160 船上の追憶
帰国の決意を改めて固めた颯汰はニヴァリス帝国――アルゲンエウス大陸から南下を開始した。
花びらが風に舞う楽園のような光景から、仙界を経て雪原を超え、到着したのは港町アルジャー。ここまでが異界へ通ずる門の移動範囲であり、再び船旅が始まろうとしていた。
「出ッ航ー!!」
「「「ぅおおおおおおッ!!」」」
飛沫が煌めく昼の海。
船乗りの威勢のいい声が響く。
景色に溶け込むほどの白亜の街。石灰岩で積まれた漁港の昼頃は、まだ漁師たちが帰ってきていないため、一層大きく声が通ったように思える。
錨が上がり、まるで鬨の声のような叫びが響いた後に帆が揚げられて船が動き出す。
客船も兼ねているが、実態は交易のための船であり、貨物は多くて武装は少ない。
デロスの大口は名前こそ不気味で不吉さを感じさせるが、ここ十数年前は大人しい。名前の由来である蛮神デロスの如くこの巨大な河川は、まさに悪神の嘲笑のような狂おしい大風にみまわれた事によりその名は由来する。
だが、本当に自然現象だけで船に被害があったのか疑問の声が上がっている。各地に監視塔を設置したおかげで賊による被害が減ったのでは――つまり、はじめから賊の仕業だったのではという話が囁かれている。
当分、無用なトラブルと縁はないだろうと一息ついた颯汰一行。旅の疲れを癒す暇がない中、こういった束の間の平穏こそが大事になってくる。
「……」
颯汰の表情はアルゲンエウス大陸に来るときとは異なっていた。
確かに彼には使命感がある。
内乱を鎮めるべき立場となって精悍な顔つき――とはまただいぶ異なる。
はたまた、その乱で傷つき囚われの身となった者たちの安否が気になって心配そうな顔? ……気になってはいると信じたい。
では、これからの船酔いでのグロッキー状態を思い、憂鬱な顔か? それも否である。
「…………」
なんだこの緩い表情は。
主人公がしていい顔つきではない。
目線は下向きに行ったり上を向いたり、身体全体までもが落ち着きがない。
使える左手を口元にもっていきながら、何か大事な思案をしている……様子でもない。
頬は赤く、熱を帯びている。少女であれば愛らしいが、過ごした合計実年齢が成人に達しているであろう元男子高校生だと考えると不気味でしかない。少年の姿であるからだいぶマシだが、控えめに言ってきしょい。
挙動不審な少年に何が起きたかを知るには、少しだけ時間を巻き戻す必要がある。
……――
……――
……――
仙界の門を開けてもらって潜った直後だ。訪れたのは、仙界第二階層――“風の洞窟”の内部であった。
吹き荒れる風に驚き、皆が一瞬顔を庇うように腕を前に構える。シロすけはそそくさと颯汰のうなじ辺りから服の中へ退避する。
日が差さぬ密閉された洞窟の内部であるというのに、不思議と真っ暗ではなく、道だけは見える。
洞窟の内部で浸食が起こり地盤が崩壊したのか、あるいはこの奇妙な風によって削られたのか。それにしても空洞が目立ち、少しでも灰色の足場から踏み外した場合、漆黒の闇に呑まれて、まず助からないだろう。
ヒトの手が入っていない天然の洞窟であるから手すりの類いは無い。そのうえで風が凄まじい音を立てて駆け抜けていく。この洞窟で生まれた風が、各所の穴から外に出て仙界中を巡るのだ。
全員が咄嗟に紅蓮の魔王の衣服を掴み、耐えようとしたとき、声が響く。
『少し位置がズレてしまったようだ。……門を出現させる魔法はコントロールも難しいうえに消耗が激しい。すまないが少し先を進んでくれ』
第二階層管理者代行“黄昏の狼王”の声である。
颯汰の身体のどこにも赤い霊器の布が見当たらない。彼の狼王がペイル山の山頂へ移動する門を開いた際に、自分が代行の任を他者に預けたことを、本来の管理者である颶風王龍に咎められたくないため離脱したのである。実際、彼の協力は頼もしかったし、おそらく颶風王龍も気づいていると思われる。
暴風を物ともせず、佇む動物たちが見える。
案内役として、見知った片角の“山の使い”と同じく霊獣の狼やら栗鼠やウサギといった小動物まで勢揃いである。どれも通常の生物と異なった特徴や気配を漂わせていた。
片角に布型霊器『ディアブロ』を再び巻いた山の使いに導かれて洞窟の足場を進む羽目となった。紅蓮の魔王が風除けの障壁を生成する魔法を使わなければ、進むのが困難であっただろう。
しかし狭いわけではないが両端が奈落という通路は危険極まりないため、颯汰が先頭で殿が紅蓮の魔王が務めることとなる。
「なんだか一列に並んで進むの、変だけど楽しいね!」
