163 ライディングスライド
水の怪物は敵を侮りはしなかった。
仙界の生き物は相手の魔力量や闘気、目に見えないものを感じ取り、野生動物――魔物は直観でそれを感じ取る。
捕食者側といっても、漫然と生きていられるほど世界は甘くない。命の危険が付きまとう自然界において、それを敏感に感じ取れる生き物の方が長く生存し、子孫を残せる。
クラーケン(仮称)は逃走を選択する。
そこに恥など無い。
彼の生物にそこまでの知性――矜持などが備わっているかはビジュアルから怪しいところではあるが、命が失われることに比べれば、逃走を選ぶことは当然である。
ただ逃げれば、彼の寿命を全うできだかもしれないし、少なくとも痛みや苦しさを感じずにいられたであろう。
クラーケン(仮称)は叫びながら足を振るう。
逃げるために足を動かすのではなく、時間を稼ぐために船を破壊してから逃亡しようとしたのである。彼(?)の生涯での一度目の過ちに続き、最悪の選択をしてしまった。
まさに竜の逆鱗に触れるようなマネだ。
敵の攻撃の正体は不明……何が自分の足を切り裂いたのかわからなかった怪物は、足を絡めるようにして束ねて“槌”とする。
ただでさえ太く強靭な触手、その一つでも船に当たれば致命傷を免れない威力。怪物はその足を絡めることで、振り下ろす際の重さによる威力と、単純に強度の強化を図った。
立ち昇る柱、船に巨影が差す。
船に乗り合わせている多くの人々、ユリアン青年を含めた乗組員全員が最期を予期した。
それはまるで螺旋を描くように絡み合った一本の槍のように、先端にいくにつれて細くなっていった。三本重ねの太い触手は巨大な尾となって、クラーケン(仮)が振り下ろす。
複数の触手が絡み合って出来た槌が、颯汰たちの乗る船に迫る。
だが――、
再び風が吹く。
それは最初の時より荒々しい暴風であった。
濃密な“死”の気配を覚えたのは狙われた船に乗っていた人々ではない。
船の破壊を目論んだ怪物自身だ。
長らく感じたことがなかったその気配。それを知ったときにはもう足が船体へと振り下ろされたタイミングであった。
大概の船はそれで沈むが、万が一破壊できなかったとしても転覆はするだろう。そう考えての凶行であるが、現実は違った。
気づいたとき、閃光が奔った。
甲高い金属音が空を裂き、肉を断つ。
極太の幹の如き、吸盤が幾つもついた足に、線が描かれる――それは切れ目であった。紫色の流星が駆け抜けた後、束ねた触手が両断されたのであった。
闇の勇者――リズが両手に持った二振りの鎌剣を、左から身体を捻って右へと振り回した。
烈風の如き射出――足元に風のボードを生成し、背後に配置した風の幼竜たるシロすけの援護により、今までにない加速が生まれた。
まだ、この時点では颶風王龍――シロすけの母たる竜種の王者が生み出した域に達していない、普段の円盤状の収束した風であったのだが、乗った経験が活きた。爆発的加速の中で彼女はそれを乗りこなし、倒れてくる巨木の如き尾の槌を、左方向の真横から斬り抜けた。
鋭き斬撃が巨槌を崩す。
一本では容易に裂かれたが、三本重ねれば何とかなると思ったのも失策であったのだ。
クラーケン(仮称)は、改めて敵を認識する。
危険な存在はひとつではない、と。
それが自身の触手を一本斬り潰した者とまではまだ認識していなかったが、次の刹那の連続――激動の瞬間瞬間に理解し、後悔した。
両断された足が、冷たい水面へ落ちる。
血管の密度の高い根本付近から青緑色の血を噴出しながら淡水へ落ちていく。
デロスの大口と呼ばれた大河を穢されていった。
足が再生することを知っている怪物自身は、激しい痛みに苛まれながら、もはや撤退しかないと深く水中へと潜った。
この河川の先の海洋に出れば、生き延びられると信じて逃亡を試みる。
潜りながら体内に水を取り込み、それを強く吐き出してジェット推進を始めた。
帆船では追いつけない。
川の流れと蓄えた水を放出したジェット推進により、巨体と思えぬ加速を生んだ。
