15 深い闇
暗がりで呼吸がふたつ。
古く、歴史のあるボルドー要塞に暗雲が立ち込めた。
曇天の下、闇に包まれた屋敷に僅かな光が差す。
横に開いた大穴からも、外の空気が流れ込む。
空気中に散った塵の動きが見えた。
「あ、あり得ぬ……」
喘ぐような声で言葉を絞り出す。
ボルドーの指揮官用の一室は、プライベートゾーンではなく作戦会議のための、大きなテーブルと敷かれた要塞周辺の地図などがある。
ここで事務的な作業も行うためか机と椅子、本棚などある程度のものは揃っているが、娯楽的なものは何一つない。それにしても広い部屋であった。
バルジャ・ウィック公爵は予めここを陣取り、敵を迎え撃つ手はずを整えたように思える。
闇の勇者であるリーゼロッテを――化け物を狩るための最大戦力がこの場に集まった。過剰戦力に思えたが、それは“恐れ”からではない。
ただ全力で敵を叩き潰すことに、相手の心を踏みにじることに悦楽を覚えているだけで、決して公爵は念には念を入れたわけではない。
黒泥でできた剣と人面皮の盾で武装した黒狼騎士の骸――変異体となった魔獣騎士カロン。
バルジャ・ウィック公爵は軍服を着こみ、杖の石突をリズに向け、笑みながら影を召喚した。
四体の影は真っ黒で人のカタチを模る。それぞれシルエットが異なっていた。
一人は長男の再現体――文武両道で自慢の跡取り息子であり、欠点を強いて言えば他者に甘いところ。剣の腕前は同年代てトップであった。
一人はかつて親友の再現体――アンバードの騎士団長の地位が確約されていた槍使いであった。
一人は救国の英雄の再現体――ヴァーミリアル大陸にてその名を知らぬ者はいない混血の武人。
一人は“魔王”の再現体――アンバードを支配した転生者。真には程遠いが数瞬だけ黒泥に汚染されたときと同等の力を発揮できる。
彼が知る中で最も強い僕であった。
中には自分の保身や欲望のために謀殺した相手もいる。再現した紛い物とはいえ、魔王以外はバルジャ・ウィック公爵が知る全盛期のものだ。さらに魔王の方は、魔法こそ使えないものの――黒泥に汚染させたときに得た情報で解像度が上がり、もはやガワだけの偽物ではなかった。他の影三人を圧倒できるだけではなく、勇者ですら追い詰めることができるほどの戦闘能力を得ていた。
加えて若返ったバルジャまでもが参戦した。
六名の最強の狩人にて、化け物と対峙する。
既に傷を負って追い詰められていた化け物に、殺意をもって襲い掛かる怪物たち。
絶望的な状況で戦いが再開する。
魔獣騎士カロンは、吹き飛ばしたリズを激突させて開けた穴を、広げながら中へ入ってくる。
四人の戦士はそれぞれ臨戦態勢に入る。
煉瓦の山から、ヨロヨロと起き上がるリズは既に満身創痍であった。
立ち上がるのがやっと。
荒い呼吸の音がする。
息を吸って、吐くたびに痛みが奔る。
肋骨が折れているようだ。
切った傷口から血が流れて袖からも滴る赤。不可視の剣に伝い、ぽたぽたと音を立てて落ちる。
打撲で青くなった部分もある。
服もマフラーも、髪も砂ぼこりで汚れていた。
儚く――吹けば倒れるくらいに、見えた。
放っておいても、然したる問題はない――。
戦ごとの素人であるバルジャ・ウィック公爵はそのように判断していたが、せっかくの玩具がどこまで耐久できるか玩弄したい気持であった。
一方で、言語能力など無く、行動はすべてオリジナルであった人間を模すだけの影たちはそういった油断などない。オリジナルの人間たちが『手負いの獣』こそ恐ろしいものだと認識していたからだろう。雷を操る魔王を模した影も、一見すると余裕がありそうな舐め腐っている態度を取りつつ、即座に対応できるように彼女を見つめている。闇の中――真っ黒のシルエットであっても、顔の向いている方向からわかる。
誰もふざけてはいない。
真剣に、リズを殺すつもりであった。
そして、嘲笑が響く。
それが狂おしい哄笑に変わる前に――夜の帳が下ろされたように、闇が部屋を満たしたのだ。その様子を外界から観測していた兵士はいない。だから、闇に包まれたなどという事実を聞いたところで首を傾げることだろう。曖昧な何かの表現であるのだろうか、と。
実際に、黒い膜が部屋を包み、内情を隠していたのだ。音も遮られ、外界から断絶する。一種の結界が張られた。
それから――。
時間にしてそれほど経っていない、火にかけた水が湯として沸きあがるよりも早い時間で闇が溶けて消えていった。
静寂を破ると呼ぶには弱々しい、苦し気な呼吸の音がふたつ。
『……見事、だ……』
