11 裁きの日
アンバード領内の西部にあるカメリアという都市は交易の拠点である。
広大な湖である“巨龍の瞳”――海商連合州に近いため、この都市は交易が盛んであり、また駐留する騎士たちのいる軍事施設も隣接するように建てられていた。
加えて、都市全体を俯瞰するように居城もある。あくまで防衛用に建てられたからか質素な造りであったのだが、石材で建てられた城は他国の者を牽制する重圧を持っていた――のも昔の話。この地に生まれ育ったダリウス・ファルトゥム公爵の手によって変わったのである。
ダリウス・ファルトゥム公爵は、三女神を崇拝する女神教の司祭として活動をしていた。
昔、女神教の総本山であるベルデガウル大陸の『ルミエーデ』という国から、布教のために渡ってきた司祭がいた。その意志を代々継ぎ、当代の司祭となったのがダリウスである。
先代司祭の男は孤児院も経営していて、身寄りのない子供達を引き取っていた。
その一人がダリウス少年であった。
純朴で信心深い女神教徒であったダリウスは、養父であり先代の司祭との関係は非常に良好であったようだ。
ある瞬間までは――。
聖職者となるために日々、励んでいた少年は目撃する。
同伴していた町の大人たちと別れ、近隣の村への使いが済み、予定より早めに帰ってきたときであった。
教会の扉の先――くぐもった叫び声と、叩きつけられるような音が聴こえた。
ダリウスは強盗が来たのだと思った。
心優しい気弱だった少年は、大好きな育ての親を助けなければと勇気を振り絞りながら、警戒するように扉をゆっくり開いて侵入する。
しかし誰の姿もなく、音だけがどこからか聞こえてくる。さっきよりも場所がはっきりとわかったダリウスは、懺悔室に向かった。
そこで少年は知る。
養父が行っていた孤児への「暴行」を――。
まだ幼かった彼には理解できなかった。ただ何となく、観てはいけないものを見てしまったという忌避感と、身体の内でうねる熱に脅かされるようにして教会から離れ、寮内の自室のベッドの中で震えた。冷めぬ熱と膨張した感情と迸る混乱で、涙を流したという。
その翌日に養父は遺書を残して自殺した。
天井にかけたロープで首を縊って、吊るされた遺体を彼が発見した。
他殺の線はないという憲兵の見解である。
今となって知る由もない。
先代が残した遺書には縊死を決意したそれらしい理由と、ダリウスを次代の司祭となるようにと熱い願いが込められていた。だが、そこには罪の告白は一切なかった。
彼は永遠に戻らない。
失われた愛は、二度と戻らない。
どれだけ祈っても、何も変わらなかった。
心にぽっかりと穴が開いた。その穴から亀裂が入り始め、彼の中で大事なものが揺らいでいく。
時を経て――、エルドラント大陸経由でルミエーデに渡ったダリウス青年は、女神教の高位の聖職者たちから司祭として認められた。カエシウルム大陸経由の方が近いうえに砂漠じゃないけれども、魔物が跋扈する地を進むよりかはマシだとして、灼熱と荒涼の砂の海を越えていったのだ。
ルミエーデで過ごせば、若くして司教にもなれるだろうと評価を頂いたダリウスであったが、彼は祖国へ帰ることを選択する。
上手くことが進めばさらに上の地位へと就き、より教えを広められる。より多くの人間を救済できる――。
「……ほんとうに?」
青年は、時代に揉まれて歪んでいた。
神々を信じ、特に三女神を崇拝していた彼は、その人々へ賜れるはずの寵愛が、本当にあるのか――そもそも女神の存在そのものを疑い始めたのだという。
宗教は所詮、人間に道徳心を学ばせるため――決まり事を守る社会性を身に着けさせるための手段なのでは、と思い始めていた。それ自体が悪いことでは決してないと理解しつつも、根幹が揺らいでいた。
神々の存在を疑い始めた一番の理由としては、己も含めた権力者の在り方にある。
どれだけ大罪を犯しても、公にさえならなければ裁かれることはない。その権力を用いて、罪を揉消すことが許される。
