162 実在の怪物
天地が揺れる――。
その日、初めて交易船に乗って仕事を始めた獣刃族の青年ユリアン・サガノフはこの仕事を選んだことを後悔し始めた。
……厳密に言えば少しだけ異なるか。その感情が湧き出る前に、彼の脳裏を駆け巡ったのは今まで生きてきた記憶のすべて。
全記録の再生に思考を総動員したとしても、助かる道や術が見当たらなかった後に、じっくりと肌に吸い付くような不快感を覚え、ユリアンは自分が死に直面したと気づく。そうして、なぜこんなことにという後悔の感情が波に乗って押し寄せたのであった。
――聞いてない、こんなこと……!
誰もが予想していなかった事態である。
元からユリアンは漁師の気性を持たなかったが、船旅は好きだったし他国との関わり合いが持てることに興味を抱きこの仕事を選んだが、命が安全であることが前提であった。荷下ろしの仕事も大変ではあるが、船自体ここ十数年に転覆事故なども無かったのだ。
襲撃者――積み荷を狙う賊も大河を下り、海洋に出なければまず遭遇しないと聞いていた。
最近ではヴェルミ地方やマルテ地方の近海にて海賊が出没するらしく、寄る港がなくて困っていたのだが、アンバードとの交易が再開したことによって、輸出した商品が陸路でヴェルミへ届くようになった。しかし肝心の輸入するヴェルミ産の食品の類いは値段は増すのに量が減り、品質・鮮度も保てないため塩漬けなどの加工品ばかりとなっていた。これもなかなかの由々しき事態であるが今回は関係のない話である。
ともかく、安全で最も近い――直進して大河を突っ切るだけで済むルートであるはずだった。
だが、いくら「初心者にも安全安心」とは銘打っても、人が生きる環境ではない領域外で命の保障なんてあるはずがなかったのである。
最大六隻からなる船団が進んでいた。
一定の距離までは進んでから各地方へ二、三隻に分かれて向かうはずであったのだが、そうなる前に事件が起きてしまった。
ユリアン・サガノフ以外にも、水面を引き裂くような音を耳にした。その直後、船体が激しく揺れる。ここら辺にぶつかるような岩礁は無い。急な高波に襲われたのか?
それこそ蛮神デロスの哄笑の如き、突然の嵐でもきたのだろうか。否――、しかしデロスは嗤い転げていることだろう。
それは、海より出でる怪異――。
木々が折られる音がする。
まずは木製の船体から悲鳴があがった。
揺れるどころか大きく傾き、船首が空に向く。
そんなあり得ない情景に目を丸くしていたユリアン・サガノフ。
そして途端に、隣の船が潰れるのが見えた。
何が起きたかわからないまま、沈む仲間の船。
そして、その元凶が姿を現す――。
「……――!」
息が止まる。
屹立するは天を突かんばかりの、軟体動物の触手であった。タコやイカのいずれかではあるのは疑いもないが、問題はそれが常識を疑うほどに巨大であることだ。
大人が両手を広げてたのと同じくらいの太さで、船舶を容易く破壊できたのも理解はできたが、それを現実とはなかなか受け入れられなかった。
「「「――く、クラーケンだぁぁああああッ!?」」」
船団は恐慌状態に陥る。
兵役を経たものだっているが、こんな状況など想定しているはずがなかった。
他の触手たちで船を水面上で固定してから、うねりながら昇った触手が振り下ろされた。その一撃は無慈悲にも一つの交易船を破壊した。
驚き、目を見張ったまま時間の流れが曖昧になる。そうして人々が遅れて死の恐怖に気づき、意識せずとも叫びが口から出てきていた。
慄く船員たち。
ユリアンの乗る船に巻き付く巨大な触手。
メキメキと音を立てた船体。
獲物を締め上げる蛇の如き、腕力を発揮し直接交易船を破壊しに掛かる。隣の船だったものと同じ運命を辿るのも時間の問題であった。
誰もがパニックに陥っている中――。
一陣の風が舞う。
船員たち、他の船に乗っている乗客、転覆する船から脱出しながら海に漂う者までもが見た。
徒手空拳にて触手を切り裂く、流星を――。
《やらせない……!》
闇の勇者リーゼロッテが星剣を振るう。
熟練の船乗りでさえ、まともに動くことがかなわない――揺れ動く船体の上だというのに、惑うことが一切ない脚運びで駆け抜けてみせた。
