跳んでくる!」
地面を後ろ足で蹴り、跳ねて飛んできた。
十ムートほどの巨体が爆発的な加速で距離を詰め、腕を振るった。
ビーチフラッグをダイビングキャッチするかのように、全身を使って飛び込んできたのだ。
大地を削りながら、抉りながら迫るのはもはや恐怖でしかない。
回避できたのは、ある種の幸運だろう。
颯汰が一瞬の判断でマルコシアスを掴みながら、今度は右腕を補う形で装備した布型霊器である『ディアブロ』で跳ねたからこそ、寸のところで避けられた。
魔神の手は空を切り、飛び込んだために態勢を崩した。
普段であれば攻め入る好機に思えるが、今の颯汰は撤退を進言する。
「て、撤退で!」
「アイサー! って、まずいまずいマジで逃げなきゃ!」
「あいつ、跳躍しやがった……。シロすけ! ナフラさんのところへ! これを!」
颯汰が右腕代わりに用いている深紅の襤褸切れを手で千切り、白龍の子であるシロすけに咥えてもらう。最速の竜種であるシロすけに先行してもらい、第八騎士団長であるナフラと合流させる。これが「作戦変更:第二プラン」の準備を知らせる合図となる。颯汰一人で手に負えない場合を想定した別プランを予め用意はしていたが、全員で合体までは想定していなかった。
ここからはアドリブとなる。
敵が再び、同じ態勢をとった。
「じ、時間を稼ぐ余裕もない――!」
「陛下、一気に加速して離脱するから、ね――!」
まさに狼は風のように駆けている。
それでも泥は命を脅かしに降り注ぐ。
さらに、魔神が後ろの足で飛び跳ね、降ってくる。
次は横方向ではなく、斜めに飛んで踏みつけを狙っている。
鈍重な肉体であるのに、全長の倍の高さは跳んでいた。
落下したあと、爆撃と称しても何らおかしくない衝撃であった。
俊敏ではなく、攻撃行動に溜めのような時間があるが、準備が整ったときは爆発的な加速から嵐がやってくる。
狂乱する呪詛の魔神――。
しかしその内面では驚くほど静謐に満ちていた。
『……逃がさぬ』
『助ける』
『気持ちいい』
『あぁ、世界は美しく……』
『溶けて、融けて、解けていく。帰れる、あの宇宙へ……』
恍惚とした声。
破壊衝動に狂っている外面と異なり、内面は穏やかに狂気に侵されていたようだ。身体中が泥に包まれて、すべてが融解している感覚。彼ら自身、何を口にして、何を思っているかわかっていないのかもしれない。
他の騎士団がいた場所を颯汰たちは通り過ぎる。
直後、鎧だけの模造品の騎士たちが魔神の一振りで薙ぎ払われていく。兵の人数が多いと誤認させるために用意されたが、役目をはたしてぐちゃぐちゃに吹き飛ばされていった。
颯汰たちは丘から奥へと駆ける。
登りより、下りが早くなる――のは、敵方も同じ。
むしろ上からの跳躍の方が、狙いがつけやすい。
魔神は吠え、丘の上を跳ぶ。
下を駆ける狼と王を押し潰すために。
「――ッ! まずい……! 陛下だけでも」
「いや、大丈夫。このまま走ってください!」
目的地は丘を下ってさらにもう一つ上った先だ。
向こう側に走っていく騎士たちが見える。目的地に近いため直進していた山賊+第五騎士団の姿だろう。全員は目的地へ向かわせるが、囲うように展開した騎士たちが万が一追いかけられたらまずいため、それぞれが別ルートで迂回などさせてから合流するように話し合いで決めていた。
「そのまま直進!」
颯汰の言葉の後、響く声は別人であり、また別の相手に投げかけられたものである。
「――ぅぉおおおっ!? わ、わかったぞぉおおおッ!!」
凄まじい速度で、宙を飛翔した影。
その手に白銀のハルバード――鉄蜘蛛を素材に造られた超重量の武具を持つ青年。頭の二本角は鬼人とは異なり後ろ方向に伸び、大きなトカゲのような尻尾がある竜魔族の戦士、否――“姫”を邪悪な魔王から救いにやってきた自称・聖なる騎士、城塞都市コックムから単独で追いかけてきた青年である。