そう言って、横たわる傷だらけの巨体。
手から零れた剣は砕け散り、盾は顔ごと裂け、漆黒の泥は溶けて白骨があらわとなる。
黒泥によって再誕した魔獣騎士カロンは、死滅した。異臭はしないが、ボコボコと茹だつというよりも沼地のガスのように気泡が表に出ながら泥はただの物体に還った。
肉や臓腑はすべて泥に吸収されていたため、床に残った黒い液状の中から、重なり合った遺体の数だけ骨が出てきた。
『ありが……と……』
女の声が聞こえた気がする。
既に死した骨から幻聴が響く。
さらに室内で倒れる影たちの消滅が始まった。
首が切られ、胴が分かれ、身体に穴を開け、殺意の限りに切り裂かれた黒い影が、塵となって溶けて消えた。
「馬鹿な! こんなこと、こんなこと……!」
バルジャ・ウィック公爵が荒い息遣いで騒ぐ。
傷を負った右肩を抑えながら、だらりと下がった右手では武器がもう握れない。泥に汚染されて赤い血の代わりに、同色のコールタールを思わせる黒泥が傷口から滴り落ちている。適合率が他の二名より低いが、中身がしっかり汚染されていた証拠であった。
一人の戦力外を除いて、油断はなかった。
ただの人間であれば、どう足掻いてもひっくりかえせない。
だというのに、成す術もなく倒された。
一方的な狩りのはずが、すべてを屠ったのは闇の勇者であったのだ。
唇どころか、全身を震わせてバルジャ・ウィック公爵は化け物を見やる。
先ほどよりも、さらに疲弊しているのが、流す汗と息遣いから察することはできる。
だが、今にも倒れそうだったはずのリズが――敵を殲滅したという事実に、公爵は恐怖に支配される。
何が起きたか理解できない。
目で見たものが信じられない。
――あれは、あれは一体、なんなのだ
泥に汚染される以前から、恐れなど無縁なものだと心を騙し続けてきた。
バルジャ・ウィック公爵は、自分が成り上がるために、踏みにじるように潰してきた他者の命への自責から逃れるように、薬物に手を染めた男だ。過去に殺した敵や子供の幻覚に責められ続けていたが、薬が効いている内だけ、己の罪から目を背けられたのだろう。
先ほどまで見ていたものまでが、幻なのではなかろうか。今、立っている足は本当に自分を支えられているのだろうか。
薬を打つたびにボロボロになっていった身体は若返った代償に、薬の効きがどんどん悪くなっているように彼は感じていた。ゆえに、今見ているのは過去の亡霊が――自分が謀殺させた裏切り者やライバル、利益とならない英雄に駒として役目を終えた簒奪者たちが挙って自分を騙しているのではなかろうか。
思考が纏まらないが、恐怖はそこまで迫っている。バルジャ・ウィック公爵は逃走を選択する以外になかった。
――……まさか、あれは同じなのか?
最強の駒を用いても、傷を付けられなかった。一方的な虐殺を行使するつもりが、一方的に返り討ちにあった。そうなれば自然と逃げる以外に選ぶ余地などない。
バルジャはなりふり構わずに逃げ出そうとした。
軍服に合わせた軍帽も落ちても、飾りの着いた杖なども放置して這うように逃げ出す。情けない悲鳴をあげながら、部屋から出ようとしたときであった。恐怖に駆られ、竦んだ足だけでは動けなくて、両手足を使ってその場からどうにか退こうとした。
すると、音がした。
それは剣が床を突いた音である。
バルジャが手足を使って起き上がって振り返ると、リズが膝をついていた。
剣を短い杖のようにして、どうにか倒れないように姿勢を維持している。
リズは、バルジャを倒そうとしたが、一歩も進めないどころか、態勢が崩れたのだ。
肉体的にも精神的にも、限界などとうに超えていた。
熱は解け、寒さが爪先からじんわりと包む。
身体を懸命に動かそうとして、リズは倒れた。
ばたりとその場で倒れ込んだのだ。
「………………おや」
目を丸くする公爵。
「ふふ、ふふ、ハハハハハ……」
恐怖に染まっていた顔は、この上ない喜びへと変わった。勇者が限界が迎えたと知ったのだ。
公爵は軍服の内に差していたナイフを左手でまさぐるようにして取り出し、振って鞘を捨てた。カランと軽い音を立て、公爵はけらけらと笑いながら倒れたリズに近づいていく。
リズは意識を失っていなかったが、全身に力が入らなかった。確実に無理が祟ったのである。颯汰のことをもう責められない。彼女の“奥の手”を自分が想定した限界以上に引き出した結果だ。逆に言えばそれだけの無茶をしないと勝てない戦いだったとも言える。
「まったく驚かされたが、終わりだな」