不可視の双鎌剣が触手を斬りつけると、バターのように触手の肉が裂かれた。
太い木の幹を思わせる触手がエックス字にぶつ切りにされ、水面から覗かせたすべての腕――見える範囲で四つが同時に痛みが奔ったように踊り狂い始めた。
船を締め上げるように巻き付いた腕は、切られた肉を残して水面へと引いていく。
リズが追撃しようとしたところで、一際大きく船体が揺れた――船に吸着していた存在が、思わぬ痛みに驚いて離脱したときの衝撃であった。
水飛沫の柱が大きく立って、船首周辺に降りかかる。リズは木と金属でできた船首付近を蹴ってその反動で後退する。バケツをひっくり返したような水の落下を回避する。
飛沫さえ寄せ付けない華麗なステップ――くるりと一回転のあと、彼女は敵がいる方角を見つめ続ける。その後来るかもと思った反撃とそれに対する迎撃を入れるべく敵を探した。
正体不明の敵による襲撃――非戦闘員がいる中で、正面だけを見据えるのは勇気がいる行動である。それも敵が巨大で、唯一の足場である船を攻撃しているならば尚更のこと。
それでも、仲間たちを紅蓮の魔王に任せている。
リズから、信用が地の底まで失墜している最低最悪の王ではあるのだが、ここで見捨てるという選択は取らないとわかっていた。
「我れらがお荷物はこの有り様だ。頼んだぞ」
紅蓮の魔王の言葉どおりである。
立花颯汰が船酔いでダウンしているが、そもそも右腕を修復にリソースを割いているため、戦闘に参加すること自体が厳しい。
乙女の秘密を暴いたどころか盛りに盛って周りに伝えるとかこの男、たぶんデリカシーとか無い。弱さのある人間の痛みとかもきっとわからないのだろう。リズは、非常に冷めたというか「恨みを忘れていないからね」という目で言葉を発した男をチラリと見る。アスタルテとヒルデブルクは紅蓮の魔王にしがみついていて、颯汰は彼の魔王に抱きかかえられていた。
レライエも武器である霊器の弩を構えて応戦の準備を整えながらぼやいた。
「ここ淡水だろう!? なんだあの馬鹿デカいタコは!?」
「あれ、タコですの? イカではなくて?」
「いや、なんとなくです。色は灰色っぽくて太さも結構あるから……」
「?」
ヒルデブルク王女が緊急時とは思えぬ質問に、レライエが思わず丁寧な言葉で返す。
ニヴァリス帝国――アルゲンエウス大陸だと『タコ』は灰色の印象らしく、ヴァーミリアル大陸では苔むす緑のイメージで定着している。獲れる種類による差である。頭に浮かんでいるイメージ図の色が異なっていたようだ。ちなみに横抱きにされている我らが主人公の頭の中では赤いタコさんが浮かんでいた。
「船乗りどもはクラーケンと呼んでいたな」
「それこそ海の巨大怪異、伝承の類いの怪物だろうが、たしかに、この大きさだと納得しかないな! ……嬢ちゃんの攻撃で引いたが、このまま帰ってくれるか?」
まだ見ぬ巨獣が広大な海で跋扈している。
噂が独り歩きして、同じ名で呼ばれた別種の怪物が何種類といるほどだ。
「そうであれば難破した船から人々を救助しに行けるが……。そう甘くないようだ」
紅蓮の魔王が呟いた途端、再び触手が海面から出てきた。数を増やして颯汰一行が乗る船を囲う。
「十本ありますわ! イカですわね!」
何故かドヤ顔をする王女。確かにイカ特有の触腕らしきもの――他の八本の足とは異なる獲物を捕獲することを目的とした、先端部分に吸盤がびっしり付いている、長く発達した二本の触手があった。
「いやそれよりもだな王女様! しゅ、集中攻撃、ってかぁ……!?」
律儀にツッコミの仕事をこなしてくれるレライエであるが、さすがに面を食らう大きさであった。あんなもの一斉に降ろされては船は粉々になるし、それどころか全員が衝撃で命がない。十の腕が逆さに立った姿を見て、避難の誘導を行おうとした船員たちや他の乗客もその予感をあったためか、腰を抜かして動けなくなっていた。
「いや、まずは威嚇のつもりだろう。ほら、姿を現すぞ」
紅蓮の魔王が言った通りとなる。
揺らめく触手を引っ込めて、姿を見せる異形の怪物。それは、タコやイカでもなかった。