裁くべき神々の介入――その兆候さえ見えてこない。本当に天に御座すはずの神々が人間を見ているならば、罪人を野放しにするはずがない。存在を疑う罪深き者どもを許すはずもない。
精霊も神々もこの世界から退去したと信じられているが、それを証明するものはない。最初から存在したかすら怪しい、と疑念が加速していった。
「一体、何のために……」
老齢に差し掛かり、ダリウスは思う。
彼をよく知らぬ人の目からは、人徳が深い聖職者に映る。
彼を知る者からは、欲に目が眩んだ悪徳司祭だろう。
現に彼は、バルジャ公爵と共に危険薬物の製造と密売を許していた。私腹を肥やしながら内部の醜さと反比例するように、居城の外観は白く眩しい清廉潔白を謳うような美しいものに仕上げていった。
内装はどこか落ち着き払った教会を思わせる造りなのだが、あえて自室など一般の者が立ち入れない空間だけ他の貴族どもの屋敷同様に、装飾品の数々や絵画などで華美な雰囲気であった。彼はあえて堕落を演出したようだ。
それでも長年、神の怒りの矛先を向けてくることもなければ、悪魔が破滅に導こうと仕掛けてくることもなかった。
ゆえに、此度の内乱こそ最後のチャンスだと思い、悪魔たちの案に乗ったのだ。
緩やかに迫る死期に絶望したが、さりとて生へ執着しているわけでもない。
悪道の極みへ至れば御身を晒してくれるかもしれぬ。
あるいは神と崇め奉られた少年王を、悪魔の力で殺そうとすれば、結果がどちらにしても何かしら見えてくるかもしれない。
自室にてダリウスは立ち上がり、全身を映す鏡で己の姿を見る。
曲がった背筋はシャキッと伸び、顔中のシワが消え、髪の色も少し艶やかになった。
若返りの奇跡――。
ダリウスは腰に帯びた黒鉄のベルトに触れてその時のことを思い出す。
高齢で病に伏せていたバルクード・クレイモス公爵があの頃の勇猛武将の姿で蘇ったのを見て大層驚き、ずる賢いバルジャ公爵が精神病で憔れる前の生気に溢れて若々しい顔を見て、ダリウスは驚きの余りに心臓が痛みを訴え、倒れたりもしていた。
三大貴族と持て囃されてはいたが、分野も異なるし対立して争い合うこともなければ別段仲良しというわけでもない。薬物の密売などに関してはバルジャと協力して行っていたがそれもあくまでビジネスの関係であり、互いの益のために利用し合っているに過ぎない。ただ、このことはバルクード公の逆鱗に触れるであろうから互いに秘密にしていた。
表向きには戦争復興のための会談であったのだが、招集をかけられたときはこのようなことになるとは思いもしなかった。
三大貴族の前に現れたは『ゴモラ教団』を名乗る魔の具現、あるいは悪魔たち。
少なくともダリウス・ファルトゥムの目線からは、あれを人間とカテゴライズできなかった。
まだ若い少女の皮を被った、何かである。
後に聞いたがバルクード・クレイモス公爵も同意見であった。それでも、彼も欲に敗けたのだ。
「これは神の奇跡に非ず、悪魔の所業なり」
数十年、若返った声で呟く。
彼らが崇めている《ソドム》と呼ばれたものを、決して神とは認めない。三女神以外の存在を異端として否定しているわけでもなく、他宗教の神を悪魔と呼ぶような器量の狭いようなことでもない。超常の存在であるのは間違いないが、聖職者として認めるわけにはいかなかったほどに、それは昏く恐ろしい何かであったと感じたようだ。
「がいうちう? よくわからぬが、魔王と同じく他の世界から持ち込まれた異物だ」
少女の言葉も要領を得なかった。
だが実際に注がれた“力”は、肉体を全盛期に戻しただけではなく、精神の活力も与えている。
問題点を他のふたりは認識しているだろうか。
「内から出る力、そして身を焦がすような野望……! あぁ、これは『呪い』だ……!」
彼は今、期待と希望に胸を躍らせている。
何かを成し遂げたいという野望が異常なまでに高まっていると自覚がある。