公爵は持ったナイフの刃は、彼の邪悪な笑みを反射して映すが、気にも留めていない。
そのキラリと光る刀身は、確かに忍び寄るものの姿をも捉えていたというのに――。
公爵がナイフを逆手に握り直し、闇の勇者にトドメをさそうと頭の上に掲げた。
あとは振り下ろすのみだ。
勇者を葬った人間として歴史に名が刻まれるのだろうという、なんとも歪んだ誇らしい気持ちになったところで、彼の夢は潰える。
「――!?」
振りかぶるようにして反った背と、腹に衝撃が襲う。
「な、なん……?」
公爵の視線が下を向く。
赤と黒が混じった血に染まる銀。
腹部を貫通したのは剣であった。
それは何も特別なものではなく、支給されたものだ。傭兵や一部の騎士は商売道具は自身の命に直結するため、ある程度は自前で用意するものの、爵位を持たない下級貴族からなる王国騎士などは、こういった支給品に頼ることが多い。
「それはいけませんよ。父さん」
「!? きさま……、まさか!」
潜めていた息がひとつ。
特別じゃない一本にて、特別じゃない青年が、父親の耳元で囁く。
青年は返答代わりと言わんばかりに突き刺した剣を力いっぱい押し当て、回す。
内臓を傷つけるようにしたあと、剣を引き抜き、倒れた公爵へ近づく襲撃者。
剣を抜いたときの反動で少し離れ、覚束無いような足取りで父親に迫った。
「ばかなッ! よ、寄せ――」
公爵の背に、斬撃が叩き込まれる。
それは剣術などではなく、力いっぱい憎しみを込めて振るわれた。
「いつも兄さん、兄さん兄さん兄さんと! とっくに死んだやつばかりを!!」
公爵の息子である次男は、腰を下ろして高さを合わせて斬ったあと、相手の腰部分に乗りながらザクザクと剣で何度も突き刺した。うめき声が途絶えても、何度も何度も何度も何度も――父親を穿ち、穴だらけにした。
「僕は、『でき損ない』でも、『次男』でもない! 僕は僕だ!!」
その一部始終を、途中から目を逸らしたリズ。
剣と肉の音が消えたとき、青年の呼吸の音は誰よりも大きなものとなる。
「――…………ずっと、こうしたかった」
何度か呼吸をしたあと、出てきた言葉には、憎しみもなく晴れ渡っていた。
リズがどうにか立ち上がろうと試みるが、まだ身体に力が入らない。
その様子を見て、青年――バルジャ・ウィック公爵の息子が、兄と比べて『でき損ない』と称された次男が言う。
「……無理を、なさらない方が、いいです」
魔人族の青年の銀髪は返り血で幾分も赤なり、その目はぎらぎらと燃えるようなものは、もう幾分も潜めていた。
「この黒いベルトを外せば、呪いも解けるようです。不死であれば何度でも殺せますが、こういったチャンスはたぶん一度切りでしょうから」
そう言いながら青年はマウント体制に入ったときにこっそり外していた公爵の『ヘヴン・ハート』を持ち上げ、思い切り壁に叩きつける。
それだけじゃ壊れなかったが、手元にあるよりはいいとして、ため息を吐いた。
「すいません。闇の勇者、リーゼロッテさま」
何食わぬ顔で青年は父の首を刎ねる。
しかし素人であるため、スパッと綺麗に接合面をつなぎ合わせることだできるほどではなく――ギコギコと力を入れて、どうにか断つ。
首の切り口から噴き出すはずの血は勢いなく、どろりとした赤黒い粘液だけが出てくる。
汚染の進行具合は他のふたりの大貴族と同等であったが、彼に適正がないゆえか、あるいは薬物を常に摂取した弊害か、彼の肉体の再生することも、頭部だけで喋ることもなかった。
ただ当たり散らした息子に、今までの恨みをすべてぶつけられて公爵は絶命したのだ。
「救護のものを呼ぶにも、まずここの戦闘を終わらせる必要があるでしょう。……本当は父を殺した後にすぐ僕も後を追う予定でしたが、この首級をもって戦闘終了の号令とさせます。暫しの辛抱、ご容赦ください」
父親の頭部の髪を乱雑に掴みながら、青年は立ち上がる。未だ狂気が冷めぬという面で、彼は倒れている少女に一礼をして、ふらふらと部屋から出ていく。
最高指揮官であるバルジャ・ウィック公爵が討ち死にしたとなれば、士気は低迷し、まもなくこの地の戦闘は終わるだろう。次男は兵に降伏するように説く役を、買って出てくれたのだ。
リズは何かを言いたげであったが言葉を操ることもできず、彼の消えそうな背を見送るしかなかった。次第に意識が薄れ、彼女だけの闇が訪れる。
こうして、ボルドーの制圧が完了したのだ。
兵の損失は最低限であったものの、人質が全滅という最悪の結果ではあった。
2025/02/27
一部修正