触手の先は頭足類のものとは大きく異なる。
形状や膨らみこそタコの頭と同じだが、頭頂にあたる部分が他の生物であった。
黒の目にコブもあり、それは口を開いて鋭い歯を覗かせた。
「頭部はクジラ……いやシロイルカに近いな。角はまるでヤギのそれだ」
異形、異質――。
まるで醜悪な神の悪戯のような悪趣味な合成生物を思わせる姿。
ベルーガ部分は白く、くるりと曲がった角はイッカクを思わせる象牙色。半身である触手部分は灰色である。そして顔の横に揺らめく触腕があって、怪物が一つであることを証明する。
「体長は十ムート以上か、化け物め……。頭を撃って殺せるか?」
「いいや。ここはあの娘だけにやってもらう」
「えぇ? マジで? 正気?」
冷静に敵を観察していた紅蓮の魔王とレライエ。対照的に乗組員や乗客は絶望の淵に叩きこまれていた。
「な、なんだあの怪物!?」
「あれが、クラーケン……!?」
「もうだめだぁ……おしまいだぁ……!」
斬ったとはいえまだ他の腕が残っているし、どれを叩き込まれても死が避けられない状況だ。心が折れてない方がおかしい。
「正気だとも。たしかに貴様の射撃の腕にあの霊器が足されればすぐに片が付く。だが敵に手の内を曝すような真似をしたくない」
「敵とは……アンバードで内乱を起こした連中のことか?」
「そうだ。帝都内があの状態であったならば、密偵の類いは機能しておらんだろうが、さすがに我らが港に着けば謀反人どもの耳に入るだろう。その際にどういうカタチであっても敵に情報が伝わるのは避けたい」
悪意がなくとも、活躍をしてしまえば噂はあっという間に風に乗って広まる。パーツを加えて完成する狙撃銃型の霊器の存在は秘匿にした方が有利だと判断したのだ。
「……なるほど道理だ。だが雇い主さまよ、あんな化け物を独りで討伐ってあまりに無茶な話だろ?」
「それはあの娘――闇の勇者を見くびりすぎだ。それと一人ではない」
「あ?」
闇の勇者からは紅蓮の魔王をもう信用ならない最低のクズだと認識を改めたに至ったが、紅蓮の魔王から彼女への信頼は変わっていなかった。
「――オオオォォォォオン!!」
けたたましい叫びをあげるクラーケン(仮称)。
水棲の怪物とは思えぬ絶叫であったが、襲う船を間違えたと見える。
絶望の中にある船団。その狙われている一番危険な船でもっとも死にそうになっている少年王が願い事を口にしてしまったのである。
「うる、せえ。シロ、すけ……、リ、……ズ。頼ん、だ……」
船酔いで気分が悪くなったところで、激しい揺れと騒音に見舞われた颯汰は限界が近かった。
だから頼もしい味方に、元凶の排除をお願いしたわけである。
クラーケン(仮称)の叫びのあと、リズの背から肩へ乗った白き龍の子が顔を出す。
「――きゅうぅぅう! シャァアアッ!!」
威嚇の声。まだ幼さを残すそれは、人間などにとっては愛らしい声に思える程度であるが、野生動物である魔物にとってはまったく異なるものであった。
「――!?」
クラーケン(仮)がひるんだ。
体格差があっても本能が恐れる。
竜種という生態系の頂点を――。
彼の怪物は、選択が迫られた。
退くか、殺すか。
相手は丸のみにできる餌よりも小さい。だが戦うことは自殺行為であると本能が察知する。それと同時に、ただ逃げては追い付かれて殺されるというビジョンが浮かんでしまった。そうして怪物は最悪の選択をしてしまうのであった。
即ち、船を攻撃、破壊してからの逃亡。
ただ水面を逃げ、海洋まで行けば済んだ話であったというのに、無駄に頭が大きくなって脳が多少発達してしまったのが不幸を招く。時間を少しでも稼ごうと妨害の意味を込めて、慌てて頭を水面に引いて足を叩きつけようとする。
ただ逃げたならば、死の恐怖に怯えずに済んだかもしれない。
ただ逃げたならば、沈んだ船の乗員乗客を救助のために追撃などされなかった。
ただ逃げたならば、騒音も治まり、排除する理由がなくなっていた。
振り下ろされる鉄槌の如き触手。
それを――、リズとシロすけは敵対行動とみなした。
どうやら、世間では三連休だったらしいですね(怨嗟の声)
投稿遅れました申し訳ございません。