他者をどれほど巻き込もうが、傷つけようが構わないという良心が著しく欠如した状態である、とも。
それなのにダリウスは、絶望の果てに希望を見出す。罪を重ねた先にこそ、己が大望に至ると確信した。
アンバードの首都であるバーレイを早期に陥落させ“敵”――現国王を迎え撃つために準備を整えた。
港から多数の兵を置いている。少年王はそれを掻い潜るか、あるいはすぐ捕まってそのまま殺せるか。
「おぉ、神々よ! 三女神たちよ! 観ておられますかこの醜き姿を! 人の肉を食い散らかし、塗り替える怪物に満ちた、罪深き私を裁きたくば、その身を晒し、降臨したまえ! 我が穢れた身を、この罪を罰し――」
ダリウスは天を仰いで叫んだ言葉を止める。
「――……、ウィック公がまた“力”を使った……?」
どれだけ離れていても、腰に付けたベルトのせいか、あるいは体内に流された泥に汚染された事で得たまやかしか、与えられた“力”を行使したことを認知できる。
そのように彼奴らから説明は受けていた。
事前にバルジャ・ウィック公爵が何度か試しに能力を使う、いざ本番にて上手く使えなかった場合は笑えないからと申告されていた。理由は嘘であり、単に力を使って適当に見繕った『罪人』に実験をするつもりだろうとダリウス・ファルトゥム公爵もバルクード・クレイモス公爵も見抜いていた。
そして実際に使われた感覚が以前にもあった。
自分が一番楽できる位置にいるから暇を持て余している可能性がある。とはいえ国境付近であるから遊んでいる余裕はないはずなのだが――。
「……バルジャ・ウィック公爵。……しかしまぁ、能力を使った際の全能感に酔いしれる気持ちはわからんでもない。溺れてすべてを失いかねない魔性。まったく罪深き力だ。あぁ、本当に罪深い……!」
それでも、バルジャと異なり善良なる民を傷つけぬよう配慮していたあたり、彼は腐っても聖職者であったと言える。
喜びながら、神の存在を求めて狂う。
悪魔となれば、罪を重ねれば、きっと三女神様が降臨なされる。
それか、この罪を裁く誰かが現れる――。
心のどこかで思い続けた願いが、叶う日がきた。
それは、あまりに唐突であった。
同時に行われたため、対応ができなかった。
まずはカメリアにある居城の客間。
立花颯汰を仕留めるために使う囮と盾を担う人質たちがいた。
逃げぬ出さぬよう徹底されていたし、一人一人が手枷をはめられていた。それでも女子供ばかりであったため、殺風景な牢屋ではなく、客間にて丁重におもてなしをしていた。
同じ国の仲間ではあるから、ダリウスは傷つけぬように厳しく命令していた。
それでも、兵士数名が欲に駆られて粗相を働こうとした。鍵を勝手に開けて中へと足を踏み入れたのだ。
タイミングが最悪だったと言える。突如としてその客間が炎に包まれたのだ。
コックムにいた竜魔族のメイド衆に触れようとした男たちは火ダルマになってのたうち回る。
悲鳴をあげて、ごろごろ転がっていたらいつの間にか、巨大な指で爪弾きされて炎の外に追い出される。その炎が一種の結界であると気づいた者は外部にはいなかった。
「人質は確保できたな」
金色の長髪を靡かせた男が呟く。神父の衣装を着こんだ彼は、空を浮かんでいた。
「では、あとは」
あらかじめ片手で持っていた――長身の男ですら持て余しそうな巨剣を構え、一気に突っ込む。居城の窓を突撃し、その身で割って侵入し、そのままの勢いでダリウス・ファルトゥム公爵の首級を獲った。
勢いよく窓ガラスが突き破られて粉々になる音と、重く空気を焼き尽くす斬撃音が響いた。
一瞬の出来事で、ダリウスは対応できずに首から上と下で分かれる。
赤い血を噴出しながら、刎ねられた首が宙を跳ぶ。
驚愕の表情のままであるが、……ダリウスはまだ死んでいなかった。
――敵、襲……!? だが甘いわ! その程度で死なぬ! 今すぐ、くっ付いて……ぬゥ!?
