【外伝】英雄の子 01
目を覚ました少女はゆっくりと身体を起こす。
屋敷の一室で、可愛らしい欠伸を一つ。
寝ぼけ眼を擦り、伸びをしてからベッドから起き上がり、木の窓を開けた。
初夏の早朝――暖かな日差しが眩い。
寝ぼけ切った脳を、太陽神の灼熱の円盤から迸る光と、響き渡る小鳥の忙しない鳴き声により覚醒させる。
田舎の農村であれば既に子どもすら起きていて、あれやこれやと準備に勤しみ出す時間帯だが、アンバードの王都バーレイは少し微睡みの中にいるようだ。外はまだ昼時の活気はない。
寝間着から着替える。
従者の類いはいるが、世話は不要だと払っている。自分たちよりも“母”を看てくれと頼んだ。
黒い衣に袖通す。
彼女の師匠は性悪ではあるが、この衣服を贈ってくれたことに関して今は感謝しているようだ。最初こそ、自分で人形遊びをするのは止めてほしいと願っていた少女であったが、今ではとても気に入っている。師が元々いた世界の品らしい――黄色い薔薇の意匠がある“ごしっくろりーた”と呼ぶものだと聞いた。
一度、師匠にもお姉ちゃんにも着ればいいのにと少女は言ったことがあるのだが、『ちょっと、年齢がね……』と、ふたりにどこか遠く寂しい目をされたのを少女は覚えている。服なんて自由に着てもいいのに、と幼い彼女は思っている。
着替えが終わり、朝食の準備を整える。
服を汚さぬようにエプロンをつけ台所に立ち、もっと小さかった頃に使っていた木製の椅子を台として使う。
包丁の扱いも手慣れたものだ。丁寧に切った野菜と肉を鍋に入れ、スープを作る。
根菜と豆が安く手に入ったのだ。
今後は、予想だにしなかったヴェルミから食品が届くようになるため、朝昼夕と食事はきっと豊かなものになるだろう。
その点は非常に楽しみであるのだが、幼い少女であっても不安に思うところはある。
隣国の温厚なヴェルミの国民であったが、互いに戦争を経たのだ。
首都バーレイを復興させるにあたり、先遣チームとして人材が――既にヴェルミからエルフや人族が到着している。聞くところによるとアンバードの新王とヴェルミの新王の盟約によって支援が始まったようだ。
国境の山にトンネルを掘る計画も始動していて、開通後に本格的な交流も始まることだろう。
しかし、やはり互いについこの間まで戦争をしていたうえに、自国の政治に対する不満の矛先を隣国の逸らすための政策としての対立を煽ることもやっていた。そのせいで戦争に駆り出された兵士だけではなく市民も、不安どころか敵対視してしまっていた。大きな諍いが起きてはいないが、彼らが来てたった二週間弱で逮捕者も複数名も出ているらしい。
抑止力としての“新王”がいたとしても、人々はそのときの感情で動いてしまうものだ。
邪悪な“魔王”からの圧政が終わったからハッピーエンドとはいかない。
これからも何かと問題は起こるのだろう。
「……できた!」
出来上がったのは野菜のスープ料理
誰かに振る舞うようなものでもないため、サクサクと簡単に作れる料理である。
見栄えもよそ様に見せるためではないが、悪くはないはずだと自信がある。
意外にも味にうるさい師匠――グレモリーは出払っているため、一人分で充分なのだ。
そんな彼女は今、王都から離れている。
彼女が向かったのは国境に落下した星――。
立ち上った光の柱跡だ。
地質調査の仕事らしい。
師匠が座長を務める『魔女の夜』はなんでもやる変な集団であるのは知っていたが、劇や大道芸などとはかなり違う分野である。それでも「稼ぎ時よ!」の号令ひとつで軍団は出払っていった。逞しい限りだ。
両手を組んで祈りを込める。
その後、静かに黙祷してから――、
「いただきます」
食材や神々、精霊に感謝を捧げてから頂く。
師匠がもしいたら「質素すぎる」と苦言を呈されていることだろうが、今のアンバードはこれくらいたぶんきっと平均ぐらいのはず。
味は満足いくものである。
――思えば、師匠のおかげで料理の腕も上がったような気がするなぁ……
しみじみとそう思いながら、木の匙で器からスープを掬って再び口に入れる。
ズズズと啜る音だけが響く。
少し熱いのと、大人用の匙は使いづらくて少量だけ口に含む。
それでも味は舌にちゃんと伝わる。
ハーブと塩味の加減もちょうどいい。
香辛料は高いので特別な日に用いるべきだと少女は考えている。
「……ごちそうさまでした」
冷める前には食べ終わった。
再び感謝の祈りを捧げ、片付けをする。
台所で鼻歌が響く。