「集団で一列となる舞踊もあると聞いたな。どこぞの……、ガブル族という儀式であったか……。今でいう、エルドラント大陸方面にあったはずだ」
「神父さまは物知りねぇ」
「いやあの、風除けも張って貰ったしわざわざ全員が並んで肩に手を置く必要なくない?」
この世界にまだ存在しない「電車ごっこ」を興じながら進んでいく。颯汰は文句のようなことを口にしていたものの、彼女たちが楽しんでいることに悪い気はしなかった。
内心、陸路の移動自体を楽しんでいたヒルデブルク王女とアスタルテは帰りがミラドゥ種が牽引する幌馬車で無いことにガッカリはしていたものの、国の一大事だということを知って我慢してくれていたのだ。自分が原因ではないとは思いつつも、察知した颯汰はどこか申し訳ない気持ちとなっていた。できれば地下の遊戯施設でもう少し遊ばせたいという気持ちが芽生えていたくらいではある。しかし、彼女たちを置いてはいけない。断腸の思いで連れていく――アンバードから出るときとはまるで違っていた。
薄暗くはあるが不思議と足元が見える道を進んでいき、洞穴の中を通る。
少し開けた土地に、動物たちが集まっていてその中心に新たな門が開かれていた。虹色の光がサイケデリックに煌めく門。そこに狼王の姿は無いが声だけ響く。
『我らは精霊や魔王ほど術は得意ではないゆえ』
巨狼がいたらさすがに手狭となる空間。
『我はもう力を貸せぬ。本来の職務を放棄して、龍の女王に睨まれてはかなわんからな』
笑う狼王。片角の鹿が前に出てくる。
『此奴めが代わりを務めると進言してくれた』
颯汰の前で屈むように全身を下げた。
自身を贄として捧げるようにも映る。
幼き竜種の王者が顔を出しても、片角は臆することなく、その身を差し出すように首を垂れる。
「いいのか?」
片角の金毛鹿が答えるように嘶く。
颯汰が応じ、片角に結ばれた紅い布を解いた。
ディアブロの飾りのような霊晶の煌めきは消え――彩度が低くなっていた。
そこへ“山の使い”の身体が光り始め、粒子となって宝石部分に注がれるように流れていく。暗くなった結晶の内部に精霊や霊獣がいない証拠であったが、この輝きこそ十全に機能を果たせることを示していた。
「……ありがとう。この腕じゃしばらく無理できないから、この霊器は助かるよ」
礼には及ばぬ、と気軽に至宝を恵んでやる狼王。
『達者でな』
「えぇ。本当にありがとうございました」
響く声音に深々と頭を下げる。倣って全員も頭を下げた後、門へ進んでいく。
わざわざ深く言葉を交わす必要のある仲ではない、と互いが別の意味でありながら同じ考えであった。
颯汰たちは焦りもあって自然と歩みは早くなっていた。
事態がどうなっているのか掴むためにも、現地に赴く必要があった。
自分たちがいない間に、内乱により国が一大事となっていたのだから――。
そこに割り込むように、叫びが木霊する。
「――ちょっと待ったぁああああッ!!」
後ろの方、遠くから声がした。
颯汰たちは歩みを止め振り返るとそこには、急いで駆け寄ってくるウェパルの姿があった。
どういう事なのだろうか、困惑している颯汰の前に真なる吸血鬼が迫る。
しかし、彼女は分かれた人格ごとに生まれた人物たちと一体化を果たし、氷麗の魔王として復活を遂げたはずである。彼女は存在しえない。
では彼女は何者か。
颯汰とリズは即座に警戒を現にするが、有識者である紅蓮の魔王は「問題ない」と一言添えて手を横にやって制止を促す。
ウェパルは足を止め、息絶え絶えで膝に手を置き、肩で呼吸をするように激しく上下させていた。
「ゼー……ハー……ゼー……ハー……。ま、間に合った……」
紛れもなくウェパルの声。汗で透けるとかいう心配どころではない、寒冷地に白のワンピース姿で現れた、黙っていれば深窓の令嬢筆頭の、氷麗の魔王が生み出した人格の一柱だ。
「ちょ、ちょっと……ま、待って……ハー……」
「……うん。まず呼吸を整えてからでいいよ」
「ごめんね。ゼー……ハー……、スゥー…………、ハァー……」
あまりに無防備というか無邪気であり、わざと油断を誘う真似であるのかと疑念を抱いたのはひねくれものである颯汰だけだろう。深呼吸をしたウェパルがようやく呼吸が落ち着いてから事情を話し始めた。
「本体との契約のリンク、その再チェックに来たわ!」
「再チェック? というかなんでその姿……」
「もう一回分裂した」
「そんな手軽にできるものなの!?」
「それで、私たち全員でジャンケン大会始まって、優勝したボクが来たわけよ! ……その、た、大陸間だと? 繋がりが安定しない? かもしれないから?」