怪物は船団からあっという間に距離を取れた。足を一部失ってもなお、この時代で作られる船で追いつけるはずのない驚異的な速さで逃げていく。
僅かな時間で、数百ムートの距離を移動したのだ。
これならば誰にも追いつけまい。永久凍土であったアルゲンエウス大陸に近く水温は低く、竜種がどういった生物であろうと、またもうひとつの恐ろしい気配が何者であろうと、陸上に生きる限り追撃は不可能である。
最初からこの手段を講じていれば――そういった考えが頭に浮かんだとき、死神が迫る。
シロイルカ部分が激流の中、気配を感じて反応する。
だが、わずかに遅かった。
水を掻き分ける音を掻き消すほどの、轟音。
巨大な質量が着水した音。水の抵抗を物ともせず、突き抜けて貫く。
激しい痛みを与えるものが、背部と内臓に達した。
何か巨大なものが突き刺さったのだ。
もがき、苦しみ、自身の背と腹を貫いた何かを引き抜こうとする。
怪物は残った足と触腕を使う。
「……!?」
神経が冷たさを伝えるが、それでもその原因を取り除こうとする。だが悲しいかな、それは無駄な努力である。仮に引き抜けたとしても、出血量から生存は不可能だ。人間も同じだが肉を貫通するほどの何かが刺さったときに素人判断で引き抜いてしまった場合、出血量が増えて死に至る。貫通した物体自体が止血の役割を担う――水の入った袋に鉛筆を突き刺しても水は出ないが、鉛筆を抜いたらその穴から水が流れ落ちるのと同じようなものだ。
怪物にそのような知識などない。
ただ痛みの原因を取り除くべく、足掻いた。
激痛に悶えながら、クラーケン(仮)は気づいた。自分を貫いた物質の正体を――。
その水中の上を、沈まず降り立ったリズ。
空気を震わせるほどの凍てつく冷気。
波が立っていたリズのその足元に、氷の膜が形成されていた。さらにリズの周囲に氷が剣の形状で四本造られたものが待機していたが、敵を葬ったと判断したリズが、氷剣を解く。氷が砕け散る音だけが、虚しく響いた。
彼女たちが何をやったか。
一部始終を見ていたはずの船員は理解できずにいた。少し状況に慣れてきた新参者であるレライエも、あまりにぶっ飛んだ行動に驚いて、
「……なるほど、そんなつもりは無かったんだけど。ちょっとあの子のことを見くびっていたのかも」
認識を改めるに至る。
紅蓮の魔王の言葉通りであった。
――冷静に考えると、この坊ちゃんのお仲間で“勇者”。ぶっ飛んでて当たり前かぁ
そんなヤバい集団の仲間入りしたレライエが感嘆の息を漏らす。
触手の槌を両断した後、闇の勇者であるリズは考えた。“あの敵を放置できない”と。
意味もなく船を襲ったとは思えない。
積み荷にある食糧か、あるいはヒトそのものを餌としているのか。
勇者としてではなく、人として狩らねば犠牲者が増える。
凶暴な怪物だ。
仮に愛らしい見た目であっても、人と共存できない生き物は駆除せねばならない。
颯汰一行の戦闘可能なメンバーは同じ考えであるし、この世界に生きるまともな人間は人命を最優先させる。
加速して放れていく敵を、ここで仕留めると決意した。
そこでリズは氷を操る不完全な女魔王との戦いで得た力を使った。落下物と巨体が撤退したことで生じた水面が波打ち、船は大いに揺れる中、リズは宙を蹴って巨大な落とし物の上に立つ。
絡み合った触手できた槌のことだ。
リズは水面に浮かぶそれに乗って、風と冷気を操る。足元の対象物を凍結させた。
さすがに氷麗の魔王のように氷塊にさせることはできなくとも、少し硬くすることはできる。冷凍マグロですら重量と硬度で鈍器になる(かなり無理があるが)。それを超えるであろう重量に加え、先端を研ぎ澄ますように風と氷を使ってちょっと手を加えることにより、巨槍が完成したのだ。
それでも、いくら勇者でも自身の十数倍の大きさの物体を持ち上げることはできない。
そこで彼女が取った行動は、あまりに大胆で自由な発想であったと言える。なぜなら彼女は転生者ではないため、知るはずがなかったものを生成してみせる。
「なんだあれは!? 氷の、道か……!?」