馬上にて、第四騎士団を束ねる魔人族がその赤い玉石じみた瞳で捉える――疑似魔法で泥の内部を透視した。飛ばされて来た頑強な竜魔に指示を下し攻撃させた。
無理やり飛ばされる――颯汰が黒泥の巨人を襲撃した際と同じ手段だ。
投石器を、鍛冶師であり技術屋の第八騎士団が作ると極大射程の魔道具と化す。それで飛翔した青年は、泥の魔神の左腕を切り落としに掛かった。
「覚悟! 我が聖なる刃にて、落ちよぉおおおッ!!」
加速がついた重い斬撃が、通った。
跳躍直後であった泥の魔神は、けたたましい叫びとともに、落下する。
落下地点は丘を下ったすぐ近く、颯汰たちは足を止めずに下っていく。
倒れた黒泥の魔神。
だが傷が少しだけ浅い。
切断に至らないが、魔獣はまるで痛覚があるかのように倒れながら抑えるように手で触れようとしたところを――、
「勝手ながら――いざ、参る」
颯汰たちが走る前に、すれ違いざまに駆けていったサブナックが電光石火で切り込んでいく。掛け声とともに斬撃が放たれた。そのままでは巨体が邪魔で軍刀が当たらぬところを、軽やかに跳躍しながら切り付けた。
「わぁお見事!」
「なんで途中でバック走してから宙返りでぶった斬れるの!?」
颯汰が王都で剣術修行として何度か木剣を交えた相手であるが、この曲劇じみた動きは見たことなかった。空中にて身体で弧を描くような美しい宙返りと一緒に放たれた斬撃は、切れ込みが入った魔神の腕を切り落とすに至った。
切り落とした巨大な腕がのたうつ。
びちびちと鮮魚のように動く泥の腕を見て、颯汰が叫ぶ。
「マルコシアスさん!」
「了解!」
物分かりもいい姐御は颯汰を運ぶ。
目標地点に向かう前に、好機が訪れた。
狼は大地を蹴り、方向転換し駆けあがる。
千切られたミミズのように暴れ狂う腕に、颯汰はディアブロの反動で再び飛びつく。
「――そこだ!」
掲げて黒鉄と化した左腕をねじ込み、掴み取る。
粘着質な泥は対象を離すまいと抵抗するが、絶対的な力の前に成す術もない。
操影者であったエルフの女性――裸体の胸の谷間に大きな銀の結晶が付着していて、それを掴んで引き上げる。左腕と瘴気でホールドし、ディアブロを用いて離脱した。
「うぉおおっ! ……おぉぉーっ」
掛け声の後に、少年王は感嘆の声をもらす。
「陛下ー?」
「これより回収作業に入る!」
身内より声が冷ややかではないのは、大人としての余裕か男という生き物が何歳であろうとそういうものという理解がある程度あるからだろうか。ちょっと呆れている様子ではあった。
気を取り直して女性から“欠片”を回収しようとしたところ、黒泥の魔神が絶叫する。
体を起こし、仲間を救おう――あるいは身体の一部を取り返そうと動き出す。
再び、マルコシアスが颯汰の股下に潜り込む形で彼を乗せ、走り出した。
颯汰は驚きながら、右のディアブロと左腕の瘴気を操り、女エルフをがっちり掴んでいた。
「行けますか!?」
「女の人ひとり増えたぐらいなら、大丈夫よ!」
「わかりました! ――ふたりは散って、目的地へ! 頼みます!」
颯汰は援護に来た仲間たちに声を掛けて、マルコシアスと共に目的地へ移動する。
攻撃を仕掛けた側の戦士たち、サブナックは肯いて別方向へ。竜魔の青年は「邪悪な魔王めが命令なぞ……!」などとボヤきながらも超重量の武器を担いで移動を始める。
第四騎士団長は目的地へ真っすぐ、ウマで先行していた。
泥の魔神は攻撃してきた矮小な存在など見向きもせず、奪われたものを持つ怨敵だけを見つめて動き始める。踏みつけた左腕は泥として一体となり、腕部を再生させていた。
2025/04/14
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