人見知りするタイプの少女であるが、一人だとこんな様子で可愛らしい。
水桶を用いて食器を洗い終え、その後に出発の準備の諸々終えた。
空に円盤が昇る最中、少女は遊びに行くのではなく、仕事へ赴くのである。
「行ってきます」
グレンデル家の屋敷の扉が閉まる前に、少女――ラウム・グレンデルは母にそう告げてから出ていく。
グレンデル家の跡取りの少女たちの一日が始まる。
ラウムが庭の草木が伸び始め、いつかどうにかしないと、と考えつつ正面の通りの方を見やる。
目の前にあったはずの貴族の邸宅は更地となっている。恐るべき簒奪者であった迅雷の魔王の逆鱗に触れ、見せしめで落とされた雷撃の槍が直撃したのだ。
大きな邸宅の屋根に突き刺さった巨槍――雷の魔法で造られたそれは、三階から一階まで貫き、放電し始めた。
昼間より眩しい紫の光を放ちながら爆ぜ、残ったのは黒ずんで焦げた瓦礫の山。それは遠縁の者たちや他の貴族が金を出して一応は片付けられたが、そのあとは手つかずのままであった。
「……」
ラウムはひどく心を痛め、気分が害される思いだったことだろう。その邸宅の人間と直接関わりがあったわけではないが、その狂気の魔王こそが父である英雄『ボルヴェルグ・グレンデル』を殺した張本人であるからだ。
さらに奥へと目をやると、貴族街から覗ける下町の風景。倒壊した家屋が並び、瓦礫の撤去作業がまだ行われている。
損傷した家々、亀裂の入った地面――戦争の傷痕と呼ぶより厄災の痕だ。
おそらく後世にも語られるであろう邪悪な王は討たれた。死に際に都市にひどく癒え難い傷をつけた暗愚なる魔王。もっとも、生きてても害をなす存在であったが。
「おや。ラウムお嬢様」
声がした方向を見ると、そこには杖を持って歩く老紳士がいた。獣刃族の雪の民である。多少衰えもあるが老練さで力のコントロールができ、獣化を使いこなす男の名はアモン。ラウムはそれなりに長い付き合いである、なんだったらまだ幼い少女であるからそういった感情が湧かないのかも知れないが――、彼を知らぬ相手から見たら、どことなく怪しい雰囲気を漂わせている老人であった。
「アモンさん……! その、お怪我は……」
「ふっふっふ。なぁに心配ございませんよ。この老骨、あと死んで墓場に行くだけでございます。おっと冗談が過ぎましたな。そんな悲しいそうな顔をなされるとは。私の不徳の致すところでしたな」
子供を喜ばせようとしたつもりが、かえって心配を増幅させてしまったことを謝罪するアモン。
地下に囚われた“闇の勇者”を解放する際、地下牢の番人――言語を操る肥えた亜人種の改造個体との戦闘で重傷を負ったのである。
死の淵から生還した男はどうやらリハビリがてら散歩をしていたらしい。
『魔女の夜』のメンバーであるが、此度は怪我のため留守番となっていた。
「――ふむ。なるほど。これからお仕事と」
「はい。ただのお手伝いですけど……」
「いえいえ。こんな時にこの都市の役に立とうとするだけ立派でございますよ。私なんてただの徘徊ジジイですから。……おっと、そろそろすみませんがちょっと用事を思い出しましてな。また会いましょうぞお嬢様」
何かに気づいたように急に老人が踵を返して離れていく。怪我を負っているせいで決して早くはないのだが、懸命にその場を立ち去っていった。
「?」
どうしたのだろうと疑問に首を傾げていたラウムであったが、その直後に答えがわかる。
走る白い衣の男女が声を張り上げて呼ぶ。
「アモンさ~ん!!」「病室、抜けだしちゃだめですよぉ~!!」「エイル院長がブチギレる前に戻ってきてくださ~い!」「アモンさぁあん!」
「……なるほどぉ」
合点がいったラウムは、正直に彼ら医療関係者にアモンが歩いて行った方向を教える。勝手に出歩いて怪我が悪化してはいけない。
ラウムは善行をしたあとに石畳を進んでいく。
貴族街に馬車はしばらく走っていない。
呪いの塊によって王都は汚染され蹂躙された。
崩れて歪んだ石畳の上、がたがたとなった道で車輪が跳ねてしまうのだ。
ただ実のところ、別の理由が大きい。
単純に利用者が激減したのだ。
平民も貴族も奴隷も、暴走状態の迅雷の魔王――泥の怪物に食われてしまった。
城下町の平民らは、やはり生活がかかっているためにすぐに立ち上がって行動に移せた者が多かったが、一部の貴族たちは違ったのである。
精神的に参った者が多かったのだろうか。