レライエが呟く。巨槍の真下にある水面が音を立てて凍り始めて出来上がる――氷の張った発着場。そして僅かながらコースが生成される。
そこで加える風の魔法とシロすけの風の竜術。三本足の槍が氷場を滑走し、その勢いで水面を滑るように走り出した。
不可視の剣を片方突き立て、自らの足と槍を氷で接着し、リズは振り払われないように中心で立つ。シロすけは断たれた根本付近から後方を見るようにしてしがみついている。竜の子自身がそこから風を送るブースターの役割を担った。
巨大質量を動かすだけの爆発的な暴風は、周囲の船を激しく揺らす。咄嗟に紅蓮の魔王が各船体周囲に防壁の魔法をかけたおかげで大事に至らなかった。赤の半透明な障壁と、同色の鎖が各船の障壁に繋がる。さらに同じ魔法でできた同色の錨が下ろされた。波に呑まれて流された人間もいるため、魔王はお荷物を下ろして救助も開始する。リズたちの方をみる必要はない。既に終わったことだと確信していた。
水面上を爆走し始める槍。
そこへさらにリズとシロすけが協力して手を加える。冷気と風により氷のジャンプ台を生成し、斜め上に跳ぶ。さらに宙に氷結晶のコースが次々と生成される。氷麗の魔王であれば、冬季オリンピックに行われる競技のひとつであるボブスレーのような、一本のコースを丸ごと造れたであろうが、途切れ途切れに台を作り出すのが精一杯であった。
怪物の槍を射出する、即席の滑走場が出来上がった。競技用のソリよりも倍以上の大きさを誇る槍と、それに合わせるには多少手狭なコースであるが問題はない。
飛翔する巨槍が加速して乗っかってきても、氷の台が割れず、速度を落とさせないで保っていたのだから。槍が通った次の瞬間に砕け散って霧散してしまう。だがそれでも滑走するときに邪魔にさえならなければ十二分に合格点であろう。
コースが途中で途切れたりするタイプのジェットコースターが、デロスの大口と呼ばれる大河の上を、高度を上げながら滑っていく。
シロすけが気配に気づいて鳴いた。リズが肯いて生成を打ち止め、念のため氷の剣を作り出したが、それは結果として無駄となる。
リズとシロすけが蹴るようにして飛び立つと、完全に足場を失った巨槍は滑走した速度のまま射出され、落下していく。飛翔するのではなく、目標に向かって真っすぐ突き進んでいった。
水面上から、目を凝らせば見える巨影。
斜め上から射出された足の束が、深く潜って水を掻き分けて逃げる元の体に突き刺さった。
全身を貫かれて激しく悶える怪物であったが、ついに動きが止めて絶命する。
そうして、アルゲンエウス大陸を去る途中、最後の最後で起きた事件は、主人公である立花颯汰が船酔いして一切関与せずに終わったのである。
船団から二隻は、沈没させられた船に乗っていた生存者を大河から救助し、沈まなかった積み荷を乗せて、一旦アルジャーへと帰還した。
颯汰たちは船を乗り換え、そのままヴァーミリアル大陸へと進んでいく。
此度のクラーケン討伐の話はあっという間に人々に口伝していくことだろう。
そうして、アンバードの首都、バーレイにいる謀反人たちの耳にも入る。
普通であれば震えあがるような内容に、真偽を疑うかどうあれ恐さを感じるはずである。
実際に内乱を起こした一般兵たちはかなり動揺していた。だが、謀反を起こした当事者たちはまったくその件で恐れる様子はなかったという。
崩れた王城の玉座ではなく、とある大貴族の屋敷にて、部下からの報告を受けたが、特に何か言うこともなく下がらせた。
屋敷に飾られた絵画と同じ姿――数十年前に描かれたものと同じ。
全盛期の若さと情熱を取り戻した男は、その身を呪詛に苛まれ、湧き上がる欲望の熱に焦がれていたという。
男の名はバルクード・クレイモス。
かつて武人として名を馳せた、魔人族の勇猛な男。
そして横に並ぶ者も同じ地位にいるもの。
ファルトゥム家とウィック家、クレイモス家と並んでアンバード三大貴族と言われる者たち。
勇者でも魔王でもない、しかし只の人とは異なる男たちが内乱の首謀者たちであった。