横薙ぎでダリウスの首を飛ばした神父――の服を着ている紅蓮の魔王は、羽を扱うように軽々とした手つきで大剣を振り回し、残った胴体を細切れにしていく。
「な!? 躊躇いが一切ない!?」
天井付近まで飛んだ頭が、重力に引かれている内に事が起こる。だがそれでも黒泥に侵された肉体であるため、再生させることがまだ可能であるから、
「さて」
すでに集まった肉片が泥となって溶けている箇所に向かって、叩き下ろすように剣を突き立てた。
直後、突き刺さった剣先から勢いよく爆炎が放出され、無慈悲にも焼き尽くす。その行動に一切の迷いがない。
音を立てて火柱が一瞬、立ち上り、忌むべき呪いを浄化する。
元をただせば肉だったせいか、泥は脂のように火がついて轟々と燃えて忽ち消失した。
「わー!?」
ここ数十年、出した記憶のない悲鳴をダリウスは上げた。
一瞬でダリウスのボディが崩壊した。
消し炭になって風に乗るどころか、完全に燃やし尽くされたのである。
「な、なんてことを……! 悪魔か貴様!?」
「……? ベルトまで燃やせば死ぬと思ったが……」
魔力を帯びた呪いの泥を生成する霊器『ヘヴン・ハート』を破壊した今、肉体が再生することはなくなったはずなのに、若ダリウスは頭だけで生きている(?)
地面に打ち付けられて痛みに苦悶の声を漏らしていたダリウスは、目を凝らして紅蓮の魔王を見て気づく。
「……む? あっ貴様ッ! やはりただのマナ教の神父ではなかったのか!」
「……悪いな。姫君たちを待たせている。半刻で決着をつけると言ってしまったんだ」
ダリウスの叫びを無視して、紅蓮の魔王はダリウスの左耳を摘まんで頭を持ち上げる。
「痛い痛い痛い! な、なにをする!?」
「貴様の首級さえ晒せば、この地にいる兵は降伏するだろう?」
「いやいや待て待て、行くな跳ぶな飛ぶなーッ!!」
敵の言葉に耳を貸している暇はない。
紅蓮の魔王は開けた窓から飛翔し、居城から街全体を見下ろす。
「……なるほど。貴様の肉体が滅びることで発動する仕掛けか」
「やめろ髪の毛は、今から大事にしないとマズイのだぞ!? 痛い痛い痛い千切れる、千切れるって! ……仕掛け?」
街の方で何かが始まった。
司令塔であるものが滅びた瞬間、制御不能になって暴走し始めたのである。
ダリウスが率いる――颯汰を待ち受ける軍勢として用意した兵は三千弱。しかもカメリア以外に、颯汰を見逃さぬようにカメリアから北側に広域で張ったため分散していた。戦争で疲弊した状態でここまで集めたのは大した手腕であるが、実際のところ心許ない数ではあった。
ゆえに、先の戦争同様、黒泥の力を用いる。人型のシルエットを模る真っ黒な泥人形を用いて戦闘時に数を増やそうと画策したのだ。これは現在の首都バーレイでも同じような策を取られている。
問題は人の手に余る邪悪な泥であることか。これはコントロールができる“力”ではなく、まさしく“呪い”なのであった。
「……不得手とは言っていられぬか」
そう呟いた紅蓮の魔王が動く。巨剣を右手だけで持ち、剣を構えて魔法を放つ。
赤の魔法陣が浮かび上がって煌めいて広がって空中に解けていく。
カメリアにある十七か所に火柱が立ち上ったのが見えた。場所はバラバラであったが、それは兵を配置したところだと生首ダリウスは気づく。
たった一瞬で、暴走を始めた黒泥たちをピンポイントで焼き殺した。
街が一望できる位置ではあるが、遠くになると豆粒のような細かい位置すら把握して、時間を掛けずに無力化を図り、それを成し遂げてみせたのだ。
「打ち漏らしは、……ないな。よし」
喚く生首の言葉を無視し、紅蓮の魔王はカメリア地方制圧を畳みかけたのである。
2025/01/29
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