決して彼らが贅沢だけをしている軟弱者というわけではない。挫折を知らぬ完全無欠の成功者として人生を過ごしたわけでもない。
それでも、やはり直面した『死』という恐怖が焼き付いていたのだろうか。
もちろん、そういった事情で家の中に引きこもり、病んでしまった者たちもいた。
王都から離れる決意をして辺境の領主に厄介となる選択をした者もいた。
しかし、ここに例外がいる――。
「よぉし! いいぞ資材がきたきた!」
「うん? ここの図面どうなってんだい」
「資金繰りがきつい。……え? バカ先王の遺産を売り払う許可が下りた? ひゅ~、ソウタ陛下バンザイ!」
「病床の確保が不十分ですな」「七区の倉庫を使えないでしょうか」「そもそも医療品の搬入も遅れているぞ」「となると、交通用のトンネル制作にも人員を回したいが、ちと厳しいな」「現実的じゃないじゃろうて。平民から批判が増える」
特権を与えられた者たちには義務が生じる。
ここにいる貴族たちはそれを理解していた。
机に置いた資料を睨み、思案し合う。
現場で働くものたちも素晴らしいが、彼らは特権階級にいる人間はその立場に応じた責任を果たすために努力していた。
直接的な肉体労働ではなく、資産や物資に人材の管理、復興を円滑に進めるための計画を練るのも彼ら貴族の仕事であった。
「ごめんください」
生き延びて再起した貴族たちが集まった場所。
事件の影響で扉の建付けが悪くなってしまい、もはや邪魔だと扉を取っ払ったところの暖簾を潜って入室するラウム。
「いらっしゃいエリ――じゃなくて王妹殿下」
「むぅ。その呼び方は好きじゃないです」
頬を膨らませて怒る姿は年相応に映る。
「あはは、ごめんごめん」
逆に頬を掻いて目線を逸らした、銀の髪を後ろに束ね、スカーフを頭に巻いている魔人族の女。
エプロンドレスを着用した彼女は、ラウムの姉であるエリゴスと友人関係であった。聞いたところによると幼少からの付き合いらしい。
ラウムが訪れたこの場所で仕事を始めるのだが、内容はウェイトレスのアルバイトではない。
ちょっと可愛らしいここでの制服を着た看板娘でもある若女将に案内されたのが、再起した貴族たちが話し合っているゾーン。
ここは貴族街にある施設ではない。
城下町にある宿屋で酒場でもある《赤の煉瓦亭》。
その一階部分の酒場スペースがある。
バーカウンターには並ぶ席もあり、二人掛けのソファの対い席などある。雰囲気はレトロなカフェであるが、食事のできるレストランやダイナーのようにも思えるところ……に貴族たちが大真面目に仕事をしていた。
そこへ現れるは黒の軍服姿の女――エリゴス・グレンデル。
少し前までは童女ラウム・グレンデルであったというのに、その貴族たちの喧騒の中に入るとき、姉であるエリゴス・グレンデルの姿と入れ替わった。魔人族が体外魔力に頼らずに使える簡易的な技術「疑似魔法」。
彼女たちはこれで交代し合うのだ。
「王姉殿下!」
貴族の一人が気づいた。その声で書類と睨み合っていたり議論を重ねていたりしていた貴族たちが一斉に彼女の方を見る。
「おぉ。エリゴス殿!」「王姉殿下!」
「……あまり慣れないので、やめていただきたい」
名を隠し軍属の騎士として過ごしてきた女が、目上の彼らにそんな純粋な目で見られることになれていない。また没落貴族の負い目もあった。何よりも別な理由があるが、それを知る者はこの場にいないかったが。
貴族たちが集まったこの宿で書類のチェックと必要なサインの記入、そしてそれを新たな王である英雄を継ぐ者――立花颯汰のところへ運び、さらにそこでも仕事を手伝うのがエリゴスの役割であった。
なぜこの場所なのか――。
建物が比較的健在でさすがに大人数が行き来して仕事するには手狭ではあるが、人が集まれてまた街のわりと中心に位置するため他の現場へのアクセスがし易いためだ。
家が物理的に無くなったもの、書類の制作管理に引っ切り無しに活動するためにここ宿をとしても利用している貴族たちも多い。結局は彼らも生活を守ることに繋がっているとはいえ、早朝から活動したり睡眠を削ってまではやりすぎだろう。
他にもウマを駆って人材を集めるために奔走している貴族たちもいたため、一時的に貴族街はかつての活気が失われていたのだ。
「……」
話しかけてくる貴族の声がふと遠くなって聞こえる。
新たな王の姉。
英雄の子。
その重圧が少しずつ彼女を追い詰めていく。
要因は揃っている。
何かが壊れるのは時間の問題かに思えた。
もうすでになにかがこわれている。