「あ、あぁ、そうなの(疑問形、多くない?)……やっぱ王権、返した方がいい?」
颯汰は左肘を曲げながら前に出す。すると棺型霊器『亜空の柩』が出現する。使用者に合わせてサイズが若干小ぶりになった、縦長の盾を思わせる棺ユニットの上部から迫り上がった王錫を掴んで颯汰は言う。
「だめ! それがないとキミ治らないでしょ!」
「治らないわけじゃない。遅くなるだけで……」
「いっしょよいっしょ!」
「一緒かなぁ?」
「ともかく! 預けたんだからちゃんと使ってその右腕、治しなさいな!」
「……うん。ありがたく使わせてもらうよ」
協力者には本当に心から感謝するしかないし、頭が上がらない。颯汰は自分独りの力で限界があることぐらいは承知していたつもりであったが、改めて誰かに力を借りなければ生きていけないという自覚と、多くの者に支えられているという自認も持ち始めたようだ。
「…………普段からそうやって素直に生きた方が可愛げあるよ?」
「うるさいな? おい。外野も無言で頷くな。動きがうるせえぞ?」
「……それで、まぁ、その、《王権》を預けている以上、キミとの契約で送られる魔力が私たちの生命線になるわけよ」
「……やっぱ返した方が(責任が重すぎる)」
「もういいってその話は! だからチェックするの! もしもの修復を兼ねて!」
この世界においても知らない事ばかりであるが、“契約”やら魔力やら感覚的に何なのか掴めてはいるが実態がよくわからないまま使用しているものも多い。他と契約を結んだものとは大きく距離を取ったことはないし、特に疑わず彼女のいう事を信じて聞く。
「そ、そうなのか。じゃあ、何か、俺がやる必要のあることは?」
「……目を閉じて」
言われるまま颯汰は目を閉じた。
「意識を、本体に集中して――」
颯汰は契約者の姿を思い浮かべた。周りの喧騒が消え、静かに呼吸の音だけがしていた。
そこへ、ウェパルが距離を詰めた。
足音を殺すような、氷麗の魔王と同じ――天鏡流剣術の足運びである、縮地の走法だ。
何をするのか、頭では正解に辿り着いたゆえに闇の勇者は動く。リズが星剣を両手に握って飛びかかろうとするのを、紅蓮の魔王はすぐに首根っこを掴んで止めた。
そして、衝突する――。
「――え?」
呆けた声が颯汰から漏れ出た。
目を開いたというのに、視界は闇に包まれたように感じた。しかしよく見ると、至近距離に黒みがかった青が映ったと気づく。
洞窟の闇ではなく、女の長い髪だとふわりと香る柔らかなもので気づく。
頬の感触。不自然な潤い。立ち上がって離れていく赤くなった顔。
「こ、これで、安心だわ! じゃ、じゃあ、そ、そういうことで――」
被害者以上に動揺している加害者。
来た時とは違う千鳥足じみたどこか覚束ない歩みで離れていこうとしたときに、誰もが動けなかった中で紅蓮の魔王が躍り出る。
「――待て」
神父の格好をした怪しい長身の魔神が、獲物を捉えたようなギラついた目でウェパルを射抜く。その目を受けて、身体が固まりそうになったウェパルであるが、噛みつくように吠え返そうとした。
「なんだっていうの――」
「――それでは甘、……違う。契約の繋がりが正しく、綺麗に、強靭に、結びついたかわからん」
たっぱのデカい男が、暴れる少女を片腕で持ち上げながらぐいぐい来るのはいろんな意味で恐怖そのものであるが、紅蓮の魔王はウェパルに近づき、耳打ちをした。
言葉を聞いて飛び上がるほど驚き、耳まで赤くしている。何を吹き込んだかは大概のものは予想できただろうが、この場で冷静なものは限りなく少なかったのだ。
すぐに見開いた目で紅蓮の魔王を睨もうと顔をあげたがすぐに下げ、考えを反芻していた。
未だに動揺している彼女無しメンタル思春期主人公。悪魔の囁きの如きアドバイスを受けた少女は熱に浮かされてしまった。
何かが来る――。
その正体に気づいていた。気づかないふりをしていたかもしれない。
だが、行動を起こすそれよりも先に、予想外のものが飛んで来たのである。
「光よ――!」
紅蓮の魔王が、光の勇者としての権能を行使する。唱えたは下級の術……という領域にまで至っていない程度のもの。
身の丈ほどの巨剣を出現させ、その剣身から眩い光が解き放たれる。
想定していないフラッシュに颯汰は、反射的に目を閉じてしまった。
そして、光の後を追う――。
影すら置き去りにする神速が迫り――、
立花颯汰の唇に柔らかな感触がした。
エピローグのつもりでサクッと終わらせるつもりだったんですが長くなったので分けます。




